エメラルドグリーンの向こうへ

1月13日

 日本人留学生のアヤナちゃんの帰国が迫っていた。二十歳のアヤナちゃんはまだ世界がコロナウィルスのコの字も知らなかった頃に半年間、私がかつて通っていた語学学校に通っていた若い日本人学生だった。彼女はその後一度は日本に帰国したが、やはりもう一度マディソンで語学の勉強をしたいと思い、再び、パンデミックが始まる直前に二度目の語学留学を開始し、この度コロナウィルス終息の目処の立たぬ中、一年の留学期間を終えて日本に戻る予定となっていた。
 「あんまり何も変わらなかったですよ」
 自分で染めたと言うエメラルドグリーンと金髪のグラデーションの髪の毛を時々かき上げながら、一度目の留学とパンデミック後の二度目留学の違いについて尋ねた私に、アヤナちゃんはあっけらかんとそう答えた。
 「あ、でも私、コロナウィルスになっちゃいましたけど」
 そう言って、アヤナちゃんは一枚の集合写真を携帯電話で見せながら、「この二人が遊んで、次の日にこの二人が遊びに行って、そしたらこの二人が飲みに行って...」と、丁寧に去年留学生用の寮内で起こったクラスターの感染経路を私に教えてくれた。それから初めてタトゥーを入れた、と嬉しそうに言うと、アメリカでの留学生活はとても楽しかったと笑みをこぼすのだった。
 すごいなあ...
 一回り以上も下の女の子の留学体験を聴きながら、私はつい、羨望の言葉を漏らしてしまった。何を隠そう、私もずっとアヤナちゃんのように、髪の毛を派手に染めたり、タトゥーを入れてみたいと思い続けてきた36歳である。でも踏み切れなかったのは、私の中にはもうずっと日本的な固定観念や古い価値観が染み付いているからだった。
 「だから日本って嫌なんですよね」
 私の話を聞いてアヤナちゃんは顔をしかめた。
 
 ところで、海外留学の経験中に思い切ってタトゥーを入れた若い女の子を私はもう一人知っていた。あるいは自分の性的マイノリティを留学先でオープンにする子、飲酒を禁じられた祖国の宗教的タブーを犯す子、ドラッグを試す子...良くも悪くも、私が時折目にするそうした若い留学生たちの振り切れた行動には、若さゆえにそれまでの価値観を易々と飛び越える柔軟性と、新しい文化を吸収しようとする強い探究心に溢れていて、私の目にはいつも眩しく映ることがあった。こと、ものの価値観が外見に現れると言う意味では、彼らの外見的変化は歳をとってから海外に赴任などで来た人たちよりも遥かに顕著だったし、そうした若者たちが既存の価値観をあっけなく打ち破る行動の多くが、祖国では難しくてもアメリカと言う場所でなら受け入れてもらえるのだ言う空気感に後押しされているようにも思えた。

 中国人の友人のメンディも、アメリカでの五年以上に渡る滞在を経て僅かながら外見的変化を遂げた友人の一人だった。彼女は明らかにアメリカに来てから自分は太ったのだと言ったが、自分はそれいいと思っているし、もうすこし太ってもいいとさえ思っていると言ったことがあった。アメリカの女性が体格の大きな人が多いのも要因だったが、肌を焼き、女性も男性のように筋肉質に鍛え抜くと言う美意識を持つ人々を見ているうちに、中国にいた頃の自分はすこし痩せ過ぎで貧相だったと思うようになったと言った。

 かくいう私もまた、エメラルドグリーンの髪の毛こそまだ手に入れてはなかったものの、当初マディソンに来た頃「受け入れ難い」と感じていたアメリカ人学生たちの"レギンス一枚履き"のスタイルというものを取り入れた人間でもあった。足の形のみならず、お尻の形までくっきりと出るレギンス一枚だけというファッションは、何年か前に白井くんと一緒に「なんとみっともない...」と酷評したはずだったのだが、今では嬉々としてなんの抵抗も感じずに履くようになっていたのである。
 レギンスだけではない。鼻の両穴の真ん中に施すセプタムというピアスをしている若者が多いことにも、昔は仰天して「牛のようだ」と陰口を叩いたものだったけれど、セプタムもノストリル(片方の鼻の穴にするピアス)も最近はなんだか可愛いし、かっこいいと心から思えるようにもなっていた。
 もちろん、アメリカ人の女の子たちが腕毛をボーボーに生やしていることも、私にとってはもう驚くことではなかった。なんなら、「女の子だから毛を処理しなくてはいけないというのはおかしい」という主義のもと、脇毛を剃らないクールな女の子たちを見かけることもあった。日本人の彼氏がいる韓国人の女の子が一度、その彼氏に腕の毛を剃って欲しいと言われたことに対して激怒していたことがあったが、私はそういうことをお願いする日本人の男の子の気持ちもわかりつつ、今ではそれに腹を立てる韓国人の女の子の気持ちも分かるようになっていた。
 脇毛も腕毛もタトゥーもレギンスも、ド派手なヘアスタイルだって、アメリカでは社会的にマイナスとされる要因には何一つならないのである。

 かくしてこの四年以上のアメリカ滞在は、私を"お尻の形が丸見えでみっともないと思っていたレギンススタイルを履いて闊歩する"という形で変化させていた。あともう少し滞在すれば、私もタトゥーを施して髪の毛を染め、見事な脇毛を生やすようになるだろうか?アヤナちゃんのエメラルドグリーンの髪の毛を見ながら、私はそんなことを考えていた。