浜松の弱雀小僧

2月13日(月)

本部連盟には「弱雀小僧」なる人物がおられるそうであるが、私たちの「浜松支部」にも、その称号を献ぜざるをえない人物がいるということを、ここに明らかにしておきたい。

「浜松の弱雀小僧」こと「矢を射る下野国の住人」(那須与一ではありません)は、三年ほど前から私たちの仲間入りをした。しかし、残念ながらその弱さは際立っており、加盟した年から群を抜くマイナスを記録してきた。

その前年までの「年間だんトツビリ」は、だいたい「会計係」ヨッシーと「旧天竜市の元消防団員」との間で争われてきた(それはそれは醜悪なライバル争いであった、対局の際には「黙れ吉牛!」だの「うるさいツル兵衛!」だのと互いに口汚く罵り合いながら、「汝こそがビリである」ということを言い立てるのである)。

ところが、「矢を射る下野国の住人」が加盟してからは、彼らがビリから脱出したどころか、ヨッシーなどは、あろうことか2005年の「年間王者」にまで上り詰めるに至っているのである。いかに彼の加盟が大きな影響を及ぼしているかは想像ができよう。

さて、いかように勝てない(というかツキがない)のか。それは、先週末に行われた定期戦で、最早明白となったと言ってよい。

場替えをして、三回目の半荘の東場第一局、立ち親であった「下野国」は、何と大三元を和了!した(もちろん、彼の麻雀歴における初の役満和了であったことは言うまでもない)のである。振り込んだのは、「会計係」。既に緑發と紅中を鳴いて晒していた「下野国」に、「会計係」が「よもやあるまい」と無謀にも立直をかけたのである。数巡の後、「会計係」は「あ!」と言いながら自摸った白板牌をポロリと落とした。瞬間、「下野国」の牌が倒れた。「おおお、大三元だあ!」「いやいやおめでとう!これで今日のトップは君のものだよ」と、打ち込んだ「会計係」以外から祝福の言葉を浴びる「下野国」。「ええい、4万点借りだあ!」と点箱を被る「会計係」。

しかし、その後の「下野国」にとんでもない落とし穴が待ち受けていたとは、神ならぬ身に知る由とてなかったのである。

同じ東場の第三局、親は「元消防団員」。点棒に余裕のある「下野国」が立直。追いかけて、親の「元消防団員」も「コバルトリーチ!」と叫んで立直。「何でコバルトなの?」と訊くと、「コバルト爆弾並みの破壊力ってことです」とのこと。「おまえなあ、コバルト爆弾ってどんな爆弾だか知ってんのか?」「すんごい爆弾なんでしょ?」って、わけのわからないことを言う人(この「元消防団員」は実は高校理科の先生であるが、彼に理科を教わる生徒こそ哀れというべきであろう)なのである。

巡ること数回、「下野国」が打牌した六萬牌に、親である「元消防団員」が「コバルト爆弾炸裂!」と牌を倒した。何と「元消防団員」は四暗刻単騎だったのだ!本当に「コバルト爆弾」だったのである。しかし、こんなことってあるのだろうか?東場三局の間に、親の役満が二回も出たのである(しかも、二回目は親のダブル役満)。

「下野国」の「我が世の春」は、わずか二局で終わった。四暗刻単騎は、ローカルルールでダブル役満と定められている。それまで溢れそうになっていた点箱から、次々と点棒を供出して「すみません、1万点借りです」と力なくつぶやく「下野国」。かける言葉もない。

かくして、その日ももちろん最下位は「下野国の住人」。でも、どうしてこういう巡り合わせになっているのだろう。どう考えても、親で役満を和了すれば少なくともビリになることはないであろう。しかし、いくら親役満を和了しても、逆に親にダブル役満を放銃してしまっては元も子もない。もう、「運が悪い」とか「ツキがない」とかそういうレベルを超えてしまっているような気がするのである。ここ数年、年間最下位に甘んじていることが、逆に彼に被虐的快感を齎すようになってしまったのかもしれない。

ちなみに、この「矢を射る下野国の住人」は、苦節8年目になる昨年夏の教員採用試験にて、見事栄えある合格を勝ち取っている。これからの浜松の教育界を背負って立つ、期待の若者の一人なのである。未来ある若者は、その期待が高ければ高いほど厳しく鍛え上げなくてはならない。「獅子はわが子を千仞の谷に投げ込み、生き残ったものを養育する」と言うではないか。私たちは、先輩教員として心を鬼にして彼を錬磨しているのだ(もちろん、彼ならば千仞の谷などものともせずに這い上がって来るであろうと信じているからこそのことであって、けっして甚振っているわけではありません、念のため)。

「教育と麻雀と何の関係があるんだ?」などとは申すまい。配牌から何とか役を作り上げていくことは、生徒たちを現状よりさらによい人間に育てていくことにつながっていく(ホントなの?)だろうし、相手の出方を見ながら自分の出方を考えていくことは、生徒の実態を考えながら具体的な実践方法を考えていくことにもつながるだろうからである(ちょっと無理があるか)。

もちろん、本人の名誉のためにも、麻雀の弱さが決してその人の人格を否定するようなものではないということは申し添えておきたい。「矢を射る下野国の住人」は、今日びの若い教員には得難い熱血の好青年である。昨夏の採用試験に合格した際にも、即日私たち支部会員によって「祝賀会」が催されたのは言うまでもない。「すぐにでも祝賀会をあげてやらなきゃ!」という思いにさせられる快男子なのである。

そうそう、「おいおい教員たる者が麻雀なんてやっていいの?どうせ賭け麻雀でしょ?それって賭博じゃないの?」とご心配の向きもあろう。さよう、私たちの麻雀は厳密に言えば「賭け麻雀」である。しかし、金品が賭けられているわけではない。「賭け」られているのは、「プライド」である。役もないのに「自摸のみ」で和了する者は「何それ?せめて立直しろよな」と周囲からの冷たい視線に耐えなければならない。また、役牌のみで和了する者にも「役知ってんの?」と冷凍光線は発射せられる。金品が賭けられていないのであるから、争いはいきおい役づくりをもって行われるようになる。これは、ある意味金品が賭けられるより厳しい麻雀と言えるのである。

おおそうだ、「浜松の弱雀小僧」ならぬ「沼津の弱雀小僧」もいるということを付け加えておかなければならない。毎回ではないが、沼津の某高校ソフトテニス部監督も、浜松を訪れた際には飲んだあと麻雀をすることがあるのだが、記憶にある限り彼は浜松で一度も勝ったことがない。どころか、負けた後に「こ、これはコンビ麻雀だあ!」とありもしない陰謀説を唱えるのである。かくして、彼には「沼津の弱雀小僧」なる称号を贈ることと相成ったのである。

さて、まだ先の話であるが、来る4月1日には本部連盟会長宅にて、会長を囲んで支部会員のアウェー対局が予定されている。今回は「浜松の弱雀小僧」くんも参加の予定である。会長から「こんなに弱いようではちょっと支部会員として認定できませんなあ」と言われないよう、それまでにせいぜい鍛えておくようにするばかりである。「下野国」よ、心せよ。