ひとを責めてもせんないことよ

2月21日(火)

地元紙である静岡新聞の社説は、この日曜日(2/19)に「ゆとり教育の転換」と題し、「何を得て、何を失ったのか総括せよ」との副題で、痛烈な文科省批判の言説を展開した。

“文科省は学習指導要領を改定、30年ぶりに「ゆとり」路線を転換する。
「ゆとり」化による学力低下の疑問に答えず、その総括もせず転換となる。無責任のそしりは免れない。
(…)国のメンツや権威主義が歪みをひどくしてしまう例は歴史の常だが、「ゆとり」化をめぐる混乱は最悪の例かもしれない。学力低下の不安に耳を傾けず、その判断を国際調査や中教審に丸投げだ。要するに責任回避だ。
(…)静岡県教委は学力低下不安に対処するため、独自に「確かな学力育成会議」を旗揚げ、基礎・基本重視の教育実践の方途を探った。
(…)文科省は静岡県教委よりずっと遅れている。文科省が教育の現場主義を軽視しているか無視している何よりの証しだ。
今回も「ゆとり」化を一方的に悪者にしての方向転換だが、これではまた迷い道だろう。言葉としての「ゆとり」だったことを反省していないし、新しい方向についても実現の筋道をいい加減にしているように見えるからだ。
学校完全週5日制も、「ゆとり」化も、初期の目標を果たすには何よりも教育力、指導力の底上げが前提だった。その取り組みを教育界はないがしろにした。
文科省はその方策も示さなかったし、財政的な措置もとらなかった。「きめ細かな教育」をと言いつつ、その裏では酷な定数管理と一律の通達行政で、教育現場から「ゆとり」を奪っている。
文科省ほど非教育的な教育行政機関はないのかもしれない。”

「無責任」「責任回避」「メンツや権威主義」「現場主義を軽視しているか無視している」「一律の通達行政」などは、所謂「お役人」たちに特有のエートスであろうから、今さらなにをか言わんやであるし、その「学習指導要領」に則りながら、自らもその一翼を担って教育実践を行ってきたとも言える立場にある人間としては、メディアの批判に乗じて「だから言わんこっちゃない」などとも言えようはずはない。

ただ、昨今の行政から求められる提出書類に、何かにつけ「具体的な数値評価資料を添付すること」というただし書きが添えられていることを思うと、文科省には今までの学習指導要領が目指してきた「生きる力」の育成というものが、どれほど達成されたのかという「具体的数値」くらいは示してもよいのではないかという感じがしないでもない。

縦しやそれが「引きこもり100万人・ニート85万人・不登校13万人・フリーター400万人」という若者を生んだ、という結果であろうとも。

そのときよかれと信じて施策したことが、「よもやこのような結果になろうとは…」と嘆じる結果になったとしても、所詮は神ならぬ身、それはそれで仕方がなかったのではないか(だってねえ、そういう結果になろうことを予想していたのなら、そもそもそのような施策は考えなかっただろうし)。親で役満を和了っても、二局後には逆に親にダブル役満を振ることなんてわからないのと同じことなのである(ごめん「下野国」、くどいよね)。

大切なことは、文科省を初めとする行政ばかりでなく、実際の教育現場にある私たちも含めて、「生きる力」を育成しようと取り組んだ全ての関係者たちが、その結果をいかに「厳粛」に受け止めるかということではないか。静岡新聞の社説が求めていることも、たぶんそういうことではないかと思う。

内田先生が常々申しておるではないか、“批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。批評性というのは、どのような臆断によって、どのような歴史的条件によって、どのような無意識的欲望によって、私の認識や判断は限定づけられているのかを優先的に問う知性の姿勢のことである。”と。

「責任ある立場」にある人間が、「悪いのは誰だ?」と「他罰的な枠組みで問題を解釈」して「責任逃れ」に終始する姿勢ほど「無責任」なことはない。そうではあるが、そうやって文科省なりの施策を批判したところで、それも所詮は「他罰的な枠組みで問題を解釈」していることに他ならない。

現場にある教員は、もっと別のことを考えたい。

この4月、お隣の愛知県には中部財界の肝煎りで、全寮制の私立中高一貫校が開校する。小学6年生を対象にして全国6都市で実施された入試には、「120人の募集に全国から延べ920人が志願した」(@朝日新聞)そうだ。学費は年間300万円。「階層化」が懸念されている昨今の好個の例と言えようし、「もはや公教育には頼れない」との揚言でもあろう。

しかし、私たちが携わっているのは、圧倒的多数の子どもたちを擁する「公教育」である。その責任の重さを改めて自覚したい。

誰をも難詰することなく、たとえば宮沢賢治の花巻農学校での実践のように(とてもその域には達しないだろうけど)、現場の「自律性」を忘れることなく、粛々と自身の信じる道に誇りをもって邁進したい。