スーさんからの「年次改革要望」

2月1日(水)

なんだって?また「談合」で捕まったって?

今までは「談合」で誰が捕まろうとも、「しょうがないやっちゃ」くらいにしか受け止めていなかったのだが、今は「うーむ、また談合が摘発されたか、かの本に書いてあるとおりに事が進んでおるわい、さぞかしアメリカは喜んでおるだろうのう」という気持ちにさせられる。

「かの本」とは、内田先生のご朋友であるヒラカワさんお薦めの『拒否できない日本』(関岡英之/文春新書)のことである。

“日本とアメリカは1988年5月に日本の建設市場の開放に関して合意した。大型プロジェクトに限ってアメリカ企業への特別措置を設けたのである。ところが、実際にはアメリカの建設業者がなかなか仕事を発注できないことにアメリカ側は苛立った。アメリカの建設業者が日本の業界より劣っているはずがないのに仕事がとれないのは、受注業者を決める日本政府のやり方(指名競争入札)に問題があるからだと考え始めたアメリカは、マス・メディアを使って日本の公共事業の入札制度を「不透明で不公正だ」と非難の大キャンペーンを展開し始めた。(…)非難の激しさにたえかねて、日本政府は(…)1994年1月「公共事業の入札・契約手続きの改善に関する行動計画」を発表した。明治33年以来、実に90年間も続いてきた日本の「指名競争入札制度」がここに崩壊したのだ。(…)入札制度の変更と同じタイミングで「日米公共事業合意」が発表された。アメリカは「土建国家」日本のシンボルともいうべき「指名競争入札制度」を崩壊させるという積年の目標を達成した。談合問題を糾弾するマス・メディアの激しいキャンペーンがそれに貢献した。(125頁~127頁)”

ほらね。アメリカが喜んでいる理由がおわかりでしょ?

この話にはおまけも付いている。そのアメリカによって糾弾された「指名競争入札制度」は、“9年後に意外なところで復活する。イラクの戦後復興事業で、いつのまにか「発注者」として躍り出たアメリカ政府は、入札に応募できる業者の資格をアメリカ企業にのみ限定した。”(134頁)のだ。あっていい話ではない。

加えて、昨今の「耐震強度偽装事件」である。日本国内の「一級建築士」の資格は、今回の事件によりかなりのイメージダウンを強いられるであろう。代わってクローズアップされてくるのは、アメリカ主導によって採択された「建築家の国際的な統一資格」を有する建築家たち…(ちなみに、この本が出版されたのは、某「一級建築士」の事件が報じられる半年ほど前である)。

本に書いてある内容が、メディアで報じられる事件とあまりにもいろいろと符合しすぎていて、逆に眉に唾を付けたくなるほどだ。

政治的なことはさておいても、手前がこの本の中で「ん?」と思ったのは、「半世紀ぶりに大改正」されたという商法の改正が、「アメリカ型の経営組織」を導入するための改正であった(116頁以下)という記述を読み、「おいおい、これって教育界に関しても同じようなことが起きようとしてんじゃないの?」と感じたからであった。

この「アメリカ型経営組織」というのは、筆者によれば、どうやら「社外取締役制を導入する」ということらしい。このシステムが導入されると、たとえば人事権を経営者から取り上げて外部の人間に与えるというようなことが平然と行われるようになったり、“株主から送り込まれた社外取締役が生え抜き社長を解任して外部から招聘する、などということも日常的に起こりうる”(117頁)ようになったりするのだそうだ。

実は、教育界でも2000年以降、
「校長の資格要件の緩和」(教員免許がなくても校長になれる)
「学校評議委員制度」(校長の求めに応じて学校運営に意見を述べる)
「新しい人事考課制度」(教員の勤務評価を給与や異動に反映)
「特色ある学校づくり」(義務教育諸学校も学校独自の特色を打ち出す)
等の施策が次々と導入された。

これを、学校現場への「アメリカ型経営組織」を導入しようとするための布石ととらえるのは、ちょっと考えすぎであろうか。

ねらいは何か?アメリカの教育産業の日本進出?インターネットと結びついた「e-ラーニング」の導入とか?最近話題の「小学校への英語教育の導入」なども、一連のことと無関係ではないと考えてよいのかもしれない。

でも、きっとうまくいかないと思う(現に、小学校での英語教育についても物議が醸されているみたいだし)。

考えたくはないけど、上記に挙げた施策の「最悪のシナリオ」は、たぶん以下のようなものであると想像される。

“「教員免許がない校長」が赴任してくる。「特色ある学校づくり」をしようと新機軸を次から次へと打ち出す。ただでさえ多忙な現場に拍車がかかる。次第にその校長の手法に反発を覚える多くの年配教員が出てくる。「勤務評価」もしなければならない校長は、反発する教員を低く評価する。それが「給与に反映」していると知った教員たちは、いっそう反発を強める。さらに、従来とは違う学校経営の手法に「学校評議委員」たちが「意見を述べ」てくる。校長をはじめ教員たちの混乱を敏感に感じ取った生徒たちが問題行動を繰り返すようになる。”

もちろん、これは「最悪のシナリオ」である。実際に、民間校長を迎えた学校では、すばらしい成果を挙げているところもあるのだろう。しかし、こういう「最悪のシナリオ」で荒れていく学校が出てくる可能性も否定はできないということなのだ。

内田先生がおっしゃっておられる(1月17日の日記「即戦力といわれても」)ように、「学校」というところは、「師への欲望が励起されるところ」であって、「ビジネスマンの経営者が『教育サービス』する従業員を頤使する場所」ではない。このことは、何をさておいても忘れてはならないことと思う。大切なのは、「師」としての教師の存在である。

幸い、アメリカ大使館のHPを見たところ、関岡氏が指摘されたアメリカによる『年次改革要望書』(正確には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書」)には、教育についての記述はなかった。

これ以上、経済界へのアメリカの要望が、日本の教育界へ影響を及ぼさないようにしてほしいものだ(無理かなあ)。だって、うまくいかないから(それは、経済界からの要望もあって推進されてきた「ゆとり教育」の結末を見ても明らかではないか)。