バナナ

6月23日

 5年以上マディソンに暮らしていると、結局どこに暮らすのが一番いいのか、分からなくなることがあった。こちらでの暮らしが長くなればなるほどに、身に起こることは楽しいことばかりではなかったし、英語が上達すればするほどに、日本語への郷愁は強くなり、そうすると孤独感に苛まれる時があったからだ。もちろん、あいかわらず私にとって湖に囲まれたマディソンでの長閑な暮らしは天国のようだったし、いつまでも暮らしていたいと思う気持ちは大きかった。あるいはマディソンから車で少し離れた郊外の小さな田舎街などに立ち寄ったときなどは、ほとんど機能していないような小さなメインストリートや数件の酒場、しかしながら完璧な美しい川べりとにこやかな人々で満ち足りた田園風景を前に、一体ここ以上の場所を人は知る必要があるのだろうか?と、生まれながらにこの土地に振り分けられた人々の運命を羨ましく思ったものだった。

 だけどこんな田舎は嫌で、もっと都会に行きたいという声を聞くこともあった。カリフォルニア育ちのカイルにとって、マディソンは退屈そのものだった。もうマディソンはいい。もっと違う世界を見たい。そう言ってカイルは今後、中国にESLの教師として移住することを計画していた。トランプ政権の折にアメリカそのものに嫌気が差したと言って、南米はエクアドルのクエンカへ移住していった家族もいた。クエンカは治安もよく、物価も安く、ご飯も美味しい夢のような土地で、ちかごろリタイア後などに移住を夢見る欧米人に人気の土地なのだそうだ。あるいは、韓国人のセオンはマディソンは大好きだったが、彼女はやっぱり将来は韓国に戻って暮らしたいと私にいつも言った。セオンにとって韓国は家族もいるし仕事もある、自分の帰るべき場所なのだった。

 だから、私はここのところ、頻繁に自分の祖国はどこで、どこに生涯住みたいか?という質問を友人にすることがあった。
 例えばインド生まれのインド人のラビは、より良い教育を求めて会計士である両親によって家族でアメリカに移民してきた移民二世だった。母語であるタミル語は祖母との交流だけのために使っているので、理解はできるがほとんど話せない。自分の祖国がどこかと問われると、「もちろんアメリカ」だとラビは言った。それを聞いて同じくメキシコ移民のアレックスもまた、「自分の祖国もアメリカだ」とラビに同意した。まだ不法移民の規制の緩かった時代に10人の兄弟たちと家族丸ごと移住してきたアレックスは、家族でメキシコ料理のレストランを営みながら、アメリカで教育を受け、現在はマディソンの警察でプログラマーとして働いていた。彼にとって英語は他ならぬ母語でありアメリカは祖国だった。英語を話せない祖母や両親と話すときはスペイン語で話し、時に彼らのために通訳となり、家で食べるメキシコ料理やメキシコの文化を愛しつつ、しかし「ここ(アメリカ)にはより良い教育、よりより生活がある」ときっぱりと言った。

 一方で14歳からアメリカで暮らし始めたブラジル人のママ友ルアーナは「もうずっとどこが自分の祖国なのか分からない」と私に言ったことがあった。彼女はこれまでにポルトガル語ではなく英語で本を書いて出版していた。アメリカの大学を卒業し、アメリカで本を出版し、結婚し、2人の子供を出産し、働いていた。休暇の際には家族でブラジルに戻ることもあるけれど、彼女はあまりにも人生の長い時間をアメリカで過ごしていた。もうブラジルは彼女にとって祖国ではなかった。かと言ってアメリカが祖国かと聞かれると、それも違うのである。
 ジムのサウナで仲良くなった女性も、夫に連れられてアメリカに移民してきたアフガニスタン人だった。彼女の家族の大半はドイツに移民しており、夫の家族がアメリカに移民していた。アフガニスタンや離れ離れになった家族が恋しかった。だけど今、彼女の3人の子供たちは全員ウィスコンシン大学を卒業し、立派に独り立ちしたアメリカ人だった。彼女はいつだって祖国の料理を作るし、息子たちはそれが大好きなのだそうだ。そしてメキシコ人のアレックスやインド人のラビと同じく、「ここにはより良い教育と生活がある」のだと言って笑った。

 日本にいずれ帰ると言うと「羨ましい」と言われることもよくあった。アメリカ人のジェレミーは日本が大好きで、日本に行くためだけに仕事を二つ掛け持ちし、身を粉にして働いていた。東京に行きたい、日本人なりたい、日本語を話せるようになりたい...、マディソンのような楽園でそう言われるたびに、私はつくづく人間の欲望のベクトルというのは面白いな、と思うのだった。

「だけど日本の国籍が一番でしょう?」
 フィリピン人のデニスは、国籍の話をするとき、必ず私にそう言ったものだった。日本人はどこに移住しても絶対に日本国籍を捨てない。日本国籍を持つのは本当に難しい...と。実際、日本で働き、息子を日本で出産した中国人のウェイも、息子ともども日本人にはなれなかったと不満を漏らしたことがあった。だから結局、彼女はアメリカで働いてアメリカ人になったのだそうだ。
「だから」
 と、ウェイは言った。
「私の息子は'バナナ'なのよ」
 バナナとは、外見は黄色人種のアジア人でありながら、そのアイデンティティが欧米であるという隠喩だった。

 そういえばここのところ、私の4歳になる息子も家でよく英語を話すようになり、ウェイのいうところのバナナになりつつあった。アメリカで生まれた息子は、思えばその短い人生のほとんどをアメリカで過ごしていた。もちろん日本人でもあったが、今では日本語よりも英語の理解の方がまさっていた。
 アメリカ人であること、日本人であることとは一体なんだろうか?息子が見せるその完璧なまでにアメリカナイズされたリアクションを見るたびに、私はふと、そう不思議な気持ちになるのだった。

4月15日
 ワクチンをめぐる戦いが加速していた。
 ウィスコンシン州はついに4月5日をもって、16歳以上の誰もがワクチンを打てるようになり、屋外でのマスク着用の義務や集まりに対する人数制限の規制が取り外されるなど、4月に入ってからの変化はめまぐるしかった。友人のデニスもここにきて12月に打ったアストラゼネカのトライアルワクチンがプラシーボだったことが判明し、4月5日からのワクチン接種開始とともに慌ててマディソンでの予約を取った一人だったが、パトリシアはマディソンではなく、車で1時間ほどの郊外での予約を取った。というのも、誰もがワクチンを打てるとはいえ4月5日を待ってワクチンの予約サイトを開けてみるとマディソンでのワクチン枠はどこもいっぱいで、なかなか予約を取るのが困難な状況が続いたからだ。
 私と白井くんもまた、パトリシアや多くの人と同様に車で2時間ほどの郊外での予約を取ったが、その日を待たずしてすぐにまたマディソンでの予約枠が増えたという情報が入り、なんとかマディソンでの接種に変更するなど、私たちは刻一刻と変わるワクチン情報に翻弄されているようだった。

 何を打たれるか?ということも多くの人の関心の一つだった。4月14日まで、アメリカで打てるワクチンはモデルナ、ファイザー、ジョンソンアンドジョンソンの三種類だったので、私は密かにジョンソンアンドジョンソンは嫌だと思っていたが、ワクチン接種日の前日に全米でのジョンソンアンドジョンソンの使用が停止されたので選択肢はモデルナかファイザーの二択となった。だけど例えば、ワクチン反対派のマイケルなどは、ジョンソンアンドジョンソンなら一発だけで済むという理由からジョンソンアンドジョンソンを好んで打っていた。
 もちろん、副作用のこともよく話題に登った。ニュースなどでよく耳にするひどい副作用ではないにしても、割と多くの知人が「副作用を経験した」と個人的に報告してきたので、私はその都度恐怖を感じることがあった。とりわけデニスはワクチン接種後、時系列で2時間おきに自身が感じた副作用二日分をメールで送ってきて周囲の人々を震撼させたが、考えてみたらアストラゼネカのプラシーボを打った後も、その副作用を二日分、デニスは時系列でFacebookに投稿していたので、彼の数時間おきの「発熱」やら「だるさ」の記録には少々疑わしいものがあった...。

 だけど、手放しにワクチンを礼賛する人々のいる傍ら、時にワクチンへの恐怖から私の心は最近「反ワクチン派」の声を強くとらえることも少なくなかった。もちろん中には、ワクチンにマイクロチップが埋め込まれていて多くの人を殺す計画がビル・ゲイツ界隈で数年前から進められていたのだという過激な陰謀論もあった。あるいは「ユルい反ワクチン派」のマイケルのように、コロナウィルスは研究所で作られたもので、パンデミックそのものが計画(プラン)された「プランデミック(Plandemic)」であり「恐怖」こそが人々をコントロールしやすくする材料になるのだとして、ワクチンを打つことで人々をコントロールするべきでないと言う軽い説もあった。健康であればコロナウィルスでは死なない。ワクチンの方がリスクが高いと訴える人たちもいた。
 だけど基本的にはそうした声は「デマ」であり「大衆を間違った情報に導くもの」だとみなされ、FacebookやInstagram、YouTubeなどのメインストリームからあっけなく抹消され、アカウント停止を余儀なくされることがあった。そして面白いことには、そうやってメインストリームから抹消された投稿、あるいはドキュメンタリー映画などには、「真実を抹消しようとする陰謀と戦う正義」という謳い文句が勲章のように加わるので、逆に彼らの説に強い真実味を持たせることがあった。
 反ワクチン派で知られる元大統領の甥で弁護士のロバート・ケネディ・ジュニアのInstagramのアカウントも2月に抹消されたものの一つで、彼はヒーローのようだった。クリスピークリームは3月末に、ワクチン接種者は2021年中、毎日無料でドーナツをひとつ食べられるサービスを開始すると発表し、このワクチン接種への甘い誘惑がますます反ワクチン派の怒りに油を注いだのは言うまでもなかった。また、クリスピークリームだけではなくさまざまな企業が人々のワクチン接種を推進するためにさまざまなサービスを発表し、極め付けにニューヨークでクオモ知事が推進した「ワクチンパスポート」には多くの反ワクチン派がSNS上で激昂し、政府の圧力を糾弾していた。

 もちろん、私はビル・ゲイツによる陰謀論や、政府による人類大量虐殺論を信じているわけではなかったし、ワクチンを打つべきなのか、打たざるべきなのか?と言うのは、結局のところよくわからなかった。でも、打ちたくない人々を「あいつはトランプ派か厳格なキリスト教徒だ」と揶揄したり、クレイジーだとバカにすることには疑問が残ったし、「打たない」という選択はもう少し柔軟に尊重され、準備されてもいいのではないかと思うときもあり、これに関して白井くんと時々内輪で揉めたりもした。

 とはいえ、そんなすったもんだの2021年4月15日、私たちは結局、ファイザーの1回目のワクチンをマディソンの病院で無事打ち終えることとなった。錯綜する情報の中で、ワクチン派でも反ワクチン派でもない私たちがたどり着いた結論は他でもなく、「とりあえず打っといたら安心かもしれない」という、心の平和だったからである。

希望の春

3月19日
「生きてる...」
 それは行きつけのスーパーでローウェルの姿を見つけた瞬間、安堵の気持ちと共に率直に私の中に浮かんだ言葉だった。一年以上ぶりの再会だった。最後に話をしたのがいつだったのかすら思い出せない。ローウェルがいつも座っていたスーパーのカフェは一年以上も閉鎖されたきりだったし、何より彼女は大学の教授職をリタイアした老人だったので、パンデミックの始まりとともに、私たちが会えなくなったのは当然のことだった。
 ウィスコンシン大学の音楽学部の教授をしていたローウェルは、リタイア後私が毎日通うスーパーのカフェでいつもコーヒーを飲んだり朝食を食べたりして時間を潰しながら、定期的に興味のある大学の授業を聴講したり海外の学会に顔を出したり、あるいはガーデニングをして余生を過ごす気ままなおばあちゃんだった。特別仲が良かったわけではないけれど、いつしか顔見知りになった私たちは会えばお互いに聴講していた大学の講義について立ち話をするほどには仲良しだったので、パンデミックが始まってからはカフェの前を通るたびに彼女のことを思わない日はなかった。

「ワクチンを接種したんですね!?」
 ローウェルを見つけた私が興奮気味にそう声をかけると、彼女はマスク越しに私を捉え、嬉しそうに頷きながら「あなたも受けるでしょ?」と言った。
「たぶん...夏には!」
 私はそう答えた。

 そう、おそらく夏までには...。
 それは限りなく可能性の高い希望だった。今、ウィスコンシン州では五月になればほぼ誰もがワクチンを接種できるようになると言われている。そうでなくても私の周りでは、ここのところワクチン接種者の数が目を見張るほど増えていて、近所のドラッグストアからは「完全にワクチン接種者である」と言うことへのガイドライン("ワクチン接種から二週間経っていないと接種者として認められない"などの規定)のメールが届くほどだった。
 医療従事者、あるいはローウェルのように65歳以上ではなくてもワクチンを受けるケースもかなり増えていた。例えば私が参加しているミートアップのグループリーダーであるデニスは、昨年の11月にアストラゼネカが募集したワクチンのトライアルに応募すると、12月と1月の二度に渡って一番乗りでワクチン接種を済ませた友人の一人だった。同じグループの友人であるカイルは、過去5年に亘りアメリカ海軍で働いていたというキャリアから優先的にワクチンを受けることができたし、ウィスコンシン大学に通うラビは両親が地元の教会でボランティアをしていた関係から、地元の病院で最近コネワクチンを接種した一人だった。ここのところ、インスタグラムやFacebookではワクチン接種済みの証明書をストーリーズに載せては「グッバイ、コロナウィルス」と書いている人をちらほら見かけており、息子の通う公文でも夏までにはズームではなく教室での指導が再開されると噂されていた。
 3月に入るとマディソンのあるデーン郡は正式に屋外での集会人数の制限を500人まで認めることを発表し、それはすなわち、夏に町中で行われるあらゆるイベントが再び戻ってくることを意味していた。

 サマータイムの始まりとともに、私の参加するグループも正式にインドアでの集まりを再開していた。集まったメンバーの何人かがすでにワクチン接種者でもあったので、活動再開初日は「これは誰の食べ残し?」「あ、それはワクチン接種者の食べ残しだから食べても大丈夫だよ!」などという冗談がテーブルの上を爽快に転がったりもした。
 もちろん食べてない間はみんなずっとマスクをしていた。だけどグループのリーダーとして、デニスはもうずっとロックダウンが始まる前からグループの集まりを厳しく禁止していたし、夏の間も彼は屋外の集まりしか正式に認めず、大きなサニタイザーを持ち歩いてはメンバーの手という手に吹きかけていたので、このインドアでの集まりの再開の意味はあまりにも大きいように思われた。
 
「セイコが帰国するまであと15ヶ月しか残されていないのだから、これからはもっと、可能な限り多くの時間をみんなで一緒に過ごさないといけない」
 久しぶりのグループ活動再開の喜びに興奮しながら、デニスはこともなく私にそう言ったので私は思わず泣きそうになった。
 彼はもう大きなサニタイザーのスプレーを持ち歩いてはいなかった。確実に夜が明けようとしている気配があった。季節は春。マディソンが世界中で一番美しく花開く、短い夏が始まろうとしていた。

パトリシアは多趣味

2月16日

 友人のパトリシアは多趣味だった。乗馬にスキー、スケート、ピアノにバイオリン、太鼓に映画鑑賞、編み物と、それからドイツ語、フランス語、イタリア語にスペイン語、中国語と日本語を少々勉強するというマルチだった。月に一度か二度、オンラインのブッククラブにも参加しており、今は「ジェーン・エア」やら「罪と罰」やらを忙しそうに読みつつ、自身ではアートディスカッションのコミュニティも立ち上げて、月に一度、ズームを使った絵画のグループディスカッションに私を誘ってくれたりもした。その上私が最近コロナウィルスの影響で元気がないことも心配し、やれ「コーヒーを飲みに行こう」「美味しいものを食べに行こう」と私のためにさまざまなプランを立てては連れ出してくれた。
 加えて先月の初めから、パトリシアは陶芸のクラスにも参加するようになった。もちろん彼女は私にも陶芸を始めるようにとメールをくれた。だけどノロマな私が申し込みをする頃にはそのクラスはすでに定員オーバーになり申し込みすることができなかった。特にすごくしたいと思ったわけではなかったけれどクラスに入れなかったことを少しだけ残念に思った私は、しばらくそのサイトを眺めながらなんとなく定員にまだ達していない"織物"のクラスに目が止まった。よく分からないけれど、機織りを使って、テーブルクロスやらブックカバーやら何やらを週一回、四ヶ月のレッスンで作れるようになるようである。履修料は130ドル。望めば機織りを自宅に持ち帰って夜な夜な家で自主練習をすることも可能なようだ。これもパトリシアと出会った縁による何かの導きだろう。ズームのクラスを取るよりもソーシャルディスタンスを取りつつも対人で行われるこの機織りのクラスが魅力的に思えた私は、マディソンで機織りができるようになるのもいいかもしれないと思い、陶芸クラスの代わりにこの謎のクラスを申し込むことにした。

「申込者が定員に達しなかったので、クラスはキャンセルされました」

 クラスが不人気のために開講されないというこの案内のメールが届いたころ、私がすっかり機織りに対する熱を上げていて、このごろ「来週から機織りをするのだ」と周囲に漏らしては、自分が一体ちゃんと先生の指導通り織ることができるのか、どんな物を作るのが良いのか、などとあれこれ考えていたところだった。こんなに機織りのことを考えるだけ気持ちが上向きになったことに自分でもびっくりしたが、結局この「機織りのクラス」が突如自分の人生から消えたことにも少なからずショックを受けずにはいられなかった。
 
「残念だったわね。でもなにか他のことを始めたらいいわよ」
 パトリシアは私を慰めながら、他の趣味を見つけるべきだと強く主張した。何か新しいものに挑戦すると、脳みその違う部分、違う回路が活性化され、とても体に良いのだという。また新しいことを始めることで、今までの趣味にも影響を与えて相乗効果が生まれることもあるのだとパトリシアは語った。友人のテリーもこのところ新しく油絵に挑戦し始めたところだった。彼もパトリシア同様多趣味であったが、特に絵を描いていると何時間も集中して楽しいと言い、私に今まで取り組んだことのない「完全に新しい何か」を始めるようにアドバイスをくれたところだった。

 だから、私は色々と考えた結果、機織りではなく"デジタルペインティング"を始めることにした。始めたと言っても教室に通うわけではない。マディソンも英語も何も関係ない。自宅でひたすら空いた時間に黙々とiPadとApple Pencilを使って一人で絵を描くだけである。が、これが思いがけず楽しく、一つ、二つと絵を仕上げていくと、どんどんアイデアが湧き上がり、絵を描かない日がないほどのめり込んでいった。

「Instagramを駆使するのよ!今はinstagramの時代なのよ!」

 そのうちかつて私にコロナ禍を生き抜く手段として熱くそう語ったボミの言葉が脳内で蘇り、その言葉に従うように、今度は私はInstagramの新しいアカウントを立ち上げて、仕上げた絵を公開するようになった。絵を描き始めて一週間もすると、毎日ひどい頭痛と肩こりに悩まされるようになった。絵に集中してやっぱりご飯を食べ忘れるので、体重が再びみるみる落ちてしまった。だけど、パトリシアの言うように脳みその今まで全く使わない部分が活性化されているような気分と達成感があり、心の中は不思議とずっと爽快だった。
 Instagramを始めて二週間目には、アートキュレーターと名乗る女性から「あなたのような類い稀な才能を探していた。オンラインでの集まりに参加しないか?」というメールが届いた。もちろんスパムだったが、軽い躁状態の私は、半ばそのメールを信じ、友人の二人にそのメールを査定してもらい「胡散臭い」と言う二人からのダブルチェックをもらうまで、「もしかしたら私はすごい絵の才能があるのかもしれない」と心の中で密かに打ち震え、その後その自尊心をいたずらにくすぐられた羞恥心から傷つき、メールの送信者を軽く憎んだりもした。やつれ果てた私の顔をみて、「なぜそこまで...」と白井くんは首をかしげた。来る日も来る日も奇妙な絵をアップするので、「狂気を感じる」と言う友人もいた。Instagramのフォロワー二千人を26ドルで買わないか?と持ちかけられたこともあった。そしてやっぱり、体重は減る一方だった。

 だけど取り憑かれたように絵を描き始めて三週間ほどした頃、私の元に友人のカイルから突然一通のメールが届いた。
「君の絵、素敵だよ。僕のブログに使っていい?」
メールには日本語でそう書かれていた。カイルもまた、パトリシアやテリーのようにたくさんの趣味を持つウィスコンシン大学のアメリカ人の学生だった。日本語、アラブ語、中国語、ギターにカリグラフィーにキックボクシング、銃収集が少しと、哲学の勉強...そして彼はブロガーでもあった。そのカイルの最新のブログの記事に、私の絵を使いたいと言うのである。もちろん一も二もなく快諾し、その後すぐに私の描いた「魂」と言う題の絵が、カイルの「死」に対する哲学的な記事のブログに添えられてネット上に上がった。

 とても不思議な光景だった。
「魂」は、私が絵を描き始めたことで気持ちが明るくなってきた頃、人間の内面の美しさを表現したくて描いた花と心臓の絵だった。その自分のために描いた絵が、カイルの彼自身の「死」に対する思想の文章に添えられることで、今度はまた違った意味を帯び、広がりを得たよう見えたのである。
 そこにはちょうどパトリシアが言うように、脳みその違う回路を使ったことで、また違う部分が活性化されたような、絵と文章が響き合ったような、不思議な輝きと奥行きがあった。あるいはそれはパトリシアがいて、機織りのクラスが無ければ到達しなかった偶然の産物のような、生命の神秘のような喜びがあり、私はしばらく何度も、そのページを見つめていたのだった。

1月13日

 日本人留学生のアヤナちゃんの帰国が迫っていた。二十歳のアヤナちゃんはまだ世界がコロナウィルスのコの字も知らなかった頃に半年間、私がかつて通っていた語学学校に通っていた若い日本人学生だった。彼女はその後一度は日本に帰国したが、やはりもう一度マディソンで語学の勉強をしたいと思い、再び、パンデミックが始まる直前に二度目の語学留学を開始し、この度コロナウィルス終息の目処の立たぬ中、一年の留学期間を終えて日本に戻る予定となっていた。
 「あんまり何も変わらなかったですよ」
 自分で染めたと言うエメラルドグリーンと金髪のグラデーションの髪の毛を時々かき上げながら、一度目の留学とパンデミック後の二度目留学の違いについて尋ねた私に、アヤナちゃんはあっけらかんとそう答えた。
 「あ、でも私、コロナウィルスになっちゃいましたけど」
 そう言って、アヤナちゃんは一枚の集合写真を携帯電話で見せながら、「この二人が遊んで、次の日にこの二人が遊びに行って、そしたらこの二人が飲みに行って...」と、丁寧に去年留学生用の寮内で起こったクラスターの感染経路を私に教えてくれた。それから初めてタトゥーを入れた、と嬉しそうに言うと、アメリカでの留学生活はとても楽しかったと笑みをこぼすのだった。
 すごいなあ...
 一回り以上も下の女の子の留学体験を聴きながら、私はつい、羨望の言葉を漏らしてしまった。何を隠そう、私もずっとアヤナちゃんのように、髪の毛を派手に染めたり、タトゥーを入れてみたいと思い続けてきた36歳である。でも踏み切れなかったのは、私の中にはもうずっと日本的な固定観念や古い価値観が染み付いているからだった。
 「だから日本って嫌なんですよね」
 私の話を聞いてアヤナちゃんは顔をしかめた。
 
 ところで、海外留学の経験中に思い切ってタトゥーを入れた若い女の子を私はもう一人知っていた。あるいは自分の性的マイノリティを留学先でオープンにする子、飲酒を禁じられた祖国の宗教的タブーを犯す子、ドラッグを試す子...良くも悪くも、私が時折目にするそうした若い留学生たちの振り切れた行動には、若さゆえにそれまでの価値観を易々と飛び越える柔軟性と、新しい文化を吸収しようとする強い探究心に溢れていて、私の目にはいつも眩しく映ることがあった。こと、ものの価値観が外見に現れると言う意味では、彼らの外見的変化は歳をとってから海外に赴任などで来た人たちよりも遥かに顕著だったし、そうした若者たちが既存の価値観をあっけなく打ち破る行動の多くが、祖国では難しくてもアメリカと言う場所でなら受け入れてもらえるのだ言う空気感に後押しされているようにも思えた。

 中国人の友人のメンディも、アメリカでの五年以上に渡る滞在を経て僅かながら外見的変化を遂げた友人の一人だった。彼女は明らかにアメリカに来てから自分は太ったのだと言ったが、自分はそれいいと思っているし、もうすこし太ってもいいとさえ思っていると言ったことがあった。アメリカの女性が体格の大きな人が多いのも要因だったが、肌を焼き、女性も男性のように筋肉質に鍛え抜くと言う美意識を持つ人々を見ているうちに、中国にいた頃の自分はすこし痩せ過ぎで貧相だったと思うようになったと言った。

 かくいう私もまた、エメラルドグリーンの髪の毛こそまだ手に入れてはなかったものの、当初マディソンに来た頃「受け入れ難い」と感じていたアメリカ人学生たちの"レギンス一枚履き"のスタイルというものを取り入れた人間でもあった。足の形のみならず、お尻の形までくっきりと出るレギンス一枚だけというファッションは、何年か前に白井くんと一緒に「なんとみっともない...」と酷評したはずだったのだが、今では嬉々としてなんの抵抗も感じずに履くようになっていたのである。
 レギンスだけではない。鼻の両穴の真ん中に施すセプタムというピアスをしている若者が多いことにも、昔は仰天して「牛のようだ」と陰口を叩いたものだったけれど、セプタムもノストリル(片方の鼻の穴にするピアス)も最近はなんだか可愛いし、かっこいいと心から思えるようにもなっていた。
 もちろん、アメリカ人の女の子たちが腕毛をボーボーに生やしていることも、私にとってはもう驚くことではなかった。なんなら、「女の子だから毛を処理しなくてはいけないというのはおかしい」という主義のもと、脇毛を剃らないクールな女の子たちを見かけることもあった。日本人の彼氏がいる韓国人の女の子が一度、その彼氏に腕の毛を剃って欲しいと言われたことに対して激怒していたことがあったが、私はそういうことをお願いする日本人の男の子の気持ちもわかりつつ、今ではそれに腹を立てる韓国人の女の子の気持ちも分かるようになっていた。
 脇毛も腕毛もタトゥーもレギンスも、ド派手なヘアスタイルだって、アメリカでは社会的にマイナスとされる要因には何一つならないのである。

 かくしてこの四年以上のアメリカ滞在は、私を"お尻の形が丸見えでみっともないと思っていたレギンススタイルを履いて闊歩する"という形で変化させていた。あともう少し滞在すれば、私もタトゥーを施して髪の毛を染め、見事な脇毛を生やすようになるだろうか?アヤナちゃんのエメラルドグリーンの髪の毛を見ながら、私はそんなことを考えていた。

くたばれ2020

11月25日

 すっかりコロナ鬱になってしまった。
きっかけは全くわからなかった。ソーシャルディスタンシングが推奨される昨今の状況の中、それでも私にはずっと定期的に会う友人たちやグループがあったし、そんな仲間とは工夫しながら週に二回以上はお茶をしたり飲みに行ったりと忙しく、また平日はジムで毎日ランニングと水泳を欠かさず、心身ともに健康だったからだ。(少なくとも、私は健康だと信じていた。)
 だけど10月が終わり、ああ本格的にまた冬が始まるな、と思い始めたころ、ふと気づくとご飯が食べられなくなっていた。「食べたい」という欲求が湧きおこらないので、食べ忘れるのである。それからずっと下痢が続き、涙もろくなった。悲しいことがあったわけではないのに、朝から止めどなく涙がこぼれ落ちるのである。友人と会う直前まで車の中で泣き、時々、そうやって人に会う時間さえも楽しいのか楽しくないのか、わからなくなる時があった。そして少しでも何か気になることがあると心臓が鉛のように重くなるか、早鐘のように打つこともあった。自然と体重は減り、頬はこけ、目には大きなクマができ、私は見るからにみすぼらしくみじめな形相になり、疲れ切っていった。

 もちろん、マディソンで働いているわけでもない、学生でもない私が、「疲れた」などというのはおこがましいことだった。だけどこの半年以上、パンデミックによって、様々な面で私の日常も変化を遂げていた。ずっと変わらずに会える友人もいたけれど、コロナウィルスで会えなくなった友人たちも少なからず居て、それはとても悲しいことだった。
 引越し業者として働いていたイーサンは不景気の煽りを受けて失業し、さよならも言わずにマディソンを去っていったし、大好きだった韓国人の友人のセオンもほとんど家から出ないといって、会う機会がなくなってしまった。11月になるとコロナウィルス第三波の勢いを受け、グループのリーダーであるデニスも飲み会を春まで自粛すると宣言し、メールだけのやりとりとなった。他にも何人かの友人たちがインドアでの集まりを自粛するようになった。ダウンタウンのメインストリートでは、思い出の詰まったバーやカフェが一軒、さらに一軒と、当たり前のように幕をおろし、顔見知りだったバーのおじさんがどこへ行ってしまったのかなどと、私には知るよしもなかった。大好きな映画館で友人と映画を観たのも、ジムでサウナを使ったのも、もうずいぶん昔の出来事だった。
 それなのに事態は良くなるどころかますます悪くなる一方で、マディソンは、いやアメリカは、今やパンデミックが始まって以来の最悪の感染者数を叩き出していた。シカゴのあるイリノイ州は違う州からの来訪者を再び制限するようになり、感染者数の多いウィスコンシン州からはシカゴ市内へ遊びに行くことができなくなった。子供の通っているプレスクールでは生徒の中に感染者が出たと連絡があり、一週間学校が閉鎖された。友人の勤務先では60人以上が解雇された。通っているスポーツジムもたくさんのクラスが再びキャンセルになり、ジムの託児所の利用時間も大幅に削減されるようになった。

 もちろん、こうした一連の出来事と私の心の不調が、一体どうやって結びつくのかは、わからなかった。全てをパンデミックのせいにすることもできたし、そうではないところに原因があるのかもしれなかった。単純にマディソンの日照時間の関係で、セロトニンが足りなくなっただけの話かもしれなかった。
 ただ、私は悲しかった。

『3月いっぱいは閉まります。元気で居てねマディソン』
 これは3月中旬のロックダウンの折、ダウンタウンにあるマジェスティック劇場という古い劇場のビルボードに並んでいた言葉だった。それからときどき、そこには『愛は憎しみに勝る』や『投票に行ってね』など、世の動向に照らして人々を励ますメッセージが入れ替わり登場し、私はそれを見上げるのが好きだった。劇場が生きていて、私たちに語りかけてくれているような、希望が湧いてくるような気分になれたからだ。
だけど今日、閑散とした通りで見上げたビルボードには、たったひと言こう書かれていた。
『くたばれ2020』

 暗転していく状況の中でたくさんのイレギュラーなことが起こり、あらゆるものが変わってしまった。そしてそれでもなお、巡る季節は冬へ、マディソンは厳しい極寒へと突入しようとしていたのだった。

アーミッシュを訪ねて

10月14日

 「ゲー、あの人たちは電気を使わないんだよ!」
 "アーミッシュ"と聞いて、アメリカ人の友人のほとんどが、こんな感じでどちらかと言うと軽い拒否反応を示した。先週末に日帰りでアーミッシュのコミュニティのあるウィスコンシン州はドルトンという小さな町を訪れた話をしたときのことである。
「あんな暮らしは絶対に無理。車も使わないんだよ!」
 そう言われて私が得意げに「でもその代わり、馬車を使うんだよ!」と、実物のアーミッシュ馬車とすれ違った時の感動を伝えようとしても、彼らは一様に無理無理無理無理!と言うばかりだった。「電気を使わない暮らしなんてもってのほか!」と電気工学専攻の大学院生のラビが言えば、「セイコはアーミッシュオタクになった」とオタクのデーヴィッドに言われる始末である。
 それでもアーミッシュがどれほど魅力的に見えたか伝えようと食い下がる私に向かって、その場にいた友人たちの誰もが口を揃えてこう言うのだった。
「セイコも絶対にアーミッシュになれないから!」

"アーミッシュ"
 これは、主にペンシルベニア州やオハイオ州などの中西部に分布するスイスで生まれた厳格なキリスト教ベースの宗教集団の呼び名のことである。ヨーロッパのアーミッシュは時代の流れの中ですでに吸収されてしまっており、現在アーミッシュはアメリカにしか存在しない。彼らは昔ながらの生活様式を貫いているのが特徴で、電気などを使った近代的な暮らしを拒み自給自足の生活をしている。だからアーミッシュのコミュニティに入ってすぐ伝統的な服を着て黙々と働く彼らの姿を目にしたとき、私はタイムスリップしたような錯覚と興奮を覚えたものだった。

 もちろん私たちが訪れたドルトンにはアーミッシュ以外の人たちも暮らしていた。彼らは農家としてアーミッシュの共同体のすぐ近くに住んでおり、中にはアーミッシュの作った製品の販売の手助けをしている人たちもいる。と言うのもアーミッシュたちは、家そのものから衣服、食糧に至るまで、生活のほぼ全てを自分たちで作るので、化学肥料や農薬を一切使わない食料品、質の良い家具などは外部の人々からも人気が高いのである。
 だからドルトンに入って一番に見つけた食料品店はレジに長蛇の列ができるほどの盛況ぶりを見せていたし、そこでなんとなく購入したチョコレートウェハースもクッキーも甘さ控えめの素朴な美味しさだった。
 それから週に二日だけ営業していると言うアーミッシュのベーカリーに行くと、とびきり美味しい焼き立ての食パンやパイ、ドーナツやクッキーを購入することもできた。こちらもこんな辺鄙な田舎で週二日の営業という条件にも関わらず、長蛇の列である。薄暗い店内は美味しそうなパンの匂いが満ち満ちており、厨房では伝統的なワンピースとボンネットを身につけたアーミッシュの美しい少女たちが楽しそうに歌を歌いながらパンをこねているのが見える。中にはまだ10歳にも満たないような少女たちが手を繋いでお姉さんたちの姿をぼんやり眺めていたりもする。するとそのうちの一人が焼き上がったパンを厨房から天使さながらニコニコと運んでくるのである。パンそのものの上質な味もさることながら、ベーカリーはその少女たちによってふわふわとした雰囲気溢れるアーミッシュの天国のようだった。

 ところでアメリカでは外見的な特徴について言及することは良しとされない。だから彼らの外見について私が後で何を言っても友人のほとんどが取り合ってはくれなかったが、それでも私はこの時、アーミッシュの人々の顔つきが外部の人と異なっていることを発見せずにはいられなかった。彼らはマディソンで見かけるアメリカ人に比べると、圧倒的に美形が多いように思われたからである。
 またアーミッシュには16歳になると二年間だけコミュニティを離れ、外の世界を経験するラムスプリンガという期間がある。その期間を終えた後、外で暮らすか、このままアーミッシュとして生涯暮らすかという選択を通過儀礼として迫られるそうだが、ほとんどがラムスプリンガを終えたのち、アーミッシュとして生きる人生を選択をすると言われている。だからこの日、ベーカリーを後にしながら、白井くんはふむ、と考えると「外の世界よりアーミッシュの方が綺麗な人が多いからコミュニティを離れられないんだろうな...」と珍しく頓珍漢な説を唱えたりしていた。けれどそれほどまでに彼らのほっそりとした顔立ちは、私たちに強く美しい印象を残したのである。

それからアーミッシュには、電気や車を使わないという以外にも沢山の厳しい戒律があった。
・離婚してはいけない
・保険に入ってはいけない
・自転車のペダルを漕いではいけない
・化粧をしてはいけない
・派手な服を着てはいけない
・聖書以外の本を読んではいけない など。
 極めつけは、「怒ってはいけない」である。これを聞いて白井君がまた悟ったように、「君はアーミッシュになれない」と私を名指ししたので、車中でちょっとした諍いが勃発した。(アーミッシュには「喧嘩をしてはいけない」と言う規則もあるが...。)
 
 そしてこれらの規則を破ったり破門された場合には、親族や友人をはじめ、コミュニティのすべての人々から絶縁されるという決まりもあるのである。アーミッシュの世界では規則は絶対なので、アーミッシュとしてそれらの戒律をおかさない限りは、彼らは共同体に守られ、助け合いながら暮らすことができた。質素だが生涯お金に困ることもない。だけどひとたびアーミッシュであることを辞めて外の世界に生きようとするならば、それは彼らにとってその後より一層過酷な人生を選択することを意味していたのである。

 ともあれ、ベーカリーを出た私たちは、すっかりこの不思議な集落に魅了され、アーミッシュの禁欲的な生き方に憧憬に似た何かを抱き始めていた。そろそろ帰ろうかという頃、私はなぜかアーミッシュに出くわすたびに車中からちぎれんばかりに手を振るようにもなっていた。彼らも戸惑いながら、この奇妙なアジア人の家族に手を振り返してくれた。

 もちろん、誰もが指摘する通り私がアーミッシュのように暮らせないのは明白だった。だけどそんな彼らに手を振りながら、この日、私はもう一度ここドルトンに戻って来たいと考えていた。伝統的な衣服に身を包み、素敵なものをたくさん作る働き者のアーミッシュ。歌いながらパンをこねる少女たち。馬車でデートする若い男女。そんな真逆の生活を送る美しいアーミッシュの住む街ドルトンに心惹かれて、私はまた美味しいパンを買いに来たいなと、強く思ったのである。

ボミのリブート

8月27日
 コロナウィルス以前、私には毎週のように集まる密度の濃いグループがあった。すごく仲の良いミートアップのグループで、当たり前のように毎週飲み、騒ぎ、お互いの家を行き来し、週末はパーティやブッククラブ、映画鑑賞などのイベントを頻繁に企画する気心の知れた仲間たちだった。だけど3月にウィスコンシン州がロックダウンに入ってから、もちろん私たちはこれまでのように簡単には会うことができなくなった。あらゆるイベント、活動という活動がキャンセルになったので、ミートアップに限らず、人々は"今ある関係性の中でバーチャルでしか人と会うことができない"という特殊な期間を過ごすことになったからである。
 だから私もその頃は、このグループ内のさらに小さなグループで、頻繁にオンラインチャットをするようになった。凍結された世界の中で、私たちは毎週、同じメンバーで顔を合わせ、他愛無い話をし、以前とは違った形の、密度の濃い時間を持つようになった。とりわけ仕事をしてない主婦の私にとって、週に一度のこのオンラインチャットは唯一の社交の場所でもあり、これまで以上にこのグループの集まりを大切に感じるようになってもいた。

 6月に入り、やっとロックダウンが解除されると、世界はまた動き出したかのように思えた。6月と言えばウィスコンシン州はもう夏である。春をすっ飛ばし、いつの間にか始まったマディソンの短い夏をすこしでも長く味わおうと、私たちはふたたび弾けたように、少人数の決まったメンバーで屋外で頻繁に集まるようになった。
 だけど以前とは違い、こうした飲み会に新規のメンバーが加わることはなかったし、定期的に集まるメンバーの中には、コロナウィルスを危惧してイレギュラーなメンバーを呼びたがらない人も出てきた。そうすると、今度はこの固定されたメンバーという距離の近さと規模の小ささから、時々グループ内で小さな揉め事が起こるようになった。

 仲が良く、密度が濃くなったゆえの軋轢かとも思いながらも、一度揉めると少しも妥協しない友人たちの態度に、私はだんだん疲れを感じるようにもなった。だけど他に特別親しくしたり、これほどの頻度で会うグループも私にはなかった。ただでさえロックダウンが解除されてから、あからさまに感染者数がうなぎ上りのアメリカである。ビジネスが再びオープンになったからとは言え、今所属するグループ以外の人と会うことはどうしてもリスクが高く、新しい友人を見つけるということ自体が難しい時期でもあった。

「イッツ タイム トゥ エンド ザ リレーションシップ」

 静かに、私のこの最近の人間関係の悩みに耳を傾けていた韓国人のボミは、私が話し終わると同時に間髪入れずにそう言った。
 何を悩んでいるの?と言わんばかりの口調で、ボミはあっさりと、そしてキッパリと、そういうややこしい思いをするなら、それはもうその関係性の終わりの時なのだ、と主張した。数ヶ月ぶりに近所の公園でボミの子供と私の子供を遊ばせていた時のことだった。
「だけど今、新しい友達を作るのってとても大変だよ」
 私がそう反論すると、ボミは「そんなことない」とにこやかに言った。
「だって私は最近たくさん新しい友達ができたよ」と。
「どうやって?」
 そう驚いて尋ねる私に、ボミは「キム・ミギョンのReboot(リブート)」という言葉を教えてくれた。

『キム・ミギョンのReboot(リブート)』

 それは"コロナ以後の世界で私たちはどう生きるか"と言うことをテーマに、最近韓国で発売された本のタイトルだった。ボミによると、それはコロナ以後の世界を生きるにあたって個人の仕事や成長について書かれた本であり、英語で「再起動」を意味するRebootという言葉を使いながら、著者であるキム・ミギョンは"オンライン・コンタクト"(韓国では略して"オンタクト"と言うらしい。その名の通り、オンラインでの繋がりのこと)、あるいはもっとSNSを活用していくべきだとする"デジタル・トランスフォーメーション"、そして個人個人が上下関係にならない形の社会を目指す"インディペンデント・ワーカー"と言ったいくつかのキーワードを提唱し、個人個人が"消費者"ではなく"ナレッジ・メーカー"(knowledge maker)になることの重要性を説いた本なのだという。

「自分では苦しいとは気づいていなかった...」
 さらにボミはそう言って、数ヶ月前にこの本を読むまでは、自分がリアルな世界で生きづらさを抱えていたことを自覚していなかったのだと言った。だけど、キム・ミギョンの本を読み、彼女の理論に基づいてSNSを積極的に利用することで、ボミは今や毎週のようにオンラインで勉強会やミーティング、はたまたプレゼンテーションまでするグループや仲間を持つようになったのだ言う。

「それは、友達なの?」
 私がそう聞くと、ボミはノーと言った。「あの人たちのプライベートを私は知らないし、彼らも私のプライベートは知らないからね」と。
「だけど、それで良いのよ」

 ボミによると、韓国の教会で出会う人たちは「チャーチ・メイト」、公園で子供同士を遊ばせる時に会う人々は「プレイグループ・メイト」であり、大切なのは自分の興味や役割ごとに関係性を分散させることなのだと言う。ましてや、コロナウィルスをきっかけに、より多くの人々がzoomやSNSを使うようになった時代である。今こそ、私たちは軽やかに、しなやかに、その広いデジタルの海で新しい形のチームワークを見出す時なのだという。

「それで、一番簡単なのはInstagramよ」と、ボミは教えてくれた。彼女はInstagramのハッシュタグで"self development"や"Reboot"といったキーワードをたぐり、彼女の興味とマッチする同志を探し出して、勉強会を呼びかけたのだと言う。
「合わなければ、また新しくそこで探せば良いからね」
 ボミはそう付け加えた。実際、彼女は現在毎週集まっているとあるグループのメンバーとの会話がストレスに感じることがあったようで、「このグループはもう終了しようと思っているの」とクールに言った。

 数ヶ月前、「セイコは友達が多くて羨ましい」と寂しそうに言ったボミの姿が私の脳裏をよぎらないこともなかったけれど、今の彼女は古い関係性の中で思い悩む私とは対照的に、なんだかたくましくパワーアップしたかのようだった。もちろん、それがベストな関係性なのかどうかについては、私には分からなかった。だけどこの日、幸せそうにキム・ミギョンのRebootについて語るボミは、コロナウィルスをきっかけとして確実に、新しい何かに向かって自身を再起動させたようにも見えたのだった。

新たなはじまり

8月6日
 新学期が9月から始まるアメリカでは、夏休み期間の6月から9月にかけてが引越しシーズンである。とりわけ月末には大量の引越しトラックがそこら中を走り回り、道路の脇では不要になった家具が大小様々にゴロゴロと捨て置かれるので、この時期にはそうやって捨てられたそれらの家具を今度はせっせと自分たちの家へ持ち帰ろうとする新規入居者たちの姿を見かけることもよくあった。
 かくゆう私たちも、2年前のこの引っ越しシーズンにマディソンに戻ってきた新参者たちだった。2年前、私たちが居を構えたのは、先の滞在時に暮らした時と同じ地区にある古いアパートであり、アジア人が多く住み、バスの便もよい "シェボイガンアヴェニュー"と呼ばれる地区だった。ここに立ち並ぶアパートはどれも一様に古めかしかったけれど、この辺りに住む人たちは誰もが立地の良いこのシェボイガンアヴェニューを愛しているようだったし、少なくとも私はこの長閑なシェボイガンが大好きだった。ダウンタウンからは少し離れているものの、アパートのすぐ裏には広々とした公園があり、近くにはショッピングモールがあり、そして何よりもこのアメリカ生活で1番最初に覚えた単語である"シェボイガンアヴェニュー"という言葉の響きが好きだったのである。
 だけどそんな思い入れのあるシェボイガンアヴェニューで迎える待ちに待った五度目の夏、私たちはついにこの地区を離れることに決めた。私のこれまでの人生で、いつも節目節目に呪いのようについてまわる"引越し"であった。

 数えればこれが結婚して8度目、人生では13度目となる"引っ越し"だった。ただ今回は2年前のように国を跨ぐわけではなく、引っ越し先はシェボイガンアヴェニューからたった1キロほどしか離れていない場所である。これまでの引越しの経験値と、その引っ越しのたびに少なくなっていった荷物の量を鑑みれば、アメリカでの引越しとはいえ業者の世話になどなる必要はなかった。トラック一台借りれればあとは自分たちで十分である。しかもそのトラックが引越しの前日に突然何の連絡もなく一方的にキャンセルされてしまったとしても、私たちはもはやそんなことで動じるような器でもなくなっていた。
 速やかに全ての家具をシェボイガンアベニューのアパートの駐車場に移動させ、オーナーにトラックが突然キャンセルされたことで何日か駐車場に荷物を置かせて欲しいとお願いすると、そこから粛々と自分たちの車を使って荷物を運び込むことになった。何度も車でシェボイガンアヴェニューと新しいアパートを往復し、同時に荷物を片っ端からほどき、段ボールを捨て、子供にご飯を食べさせ、ついでに突然トラックをキャンセルした上に電話もメールも無視を決め込んだ悪徳業者への低い評価をネット上で書き込むと、夕方にはほぼ全てが完了するという手際の良さである。それから「引越し祝いに」と、寿司の出前も注文し、私たちはあっという間に晴れてアイスクリームショップと小さな公共図書館に隣接した新しいアパートでの新しい2年間のスタートを切ることができたのだった。

 ところで、シェボイガンアヴェニューでのこの2年間は、かえすがえす惨めな2年間だった。もちろん楽しいこともあったけれど、やはり思い返すと極貧であるということの不安と苦しみの思いが優っていた。
 2年前、白井くんの大学のTAの給料と貯金だけでやっていこうと決めてマディソンに戻った時、この2年間を生き抜くことは離れ業のように無謀なことのように見えたが、事実、目の前にはクリアしなければならない課題がいくつもあって、そのための生活は全て、金銭的にあまりにもギリギリだった。フードパントリーに足繁く通い、教会の無料のご飯を家族で食べ、バスカードを隣に住む学生にねだり、血を売りたいと思う時もあった。無料でご飯を食べられるイベントだと思って出向いたら、マシュマロしか出てこなかった時もあった。「若い頃の苦労は買ってでも」という言葉を信じてやってみたものの、やっぱり心が荒んだような気がすることもあった。ここには書けない無茶なことをした日もいっぱいあった。

 だから結局のところ、この2年間の経験から私が身をもって学んだことといえば、「お金はないよりあった方がいいな」という身も蓋もない現実だった。先行きのわからないまま貯金を切り崩す生活はやはり、居心地の良いものとは言えなかったからである。それから自分自身のちっぽけな虚栄心、煩悩や欲望と戦い抜くことは想像以上に過酷なことでもあり、私はひたすらに、この2年が無事に過ぎゆくことだけを祈っていた。もちろん、たくさんの素晴らしい出来事もあったけれど、だけどどうしても、手放しで「お金がなくても幸せだ」という高みには至らなかったのである。たった一つ、「この二年間をやり遂げたい」という初期の強い思いだけが私たちの全てだった。

 引越しの日、不要になったダイニングテーブルと椅子を道に捨て置くと、数時間ほどでそれらはシェボイガンアヴェニューの誰かの家に引き取られたようだった。2年前に近所のパニカから譲ってもらった破れたソファもこの機会に一緒に捨てた。これからは自分達が気に入ったソファを買うくらいには余裕のある暮らしが望めるようになるのである。2年間、家族3人、貯めてきた貯金総額の半分を失った。だけどこの日をもってこの不安定な生活は終わったのである。夢を抱き、想定していた乗り越えるべき課題の全てをクリアし、荒波を乗り越え、溺れそうになりながらやっと、私達はこの日、なんとか無事に岸へとたどり着いたのだった。

BLM

6月22日
 先月のメモリアルデー(5月25日)にミネアポリスで起こったジョージ・フロイドに関する一連の事件をはじめて目にした時、私はすぐにこれは大変なことが起こってしまったと感じた。8分間、無残にも無抵抗の人間が警察によって殺されていく映像は、ミネアポリスに住んでいなくても、あるいは黒人でなかったとしても、人として私の心を深く傷つけるのには十分だったし、時間を追うごとにこの不条理に対する人々の怒りが拡散され、ミネアポリスの街が最終的に"文字通り炎上"したときには、私はそれによって(世界中で暴動が激化する以前は)ある種、ジョージ・フロイドの死が浮かばれたような、多くの人がこの当たり前の怒りに立ち上がったことにまだどこか救いを見たような気がしたものだった。
 
 というのも、この出来事が起こる前からずっと、私はアメリカ人というのは差別や偏見に対してとても注意深く、日本人と比較にならないくらいその意識やモラルが高いとも思っていた。日本でよく聞く「女性だからこうしなければいけない」あるいは「男性はこうあるべき」といった発言は、むしろこちらでは差別的だと驚かれることが多かったし、アメリカでは年齢や外見で人を判断しないように、就職活動の際に写真を添付することや生年月日を問うことを禁じていたからである。
 一度「日本で缶ビールをそのまま飲もうとしたら、その場にいた男性に女の子なんだからコップを使いなさいと怒られたことがある」と話したときも、その場にいたアメリカ人が全員「なぜ?」と眉をひそめたことがあった。また「姦しい」という漢字について、その構成が「女が三人で'うるさい'」のだと説明した時も、友人のトレイスは「面白いね」と言いながらも、「もちろんその成り立ちの意味自体が必ずしも正しいとは限らないけれど」と言い添えることを忘れなかった。「女だからうるさい」というロジックは、彼にとっては「同意できるものではない」という意思表示だったのである。
「なぜ、女性好みの味(あるいは男性好みの味)というものが日本にはあるのか?それは性差別ではないのか?」あるいは「なぜ日本で生まれ育ったのに外国人だと言われる人たちがいるのか?」...。
 日本で疑問に思うことのなかった発言や言動が、ときにこちらでは差別的だと言われることがあるたびに、私はいつも自分がいかに差別や偏見というものに対して注意深く生きてこなかったかを思い知るとともに、アメリカ人の意識の高さに驚くことが多かったのである。

 だから、ジョージ・フロイドの事件が起こったとき、そしてその後、燃えさかるミネアポリスの街を、あるいはマディソンのダウンタウンで起きたデモや暴動を目にしたとき、真っ先に私の頭を過ぎったのは、「これが日本だったらどうだっただろうか?」ということだった。日本だったら、同じくらい多くの人々がマイノリティーのためにここまで立ち上がることがあっただろうか?と。

 メモリアルデーから三日と経たずに、ミネアポリスで、アメリカ全土で、そしてマディソンで、多くの人が怒りをあらわに抗議に立ち上がった。「コロナウィルスなんだからデモをするな」と大々的に言う人はいなかった。そんなことを気にかける発言をできるような雰囲気ではなかった。
 こうした出来事があった後、一度、友人のアレックスが「アメリカでは警察は白人を守るためものだ」と教えてくれたことがあった。彼は白人だったけれど、高校生の頃、黒人の友人と夜間、警察官に呼び止められ「お前はこのニガーと友達なのか?気を付けろよ、お前もトラブルに巻き込まれるぞ」と注意を受けたことがあったのだという。
「黒人は夜は出歩けないよ」
 アレックスはそう教えてくれた。「もし夜、家の周りに黒人が立っていたら、それだけで誰かが必ず通報するからね」と。

 そしてそれは事実だった。あの日以降、拡散される情報の多くが、黒人差別の実態を生々しく伝えていたし、これはもう誤魔化しようのないアメリカという国のもう一つの真実のようだった。だけど一方で、同じくらい、多くの人々がジョージ・フロイドのために、正義のために立ち上がったことも疑う余地のない事実だった。
 マディソンのメインストリートでも夜間暴動が起こった。多くの店やショーウィンドウが破壊され、すぐに通り中の店という店にベニヤ板がバリケードのように張られるようになった。『この店のオーナーはマイノリティです』と免罪符のように張り紙を貼って暴動を免れようとしている店もあった。しかし、そうした暴動は批判的な世論の高まりとともにすぐに終息に向かった。そしてそのかわり、バリケードとして店中に張られていた板という板にたくさんの美しいペインティングが施されるようになった。もちろん、それらは全てBLM(Black Lives Matter)に関連したアートだった。

 街を歩けばそこら中で、BLM、I can't breatheの文字を、あるいはジョージ・フロイドのポートレイトを見かけるようになった。「変わらなければいけない」「Silence is violence (沈黙は暴力)」...。どこを歩いていてもこうした言葉が道に溢れ、人々の心を捕らえた。もちろん、ある意味ではそれは"落書き"に違いなかった。でも誰もそれに対して怪訝な顔などしなかった。多くの人が正義のために、アメリカに住むマイノリティのために団結し、祈っていた。だけど、日本だったらどうだっただろうか?
 初夏のメインストリートに咲き乱れるBLMのアートを眺めながら、私の心はふと、遠く離れた祖国へと向かわずにはいられなかった。