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2004年12月 アーカイブ

2004年12月 1日

あなたって千枚漬けについている昆布みたいな人ね

11月30日(火)

朝ご飯を簡単に済ませたら11時過ぎにはもう腹が減ったので早めに昼ご
飯を食べ、昼ご飯を早めに済ませたら夕方6時過ぎにはもう腹が減ったの
で病院の食堂で晩ご飯を食べた。

朝を軽めに済ましたことが病院で晩飯を食べるところまでつながるという
のは、当然といえば当然なのだが、なにもここまで引っ張らなくても良い
のではないかと思ったりもする。

さらにもとを正していくと、月曜日の夜、遅い時間に割としっかりご飯を
食べたことを思い出した。こうやって日常というものはミルフィーユのよ
うにふかふかと積み重なっていくものなのだろうか。

それとも僕が気がついていないだけで、本当は日常というのはもっと前後
関係が密接に関連付けられているものなのだろうか。例えば千枚漬みたい
に。

しかし千枚漬というのはぴったりと密着しているようにみえるけれど、そ
こにだって本当は隙間があるはずで、一枚一枚のかぶらの間にはぬるぬる
とした汁が存在している。


昨日どうだったんだよ

何にも無かったよ

うそつくなって。家まで行ったんだろ

行ったけどすぐに帰ってきた

どうして。可愛いかったじゃない。めずらしいじゃない。帰ってくるなん

なんか嫌だった

なんで。めずらしいじゃない

だってさ、部屋に入ったらさ、グレイのポスター貼ってんだもん。嫌んな
っちゃった

いいじゃないそのくらい。許してあげなきゃ。じゃあ、なんのポスターな
ら良いわけ。エディー・ヴァンヘイレンならいいってわけ

いや別になんでもいいんだけどさ。なんか嫌だったの。ぼく

まあ確かにグレイのポスター貼ってたらがっかりするけどさ。でもめずら
しいじゃない。他にもなんかあったんじゃないの

うんまあないこともないけど

なにがあったのよ

言われたんだよ

なにを言われたんだよ

「あなたって千枚漬についている昆布のような人ね」って言われたの

意味分かんないね

意味分かんないだろ

でもおれ千枚漬に入ってる昆布好きだよ

おれも好きだよ

でも意味分かんないね

でも意味分かんないだろ

空、綺麗だな

うん綺麗だな

あの子可愛かったな

うん可愛かった

胸も大きかったな

うん胸も大きかった

でも帰ってきたんだろ

うん帰ってきた

意味分かんないよ

おれも分かんないね

2004年12月17日

とても綺麗でちょっと生意気な感じがしゅる女

12月15日(水)

スターバックスコーヒーでメープルオートナッツスコーンを食べながらコーヒーを飲みながら、ぼくは人がしてはいけないことについて考えていた。ここでいう人がしてはいけないことというのは法律をやぶるというようなことではなくて、もうちょっと自分の中のルールみたいなことである。例えば通勤の車の中で朝から落語のMDを聞くとか、蜆のみそ汁の実を食べずに貝を捨ててしまうとか、コンビニでジョニ黒を買うとかそういうやつのことだ。でも、どうしてわざわざ僕がこんな例をあげるのかと考えてみると、それは間違いなく僕がそういうことをしたことがあるからである。世の中というのはいけない誘惑に満ちているのである。小さい頃は母親からお風呂に入った後でトイレに行くと、「そんなもったいないことしちゃいけません!」とよく怒られた。こういうのも決して法律違反ではないが、小さなルール上の問題と言って良いだろう。行儀作法に近いような気もするが、微妙に違うようにも思う。母に怒られたときは「マミー、『遅かれ早かれ』っつー言葉があるだろうが」と思ったりもしたが、これはこれで大事な躾なのだろう。人生というものは必ずしもスムーズに流れるものではないが、準備によってスムーズに流れうる所はスムーズに流すべきなのだ。ルールというと、先日、朝日新聞の夕刊に載っていた「ひょうご子どもの作文と詩コンクール」の入賞作品のなかでこんな詩があった。

朝日新聞社賞を受賞した、添田昴希くん(小学校4年生)の詩です。


『ゲーム』

なんでゲームをやると宿題をわすれるの?
むちゅうになってるからかな?
ゲームをやめようとしてもまたやってしまう
どうしてだろう?
たぶん楽しいからだろう
お母さんの「やめなさい」が聞こえない
お父さんの「いいかげんにしろ」も聞こえない
妹の「かわってよ」も聞こえない
だんだんみんなとちがうところに行ってしまっているみたい
いまは、もどってこれるけど
だんだんもどれなくなるのかもしれない
「こわい」
これからは、休みながら上手にやっていこう
もちろん宿題はかんぺき


かれもまた自分の中にルールを設定して、一生懸命に自分の人生を送っている。でも僕が想像するに、きっと彼はこの賞を取ったことで有頂天になり、「俺は詩人になるから勉強なんかしなくていいんだ」といいながら今もゲームをしているのだろう。

「こわい」

っていうところの鉤括弧がとってもこわい。

なぜ怖いって、とてもエンターテイメントっぽいからです。僕が小学生の頃は、学校で書く詩や作文とエンターテイメントの間にはもっと距離があったような気がする。

彼はただ、心の中のつぶやきを鉤括弧で表現しただけなのかも知れないけれど。


フリオの息子のエンリケがアンナクルニコワさんというとても綺麗でちょっと生意気な感じがしゅる女の人と結婚することになった。おめでとう。

12月14日(火)

研究室の忘年会に出席。幹事だったので司会をする。

12月12日(日)

初めて多田塾研修会に参加しました。

いろいろなことを感じることができて、本当に参加させて頂いてよかったと思いました。


合気道のお稽古の後に新幹線に乗ると、なぜかとんかつ弁当が食べたくなります。

帰りの新幹線では内田先生と色々なお話しをしました。
車中で、ビールを少々、ワインを少々、ウイスキーを中々飲みつつ、時間論から寺島しのぶの「ぎりぎり度」まで幅広い話題についてお話しをしました。
内田先生、ウイスキー「竹鶴」ご馳走していただきましてありがとうございました。

2004年12月28日

三度の飯より好きなことっていえば・・・

12月26日(日)

今日しかできない年賀状書きをした。

全て書き終えた後で、明日の実験の準備をするため、夜7時過ぎに研究室へ向かう。

行きがけに寄ったガソリンスタンドで給油をしてもらいながらNHKラジオを聞いていると、宝塚市の玉瀬浄水場で処理した水道水から、病原性原虫である「ジアルジア」が検出されたと報道されていた。

大学についてから研究室で新聞を開くと、社会面にわりと大きな紙面を割いてこの水道水汚染に関するニュースが取り上げられていた。

宝塚市は給水先の西谷地区の1065世帯に水道水を飲まないように注意を呼びかけるとともに、給水車を10台出したという。市には検出機関から検出の連絡が24日の夕方にあったが、住民への広報が丸一日後だった。市水道事業管理者は対応の遅れを認め、謝罪をしている。

記事にはジアルジアの写真と共に、この原虫の簡単な説明が載せられていた。

ジアルジアは世界中の池や湖、川などにみられるごくありふれた原虫で、経口摂取すると下痢や発熱、嘔吐などの「ジアルジア症」を引き起こすことがある。日本の浄水場では通常、沈殿や、ろ過、塩素処理で取り除ける。

丸い体には、まるで目と口のような模様が入っていて、体の両脇と後ろの部分に細長い鞭毛がついている。写真に見覚えがあるような気もしたが、最初はピンとこなかった。

その後、細胞培養室で、培養していた細胞をカウントし、2×105個ずつ新しい6cmの培養皿36枚に撒きなおしている途中で、突然その「ジアルジア」が、「ランブル鞭毛虫症」の原因となる”Giardia lamblia”であることを思い出した。

全ての作業を終えて家に戻ってから(忘れ物を持って帰るのはまた忘れた)、学生時代に使っていた参考書を開いて確認してみると、「ランブル鞭毛虫症」の項目には、赤いペンで、「原虫」「やっこだこ」という文字と、やっこ凧のような下手くそな絵が書き込んであった。

その絵は、今日の新聞に載っていたジアルジアの写真と同じものを表しているようだった。それはこんな感じの絵です。

◇ -----
(菱形のなかに目と口のような模様が入っている)


ランブル鞭毛虫症の事を僕に初めて教えてくださったのは、Y教授だった。

Y教授は、「Giardia lambliaは病原性が弱いが、エイズ患者でものすごい下痢症状を引き起こすことがある」とおっしゃっていた。

Y教授はアメリカで20年以上内科医をされていた方で、僕は同級生数人と一緒に、大学4年生の初めから卒業するまでの3年間、週に一度英語の医学書や症例報告の論文を読む会をY教授にして頂いていた。

その会は、自分の分担した教科書の一部分をまず初めに朗読して、その後に、訳をしていくという形式で進められるのだが、Y教授はとても発音に厳しくて、発音の仕方やアクセントを間違うと、その場で何度でも訂正された。Y教授は” Giardia”も「ジアーディア」というように発音していた。心臓の薬であるジギタリスも、Y教授によると「ディジタリス」ということになった。

Y教授の臨床全般に関する知識の広さと深さはとてつもないもので、教科書を読む会はしばしば訳している途中で中断され、読んでいる内容と関連した疾患の説明や、先生が経験した興味深い症例の話がえんえんと繰り広げられた。

話の90パーセント以上はアメリカで医者をしていた頃の話だった。「向こうでは、意識障害の患者が病院に運ばれてくると、原因がよくわからない場合はとりあえず気道を確保した後でナロキソン(麻薬の拮抗薬)を静注するんです」

なんて話を聞くと、「ほえーっ、そりゃまた大変なことだ」と、僕は単純に感心して、そしていつも憧れをもって先生の話を聞いていた。

確か僕が大学5年生の頃、NHKのBS2でERが人気を集め始めていた。Y教授はERのリアリティーの高さをとても評価しており、急患が運ばれたときにグリーン先生が行う輸液の指示内容が、本当にアメリカのERそのままだと感心していた。

Y教授の格好良さに憧れて、僕も海外で医者をしてみたいと思ったりもしたが、よくよく考えてみると、当時の僕にとってそれはあまり現実感のもてない将来の姿だった。

僕は日本で生まれて日本で医学教育を受けた人間だから、とりあえずは日本で医者をして、日本にいる人(もちろん日本人に限らず)の役に立ちたいと思った。

そうして僕は普通に研修医となり、大学病院で初期臨床研修をした。そして、その秋ごろ、突然Y教授がこの世を去った。

Y教授からはもっともっといろいろなことを教えてもらいたかった。もっといろいろなことに驚かせてもらったり、膨大な知識の前にひざまずいたりしたかった。

12月25日(土)

朝から研究室へ行く。

昼前まで実験をした後芦屋に戻り、文房具屋で印刷を頼んでいた年賀状を受け取ってから合気道のお稽古へ。

後ろ両手取りからの技を中心にお稽古して頂いた。合気道のお稽古の後は研究会の特別講演を聴くために北浜の大林ビルへ向かう。

興味あるテーマだったので期待して行ったのだが、あまり面白くなかった。もう少しつっこんだ話が聞きたかった。しかし、1時間という短い講演時間でそこまで期待するのは難しいのかも知れない。

阪神高速に乗って再び芦屋まで戻り、内田先生のお宅で開かれている納会へおじゃました。

12月24日(金)

「空間的表象を超えて-レヴィナス『他者と時間』を読む」の講演を聴くため、初めて大阪の朝日カルチャーセンターへ。

12月23日(木)

内田先生が「歳末たすけあい能」のチケットをくださり、湊川神社で観能をご一緒させていただいた。

お能を二つも観ることができたし、狂言を観るのも初めてだった。
お能は二つ目の「大江山」が特に印象に残っている。

シテの酒呑童子が登場する場面で、二人の女の子が一緒に舞台に出てきた。

二人の顔がよく似ていたし、酒呑童子が手を引いている方の子が少しだけ大きかったので、二人はおそらく姉妹なのだと思う。5歳と3歳くらいだろうか。

特にお姉ちゃんの方がはちきれそうなほっぺたをしていて、少しだけ朝青龍関に似ていた。横綱の目をぱっちりさせて大分かわいくした感じです。

年明けからはいよいよ私も下川正謡会に入門することになった。おけいこが始まるのが今からとても楽しみです。


夜には、別居中の妻とそのお兄さんと3人で食事をした。

奥さんは医者なのだが、年明けに今の勤務先を辞めて再び大学病院にもどって仕事をすることになった。つまり、関西をはなれることになった。そして、それをひとつの区切りに、僕たちは2年間にわたる別居生活に句点を打つことにした。

どちらかに好きな人ができたとか、相手を嫌いになったとかそういうことではなかったので、我々二人は徹底的な「ソフトランディング路線」を選択した。
その結果、別れるでもなく、関係改善に向けた前向きな行動(例えば、2国間協議であるとか、6カ国協議とか)を取ることもなく、ただただ2年間という時間が流れてしまったが、少なくとも僕はこれで良かったと思っている。というか、これ以外にやりようが無かったような気がしている。

わたしの配偶者の兄というのはアメリカで研究者をしていて、丁度ぼくとA子さんが結婚した直後に、ポスドクとしてアメリカに留学した。それから6年の時間が経ち、彼は今年からメリーランド州のベセスダという町にある研究所で自分のラボを持つことになった。今は生命科学と情報工学の橋渡し的な研究をしているようだ。

今回は彼にとって3年ぶりの帰国であり、実家がある秋田に帰る前に、離婚することになった妹とそのパートナーに会うため、わざわざ大阪に寄ってくれたのだ。

千里中央の焼肉レストランで食事をしたのだが、この3人は、特別だれがだれと関係が悪いということもないので、興味深い話を色々としているうちにあっという間に時間が過ぎてしまった。

アメリカでラボを持つと、グラント(研究費)を取るための申請書類の作成が相当に大変で、下手をすると実験をして論文を書くよりもこちらの方が骨が折れるという話をよく聞くので、「グラントの申請が随分大変らしいですね」と聞いてみた。

すると義兄は、

何もないゼロの状態から英語で百ページ近い書類を書くのはさすがに大変だと思うが、今はそれなりにやってきたことと、これからやろうとしていることがあるから、すなわち、今の自分は「書くこと」を持っているからそんなに大変じゃない。それに、どんな仕事だって、やらなきゃならないことっていうのはあるものでしょ。

というようなことを答えてくれた。

彼が関わっている研究分野の大変さというのは、競争相手が多いということではなくて、他にやっている人がいない暗闇を手探り状態で切り開いていかなければならない大変さのようだ。そして彼はそういう仕事がとても好きそうに見える。彼は大変でもあまり苦にならない仕事を選んでいるようだった。

今はドイツ人の彼女がいるらしく、仕事以外も充実していて結構楽しくやっているみたいだ。

「それで君たちは、それぞれこれからどうするのかね」などという話は全く出ることなく、会食は終わってしまった。始まる前から何となくそんな気がしていたけど。

我々ふたりの「ソフトランディング路線」がそれなりの効果を上げて現在に至っているは分かっているのだが、そうは言ってもやはり、相手方が元気にしているかどうかというのはとても気になることであった。彼女に会うのは半年ぶりくらいだったが、元気そうだったので少し安心した。

「色々なことがあったけれど、今思うと全て仕方がなかったことような気がするなあ」とちょっとしんみりしながら、電車を乗り継いで家まで帰ってきた。この言葉を頭の中で何百回考えたか分からないが、今は、最初の頃とは随分と違う感じでこの言葉をかみしめているような気がする。そしてこれからもまたその感じは変わっていくのだろう。

家についたらもう夜の11時を回っていたのだが、まだ寝る気にはなれなかったので、ジャック・ダニエルズに氷を入れて、水道の水を少しだけ入れて飲んだ。

ジャムパンは突然現れて、一言「めりーくりすとます」と、試験前に英単語のスペリングを暗記している中学生のようなことをつぶやき、またどこかへと行ってしまった。

バーボンを飲みながらスリープしていたiMacのマウスを揺すり起こして覚醒させ、内田先生のサイトにいって、なんとなくリンクの所を開いた。平川克美さんのブログのアドレスをクリックして開いてみると、平川さんは僕の日記のことを取り上げて下さっていた。かなりびっくりした。

平川さんはとても好意的な感想を書いて下さっていた。元気がない時に読んだせいもあってか、平川さんの温かい言葉が胸にしみた。

小さい頃鼻血を出しまくって、すっかりひねくれものになってしまった我が弟もこれで報われたと思います。

ウッキーは前に日記で「三度のめしより受け身が好き」と書いていましたが、恥ずかしながら僕は人に褒められるのが好きです。三度のめしよりとは言いませんが、一食くらいなら抜いてもいいかな。最近2キロくらい太ったし。えへへ。

2004年12月29日

大人の味って、どんな味

12月29日(水)

越年実験の下ごしらえをしてから髪を切りに行った。

越年実験というのは、4日間かかる実験の下ごしらえを今日しておいて、新年1月2日に結果を見るというものです。僕が勝手に命名しました。

うまくいってるといいな。


今日が今年最後の日記です。皆様、今年一年お世話になりましてありがとうございました。

来年もどうぞ宜しくお願いします。


12月28日(火)

一寸法師の歌を歌いながら一日いろいろする。

指に足りない一寸法師 小さな体に大きな望み
お椀の舟に 箸の櫂…

12月27日(月)

午前中は今年最後の外来診療。

午後からは大学に行き、実験室の掃除をする。夕方からは研究室のミーティング。

夜は内田先生からお誘いを頂き、先生のお宅におじゃました。初めて平川克美さんにお会いすることができた。

内田先生のお宅には江編集長もいらした。

空きっ腹に飲んだシャンパンは大人の味がした。

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