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「新撰組!」余沢

1月30日

今日は大分精神状態が回復してきたので、入浴してから池袋にお買い物に行く。
洋服も買い揃えたいし、(もう過ぎてしまったけど)まーべらすちゃんのお誕生日プレゼントの品も探す必要があるし、ということで。
最初にまぐろ丼を食べてからその後池袋ジュンク堂に行って演劇雑誌をチェックして、その後無印良品に入る。お洋服を異様な安さで売っていたので、下着2枚とスカート系1680円を購入する。
その後池袋西武の婦人服売り場を見るだけでも見ようかな、と思って一回りほど回ってみたらコートを4000円、パンツを2000円で売っていたので試着して即購入する。
安い。
素材もそんなに悪くないものが安値で売られていて買う方のわたくしはうれしいけれど、売る方の人はたまったものではないだろうな。デフレも遂にここまで進行してしまったのか。
で、その後ビックカメラに行って加湿器にどんなものがあるかを見に行ったけれども店員さんが大家族な人7〜8人くらいにずっと加湿器の説明をしていて、それが一向に終わる気配がないので家に帰ってしまった。本当はお洋服を家に置いてから再度渋谷のビックカメラに行こうと思っていたけれど、そのまま寝てしまった。
(まーべらすちゃんすみませぬ。でも来週ちゃんと買ってきますので。今度会うときに必ず持っていきます。そういえば最近人生に焼肉が足りないので焼肉でも食べに行きましょう。)

家に帰ってきて起きてからTVをつけてみると、中村七之助逮捕のニュースを見てひどく驚く。
自分だってお父さんだって、これから非常に重要な時期であるのに、何というまぬけことを。。。
事件の発生した当日は、中村勘太郎の主演の舞台「走れメルス」の千秋楽の日だった。
2ちゃんねるにあった見に行った人のレポートによると事件の影響など感じさせない素晴らしい演技だったというけれども、弟の逮捕のニュースを耳にして、どんな気持ちで楽日の舞台に立っていったんだろう。
その気持ちを考えると、何か非常につらい。

1月29日

朝起きたけれども、気が付かないうちに体が瘴気で汚染されているらしくて布団から起き上がることさえ出来ない。
いろいろと行かなくてはいけないなあと思うことがいろいろあったのだけれど結局今日は一日中家の中にいてじっとしていることにした。

1月24日

 朝にTVをつけていたら、中村勘九郎の十八代中村勘三郎襲名に伴う浅草での御練りの中継をやっていた。で、そこで20代前半の女子2名が手を振っている映像が映し出されているのをコメンテーターの人が見て、「随分若い人にも中村勘九郎さんのファンの方がいるんですね」とものすごく怪訝な顔をしてコメントをしていたので、一言だけ書いておこうと思った。

 20代前半の女子2名は中村勘九郎のファンではなく、おそらく「新選組!」の藤堂平助役を見てから中村勘太郎のファンになった人間ではないかと思う。数的な割合は決して多くはないけれども、けっこう熱狂的であると思われるファンが中村勘太郎についている。
 会津若松市に「風雅堂」という定員1500人くらいのホールがあって、そこは出来てから一度も満席になるほど人が入ったということは無かったのだけれども、去年の7月に堺さんと中村勘太郎のトークショーが行われたときに初めて満席になったので、会津若松市民の間では未だに伝説として語り継がれていると、わたくしが会津に行ったときに地元の人から聞いてきた。
 これはあくまで推測でしかないのだけれども、集まった1500人のうち、7割は堺さんのファンで残りの3割が中村勘太郎のファンだったのではないかな、と思う。それでも450人の女子どもをわざわざ会津まで呼び寄せることが出来たのだからけっこう凄いことだ。

 最近のいろいろな記事によると、「新選組!」が大河ドラマ史上に残る傑作であっては困る人々がいるらしいのでこういうことがあまり取り上げられなくても仕方が無いと思うようになった。
 でも、韓流ブームの一環でよくわからない(かつ微妙な)韓国のタレントさんに追っかけがついているニュースを目にする度に「新選組!」に出演していた俳優さんもすごい人気なのだから、少しは取り上げてほしい、、、と思ってしまう。

1月23日

久しぶりの多田塾講習会。
久しぶりのお稽古。
なので、インターネットカフェでちょっと作業をしてから本部道場に向かう。
ちょっとわくわくしてくる。
今年初めて会う人には「明けましておめでとうございます」と声をかける。
内田先生の姿は見えないけれども、ドクター佐藤とウッキーさんの姿が見える。

今回の講習会では、呼吸法と足捌きにかける時間の割合が多く、それぞれを一時間ずつ行う。
最近はちゃんとお稽古に行くことが少なくなっているので、一応家でも呼吸法と足捌きは行っているけれども、大勢の人間と一緒に行う呼吸というのは格別のものがある。
それは、多くの人の呼吸に同調することによって自分の中にさらに力が漲ってくるという感覚だ。
諸般のもろもろの事情によって心に邪悪なものや何かを破壊したいという瘴気が浮かぶことが多いけれども、呼吸を行っているときには自分の神経が研ぎ澄まされて、波紋一つさえ起こっていない静謐な湖の水面のように安定しているという感じを得ることが出来る。
このような精神状態を、呼吸法を行っている時だけではなく本当は普段の生活を送っているときでも24時間持続していられることが本当は望ましい。人の精神を乱そうと試みる邪悪な意志をもった人種と向かい合ったとしても、自分の精神は呼吸法を行っている時と同じように絶対的な安定を崩すことの無いというように。
そして今の私には精神を絶対的に安定させることが必要とされている。
何かに強く囚われてしまうこと、自分の主体性を失って相手のやる事なす事に振り回されてしまうこと、両方とも武道を志す人間にとってあってはならないことである。と多田先生は講義の中で重点をおいて繰り返し繰り返し説かれている。このことを多田先生が繰り返し繰り返し説かれている理由、というのを最近私はようやく解りかけてきた。何かにとらわれている人間には、そこに避けようのない致命的な「隙」が生じてしまうからだ。しかし私はまだ完全にいかなる場合でも自分の主体性を維持することが可能であるとはあるとは言えない。でも近いうちに必ず完全にしなくてはいけない。そう思う。

呼吸法と足捌きの後には、二人掛け(通常の受け手の2人が諸手取りで取り手の腕をとるバージョンと、受け手の一人が両手を取りもう一人が取り手の肩を後ろから取るバージョン)と太刀取りを行って、その後杖を4、5回振って最後に座技を行って終わる。本部道場の広さの割には相当の人数がいるので、はっきり言ってものすごく危ない。受けを取っている他の人とぶつかったのも一度や二度ではなかったような記憶がある。でも、技を行っているうちになんだか妙に楽しくなってしまって「あははははー」と思いながら投げたり飛んだりする。これが武道を行うことの本質的な楽しさなのかもしれない、などと思ったりした。
 

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2005年01月31日 09:57に投稿されたエントリーのページです。

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