11月4日(木)
「あいつは、こういうやつだ」と人を外見で判断してはいけないが、外見から多くの
情報を得てそれを診療に役立てる能力が内科医には要求されるのである。
山田正三氏は元広島カープの正田選手に少し似ていた。紺色のTシャツを着ていて、な
ぜか左手に赤いリンゴを持っている。
「こんにちは。今日はどうなさいました」
「一週間前くらいから、のどが痛くて咳が止まらないんです。体もだるくて、熱っぽ
いし」
山田正三氏は、目を合わせずにそう答えた。
「じゃ、ちょっと診察しますね。口を開けてください。はい、あーん」
咽頭の発赤が強い。
「山田さん、喉が大分赤いですよ。胸の音を聞いても特に問題ないので、気管支炎を
起こしていることはなさそうです。
喉の風邪の時にはね、左の膝を右の土踏まずにくっつけてください。丁寧にやるんで
すよ。そうすると、あと一週間でかならず良くなります。一日三回、毎食後30分以内
に必ずやってください。じゃ、今日はもういいですよ。おだいじにね」
山田正三氏は、そう言われると何度か頷いたものの、顔つきから彼が全然満足してい
ないということがはっきりと分かった(あたりまえだ)。
「あ、もしかして薬欲しいですか。やっぱり」
山田氏は黙って俯いたまま、くるくる回る丸椅子に座って、体を左右に揺らしながら
左手のリンゴをじっと見つめている。
「怒っちゃったの?本当にそれで風邪治るんですよ。左膝をね、右の足の裏のね、この
くぼんだところにね、ぴたーってくっつけるの。信じてないでしょう。しょうがない
なあ。じゃあ、お薬も一緒に出しますね。トローチとうがい薬も一緒に出しておきま
すから。あと、たばこは喉の痛みが落ち着くまで控えてね」
山田氏はそれでも黙ったまま俯いてリンゴを見つめたままだ。
「いいよ。先生がそれで治るって言うなら、別に薬はいらない」
「じゃあどうしたんですか。まだ何かありそうだけど」
「なんかね、つまんないんですよね。生きていても。本当につまんない。面白くない。
非常に不愉快。それに比べてね、昔は良かったですよ。本当に良かった。
私ね、若い頃は本当に良くもてたんですよ。特に年上の女の人からやたらもててね。
今着ているような感じの紺色のTシャツを着て、リンゴをかじりながら街をふらふらと
歩いているだけでね、綺麗な女性からたくさん声を掛けられたもんです。
寂しがり屋で生意気で憎らしい若造でしたが、「それでも好き」ってすれ違いざまに
投げキッスをする人や、「私のこと好き?はっきりきかせてちょうだい」と詰め寄って
くる綺麗なお姉さん達がそれはもう周りに沢山いたですよ」
「へー、凄いですねえ」
「その頃はね、馬鹿だったからそういう状況が一生続くものだと思っていました。
『俺は一生モテモテ野郎なんだ』って、あの頃の俺は当然のようにそう思っていた。
本当に馬鹿でした。」
「もてなくなっちゃったの?」
「うん。ある日突然」
「え、ある日突然?」
「そう。ある日突然」
「なんかあったの?」
「いや、何もないと思う。でもある日を境にして、突然誰も俺を見てくれなくなっちゃ
ったの」
そう言って、山田正三氏はリンゴを一口囓った。というかほおばった。
見たことはないけれど、元広島カープの正田選手も同じようなリンゴの食べ方をする
のだろうなあと僕は思った。