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2005年01月 アーカイブ

2005年01月02日

ふられ歌のヘビーローテーションについて考える

12月31日

 体調があまりよろしくないせいか、半端ではない喉の乾き方がする。
 仕事納めの大掃除のときに職場に届いたお歳暮のモンカフェ1箱をもらってきたので、大量のカフェ・オレを作っては飲んで作っては飲んで、ということを5回以上繰り返しているのにまだ喉が乾くし、異様に眠い。何でだろう。
 内田先生には、前に「年内にもう1回日記を送ります」というメールを送ったにもかかわらず、まだ日記が書けていない。申し訳ありません。

 紅白歌合戦を見てみたけれ。」ども、例年になくぜんぜん知らない曲ばかりが歌われるので日テレの細木数子の番組やTBSの「Dynamaite!」などとチャンネルをザッピングしながら見る。
 ジョン・健・ヌッツオの「新選組!のテーマ」と松平健の「マツケンサンバ㈼」は見逃すことができなかったのでこの2つだけはちゃんと聞いたけれど、他はどうなんだろう。
 全部が全部というわけではないけれど、今年ヒットした曲が無いのに無理やり出ているという人が目立ったような気がして仕方がない。その辺りは所属事務所の大人の事情がいろいろと絡んでいるのでしょうけど、今年一年を振り返るのに、歌われる曲が聞いたこともない曲(あるいは別に今年を代表しない曲)というのは妙な感じだとは思いつつも、歌が世代を超えて人の心に残るような力を持たなくなってしまった今はこれくらいの内容でも精一杯なんだろうか。
 ていうか、今年「モーニング娘。」は全曲ヒットしていないんじゃないかと。
 何はともあれ、椎間板ヘルニアを押して紅白出場したジョン・健・ヌッツオには惜しみない拍手を送りたい。「声量が足りない」とか「歌詞間違えたんじゃないの」とか非難する人がいるかもしれないけれども、そんなことは関係ないのだ。

こんな風にして、一年が終わる。
   

12月30日

 ようやく年賀状を全部書き終えて朝一で出してきた。ふう。
 今日はNHKの「あなたのアンコール」という番組内で「新選組!」出演者の座談会が放映されるということなので、それを見る。
 さらに、第33回「友の死」も見る。
 オンエアされるのが今年で4回目で、自分が録画したビデオも最低3回は見ていて、さらに総集編でも山南さんの切腹は相当時間を時間を取って放映したので、今年一年で山南さんの切腹を見るのはいったい何回目なのかしらという感じだけれども(数えてみたら、オンエアを4回中2回見て、ビデオを3回見て、総集編で1回見たから6回目かな)、でもやはり見ると泣けてしまう。
 今回は、前川邸の格子窓のところで山南さんと恋人の明里が今生の別れで、やはり少し涙腺にきてしまった。
 「友の死」が最初に放映されたときはちょうど夏合宿に言っている最中で、その時はまだそれほど「新選組!」に対して入れ込んではいなかったけれどもこれを見てから猛烈に「新選組!」にはまりこんでしまった。
 会津にも行ってきたし、お芝居にも行ってきた。
 そして今、わたくしのマシンの壁紙はまりりんたんからもらってきた土方歳三画像になっている。
 ひとつのドラマにここまではまり込んでしまうとは、1年前のわたくしにはまったく想像もつかないことだったと思う。
でも、この一年は本当に楽しくすごせたと思う。「新選組!」のおかげで。

12月29日

 ようやく仕事納め。まだちょっと鬱状態が入っている。
 わたくしが仕事を溜めてしまっていたとはいえ、年末ギリギリまで仕事をしていなくてはいけなくなったとはけっこう悲惨な状態だ。
 外を見ると、えらいこと大粒の牡丹雪が大量に降ってきている。
 そしてひどく寒い。
 スマトラ島の自身の被害者の数は、眠って起きる度に爆発的な増加を見せている。
 今最新の数字では被害者の数は7万8000人?らしい。
 でも、アフリカで村ごと津波に飲まれて消えてしまったとか、インド領アンダマン・ニコバル諸島で島ごと津波に飲まれてしまったとかという話も聞こえてくるので、この数は年が明けるころにはまだまだ増えていくのだろうと思う。
 不幸中の幸い、というかちょっとだけ良い話というのはモルディブ諸島では日本のODAで作られた防波壁のおかげで死者の数が今のところ2桁程度に収まっているらしい。
 日本のODAというのは無駄遣いの固まりであるかのように報道されているけれども、たまには役に立っていることもあるのかということを知る。もっとODAによってどんな援助がなされて実際に役に立っているのか、立っていないのかということもきちんと知りたいと思った。
 さて、まだ書いていない年賀状を書かなくてはいけない。

12月25日

 まあいいや。気を取り直すことにしよう。
 今日はまりりんたんのお誕生日祝い、ということなので新宿の朝日カルチャーセンターのある三角なビルで中華料理をいただくことにする。
 ビルの50階なので夜景がものすごく綺麗。
 そういえば最近ずっと忙しかったまーべらすちゃんとは久しぶりの再会になる。
 話題は例によって「新選組!」関連の話と、まりりんたんが最近別れてきた果てしなくけちな人の話と、その他いろいろ。
 いろいろあったはずなのだけれども、紹興酒で少し悪酔いしてしまったせいか忘れてしまった。
 後半は何故か、日本人がクリスマスプレゼントに使う平均的な金額の話になってしまった。
 2ちゃんねるでちょっとだけ読んだスレッドの内容によると、20歳から45歳までの日本人が他人へのクリスマスプレゼントに費やす金額の平均は1万円、らしい。
 それが高いのか安いのか、ということでまりりんたんとまーべらすちゃんは随分と議論していた。
 わたくしはあんまりクリスマスに異性からプレゼントをもらったという経験がないのでよく分からないけれど、どうなんでしょうねえ。
 そのあと、二次会で「ペンギンのいる居酒屋」にカラオケにいくというので、いったい何のことなんだろうと思ってついていったら、本当に居酒屋に水槽があってそこにペンギンが飼われていた。
 びっくりだな、これは。  

12月24日

 前から気になっていたけれども、この時期になるとヘビーローテーションで流される山下達郎の「クリスマス・イブ」もワム!の「ラストクリスマス」も歌詞だけ聞くと相当悲惨なクリスマスの歌であるのに、どうして好んで流されるのだろう。
 「クリスマス・イブ」の歌詞は、「きっと君は来ない〜♪一人きりのクリスマスイブ〜♪」というものであるし、「ラストクリスマス」も去年のクリスマスの後に振られてしまったという内容だ。
 世間で作成されているクリスマスソングは、一人きりで悲惨なクリスマスだという歌よりも、ラブラブな人とラブラブなクリスマスを過ごす事が出来て幸せです☆というような歌のほうが数的には多いはずなのに、「クリスマス・イブ」や「ラストクリスマス」がクリスマスの定番ソングとして定着したのは何故なんだろう。。。そんなことをまるケーキを一人で食べながら考えてみた。

 あと、どこかで聞いた話なのだけれど、このクリスマス〜年末という時期はホステスさんの自殺率が最も高くなる時期らしい。まあ確かに、この時期を一人で過ごす寂しさと比較したらほかの時期のそれというのは全然平気なものだったりするからなあ。。。と。
 嫌味を書くのはこれくらいにしておこう。
 来年はちゃんと大切な人とクリスマス・イブを過ごせるように最善の努力を尽くしたい。
 
12月21日

 月窓寺の納会に行ってきた。
 抽選で、図書券が当たった。
 多田先生から頂いた図書券で漫画本や「新選組!」の役者さん関連の記事が掲載されているTV雑誌などを購入してしまうのは非常に心苦しいので、来年早々にちくまプリマー新書から発売されるという 「先生はえらい」を買うことにしよう。
 その他、何かむかつくことがあったような気がしたけれども、もう忘れてしまった。 

 

2005年01月09日

ご縁についておよび2005年世相予言

1月8日

 「努力すれば必ず報われる」という言葉は良く聞くものであるけれども、必ずしもそうではない。
 特に恋愛などでは、どんなに努力したとしても相手あってのものだから追っかければ追っかけるほど相手が逃げていくということもある。
 そんなことを「ココリコミラクルタイプ」の「怖い女特集」を見て思った、と書かれていたブログを見てわたくしも少し反省した。
 恋愛だけではなくて、就職活動もそうだったなと思う。いくらこちらが努力したところで努力したところを見せようとすればするほど相手が引いてしまうということは良くある話だった。
 そのような場所で良く使われる言葉は「縁」で、自分の努力とは無関係なところで「縁」が繋がらなかったり、あるいは全く予想もしなかったところで「縁」がつながってしまうこともある。
 何かと「縁」をつなげようとする努力が全く無駄だというわけではない。ただ、「縁」というのは自分の努力とは無関係なところでつながったり切れてしまったりするということだ。

 そして、つながる見込みが非常に薄そうだったり既に切れてしまった「縁」に対してはあきらめたり見切りをつけたり、ということを行う必要性が発生する。
 このあたりは「努力すれば必ず報われる」という思想と全く相反するところであるけれども、全く気の無い相手の気持ちを何かの圧力で変えようとしたりだとか、自分の能力を認めていない会社に何とか入社しようとする努力は、穴の空いたバケツに水を貯めようとしたり全く利益の上がらない事業に多大の資金と労力を費やすことに似ている。要するに全くの無意味に終わるということだったりする。
 で、「縁」を自分の側に呼び込むにはどうにもならないものには見切りをつけて、自分の身の回りをきちんとして心正しく生活をしながら一般的に「機」と呼ばれるものを待つしかないことになっているらしい。
 もちろん「どうしても諦めることの出来ない思い」というのも存在する。それをどう処理するかはいま自分の行っている努力が報われる可能性がどのくらいあるのかということを冷静な目で見つめてみたりだとか、自分の胸に手を当てて良く考えてみたりだとか、周りの状況をじーっと観察してみたりしたりだとかして、努力を投資することを続けていくべきか断腸の思いできっぱりと諦めるべきかを決断してどちらかお好きな方法で処理すれば良いだろうと思う。

 自分にも粘着な部分があるので、この文章はある意味での自戒を含めながら書いている。

しかしある場面では「負けず嫌い」「粘り強い」と賞賛される性質が、別の場面では「粘着」「あきらめが悪い」として他人の嘲笑となるそのことの理不尽さを感じながら人の運命を左右する「縁」の力に思いを巡らせている。 
 さて、来週はちゃんと寝坊しないで起きられるようにしよう。

1月6日

 昨年の12月から何となく体調がよろしくないなあ、と思っていていたけれど、今日お風呂に入って老廃物落としを敢行したら、「ああこれでは体調が悪くなるのも当然だなあ」と思うほどの老廃物が出た。無意味に体重が重いのも老廃物が溜まっているせいか。落とさなくてはなあ。

1月5日

 OSをWindowsXPにアップグレードしようとしたけれど、マシンのBIOSやデバイスが対応していないのでインストールできないことが分かったので激しく鬱になる。
 あーあーあ。買う前にきちんと調べておけばよかったのに。とは思っても後の祭だ。
 1万3000円が激しくもったいないではないか。 
 しょうがないので、Windows98のセカンドエディションか2000を探してみたけれども、もう店頭での発売はしていないとのこと。
 あとはネットオークションで探すしかないらしい。
 OSを探すか、それともいっそのことDVDドライブとTVチューナー付きのマシンを買ってしまうか、ADSLを引いてしまうか、どれにしよう。
 いまのマシンには特におかしいところはなく(ダイヤルアップをする際に電話線を繋ぐところのジャックが破損しているくらい)文章もこうして問題無く書けるけれど、BIOSやデバイスなどが対応していないとかそういう部分で古いことにされてしまうというのが何となく悔しい。
  とりあえず、家のマシンをネットにつなぐことは当分お預けみたいだ。
 AirH"からでも、2ちゃんねるやたいていのBLOGは何とか読むことが出来るけれども、内田先生の書いた文章や自分の書いた文章を読もうとすると化け化けに化けているというのと、AirH"の小さな画面から長時間見ていると見ていると目が痛くなるというのだけが辛い。
 (でも近日中に何とかするので対策は必要ありませぬ。)
 ネットにつなげないので、日記でも大量に書いておく。 

1月3日

 スマトラ沖地震の続報を知りたいと思ってTVをあちこちザッピングするけれども、どこの局もお正月用特別ドラマやバラエティばかりを放映していて肝心のスマトラ沖地震の続報を伝えるニュースはほんの少ししかない。バラエティとバラエティとの合間に、日本人の死者が21人であることくらいを伝えているだけだ。
 仕方が無いのでAirH"から2ちゃんねるのニュース速報を見る。 
 去年の30日に海外に出ている日本人で現在連絡が取れていない人が百数十人とも数百人とも言われて言われていたのだけれども、その事がニュースではまったく伝えられることも無くテレビではお正月番組が流されている。CNNやBBCでは9.11の時と同じような量でスマトラ沖地震の被害状況を伝えていて、街が丸ごと一つ壊滅した状況や欧米人のツーリストの行方不明者が約6600人存在していることを報道しているらしい。

この嫌な感じは何なのだろうか。
今まででも、野中弘務元代議士が辞任する直前に秘書が収賄で逮捕された事件が一切大手の新聞やテレビに出てこなかった(時事通信社が伝えてごく僅かの地方新聞に掲載されただけだった)時などはマスコミの報道はどこかで重要な検閲がかかっていて本当に重要な情報は国民に知らされることはないのではないか、などと思ってしまった。年末に皇室で慶事の発表もあり、お正月特番を潰したくないテレビ局の事情もあるのでしょう。しかし、こうして特番のバラエティ番組を眺めながらネットに繋いでニュースの続報を見ていると、マスメディアの情報の信頼度が微妙に揺らいでしまう。
 
もちろん現時点ではTVがメディアとして圧倒的な力を持っていることは否定しない。しかし、TVで放映されていることと自分の感覚が捉えていることにかなりの差異が生じたときに「このメディアが伝えていることはこのまま鵜呑みにして受け入れて良いものだろうか???」というような感じになってしまうことと、より自分の感覚に近い現実を扱う情報がネットという手段を通して流通してしまうことは避けられない流れなのだろうな、と思う。
 

1月2日

初詣に行って、その後に後楽園SpaLaQuaに行って温泉につかる。
低温サウナに入りながら、「ハリー・ポッターと賢者の石」の原書でも読んでおこうかなと思ったけれど、疲労が溜まっていたせいか寝てしまった。 


1月1日

いろいろとマシンに文章を打ち込んでいたり調べものをしたりいているうちに年が明ける。
昨年は、個人的には「新選組!」を見たり堺さんの追っかけをしたりしてけっこう楽しく過ごすことができたけれど、日本の国、あるいは日本社会という視点で見た場合には、地震や台風などの災害をはじめとしていろいろと大変な事が起こった年になってしまった。

さて、今年はどうなるんだろう。

去年1年間に起こったことを振り返ってみてみると(ただし天災は考察してもどうしようもないので除く)、「1、戦後日本社会を支えていたシステムがそろそろ本格的に綻び始めた」「2、日本社会を構成している弱い環が暴発し始めた」「3、インターネットの普及によって情報の流れ方や権力の居場所が変わり始めた」ということが言えるのかな、と思う。
 例えば、「球界再編」という出来事は1と3との複合体なのだろう。
 多くのサラリーマンな人々が準拠集団としていたプロ野球球団は、観客の減少と選手の年俸の高騰によって経営統合・身売りを余儀なくされ、その空いた穴は新興のIT企業によって運営される球団によって埋められることになったのではないかと。
 「幼女誘拐」や「旧おれおれ詐欺、現振り込め詐欺」、「インターネットで参加者を募集した練炭による集団自殺」というのはおそらく2番。
 長期に渡る不況の影響をまともに受けてNEETや無職や引き篭もりにならざるを得なかった人々が手っ取り早く現金を得ようとして手当たり次第に電話をかけたり、自分よりもさらに弱いものである幼女に性欲込みの鬱憤をぶつけているのではないだろうかと思われる。
 
で、今年起こることを考えてみる。

 20世紀までならどこかで確実に揉み消されるはずであった、組織やあるシステムの存亡に関わる重大な情報が表に出やすくなっているということから考えると今年も何かどこかの大企業かお役所かそれに準ずるような組織がまた不祥事を起こして大変なことになるだろう。
変わらない権力を持つ、と思われていたものでも大きな岩が1年間で10cmずつ動くかのようにその力を喪失していく。それが具体的にここだ、と指摘できれば良いのですがこればかりは何とも。去年のお正月の時点では某ナベツネ氏が巨人軍のオーナーを辞任するような事態になるとは誰も思っていなかったですし。某「あの国」や某「あの団体」が、その組織のトップを欠いた場合に順調に権力委譲が行われるかといったら当然そうではなくて組織そのものの解体をもたらすか組織が維持できたとしても混乱状態をもたらすことになってしまうだろう。
 
NEETに転落してしまう人、というのも増える要因ばかりあって減る要因はほとんど無いので幼女誘拐も、振り込め詐欺も、自殺も昨年に引き続き増えるだろう。
そしてこれらについては、さらに進化した形態(幼女だけではなく男子児童も誘拐の対象になるとか、何らかの方法で騙され易かったり気が弱かったりする人をスクリーニングした名簿が作成され、それを元に新手の詐欺が行われるとか、金持ちの老人をターゲットにした組織的犯罪であるとか)が出てくるかもしれない。

あと、ITによって情報の流れ方が変わったこと、特にマスメディアの側から流れる情報だけが価値を持つのでは無くそこら辺の人々が発信する情報も有用な情報として扱われるようになったこと、を利用した新たな動きというのも当然出てくるだろう。それが何なのかが分かれば、ベンチャー企業の株でも買って大儲けが可能なのだけれども、今のところはまだよく分からない。けれども重大な動きが必ずこの2、3年の間に起こってくる。

そう言えば去年1年間に起こったことには「4、性欲を始めとして自分の欲望のタガが外れっぱなしな人々が増えてきて大変なことになった」ということもあった。(ミラーマンこと植草元早稲田大学教授が女子高生のスカートの中身を手鏡で覗いた事やその他いろいろあった。)今年もそういう事件は嫌というほど耳にしそうなので、せめてわたくしだけでも十分にお稽古をして自分の欲望が統御できるように、あるいは基地外の人に遭遇した場合でも正しい対応が取れるようにしておかなくてはいけない、と切実に思った。 

年の初めなので2005年の予言もどきを書いてみました。
今年もよろしくお願いいたします。
 
  
  

2005年01月17日

2005年の予想(承前)

1月15日

この2週間のうちに少しだけ賢くなった部分があるので、2005年の予言に追加というか、補足を少し入れてみます。

・「会社」の寿命と限界が明らかになってくるかも

 医学の発展や栄養状況の改善、ということで人間の寿命はどんどん長くなる方向で推移しているけれど、会社だったりその他組織の寿命は機械化やらIT化やらで成長と衰退のサイクルの回転がやけに早まってしまったために急激に短くなる方向で推移している。ということで最近一人の人間が生涯のうちで労働可能な年数よりも組織の寿命が短くなってしまっているようなのです。
 ということなので、一部の公共的な色彩の強い組織を除く多くの組織では実質的に終身雇用を実現することはもう無理らしい。
 これに対して大半の人が「はいそうですか。」と答えて転職市場でも高い値がつく資格や技術の習得に努めたり、農業をしたりあるいは株式投資の技術に磨きをかけたりして自分で事業を起こしたりして会社に頼らない生き方をすればよいのですが、多くのサラリーマンは終身雇用を前提として自らを社畜と化し、組織内の無駄な政治的な闘争に明け暮れることを仕事と錯覚しながら生きているのだから、さてどうなるんだろう。
 30歳以下限定で話を進めると、他人の作った会社に入るよりも自分で会社を作る方が徐々にメジャーになるのではないかと、そんなことを思ってしまうのです。「厳しい就職戦線を勝ち抜いて入社したのに、上の世代の仕事の出来ない人の尻拭いをするために大量のサービス残業をさせられるし、その割にはお給料に反映されてないし、金銭面以外での扱いも良くなくてセクハラやパワハラも普通にあるし、自分が徹夜してお仕事しているのに周りの人は9時から定時までだらだらして平然と帰っているし、もしかして自分の置かれている立場というのは封建社会で貴族に死ぬほど搾取されている農奴や、産業革命時に資本家から死ぬほど搾取されていた労働者とほとんど同じではないか???」というような感想をあちこちで聞いてしまっているので。現在の多くの若いサラリーマンというのは往々にして上の世代のあまり仕事をしない人の給料を稼ぎ出すために凄まじい量の仕事をこなすことを強いられているというのも一面の真実、らしいです。

・そろそろIT革命の次の波がやってくるかも
 
 MicrosoftやDELLが高収益を上げている、googleの株価時価総額が5兆7000億円あるらしい、などと言われているけれども、この辺りの会社はあくまでITにおける「道具」を作ってきた会社である。次に必ずこれらの道具をどう使ってお金儲けをするか、という第2の波がやってくるらしい。
(ここら辺は全部ピーター・ドラッカーの受け売りなのですが。しかしこの人は現在95歳?なのに未だに現役の経営学者だったりする。凄い。)
 で、90年代に経済の覇権が製造業を極めた日本からITの第一の波に上手に乗ることの出来たアメリカに移っていったように、ITをどう使うかという観点で発生する新たなイノベーションの波をうまく掴んだ国家なり会社なりが2000年代の後半の経済の覇権を握ることになるんじゃないかと思われるのでいろんな人が「さあ次は何がくるんでしょうかねえ」と知恵を巡らせている最中らしいです。
 わたくしも「何かないのか」といろいろ情報を拾い集めながら現在思案中なのです。

・「象牙の塔」の権威が無くなってくる

 で、ピーター・ドラッカーが言っていることの中に「重要な情報は組織の外部に存在する」というのがあるのですが、そのことを証明するような事例が少しずつ見られるようになってきたのではないかなと。で、具体例を挙げようとして度忘れしてしまった自分が凄く嫌なのですがこれもピーター・ドラッカー氏の本から借りてくると、「この10年で通信業界にもっとも重要な変化をもたらした発明品-光ファイバー-は通信業界の研究所や大学から生まれたものではなく、通信とは無縁の繊維業界から生まれた」などということがあるらしいです。確か6個あるうちの5番目のクォークか109番目の元素かのどちらかも専門外の研究をしている人によって偶然発見されたというニュースを大昔に聞いたことがあるのですが、詳細は忘れてしまいました。
 ちょっと昔までは「象牙の塔」というと、そこには俗世間の人々には触れられないような叡智が存在するというどちらかと言えば良い感じのイメージが強かったように思われるのです。しかし、現在こんな風にして情報化が進んで社会全体が生み出す情報の量が爆発的に増加している状況では自らの仕事・研究に重大な影響力をもたらす情報や発明や出来事は自分の属している組織の外からもたらされる可能性が高くなってきたのではないかと。
 そういうような状況で「象牙の塔」を気取って俗世間から交渉を絶って、仲間内でのヘゲモニー争いに明け暮れていたり自分が世の中で一番賢いと自惚れていたりいるうちに、「象牙の塔」の中の住人が一番知識や情報から隔離されてしまっていたということに成りかねなくて怖いなあ、と思ってしまったりするのです。

 
・NEETは増える、しかも減る要因は全くない


日本社会を構成する要員のうち、最も弱い環を形成するNEETは現在「不況の元凶」と名指しされたりして良識ある人々から非難轟々だったりするのです。高学歴かつ精神を病んでしまってかつNEETであると周りから「多額の学費をかけたのに何ににもならないなんて、駄目人間だ。精神を病んでいるというのも仮病なんだろう」というような酷い言われ方をするので、人生の全てに悲観して練炭を焚いて静かにこの世から消えてしまおうと思う人が多いのもわからない話ではない。
(さらに練炭で死んでしまう人々についても非難をする人が少なくないというのもけっこう酷い話だなあと思ってしまうのです。一人の人間が死を決断するまでには、相当いろいろと本人なりに悩んだり苦しんだりしているのですが。)
 しかし、NEETというのは日本の社会と日本の企業が歪んでいる事の煽りを受けて大量に作り出されてしまっているということを忘れてはいけないのではないかと。昨日か一昨日くらいに、「来春の就職内定率が75.6%」という記事が載っていたのですが、この数字は途中で就職活動をリタイヤして公務員試験や大学院進学に切り替えたりした人、大学の就職化に自分の状況を報告していない人を分母から外しているので、東大の文系で50%をちょっと上回るくらい、早稲田・慶応でも50%を切るくらいだというのがより実感に近い数字だと言われていたりするわけです。
 企業側の論理としては「不況であるから人を雇えない」という部分が当然あるのですが、不況であることを理由に定期的に大量の新卒を採用する形から、専門的な職種は経験者の中途採用で、取替え可能であるような単純作業は派遣社員を入れて、将来的に会社の中枢を担うことになるような一部の社員のみを正社員として採用するような形にいつのまにか変わってしまっている(しかもこの変化は不況の続く日本だけではなく、世界的に社員の構成が正社員から派遣社員やアウトソーシングその他へとシフトしてしまっている)わけなのです。ということなので企業側にとって望ましい属性を持つような人間はすんなり採用されるのであるけれども、そうでない人間は落ちこぼされてしまう可能性が高い。
 で今年以降も職にあぶれた人間はどんどんNEETになってしまうんだろうと予測できるのです。
 これに、1回は就職したけれどもそこで挫折してNEETになったという人も加わってくる。
 NEETを何とかする方策、というのは簡単には出てこないけれども自分がNEETになるリスクを少なくするためには「自分自身の存在が資本主義社会では『商品』として認識されていること」「社会人になってからは、どれだけお金を稼ぐことが出来るかによって評価されること」ときちんと把握しておくことが重要かなと思ったりするわけです。自分自身でも書いていて嫌になるのですが。
 この5年くらいは理系の学部や、文系でも実学っぽい学部の人気が高い状態が続くというのも、仕方の無いことなのかもしれません。

 少しだけ注釈を入れるつもりだったのに、お正月に書いた文章よりも長くなってしまいました。
 現在おうちのマシンのOSのインストールに失敗したのでちょっと鬱入ってます。。。はい。 

1月13日

 今日はやらなくてはいけない仕事があるのに、扁桃腺が痛んでしょうがない。
 扁桃腺が痛むのは風邪の前兆で、明日から高熱を発してしまうんだなあ、、、と思う。
 「お正月だから」「お休みだから」ということで自分に言い訳をして不摂生な生活を続けていたツケが出てきてしまったようだ。規則正しくてきちんとお稽古もする真っ当な生活に戻さないと。 

1月9日

 とりあえず、今日は第7回大日本ビール党党大会に行ってくることにする。
 新宿ロフトプラスワンに行く前に、紀伊国屋書店の本店に立ち寄って「言語と文学」を探してみたのだけれども、見つからない。
 まあ確かに書名も、出版社名もきちんと覚えていかなかったので、仕方がないか。
 新宿ロフトプラスワンに着いた時にはもう6時をまわってしまっていた。
 ものすごく面白いオープニングビデオを見ながらまったりと過ごす。
 前々回はあまり近くの人などと話すことが出来なかったけれども、今回は周りのお兄さんともいろいろ話してみたりする。場所の問題か。 
 このあと大量のビールを消費してしまったので詳しいことは良く覚えていないけれども、木村剛に関するものすごくオフレコな話や、電車男に関するものすごくオフレコな話を聞いたことは覚えている。
 あと、最後の抽選会で、運良く???ものすごく面白いオープニングビデオを当ててしまった。
 しかし、この時に新しいハンドルネームをきちんと考えていなかったため、けったいな名前をつけられてしまったのでちょっと困った。
 このあとは場所を変えて徹夜で2次会に行ったけど、眠かった。
 隣にテレビ局勤務の方がいらっしゃったので、モー娘。などの裏話を伺ったことはかすかに覚えているけれど、大半は寝てしまったなあ。徹夜、というのはやっぱり苦手だ。
 さて、ものすごく面白いオープニングビデオをアップロードして多くの人々に見てもらえるようにするように頼まれたので、その方法を調べないといけないなあとも思う。 
 

2005年01月23日

言説戦略の変化について考える

1月22日

 今度堺さんが主演する舞台「お父さんの恋」の先行予約を全部外してしまったので、10:00から約30分間必死につながらない電話をかけつづけていたけれども、結局チケットを取ることは出来なかった。鬱だ。
 それから気を取り直して家のマシンを何とかネットにつなげようといろいろと試してみたけれども、マシンのポートのドライバを正常にインストールすることが出来ず、結局今日もネットへつなぐことが出来なかった。
 自棄になったのでふて寝をして、それから駅前のスーパーでハーゲンダッツのアイスクリームを買ってきてやけ食いをした。むかつく。

1月20日 
 

最近ホームページの「お気に入り」に加えた田口ランディさんのブログを読んで少し思った。
 ほんのちょっと前まで、世間で評価される文章は上野千鶴子、あるいはM台S司のようにクリアカットな論理構造と主張を持つものであった。
 それらは、今から議論において絶対に負けないということを目的としたように思える。
 特に社会学やその周辺の関連では、議論や批判の淘汰を受けてそれに勝ち残ったものだけが正しい論説であるという考え方が根強いので、議論において負けない、批判した相手を叩き潰すことの出来る論説というのが人々に支持されてきたように思える。

 しかし、ネットワークの普及と他の何か別の要因によって人々から支持される文章というのがいわゆる「不敗の思想」から別のものにへと変化した。(と少なくともわたくしには感じられる。)
 それは「腑に落ちる言葉」ではないだろうか。
 ホームページやブログが一般の人々の間に普及したことによって、一日に生産されて世間に公表されるテキストの数はインターネットが普及する前と比較するとそれこそ本当に桁違いの量になっている。
 それだけの量のテキストが全て人々の目に触れて、話題になるということはない。
 まるで大量の砂粒から一粒の砂金を拾い出すかのように、人々は生産される膨大なテキストの中から自分にとって価値があると思われるものを注意深く拾い出して、自分のブラウザのブックマークに付け加える。
 その際にどんな言葉、どんな言説が価値あるものとして人々の目に留まるのかということを考えるとその響きが深く身体の奥底に響き渡るような言葉、胸に深く刺し傷を残すような言葉ではないだろうか。
 一日に大量の情報を入力して、出力して、また入力して、出力する…ということを繰り返していると脳は説得されるかもしれないけれども身体には何も響いてこないという論説はなかったものとして忘れ去られてしまう。
 そして身体に何かの影響を及ぼした言葉だけが、人々の記憶の中に刻まれることになる。
 
 半年くらい前にO野寺くんから、上野千鶴子の授業に出てたのだけれども2回目の講義の出席人数が初回の半分くらいになっていて、3回目の講義の出席人数が2回目の半分くらいになってしまっていたということを聞いた。
 おそらくこれも、人々の希求している言葉が「不敗の論理」から「腑に落ちる言葉」へと変化していることの一端なのだろう。
 多くのヒステリックな批判を受けながらも、田口ランディさんの文章や三砂ちずる先生の本が多くの人に読まれ、支持されているのはこの方々たちの言葉が「腑に落ちる言葉」であり、現在を生きる人々に激しく求められている言説であるからだ、と思う。
    
 そしてわたくしもブログを書いていくならば、人々の身体にまで届くように書いていかなくてはならないと感じる。でないと多くの人の目に留まることもないだろうから。

1月17日

 阪神大震災が発生してから今日で10年になる。
 わたくしは10年前の今日はまだ名古屋で高校生をやっていて、直接被害を体験したわけではない。
 なので、この時神戸で実際に被害に遭われた方々に申し訳なくて震災について何かを偉そうに語ることなど出来ない。
 しかし、1月に阪神大震災が発生して3月に地下鉄サリン事件が発生したあの騒がしい1995年から既に10年が経過してしまったのだということを思い返すとそれなりに感慨深いものがある。
 私はこの年の4月にある種の希望を抱いて上京してきた。
 しかしこの10年間というのは、日本社会全体にとっても私自身にとっても失われたものの多い10年間になってしまった。
 次の10年間も、失うものばかりが多い10年になってしまうのだろうか。
 それではあまりにもつまらない。

1月16日

 最近ちょっとついていないなあ、と思うことが重なっていて鬱になることこの上ない。
 今日もまた甲野先生の講習会に出席しようとして、更衣室で着替えをするためにかばんを開けたら胴着の上が入っていなかった。
 しょうがないので急いで家まで帰って胴着を取りに行ってすぐにまた神田まで戻る。
 ものすごく急いで移動したけれど、やはり30分ちょっとかかってしまう。
 再び戻ってきたときには19:00をちょっと回ってしまっていた。
 一応ホームページ上には「19:00以降の入場は認められません」と明記してあったので、ああ、もしかしたら入れてもらえないかもしれないなあ。と思いながらおそるおそる道場に行ったのだけれども、何とか入れてもらえた。
 着替えているひまもなかったので、道場の隅で正座をしながら甲野先生が講習会の参加者に対して新たに発見した技法の実践を行うのじっと見ていた。
 今回の講習会では、Tシャツにジャージという普通の服装をしている人に混じって、ロゴの一杯付いたブラジリアン柔術をやっているらしいお兄さんお姉さんが2、3人いて甲野先生に豪快に投げられていた。
 この、最近甲野先生が新たに発見された「三次立法」というものがどういうものかというのは良く分からない部分がある。けれど、体の一箇所に力を集中させて使うのではなく、体の縦軸と横軸を崩すことなくかつ細かく割った身体を同じスピードで動かすことによって凄まじい威力を出すことが出来るということは理解できた。
 去年の6月に神戸女学院の光岡先生の意拳講習会に参加した時は、そこで習った8種類の動きや站春功といったものが何を目的としているかということが良く分からなかった。(なのでその後あんまりちゃんとやらなかった。)
 しかし、最近ようやくこれらの動きが身体の動きの威力を最大限に高めるためのの訓練であることに気がついた。
 わたくしは思いっきり遅刻してきたし、着替えてもいなかったし、ということでずっと道場の隅で正座をしながら他の講習会の参加者の人々が甲野先生の新たに発見した術を体感しているのを眺めていたのだけれども、運良く甲野先生に質問をする機会を得たときに実際に「三次立法」を体感することができた。
 非常に月並みな言い方をすると「50歳を超えているとは思えないほどの凄まじい威力」なのであるけれども、わたくしが1年ちょっと前に甲野先生の講習会に行ってその際に新しい術理を体感したときよりも桁違いに威力が増してきているのであり、「武術というのは、思っていたよりも奥の深いものだったんだなあ」と改めて認識させられることになった。 

2005年01月31日

「新撰組!」余沢

1月30日

今日は大分精神状態が回復してきたので、入浴してから池袋にお買い物に行く。
洋服も買い揃えたいし、(もう過ぎてしまったけど)まーべらすちゃんのお誕生日プレゼントの品も探す必要があるし、ということで。
最初にまぐろ丼を食べてからその後池袋ジュンク堂に行って演劇雑誌をチェックして、その後無印良品に入る。お洋服を異様な安さで売っていたので、下着2枚とスカート系1680円を購入する。
その後池袋西武の婦人服売り場を見るだけでも見ようかな、と思って一回りほど回ってみたらコートを4000円、パンツを2000円で売っていたので試着して即購入する。
安い。
素材もそんなに悪くないものが安値で売られていて買う方のわたくしはうれしいけれど、売る方の人はたまったものではないだろうな。デフレも遂にここまで進行してしまったのか。
で、その後ビックカメラに行って加湿器にどんなものがあるかを見に行ったけれども店員さんが大家族な人7〜8人くらいにずっと加湿器の説明をしていて、それが一向に終わる気配がないので家に帰ってしまった。本当はお洋服を家に置いてから再度渋谷のビックカメラに行こうと思っていたけれど、そのまま寝てしまった。
(まーべらすちゃんすみませぬ。でも来週ちゃんと買ってきますので。今度会うときに必ず持っていきます。そういえば最近人生に焼肉が足りないので焼肉でも食べに行きましょう。)

家に帰ってきて起きてからTVをつけてみると、中村七之助逮捕のニュースを見てひどく驚く。
自分だってお父さんだって、これから非常に重要な時期であるのに、何というまぬけことを。。。
事件の発生した当日は、中村勘太郎の主演の舞台「走れメルス」の千秋楽の日だった。
2ちゃんねるにあった見に行った人のレポートによると事件の影響など感じさせない素晴らしい演技だったというけれども、弟の逮捕のニュースを耳にして、どんな気持ちで楽日の舞台に立っていったんだろう。
その気持ちを考えると、何か非常につらい。

1月29日

朝起きたけれども、気が付かないうちに体が瘴気で汚染されているらしくて布団から起き上がることさえ出来ない。
いろいろと行かなくてはいけないなあと思うことがいろいろあったのだけれど結局今日は一日中家の中にいてじっとしていることにした。

1月24日

 朝にTVをつけていたら、中村勘九郎の十八代中村勘三郎襲名に伴う浅草での御練りの中継をやっていた。で、そこで20代前半の女子2名が手を振っている映像が映し出されているのをコメンテーターの人が見て、「随分若い人にも中村勘九郎さんのファンの方がいるんですね」とものすごく怪訝な顔をしてコメントをしていたので、一言だけ書いておこうと思った。

 20代前半の女子2名は中村勘九郎のファンではなく、おそらく「新選組!」の藤堂平助役を見てから中村勘太郎のファンになった人間ではないかと思う。数的な割合は決して多くはないけれども、けっこう熱狂的であると思われるファンが中村勘太郎についている。
 会津若松市に「風雅堂」という定員1500人くらいのホールがあって、そこは出来てから一度も満席になるほど人が入ったということは無かったのだけれども、去年の7月に堺さんと中村勘太郎のトークショーが行われたときに初めて満席になったので、会津若松市民の間では未だに伝説として語り継がれていると、わたくしが会津に行ったときに地元の人から聞いてきた。
 これはあくまで推測でしかないのだけれども、集まった1500人のうち、7割は堺さんのファンで残りの3割が中村勘太郎のファンだったのではないかな、と思う。それでも450人の女子どもをわざわざ会津まで呼び寄せることが出来たのだからけっこう凄いことだ。

 最近のいろいろな記事によると、「新選組!」が大河ドラマ史上に残る傑作であっては困る人々がいるらしいのでこういうことがあまり取り上げられなくても仕方が無いと思うようになった。
 でも、韓流ブームの一環でよくわからない(かつ微妙な)韓国のタレントさんに追っかけがついているニュースを目にする度に「新選組!」に出演していた俳優さんもすごい人気なのだから、少しは取り上げてほしい、、、と思ってしまう。

1月23日

久しぶりの多田塾講習会。
久しぶりのお稽古。
なので、インターネットカフェでちょっと作業をしてから本部道場に向かう。
ちょっとわくわくしてくる。
今年初めて会う人には「明けましておめでとうございます」と声をかける。
内田先生の姿は見えないけれども、ドクター佐藤とウッキーさんの姿が見える。

今回の講習会では、呼吸法と足捌きにかける時間の割合が多く、それぞれを一時間ずつ行う。
最近はちゃんとお稽古に行くことが少なくなっているので、一応家でも呼吸法と足捌きは行っているけれども、大勢の人間と一緒に行う呼吸というのは格別のものがある。
それは、多くの人の呼吸に同調することによって自分の中にさらに力が漲ってくるという感覚だ。
諸般のもろもろの事情によって心に邪悪なものや何かを破壊したいという瘴気が浮かぶことが多いけれども、呼吸を行っているときには自分の神経が研ぎ澄まされて、波紋一つさえ起こっていない静謐な湖の水面のように安定しているという感じを得ることが出来る。
このような精神状態を、呼吸法を行っている時だけではなく本当は普段の生活を送っているときでも24時間持続していられることが本当は望ましい。人の精神を乱そうと試みる邪悪な意志をもった人種と向かい合ったとしても、自分の精神は呼吸法を行っている時と同じように絶対的な安定を崩すことの無いというように。
そして今の私には精神を絶対的に安定させることが必要とされている。
何かに強く囚われてしまうこと、自分の主体性を失って相手のやる事なす事に振り回されてしまうこと、両方とも武道を志す人間にとってあってはならないことである。と多田先生は講義の中で重点をおいて繰り返し繰り返し説かれている。このことを多田先生が繰り返し繰り返し説かれている理由、というのを最近私はようやく解りかけてきた。何かにとらわれている人間には、そこに避けようのない致命的な「隙」が生じてしまうからだ。しかし私はまだ完全にいかなる場合でも自分の主体性を維持することが可能であるとはあるとは言えない。でも近いうちに必ず完全にしなくてはいけない。そう思う。

呼吸法と足捌きの後には、二人掛け(通常の受け手の2人が諸手取りで取り手の腕をとるバージョンと、受け手の一人が両手を取りもう一人が取り手の肩を後ろから取るバージョン)と太刀取りを行って、その後杖を4、5回振って最後に座技を行って終わる。本部道場の広さの割には相当の人数がいるので、はっきり言ってものすごく危ない。受けを取っている他の人とぶつかったのも一度や二度ではなかったような記憶がある。でも、技を行っているうちになんだか妙に楽しくなってしまって「あははははー」と思いながら投げたり飛んだりする。これが武道を行うことの本質的な楽しさなのかもしれない、などと思ったりした。
 

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