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2004年11月 アーカイブ

2004年11月 3日

きらきらと 光って いる

11月2日(火)


造血幹細胞移植を受ける患者さんの全身放射線照射のお手伝い。


移植のやり方によっても異なるのだが、今回移植を受けるOさんは、4回に分けて移植
前処置の放射線照射を受けることになっている。

照射中の心電図等のモニター監視と、急変があった場合の対応のために付き添ってい
たのだが、大きな問題なく無事一回目の照射が終了した。



11月1日(月)


午前中いっぱい外来診療。

風邪が流行りだしている様子です。

インフルエンザワクチンの接種を希望するお年寄りが沢山やってきたので、ぶすぶす
と注射する。


左の膝を右の土踏まずにぴたりとつけると

あなたの風邪はきっと良くなるはず

尻も積もれば山となった青空には

みずみずしい世界の割面達が

切り立ての西瓜のように

きらきらと

光って

いる


10月31日(日)


内田先生にお誘いいただき、下川正謡会の秋期練習会を見学しました。

下川先生のお宅にお伺いしたのは今回が2回目です。初めて伺ったのは今年の夏で、そ
のときは内田先生のお稽古を見学しました。

謡をお聴きしたり、お仕舞いをじっと見ていると、内容は全く分からないのに、すすー
っとその世界に引き込まれてしまいます。

お仕舞いの時にはく袴の着付けが面白くて、何度もじっと見てしまいました。ごめん
なさい。


10月30日(土)


合気道部の演武会に参加させていただきました。楽しかったです。ほっほーい。



10月28日(木)


試行錯誤をときどき繰り返していた実験がうまく行き、久しぶりに嬉しかった。とい
うか安心した。

2004年11月 6日

山田正三の栄光と没落

11月4日(木)


「あいつは、こういうやつだ」と人を外見で判断してはいけないが、外見から多くの
情報を得てそれを診療に役立てる能力が内科医には要求されるのである。

山田正三氏は元広島カープの正田選手に少し似ていた。紺色のTシャツを着ていて、な
ぜか左手に赤いリンゴを持っている。

「こんにちは。今日はどうなさいました」

「一週間前くらいから、のどが痛くて咳が止まらないんです。体もだるくて、熱っぽ
いし」

山田正三氏は、目を合わせずにそう答えた。

「じゃ、ちょっと診察しますね。口を開けてください。はい、あーん」

咽頭の発赤が強い。

「山田さん、喉が大分赤いですよ。胸の音を聞いても特に問題ないので、気管支炎を
起こしていることはなさそうです。
喉の風邪の時にはね、左の膝を右の土踏まずにくっつけてください。丁寧にやるんで
すよ。そうすると、あと一週間でかならず良くなります。一日三回、毎食後30分以内
に必ずやってください。じゃ、今日はもういいですよ。おだいじにね」

山田正三氏は、そう言われると何度か頷いたものの、顔つきから彼が全然満足してい
ないということがはっきりと分かった(あたりまえだ)。

「あ、もしかして薬欲しいですか。やっぱり」

山田氏は黙って俯いたまま、くるくる回る丸椅子に座って、体を左右に揺らしながら
左手のリンゴをじっと見つめている。

「怒っちゃったの?本当にそれで風邪治るんですよ。左膝をね、右の足の裏のね、この
くぼんだところにね、ぴたーってくっつけるの。信じてないでしょう。しょうがない
なあ。じゃあ、お薬も一緒に出しますね。トローチとうがい薬も一緒に出しておきま
すから。あと、たばこは喉の痛みが落ち着くまで控えてね」

山田氏はそれでも黙ったまま俯いてリンゴを見つめたままだ。

「いいよ。先生がそれで治るって言うなら、別に薬はいらない」

「じゃあどうしたんですか。まだ何かありそうだけど」

「なんかね、つまんないんですよね。生きていても。本当につまんない。面白くない。
非常に不愉快。それに比べてね、昔は良かったですよ。本当に良かった。

私ね、若い頃は本当に良くもてたんですよ。特に年上の女の人からやたらもててね。
今着ているような感じの紺色のTシャツを着て、リンゴをかじりながら街をふらふらと
歩いているだけでね、綺麗な女性からたくさん声を掛けられたもんです。

寂しがり屋で生意気で憎らしい若造でしたが、「それでも好き」ってすれ違いざまに
投げキッスをする人や、「私のこと好き?はっきりきかせてちょうだい」と詰め寄って
くる綺麗なお姉さん達がそれはもう周りに沢山いたですよ」

「へー、凄いですねえ」

「その頃はね、馬鹿だったからそういう状況が一生続くものだと思っていました。
『俺は一生モテモテ野郎なんだ』って、あの頃の俺は当然のようにそう思っていた。
本当に馬鹿でした。」

「もてなくなっちゃったの?」

「うん。ある日突然」

「え、ある日突然?」

「そう。ある日突然」

「なんかあったの?」

「いや、何もないと思う。でもある日を境にして、突然誰も俺を見てくれなくなっちゃ
ったの」

そう言って、山田正三氏はリンゴを一口囓った。というかほおばった。

見たことはないけれど、元広島カープの正田選手も同じようなリンゴの食べ方をする
のだろうなあと僕は思った。

2004年11月11日

武庫川の川霧をつきやぶってベンツを疾駆させていたオレ

11月10日(水)

昼に食べたワンタンスープが美味しかった。たまごがふわふわで旨かった。

夜はセミナーに出席。

その後、先輩の実験の手伝い。

その後、自分の実験をするが、予想外のハプニングに見舞われて予定変更を余儀なく
される。

最近どうも仕事の進行の「巡り合わせ」のようなものがよろしくないです。

単に、ぼくがたるんでいるだけのような気もしますが、こういうときは、あせらずに
地道にお仕事をしていきたいと思います。

11月9日(火)

研究に必要なゼラチンを買おうと思ったら、欲しかったものがアメリカのウシ胎児血
清由来のもので、輸入禁止商品となっていた。困ったなあ。

学位申請に必要な研究発表を年内に行うことになったので、その準備に追われている。


インフルエンザワクチンを病院で打ってもらった。痛かった。

注射が痛いと、打ってくれた医者が悪いような気がしてくる。そんなことないはずな
のに。

きっと僕も、僕がワクチンを打った沢山の人たちに、「あいつのせいでこんなに痛い
んだ」と思われているのである。

11月8日(月)

篠山の朝は霧

2004年11月16日

秘伝の「そばつゆ」

11月15日(月)

優雅に茹でたまごを作っていたら、家を出るのが遅くなってしまった。

そばつゆの出来がいまいち心配。


11月14日(日)


合気道芦屋道場の演武会に伺った。

楽しそうな顔をして演武の練習をしている、かなさんのお弟子さん達を見ていると、
こちらまでつい笑顔になってしまう。


かなさん、おめでとうございました。そして、どうもありがとうございました。


11月13日(土)


合気道のお稽古に行く前に研究室へ行き、「そばつゆ」を作成する。

この「そばつゆ」は細胞に遺伝子を導入するときに使う試薬なのだが、pHの調整が結
構面倒で、以前は僕の指導教官の先生がじきじきに作成していた。

ある日、その秘伝のレシピ(というほどのことは本当は全然なくて、実験書をみればど
こにでも作り方が書いてあるのだが)を僕ともう一人の大学院生の女性医師がその先生
から譲り受けた。

その女医さんはあんまりそばつゆを作りたがらないので、そばつゆ担当はもっぱら僕
ということになっている。

過去2回作成したおつゆはまずまずの出来映えだったが、今回はどうだろうか。

ちなみにこのそばつゆは「ストレート」ではなく「濃縮還元型」なので、2倍に薄めて
使います。

11月12日(金)


ブタの皮膚由来のゼラチンで事なきをえる。

ゼラチンは胎児血清由来じゃなくて皮膚由来でした。

いずれにしてもよかったよかった。

2004年11月22日

世界の片隅でこそこそと

11月21日(日)


数週間前からときどき再生不良性貧血のことを考えている。

再生不良性貧血という病気は、血液を造っている骨髄の中が空っぽになって脂肪で置
き換わってしまう病気なのだが、今のところ原因がはっきりとは分かっていない。

『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んでいたら、たまたまこの病気が出てきたので、
またちょっとだけ色々と考えてしまった。

個人的にも、再生不良性貧血の患者さんでは忘れられない思い出があるし、もし僕が
この病気を治すことに少しでも役に立てたらとても嬉しい。

さて、この病気が成立するメカニズムを考えるときに、「たねが悪いのかそれとも畑
が悪いのか?」という問題がある。

「たね」というのは、赤血球や白血球や血小板といった様々な血液細胞の元になる細
胞のことである。

「畑」というのはその細胞が育つ場所のことで、造血(文字通り血液細胞をつくるこ
と)の「微少環境」とか「ニッチ」などと呼ばれている。この畑もまた、「たね」とは
違った種類の細胞によって構成されていると考えられている。

再生不良性貧血は免疫抑制剤による治療がある程度有効なので、免疫学的な機序によっ
て「たね」の細胞が死んでしまうのだろうということが現在までに分かっていること
である。

僕はこの「たね」にまつわる研究に、世界の片隅でこそこそと、あまり愛もさけぶこ
となく関わってきたので、とっかかりとしては「たね」のことから考え出すことにな
る。

しかし、やはり物事はそう単純ではないらしく、畑のことや肥料のことや、専業農家
か兼業農家か、それも第一種兼業農家か第二種かとか、いろいろなことを考えないと
この疾患の謎は解けないようで、僕の頭の中はどんどん混迷の度合いを深めるばかり
である(すいません、最後のほうは根拠があるメタファーではなくて、かなり適当で
す)。



この疾患をテーマに研究をしようと思って何より困るのは、研究に用いたい当のもの
が手に入らないことである。

だって貧血だから、見たい細胞がないんだもん。

私たちの目の前に現れているのは、免疫学的な機序によって「たね」が死に追いやら
れた末にいきついた、「骨髄の脂肪化」と全ての血球の減少という現象だけなのであ
る。

間違いなくこの「研究対象が手に入らない」ということが、この疾患の病態解明を遅
らせている一番の理由になっている。

でもきっと、どこかに工夫の余地があるのではないか、疾患のメカニズムに近づく良
い方法が必ずあるはずだと僕は思っています。

目線をずらすことで視界が開ける場所が必ずあるような気がする。

えらそうなことは全く言えないけれど、僕は力業で進める研究よりも、ささやかでも
そのとっかかりのところに、真摯で慎ましやかなひらめき、頭の脇で可愛い豆電球に
ぱっと電気がともるようなひらめきが感じられるものにあこがれを感じてしまいます。

そんな小さなひらめきが、最初では考えられなかったような場所まで人間を連れて行っ
たところを目の当たりにすると、うれしくなってしまう。

面白い文章とか面白い小説というものも、きっとそういうものなんじゃないのかなあ
と時々思ったりします。



11月20日(土)


合気道のお稽古の後、研究室へ。

学位審査の研究発表が1月13日にきまった。

11月19日(金)


午前中は、枚方市内の病院で外来診療をする。ここの病院に来るのもあと2回のみとなっ
てしまった。

午後からは神戸女学院大学で開かれた甲野先生の講習会に参加させていただいた。

僕が甲野先生の講習会に参加するのは、一昨年に続いて2回目。

僕は体があまり大きくないので、合気道のときに、どうすれば僕の小さい体をできる
かぎり有効に使うことができるのかなあと考えることがけっこうある。

そういうわけで、体を有効に使うヒントが得られればいいなあと、今回の講習会を前
からとても楽しみにしていた。

講習会では、極短距離走や追い越し禁止の術、介護での体の使い方等々いろいろなこ
とを見せて頂く。


幸運にも、甲野先生の技を沢山体験させて頂くことができた。

貴重な体験をゆっくり生かせたらよいなあと思う。

11月16日(火)


お昼ご飯にサッポロ一番の博多とんこつラーメンという矛盾にみちた即席らーめんを
食べる。

仕事のため、うな正会の会合に参加できず。



11月15日(月)

生まれて2回目の痛風発作にみまわれる。

2004年11月28日

兄にぶたれた弟は、わりと兄好き(ウチダの場合)

 11月22日(月)

石原慎太郎原作のドラマ『弟』が5夜連続で放送され、毎回20%を超える視聴率をマークしたと新聞に載っていた。

ヨットにのったり映画スターだったりは勿論しないが、実は僕にも弟が一人がいる。

僕と弟は一歳しか違わないので、小さい頃はよく兄弟喧嘩をした。弟はどちらかというと体が弱い方で、喧嘩をするといつも僕の圧勝に終った。ときには勢い余って鼻血が出るほどぶってしまったこともある。

どうして喧嘩をするかというと、それはもう本当にどうしようもないほど小さなことがきっかけで、例えばおもちゃの取り合いとか、残り一個のお菓子を弟と僕のどちらが食べるかとか、どちらかが気に入らないことを言ったとかそういうことが原因だったような気がする。

たいていは、兄である僕が理不尽なことを弟に要求して、それを彼が拒絶するという形で喧嘩は始まった。要するにほとんどの場合、我々二人は喧嘩をしていたわけではなくて、僕が一方的に弟をいじめたり、虐げたりしていたわけである。


大学生の頃、僕は一人暮らしをしていた。

その日の夕方、僕はたまたま実家へ行った。どうして行ったのかははっきり憶えていないけれど、おそらく酒の飲み過ぎと、マージャンの負けが込んだせいでお金が無くなってしまい、ご飯を食べさせてもらいに行ったのだと思う。

季節は今と同じような秋の終わり頃だった。東北の町は冬に日が沈むのがとても早くて、夕方4時過ぎにはもうお日様が傾き始める。

医学部の授業は、午後は実習ということが多くて、その日も法医学か何かの実習を終えたら外はもう真っ暗に近かった。

日が暮れてしまうと気温がぐっと落ち込んでいっそう寒さを増す。よく晴れて空が綺麗な日は、日没後の冷え込みが特に厳しい。

こんな日は気持ちも寂しくなりがちで、友だちを誘ってやきとりでも食べに行きたいと思う。しかし、秋というのはたいがいこんな日が何日も続くもので、そうすると当然、夕方になると毎日寂しくなって、お酒を飲みに行く回数も増えて、そんなことを続けていると僕も友だちも当たり前にお金が無くなってしまい、飲みたくても飲めなくなる。

そんな季節的な理由で僕は酒を飲むどころかお金が無くてご飯が食べられなくなり、救済を求めて大学から実家までの道をてくてくと歩いていった。

15分ほど歩いて誰もいない家に上がる。弟はその頃、名古屋の大学に行っていたから、その時その家には父と母が二人だけで暮らしていた。

すっかり日が暮れてしまった後では、秋だろうが春だろうが明かりが灯った家の中の明るさに違いは無いと思うのだが、秋の終わりには何となく家の中の電灯も暗いような気がした。

夕方のニュースを見ながら新聞を読んでいると、しばらくして母が仕事から帰ってきた。いつもは父も一緒に帰ってくるのだが、今日は用事で遅くなるらしい。

「あ、おかえり。っていうか、ただいま」

ドアを開けて居間に入ってきた母親は僕にそう言った。平日の夕方に実家で待ちかまえている僕に会うと、母はいつも決まってそう言う。

いつものように、母親は簡単に夕食の準備を整えてくれて、二人でご飯を食べた。

秋の寂しさは、母が帰ってきてからも依然として僕の中に居座っていた。その寂しさは、白いお皿の真ん中にぽつりと置かれた、湯引きした鱈の切り身をみていると、いっそう増してくるような気がした。脇に添えられた大根おろしに少しだけ醤油を掛けたら、なぜだか分からないけど、またほんのちょっぴり寂しさが増した。

母から、親戚の話や母の仕事の話を聞きながら夕食を終えた。そしてその後、二人でお茶を飲んだ。りんごも食べたかも知れない。

親戚の話をしているうちに話題は弟のことに移った。

弟の話をしているうちに、僕は気持ちが弱くなっていたためか、小さい頃弟をいじめて可愛そうなことをしたと思うことがときどきある、ということを母に言った。

すると母は、ふんと鼻で笑ってから「あのね、今になってからそんなことを言っても遅いの」と言った。


母は6人兄弟の末っ子で、2歳違いの兄に、小さい頃それはよくいじめられていた。

そして母の兄は、成人してから「小さい頃いじめちゃってごめんね」と母に謝ってきたことがあったらしい。

詳しいことは何も聞かなかったけれど、その話をする母はちょっと悲しそうで、そして今でも伯父に対してちょっと腹を立てているようだった。

母は、強く強く「いまになってからそんなことをいってもおそいの」と思っているようだった。

憎しみがいつの間にか溶けてしまうのが家族というものだ、と村上龍は言っていたけれど、溶けてしまった家族に対する憎しみは、水になった雪のように空に向かって蒸発するのではなくて、自らの血の中に溶け込んでしまう。

親や兄や姉からぶたれる子供は、ぶった人を恐れるのと同時に愛し続ける。そして痛みや憎しみは血に溶けてしまう。

記憶の瓶の底に横たわっていたような思い出に対して一人で勝手に感傷的になって、謝罪したい精算したいという気持ちを、気まぐれに突きつけられても、血に溶けた憎しみは濾過されたりしない。

むしろ気まぐれな謝罪は、誤ったシグナル伝達経路を通って母の心に届けられて、昇華しかけていたかもしれない憎しみに居場所を与えてしまった。伯父の謝罪に正しいシグナル伝達経路が存在するのかどうかは僕にはわからない。


僕と弟は違う中学校に通っていた。

二人とも中学生になると、小さい頃ほど喧嘩もしなくなったが、兄弟で一緒に遊ぶとことも同時になくなってきていた。

彼が中学2年生の時、その中学校で「立志式」というイベントが新たに始められることになった。

立志式というのは、数え14歳で迎える元服に由来しているらしく、多感でいろいろと問題が起きやすかったりする中学2年生14歳という年に、個人的な決意を新たに表明したりするというものである。かなりこじつけっぽいし、気むずかしい年頃の中学生を余計にふてくされさせるような害はあっても、あまりメリットがあるとはおもえないようなセレモニーである。今はどうかわからないが、僕が通っている中学校ではやっていなかった。

その立志式が行われた日、弟は学校で冊子を一冊渡されて家に帰ってきた。

その日僕は、塾か何かに行っていて遅く家に帰った。僕が家に着くと、母親が力のない声で僕を「おかえり」と迎え、弟が持ち帰ったその冊子を見せてくれた。

冊子は式典に伴って配布されたものらしく、なかなか立派なものだった。そこには、2年生全員の決意表明の言葉が載せられていた。みんなちゃんと毛筆で色紙にその決意を書いている。

写真を見ると、思っている以上にみんな素直に自分の夢や目標を記していた。

「サッカー部でレギュラーをとる!」

「吹奏楽部全国大会出場!」

「苦手の数学で5をとるぞ」

などという向上心溢れる言葉が、下手くそな字でのびのびと記されている。

わが弟がどんな決意を表明しているのかと、冊子をぱらぱらとめくっていくと、弟の色紙の写真には大きい字で

「果報は寝て待て!」

とだけ書いてあった。

僕は思わず声を出して笑ったが、母はとても悲しそうだった。それはもう、とてもとても悲しそうだった。

弟に聞いてみると、彼は全然ふざけてなんかいなかった。彼は「やることをやったら、後は果報は寝て待たなければならない」と本気で考えているみたいだった。

そのだいぶ変わった14歳の決意表明と、弟の血に溶け込んだ憎しみに何らかの関係があるのかどうかは分からないが、僕はそのとき生まれて初めて弟がちょっとだけ格好良いと思ったのだった。

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