11月22日(月)
石原慎太郎原作のドラマ『弟』が5夜連続で放送され、毎回20%を超える視聴率をマークしたと新聞に載っていた。
ヨットにのったり映画スターだったりは勿論しないが、実は僕にも弟が一人がいる。
僕と弟は一歳しか違わないので、小さい頃はよく兄弟喧嘩をした。弟はどちらかというと体が弱い方で、喧嘩をするといつも僕の圧勝に終った。ときには勢い余って鼻血が出るほどぶってしまったこともある。
どうして喧嘩をするかというと、それはもう本当にどうしようもないほど小さなことがきっかけで、例えばおもちゃの取り合いとか、残り一個のお菓子を弟と僕のどちらが食べるかとか、どちらかが気に入らないことを言ったとかそういうことが原因だったような気がする。
たいていは、兄である僕が理不尽なことを弟に要求して、それを彼が拒絶するという形で喧嘩は始まった。要するにほとんどの場合、我々二人は喧嘩をしていたわけではなくて、僕が一方的に弟をいじめたり、虐げたりしていたわけである。
大学生の頃、僕は一人暮らしをしていた。
その日の夕方、僕はたまたま実家へ行った。どうして行ったのかははっきり憶えていないけれど、おそらく酒の飲み過ぎと、マージャンの負けが込んだせいでお金が無くなってしまい、ご飯を食べさせてもらいに行ったのだと思う。
季節は今と同じような秋の終わり頃だった。東北の町は冬に日が沈むのがとても早くて、夕方4時過ぎにはもうお日様が傾き始める。
医学部の授業は、午後は実習ということが多くて、その日も法医学か何かの実習を終えたら外はもう真っ暗に近かった。
日が暮れてしまうと気温がぐっと落ち込んでいっそう寒さを増す。よく晴れて空が綺麗な日は、日没後の冷え込みが特に厳しい。
こんな日は気持ちも寂しくなりがちで、友だちを誘ってやきとりでも食べに行きたいと思う。しかし、秋というのはたいがいこんな日が何日も続くもので、そうすると当然、夕方になると毎日寂しくなって、お酒を飲みに行く回数も増えて、そんなことを続けていると僕も友だちも当たり前にお金が無くなってしまい、飲みたくても飲めなくなる。
そんな季節的な理由で僕は酒を飲むどころかお金が無くてご飯が食べられなくなり、救済を求めて大学から実家までの道をてくてくと歩いていった。
15分ほど歩いて誰もいない家に上がる。弟はその頃、名古屋の大学に行っていたから、その時その家には父と母が二人だけで暮らしていた。
すっかり日が暮れてしまった後では、秋だろうが春だろうが明かりが灯った家の中の明るさに違いは無いと思うのだが、秋の終わりには何となく家の中の電灯も暗いような気がした。
夕方のニュースを見ながら新聞を読んでいると、しばらくして母が仕事から帰ってきた。いつもは父も一緒に帰ってくるのだが、今日は用事で遅くなるらしい。
「あ、おかえり。っていうか、ただいま」
ドアを開けて居間に入ってきた母親は僕にそう言った。平日の夕方に実家で待ちかまえている僕に会うと、母はいつも決まってそう言う。
いつものように、母親は簡単に夕食の準備を整えてくれて、二人でご飯を食べた。
秋の寂しさは、母が帰ってきてからも依然として僕の中に居座っていた。その寂しさは、白いお皿の真ん中にぽつりと置かれた、湯引きした鱈の切り身をみていると、いっそう増してくるような気がした。脇に添えられた大根おろしに少しだけ醤油を掛けたら、なぜだか分からないけど、またほんのちょっぴり寂しさが増した。
母から、親戚の話や母の仕事の話を聞きながら夕食を終えた。そしてその後、二人でお茶を飲んだ。りんごも食べたかも知れない。
親戚の話をしているうちに話題は弟のことに移った。
弟の話をしているうちに、僕は気持ちが弱くなっていたためか、小さい頃弟をいじめて可愛そうなことをしたと思うことがときどきある、ということを母に言った。
すると母は、ふんと鼻で笑ってから「あのね、今になってからそんなことを言っても遅いの」と言った。
母は6人兄弟の末っ子で、2歳違いの兄に、小さい頃それはよくいじめられていた。
そして母の兄は、成人してから「小さい頃いじめちゃってごめんね」と母に謝ってきたことがあったらしい。
詳しいことは何も聞かなかったけれど、その話をする母はちょっと悲しそうで、そして今でも伯父に対してちょっと腹を立てているようだった。
母は、強く強く「いまになってからそんなことをいってもおそいの」と思っているようだった。
憎しみがいつの間にか溶けてしまうのが家族というものだ、と村上龍は言っていたけれど、溶けてしまった家族に対する憎しみは、水になった雪のように空に向かって蒸発するのではなくて、自らの血の中に溶け込んでしまう。
親や兄や姉からぶたれる子供は、ぶった人を恐れるのと同時に愛し続ける。そして痛みや憎しみは血に溶けてしまう。
記憶の瓶の底に横たわっていたような思い出に対して一人で勝手に感傷的になって、謝罪したい精算したいという気持ちを、気まぐれに突きつけられても、血に溶けた憎しみは濾過されたりしない。
むしろ気まぐれな謝罪は、誤ったシグナル伝達経路を通って母の心に届けられて、昇華しかけていたかもしれない憎しみに居場所を与えてしまった。伯父の謝罪に正しいシグナル伝達経路が存在するのかどうかは僕にはわからない。
僕と弟は違う中学校に通っていた。
二人とも中学生になると、小さい頃ほど喧嘩もしなくなったが、兄弟で一緒に遊ぶとことも同時になくなってきていた。
彼が中学2年生の時、その中学校で「立志式」というイベントが新たに始められることになった。
立志式というのは、数え14歳で迎える元服に由来しているらしく、多感でいろいろと問題が起きやすかったりする中学2年生14歳という年に、個人的な決意を新たに表明したりするというものである。かなりこじつけっぽいし、気むずかしい年頃の中学生を余計にふてくされさせるような害はあっても、あまりメリットがあるとはおもえないようなセレモニーである。今はどうかわからないが、僕が通っている中学校ではやっていなかった。
その立志式が行われた日、弟は学校で冊子を一冊渡されて家に帰ってきた。
その日僕は、塾か何かに行っていて遅く家に帰った。僕が家に着くと、母親が力のない声で僕を「おかえり」と迎え、弟が持ち帰ったその冊子を見せてくれた。
冊子は式典に伴って配布されたものらしく、なかなか立派なものだった。そこには、2年生全員の決意表明の言葉が載せられていた。みんなちゃんと毛筆で色紙にその決意を書いている。
写真を見ると、思っている以上にみんな素直に自分の夢や目標を記していた。
「サッカー部でレギュラーをとる!」
「吹奏楽部全国大会出場!」
「苦手の数学で5をとるぞ」
などという向上心溢れる言葉が、下手くそな字でのびのびと記されている。
わが弟がどんな決意を表明しているのかと、冊子をぱらぱらとめくっていくと、弟の色紙の写真には大きい字で
「果報は寝て待て!」
とだけ書いてあった。
僕は思わず声を出して笑ったが、母はとても悲しそうだった。それはもう、とてもとても悲しそうだった。
弟に聞いてみると、彼は全然ふざけてなんかいなかった。彼は「やることをやったら、後は果報は寝て待たなければならない」と本気で考えているみたいだった。
そのだいぶ変わった14歳の決意表明と、弟の血に溶け込んだ憎しみに何らかの関係があるのかどうかは分からないが、僕はそのとき生まれて初めて弟がちょっとだけ格好良いと思ったのだった。