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   <title>Ｑ伝ミカのＯＬ武芸帳</title>
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   <title>「武士道というは、死ぬことと見つけたり」</title>
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   <summary>８月２０日 夏合宿の２日目。 朝起きたけれども、やはり異様に暑い。 「何だこれは...</summary>
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      ８月２０日

夏合宿の２日目。
朝起きたけれども、やはり異様に暑い。
「何だこれは」と思うほど暑い。
早朝のお稽古では呼吸法をいろいろ行い。朝食後のお稽古では正面打ちの技をいろいろ行う。
やはり今日も少し動くだけで暑くなってくる。
日曜日の午後からは恒例の審査・・・なのだけれども、３級審査・１級審査・初段審査とあまりにも人数が多かったため全ての審査を見ることができずに泣く泣く帰ってきた。
つっちーの３段審査と、Ｋ和田氏とＫ藤氏の４段審査は是非とも見たかったのですが。。。


８月１９日

夏合宿に行く。
荷物をまとめて、杖と木剣を持って、上越新幹線に乗って越後湯沢まで行く。
既にこの時点で、移動しているだけで暑い。
越後湯沢に着いて、迎えに来てくださった宿の方のマイクロバスを探す。
宿の方が「女性の方が後３人」いらっしゃいますと言っていたので、後輩のOGの誰かなのだろうと思い試験勉強などをして時間をたらたら潰していると、今は苗字が「Ｋ藤」になってしまったまっすーと、Ｋ谷さんとＩ嶋さんと一緒に、多田先生も一緒にいらっしゃったので、突如として緊張して背筋が伸びる。
そこから宿まで多田先生の隣に座らせて頂いたが、緊張していて何か話したいことがあったはずだけれども、何も話すことができずに終わってしまった。
それからオムライスを食べて、午後のお稽古。
午後のお稽古は諸手取りを中心にいろいろな技を行ったけれども、これまでに経験したことがないくらい異常に暑かった。
お稽古が始まって３０分くらいたって、髪の毛の立っている昨年の主将のＩ藤くんなどを相手に入身投げなどをやっている最中に、「これはやばい。根性が足りなくて気持ち悪くなったのではなくて本当に熱中症かもしれない」と思い、急いで外に出て頭から水をかぶる。
暑さにやられたのはわたくしだけではなくて、他の人もかなりのダメージを受けているみたいなので、多田先生も途中で体術のお稽古を切り上げ、気の感応のお稽古や杖のお稽古に切り替える。
もう大量にお水を飲んでいるのだけれども、飲んだ後からすぐに汗になって体外に排出されるという感じ。

ごはんを食べた後に、多田先生のお話。
今回は、高橋重敏氏が「新武道」に寄稿された「鍛錬に極みなし」のプリントを元にいろいろとお話をされる。
この「鍛錬に極みなし」という文章は、第二次世界大戦中の最中に、一切の武道の教授を止めて茨城県の岩間に隠棲した植芝先生を高橋氏が訪問した際のことが書かれている。
植芝先生がどうして一切の武道の教授を止めて茨城県の岩間に隠棲したのか。という理由は、「武道は敵を倒すのに最も効果的な武道であるので、他の武道の教授を止めて合気道のみを教えることにしたい」という軍部の要請に対して「合気道は人を殺すための道具では無い！」と激怒されたことがきっかけである。
その事から「心法の道」（社会的に要請される人間の育成の道）と「心学の道」（「世界」と個人との結びつきを強化し、世界の真理や命の源を探究する道）が時に相反する事があるということを仰られる。
今の時代は、第二次世界大戦中と同様に「心学の道」が非常に軽視されているという懸念から、このようなお話をされたのだろうと個人的になんとなく思った。

それと、最後に多田先生は「武士道というは、死ぬことと見つけたり」という「葉隠」の一節の意味について説明してくださった。
ここに書かれている「死ぬ」というのは実際に死ぬということではない。。
「死ぬ」のは個人の矮小な自我や欲望であり、重要な選択をする際には、自分の利益となる選択ではなく真の道を選択するということが武士としての生き方なのだ。というのがこの言葉に込められた意味だのだそうだ。

８月１５日

まりりんたんと一緒に舞台「噂の男」を見に行く。
わたくしは一昨年の大河ドラマ「新選組！」を見て以来、ずっと堺雅人さんのファンだった。
（ちなみにまりりんたんは一昨年の大河ドラマ「新選組！」を見て以来、ずっと山本耕史氏のファンだ。）
なので、堺さんが出演するお芝居があると聞いて、チケット購入希望者が殺到する中何とか２人分のチケットを手に入れて今日の日を迎えたけれども、、、お芝居を見終わった後はものすごくイヤーな気分になってしまった。
おそらく演出のケラリーノ・サンドロビッチ氏が見終わった後ものすごくイヤーな気分になるような演出を行ったのだろうけれども、「８０００円出してチケットを買ったのに見終わった後ものすごくイヤーな気分になるのはちょっと嫌だ」と思ってしまうのは、お芝居を見る修行がまだまだ足りないのだろうか。


８月５日

毎年恒例のものを燃やす会を実施。
今回はわたくしのお誕生日祝いも兼ねるということで、アイスクリームのケーキとシャンパンも用意しておく。
ケーキを買ったときに「ロウソクは何本必要ですか？」と聞かれたので、自棄になって「３０本お願いします。」と答えた。
そのローソクを気合でケーキの外周に立てて、全部のローソクに火をつけて、それから「Happy 
Biethday」を歌って、一気に吹き消した。
「自分が大人になったときには、こういうことをやっているような大人になっているとは思わなかったな。。。」という思いが少し頭をよぎったけれども、それでもけっこう楽しいような。
その後、ローソンで買った品々やすてきまん氏が持ってきて下さった餃子と珍しい焼酎などを飲みながらいろいろ話した後、ものを豪快に燃やす。
「ものを燃やすということはどうしてこんなに楽しいのだろう」とみんなで言っていたけれども、ものを燃やしていると自分の中の何かがすっきりしていくので、こんなことを書くと人々にドン引きのだろうなと思うけれど、やはり楽しい。


７月２９日

朝日カルチャーセンターで内田先生と釈先生の対談「現代霊性論」を聞きにいく。
３月の内田先生と平川克美氏の対談の時には、職場の引越しとお仕事の忙しい時期が重なってしまって、思わずして日時を間違って記憶してしまい聞くことができなかったので、今回はものすごく楽しみにしていた。
しかし当日になってみると非常に調子が悪く、何かしようとしても普段かかる時間の２、３倍はかかる。
それでも何とか新宿の住友ビルにたどり着いた時にはすでに対談が始まっていて、内田先生がＵＦＯを見たというお話をなさっていた。
それから、わたくしが覚えている限りでは、

・何故今「現代霊性論」という題で何かを語ろうとしたのか。
・ネタばれ厳禁であるが、「スーパーマン・リターンズ」でスーパーマンは実は○○○○である。
・「嫌われ松子の一生」は日本人の心の琴線に触れる霊的な映画である。なぜなら前編が既に亡くなった「松子」の語りという構成になっているからだ。
・最近の人々の死者に対する扱いがひどくなっている。お棺に入っている仏様の写真を携帯カメラの写メールで撮影する人もいるし、釈先生が「お骨はどうしましょう」と尋ねると「宅急便で送っといてください」と答える人もいる。
・どうして「成人式で若者が荒れるのか」と疑問に思う人もいるが、それは現在の成人式がやるだけ無駄だからだ。成人式というのは、行う前と行った後で成人式を行った若者に対する周囲の扱いが「子供」から「大人」へと変化しないといけない。
・（上の話題に関連して）現在では人々が成長に伴って「改名する」という習慣も失われてしまった。
・（質問コーナーでの回答として）仏教には「薫習」という言葉がある。良い行いや良い言動を重ねていると何となく良い「本当の薫りではないけれども、何となく良い薫りのように感じられるもの」が体やその周囲に染み付いていき、悪い行いや悪い言動を重ねていくと「何となく悪い薫りのように感じられるもの」が体に染み付いていく。この「薫習」というものは本人が死んでも後々までずっと残る。

というような話題があった。
内田先生の公演を聴くのは久々のことでしたが、面白かったです。

７月２３日

何だかんだ言っていてもまた日記を書いていない。
「文章を書く」ということを欲する脳の部分が著しく退化してるいるらしいので、おうちのＣＤラックの中から「頭の回転が驚くほど速くなるＣＤ」を取り出して一通り聞いてみると、何となくちょっとましになったのかな？という気もしてくる。
今日は入浴した後、もう一度改めて「私家版・ユダヤ文化論」を読んでみる。
わたくしも加藤典洋氏と同様に、「なぜいまユダヤ文化が問題なのか、まぬけなわたくしにはよくわからなかった。」
しかしこうしてもう一度「私家版・ユダヤ文化論」を読み返してみると、この本には非常に重大なことが書かれているのだということが分かった。
ある種の知的負荷から逃れようとしたり、自分の存在していることに対する責任を免れようとする人々は、知的に愚鈍であることを選択し、自らの立ち位置を「子供」に設定する。
自分以外の人間から「恐れ」「憎しみ」「畏敬」の感情を向けられ、それを引き受けた人間は立ち位置が「大人」に設定される。
１９世紀〜２０世紀にかけて欧米で工業化・都市化が進み、そのことに対する様々な弊害が生じた時、反ユダヤ主義者となった人々はそれらの弊害を、全てユダヤ人によって引き起こされたものと考えた。
「１９世紀〜２０世紀にユダヤ人が非常に憎まれるようになった理由」というものが今までよく分からなかったけれども、工業化・都市化が進むことによって生じた負の現象が全て「ユダヤ人の陰謀」とされたのだということを知ると、この時期にシオニズム運動が盛んになったということの理由も腑に落ちるようになった。
今の世の中も現在進行形で情報化が進み、そのことによって大きな変革を迫られることになる。（そして情報化による弊害を最も大きく受けるのは日本だと予測されている。）
この「変化」に対して、「他者」に全ての責任をなすりつけるのであれば自らを知的に愚鈍である「子供」として自我を確立することになり、自分以外の人間から向けられた「恐れ」「憎しみ」「畏敬」の感情を引き受け、「変化する状況」に対して自分自身の選択によって何かをすることが可能であると捉えるならば、「大人」として成熟することが可能になる。
このことはきちんと心に留めておこうと思った。


７月１６日

日記を書くことを再開しようと思ったけれども、この１か月間いろいろなことが起こっていたので、なかなかおうちに帰ってからパソコンを立ち上げてテキストを打つような気分にもなれず、というような感じだった。
「時間的に余裕がない」というよりは「精神的に余裕がない」という感じで、普段ここに書いているような文章というのは、業務中に頭に浮かんだり外を歩いていたりするときに頭に浮かんだりしていたテキストを文章に起こしているのだけれども、書きたいことはあるのだけれども２週間近く全くテキストが頭に浮かんでこないという状態が続いていた。
日記を書くより、プライオリティの高いことがあったので仕方がない。
しかし、これからは少しずつでも文章は書き続けようと思う。


６月２４日

大宮合気道倶楽部のＳ田様の御好意で、お稽古に参加させていただく。
おうちから大宮までは「駅すぱあと」で検索したところ４０分強だったので、一時間くらい時間を見ておけば余裕かな？と思って１時間１５分前におうちを出かけて、とことこ出かけていったら乗り換え等や駅から道場までの歩きの部分で予想外に時間がかかってしまって、道場に到着したときにはすでに１５分ほど遅刻してしまった。
「どうしよう。これは申し訳ないことをしてしまった」と思ってものすごくあせったけれども、道場が広くて立派で、剣道場・弓道場なども含めていくつか道場が存在するため、どこでお稽古が行われているのかよくわからない。
さらに１０分ほど右往左往したところで、ようやく２階の道場で呼吸が行われているのを発見する。
「呼吸をやっている間は道場に入らない」というのがお約束なので扉の前でじっと待っていると、花香師範の奥様に声をかけて頂き、中に入れて頂く。
それから、呼吸をして、膝行をして、杖を振って、横面打ちの技をいろいろ行う。
一番の感想は、「道場が広い！」ということだった。
普段のお稽古では、どうしてもお稽古中に人とぶつかったり、杖を振っていると隣の人と杖がぶつかったりということが頻繁に起こってしまうけれども、普段お稽古で使用している駒場の第一体育館の柔道場と同じくらいの広さの場所を１０人前後で使っているので、思う存分投げたり杖を振ったりすることができた。
お稽古のあとに、Ｓ田様にライムサワーなどを奢って頂く。

本当にありがとうございました。
うつ病をこじらせたり袴を無くしたりした関係でしばらくご無沙汰することになってしまいましたが、またなにかありましたらよろしくお願い致します。


６月１８日

今日は久しぶりに本部道場に行って、合気道のお稽古をする。
しかし、お稽古があまりにも久しぶりであったのと、最近妙に身体が疲れやすかったということもあって、思うようには身体が動かない。
準備運動をしていても、足捌きをしていても「何というかいまいち体に粘りとキレが無いよなあ」と思ってしまう。
それに、「取り船」をしているうちにおなかの底から何やらけったいな気体のような物がぼわっと湧き上がってきて、その湧き上がってきた物を吐いてしまった。
そのけったいな気体のような物を吐いてしまった後は少し楽になった。
あれは何だったのだろう。
邪気の塊だったのだろうか。。。


６月１７日

棒茄子を収穫したこともあるので、パソコンを買うことにした。
いままではお友達のまーべらすちゃんから無期限貸与を受けていた東芝のＤＹＮＡＢＯＯＫを使用していたけれども、さすがにスペック的に微妙な感じになっていて、Skypeを使ってみようと思ってダウンロードしても使えなかったり、その他何か新しいソフトをダウンロードして動かしてみようと思っても使えなかったりしたので、さすがにもう少しスペックの高いマシンに買い換えることにした。
大昔はＳＯＮＹのＶＡＩＯを使用していたけれども、そのマシンは３４万円だった。
それに比べると、今回買ったemachinesのマシンは７万８千円だったのでかなり安くなっている。（ノートパソコンとデスクトップの違いはあるけれども）
おうちに帰って、配線を繋いでみるとやはり起動の速さが違う。
マシンが新しくなると、なんか嬉しい。
大切に使っていこうと思う。
      
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   <title>休業期間終了しました</title>
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   <published>2006-06-13T12:11:17Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:07Z</updated>
   
   <summary>６月１２日 ワールドカップ初戦は１対３で日本の負け。 何というか、日本代表の決定...</summary>
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      ６月１２日

ワールドカップ初戦は１対３で日本の負け。
何というか、日本代表の決定力不足＆詰めの甘さが表れたような感じ。
（私が見ていたのは最後の３０分でしたが）明らかにディフェンス陣に疲労の色が出始めた瞬間があって、そのあたりから脆くも崩れ始めた。というように見えた。


６月１１日

今週ずっとお腹を壊してしまった。
激しい下痢がずっと続いているので、お寿司くらいしか口にする事ができない。
そんな感じであるので、体力はガンガンと落ちている。
体力が落ちていると、文章が思ったように書けない。
土曜日の夜に買ってあった内田先生と甲野先生の新刊である「身体を通して時代を読む」を読んで、少し元気になる。
どこかでデジタルなものに囲まれた生活から身体的な生活に回帰する必要がある、と思っている。あるいは普段の生活に、手を使って物を作り、全身を使って何か作業をするということを取り入れていくことが必要なのだなあ、ということを思う。
都会で生活していると、あまり歩くこともなく、目と脳と指先だけを酷使しており、脳が電子の刺激に晒されつづけているという事に意外なほど気づかない。


６月４日

昨日は結局一日中お腹の調子が良くなくて一日中七転八倒していました。
しかし、このまま「お腹痛い。下痢が止まらない」とか言っていても仕方ないし、吉祥寺に行って月窓寺創立３０周年記念祝賀会にこっそり参加させて頂く。
１０：３０から会場の設定などの準備をして、
今回は申し込みが遅かった事もあり、演舞会は見ているだけにする。
演舞をするスペースがかなり狭そうだったので、人数が多いとかなり演舞がやりずらそうだ。という印象だった。
実際にサークルの人々が演舞しているのを見てみると、かなり狭そうだった。
とはいえ、他の人が演舞しているのを見ると自分もやりたくなってくる。
お稽古がしたい。と思いつつ最近はお稽古をしていない。
こんな事をここに書いているのであれば、お稽古をすればよいのですが。
多田先生の演舞や、その他各道場の方々の演舞に「おお」と感嘆した後、道場を立食パーティモードにセッティングして懇親会。
大量のお料理やミルフィーユなどを目にするけれども、お腹の調子が良くないのでお寿司くらいしか口にする事ができない。
とてももったいない。

６月１日

何か、日記を書こうとして書けないうちにもう６月になってしまった。
いろいろと、世の中で大きな動きが存在する事を感じる。


５月２８日

昨日のアルコールが完全に抜けていなかったので、起きた時にはけっこうギリギリの時間になっていて、ちょっと焦る。
急いで着替えて、東京メトロに乗って、本郷に向かう。
本郷についた時には、もう既に演舞会が始まる直前だったりした。
一般の人の邪魔にならないように座って、現役の人々が演舞するのを眺める。
正直言って、今の現役生の人々の演舞は、わたくしが現役だったときに比べるとはるかに上手だ。
自分の初段審査のビデオがまだ残っているかどうかは分からないけれども、もしもまだ残っているならそれを誰にも見られないように消去したくなってしまうような感じ。
こんな風に、合気道を始めてから２年から３年位の期間でかなりのレベルにまで達する。ということは普通はあんまりない。
しかし、「Ｋ錬会の至宝」Ｋ藤氏をはじめ、さまざまなＯＢ・ＯＧの人々の尽力によって、現役の人々が到達する合気道のレベルが飛躍的に向上した。
多田先生が説明演舞の中で仰っていた事も同様の事ではないかと思う。
あと今回は、内田先生の演舞を見る事ができた。
それも一つの収穫であったように思う。

演舞会が終わった後は、６代のＮ野氏や８代のＮ野氏といろいろ話をした後に本を探しに池袋に出かけた。


５月２７日

わたくしは現役の時には特にそんなに熱心にお稽古するタイプではなかったけれども、いつのまにか自分の中に「合気道」の占める割合が多くなっていた。
いろいろ何だかんだがあったけれども、また今年も武道館に足を運ぶ事にした。
今日はまるで梅雨にでもなったかのような雨が降り続いている。
しかし、大勢の人々の群れが九段下の坂を登っている。

実際のところ、３階の一番高いところの席からは演舞する人々は豆粒のようにしか見えない。
自分の演舞というのも、おそらく豆粒か小さな点のようにしか見えていないだろう、と思う。
それでも、５月の末には武道館で演舞をして、九段会館でビールを飲むということがいつの間にか自分の体の中に刷り込まれていた。
そんな事もあって、今年もまた武道館にやってきた。
そして、武道館の３階席で軽く食事をして、現役の人々の演舞を見て、それから着替えて、甲南合気会の皆様の演舞を見て、そして自分たちの出番になったので、武道館の５面ある畳のうち、赤い畳の上で演舞をする。
持ち時間は１分半であるので、何をしようとか何を見せようとかそんな事を考える暇もなく出番が終わる。
一応は、諸手取りの入り身投げとか、三教の裏とか、
それから着替えて、残りの演目と、多田先生の演舞を眺める。

演舞会が終わって、武道館の前で記念写真を撮影してからは九段会館へと移動。
例年ならば九段会館のビアガーデンで打ち上げであるけれども、今日はあいにく雨だったので２階の鳳凰の間で打ち上げ。
サークルの人々や大学で文化人類学を専攻しているファビオさんと、いろいろと話をする。

その後は、内田先生にものすごい早足で付いていって、神保町のお店で２次会をする。
「作為の無い悪意」と「悪意の無い作為」の違いについてや、Ｈ崎くんが飲み会の帰りに気がついたら横浜の中華街にいた話とか、内田先生が中央線で乗り過ごしてしまい、気がついたら「豊田」にいたので１万円を払ってタクシーで帰ってきた話とかをした。
そういえばＫ藤氏の「作為」については、５年前の春合宿の出来事のことをどうしても思い出してしまうけれども、ここには書くことができないので「そういえばああいう事があったなあ。あれからもう５年が経過したのか」と思い出すだけにしておく。

……長らく開店休業状態でしたが、またいろいろ少しずつ書いてみることにしました。
これからもどうぞよろしくお願いします。
      
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   <title>私にも紫の薔薇の人</title>
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   <published>2006-02-12T05:52:54Z</published>
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   <summary>２月１０日 地面に穴を掘って「王様の耳ーはー、ローバーのみみー。」とこっそり叫ん...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nagaya.tatsuru.com/mika/">
      <![CDATA[２月１０日

地面に穴を掘って「王様の耳ーはー、ローバーのみみー。」とこっそり叫んでた人の気持ちや、「私は貝になりたい」と呟いたフランキー堺の役の人の気持ちが最近どうしてもよく分かってしまう。


２月７日

秋篠宮紀子妃殿下がご懐妊された、とのニュース。
このお子様の存在が、衰退相を示している日本の未来の一筋の希望の光になるかどうか。。。


２月４日

約１か月ぶりにお稽古に行く。
しばらくお稽古を休んでいたら、下半身の動きがちょっと鈍くなっているらしく、膝行で前に進む時や座り技をするときに少し違和感を感じる。ちゃんとお稽古をしなくては。
その後に渋谷ブックファーストに行って、最近の新刊本や新書を確認する。


２月３日

節分。
仕事が終わった後に、コンビニで海鮮恵方巻を、スーパーで豆まき用の豆と恵方巻をもう１本買ってくる。
ここ数年の間に「節分の日には、その年の恵方の方角を向いて無言のまま太巻き寿司を１本食べると、１年間無病息災になる」という習慣が全国区で広まったように思うけれども、この習慣が日本全国に広まったのはコンビニの力が大きいのではないか、と思う。
豆まき、というのは一人暮らしの人間が一人で行おうとするとどうにも様にはならない。（でもわたくしは１人で「鬼はーーそとーー。」と呟きながら玄関先に向かってピスタチオを撒きましたが。。。）
その後に、今年の恵方である南南東の方角を向きながら、恵方巻を２本無言で食べきって今年一年の無病息災を願うことにする。
でも今気がついた。恵方巻２本は明らかに食べ過ぎだ。


１月２８日

新潮文庫から田口ランディさんの「馬鹿な男ほど愛おしい」という本が発売されていて、そこに「愛しの紫のバラの人」というエッセイが収録されている。
少し長いけれども、後半の重要な部分を引用しようと思う。
<I>どうしても、私がよろめいてしまうタイプの男が、なんと今だに少女漫画の世界に存在してしまったのである。聞いて驚くなよ、それは『ガラスの仮面』の速水･･････そう「紫の薔薇の人」である。私も自分で馬鹿じゃないって思うのだが、あの「紫の薔薇の人」がたまんなく好きなのである。ああ恥ずかしい。いったいそれはなぜ、なぜ？とうに少女漫画を卒業したはずの私がなんであんなクサい男によろめいてしまうの？
わからない。理性ではなく、私の深層心理が「紫の薔薇の人」に愛しさを感じてしまうのである。思うに、私の自我はいまだに、私の才能に惚れ抜いて、私の才能のために隠れて涙し、私の才能に心血注いでくれる男から愛されたい･･････という、奇妙な願望を隠し持っていたらしい。つまり、私の才能は、その成立のためにこのごに及んで「男」を必要としているのである。なんということだ～！がく然である。
私は今だに待っている。私の才能を理解し、そしてそのために命すら捧げてくれる男を。つまり「紫の薔薇の人」のような男に愛されない限り、私は自分の才能に納得できないのである。なんでなんだ～、なんでいつまでたっても男が必要なんだあ。
いい年して私は自分に呆れる。紫の薔薇の人だと？バカじゃない？いるわきゃねーだろうがあんな男。しかし、アイ、ウォント、パープルローズ！もしかしたら女とはいつも自分を発見してくれる男を求めているのだろうか？それともこんなんって私だけなの？人の心はよく見えるが、自分の心は闇である。
私はなぜ「紫の薔薇の人」が好きなのだろうか。誰か分析してください。</I>

しかし、わたくしはよくまりりんたんに「『紫の薔薇の人』が大好きのなの。ねえ、どこかに速水さんみたいな、お金持ちで、孤児で、存在が痛々しさを感じさせるような人はいないのかしら。『紫の薔薇の人』でなかっら、『キャンディキャンディ』のテリーでもいいや。ねえ、きゅうちゃん。どこかに速水さんやテリーみたいな、見ていると心臓が苦しくなるような感じの痛々しい人っていうのがいたらいいのにな、と思うのだけど」と飲み会の時に言われ続けているので、田口ランディさんが「紫の薔薇の人」が大好きなのだ、と書いていてもそんなに違和感はないのかもしれない。
わたくしはまりりんたんに上の段落で書いたようなことを言われると、「土方歳三だけは実際に存在した人物なのですが、速水さんとテリーは２次元の紙の上にしか存在しません。あれは、美内すずえと水木杏子の理想の男性を、紙の上にインクで書きつけたものなのです」と返答してよくむっとされてしまうのですが、よくよく考えてみれば、「ガラスの仮面」が連載開始から今日に至るまでずっと読まれつづけていて、「紫の薔薇の人」がたまらなく好きだという人も何人かいて、一方で速水さんみたいなタイプの男性が苦手だという話はいままであまり聞いたことがない。ということは、「紫の薔薇の人」というのは単に美内すずえの理想の男性を描いたものではなくて、世間一般の女子の理想を描いたものであるのだろう、と言えるのかもしれない。

お金持ちで、顔が美しくて、孤児でそれまでの人生でいろいろと苦労しているが故に人間も出来ていて、そしで自分の才能に惚れ抜いて陰ながら応援し、心血を注いでくれるような男性......。そんな人は２次元の紙の上にだけ存在していて、現実にはいるわけないよなあ。と思ってしまう。
しかし、そういう男の人に出会って恋をして、自分の人生を支えてもらいたいのだという気持ちというのは、やはりよく分かる。どんなに女性が強くなったのだとはいっても、そういう男性の肩にちょっとだけ寄りかかりたく瞬間、というのはあるのだと思う。


１月２７日

よくブログ上や雑誌などで若者の就職についてや「ニート」について論じられている時に、「人間力」という言葉が登場する。
わたくしはその「人間力」という言葉を耳にするたびに、エーリッヒ・フロムの書いた社会心理学の古典中の古典「自由からの逃走」の以下の一説を思い出してしまう。

<I>経済的な関係ばかりでなく、人間的な関係もまた、この疎外された性格をおびている。それは人間的存在の関係ではなく、物と物との関係である。しかしこの手段と疎外の精神のもっとも重要な、もっとも荒廃した例は、おそらく人間の自分自身にたいする関係であろう。人間はたんに商品を売るばかりではなく、自分自身をも売り、自分自身をあたかも商品のように感じている。筋肉労働者はその肉体のエネルギーを売り、商人や医者やサラリーマンはその「人格」を売っている。かれらは、その生産物や、その奉仕を売るためには、一つの「人格」をもっていなければならない。この人格はひとに気にいるものでなければならない。しかしそれ以外にも、その人間は多くの要求に応じなければならない。かれはその特殊な地位が要求するエネルギーや創意や、その他いろいろのものをもっていなければならない。商品と同じように、これらの人間の性質の価値をきめるものは、いや、まさに人間存在そのものをきめるものは、市場である。もしもある人間のもっている性質が役に立たなければ、その人間は無価値である。ちょうど、売れない商品が、たとえ使用価値はあっても、なんの価値もないのと同じである。このようにして、自信とか「自我の感情」とかは、たんに他人の自分にたいする考えをさしているのにすぎない。それは市場における人気や成功とは無関係に、自己の価値を確信している自我ではない。もし他人から求められる人間であれば、その人間はひとかどのものであり、もし人気がなければ、かれは無に等しい。自己評価が「人格」の成功に依存しているということが、近代人にとって人気が恐るべき重要さをもってくる理由である。ある実際的なことがらで、うまくいくかどうかということばかりでなく、自尊心を保つことができるかどうか、劣等感の深淵に陥るかどうかということも、すべて人気にかかっている。</I>

翻訳された文章の日本語にはかなり難があるけれども、ここには現在「人間力」というあいまいな言葉で表現されているものの実態がはっきりと書かれている。
「人間力」とはその人物が実際に人間的に成熟しているかどうか、ということを意味しているのではなく、就職市場において高く評価される人格を有しているか、もっと端的に言えば、人事採用権を持つおっさん世代の人間に好かれ、高く評価される人格を有しているか、ということを意味している。
このように実際の意味が隠蔽されたまま「社会人にとって人間力は大事だ」「人間力をもっと成長させるような教育が必要だ」というような類の議論が成されるのはどうなのだろうか、とわたくしなどは思ってしまうのですが。。。]]>
      
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   <title>ライブドア事件について考える</title>
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   <published>2006-01-27T01:13:16Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:06Z</updated>
   
   <summary>１月２５日 梅田望夫さんという著名なブロガーさんが、堀江氏について 若い人たちが...</summary>
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   </author>
   
   
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      <![CDATA[１月２５日

梅田望夫さんという著名なブロガーさんが、堀江氏について

<I>
若い人たちが、ビジネスの世界で何かやってみたいと夢を持つときに(それは起業した会社を公開企業にするという大きな夢であっても)、堀江氏のような「スケールの大きさ」は、決して必要としないということである。よくも悪くも、「普通の人」は、あそこまでは絶対にいけないものだ。
（中略）
堀江氏の軌跡を見つめながら、一つだけ確実に言えると思うことは、「普通のスケールの大きさの人」であれば引き返したであろうポイントが、彼が歩んできた道のりの途中に、いくつもいくつも、いや無数にあったろう、ということである。
そして、そういうところで引き返すような「普通の人」にとってだって、ビジネスの世界というのは、起業家になるということを含めて言っても、十分魅力的な場で、「普通の人」が普通にやれる範囲でごく普通にやっていって成功できる可能性を持つ「普通の世界」だということである。
なぜかそういうことを今書いておきたいと思った。なぜかはよくわからないのだが。
</I>

ということをエントリーに書いていた。
この文章の内容については、非常に強く納得する部分がある。
梅田さんは堀江氏のことについて「スケールの大きな人」という表現の仕方をしたけれども、もう少し突っ込んだ書き方をするのであれば「一線を越えてしまった人」ではないかと思う。
普通の感覚を持っている人間ならば、それを踏み越えるのにためらいを感じるある一線がある。
そして、「どうもこれ以上先に進んではやばいかもしれない」と感じて引き返す。
しかし、堀江氏はその一線を踏み越えていってしまったのだと思われる。

どこでその一線を超えてしまったのだろうか？
わたくしは、今回の騒動の中で亡くなった野口英昭氏が主導的な役割を果たし、そして当時在籍していた社員の３分の１が退社するきっかけとなった旧オン・ザ・エッヂの株式上場の辺りではないかと何となく思っている。。。

１月２３日

堀江貴文容疑者逮捕。
ライブドアに強制捜査が入ってからちょうど一週間である。
あまりにも多くの情報が有り過ぎるので混乱しているという状態は未だに続いているけれども、この件に関してや堀江貴文という人物については、いずれまとまった文章を書きたいと思う。
物書きになりたいという希望ももちろんあるけれども、まず物を書き、思考する時間を多めに取ることのできる仕事がしたいと思う。
今の状況もけっこう恵まれてはいるけれども、ちゃんと毎日物を書き思考することのできる時間がとれないものか、と思う。


１月２１日

昨日終電ギリギリまで仕事をしていたので、朝起きるのが非常に辛い。
目が覚めても、何となく布団の外に出る気がしなくて極限までだらだらしている。

ようやく布団から這い出て窓を開けて外を見ると、普段見慣れた景色が真っ白な雪で覆われている。
上京してから１０年が経過したけれども、東京にここまで雪が積もった景色を見たことが無い。
今私たちが生きている社会は汚濁に塗れ、人間の肉体に例えるならば身体のあちこちにガン細胞が転移し、病状が日に日に悪化している状態である事実をきちんと把握している人間は多くはない。
しかし、ちっぽけな人間の存在では日本の社会がほんの１０年の間に急速に腐敗し、何者かに息の根を止められようとしている状態をただただ指をくわえてまま見守っていることしかできないとしても、天は人の子の住む世界が浄化し、再生を始める事を強く望んでいることだろう。
この真っ白な雪景色と止む気配の無い降り続ける雪を眺めているとそんな風に思う。

だらだらしていても仕方がない。私はとりあえず昨日片付けることの出来なかった仕事の残りを何とかするために会社に出かけなくては。。。


１月１８日

今日も風邪のせいで、著しく思考力と読解力が低下している状態が続いている。
しかし昨日よりは少し状態が良くなったのか、ライブドアショックで株式が激しく売られ、その結果東京証券取引所のシステムが停止してしまったというニュースや、その他いろいろのニュースの２ｃｈのスレッドを読んでいくうちに、何がどちらに動いていこうとしているのかという事が何となく把握できるようになった。

今回の騒動で個人的にいろいろと驚かされたことは、ライブドアに強制捜査が入ったそれ自体でも、ライブドアの前身の旧オン・ザ・エッヂの株式上場の際に大きな働きをした元幹部が沖縄のカプセルホテルで不幸な自殺を遂げたことでも、ライブドアが闇社会とつながっているらしい。ということでもなく、

・ライブドアの株主は、ライブドアホルダーを略してアホルダーと呼ばれていた。もっとはっきり言ってしまえば「あんな会社の株持っているほうがアホ」というのがネット上の見解のようにわたくしには思われた。
ライブドアの株を持っている人間というは、一日の株の上下の変動を見て株を売り買いするデイトレーダーと呼ばれる人種か、「既存勢力に一人で立ち向かう」という堀江氏の行動そのものを支持しているいわゆる「信者」とよばれる人々が大半を占めているのではないかと思われた。
しかしいろいろネットを見ていると、１０００万円以上のとんでもない損失を出してしまった人も結構いるらしく、まともに買っている人も多いのだと思った。

・東京証券取引所のシステムが停止した件については、「株価の暴落を止めるためにわざと少なめに『約定件数の上限は４５０万件』と言っていたが、東京証券取引所のシステムの処理可能な件数はもっと多い」という書き込みもあったけれども、上司のおじさんの話を聞いたところ、耐用年数を既に超えてしまったシステムをだましだまし動かしているので、約定件数の上限は４５０万件というのは本当で、それを超えてしまうと日次更新のバッチ処理？なるものの処理が一晩で終わらなくなってしまうようだ。

・ライブドアの株というのが株式分割を繰り返して膨大な株数が発行されていることはよく知られているけれども、発行された株式の総数は１０億株を上回り、その数は現在東証１部で発行されている株式の総数の３分の１になる。しかも通常株価が７００円前後の株式は１０００株単位くらいで売買されるのが通例であるが、ライブドアの株式は１株単位で売買可能であった。このようなライブドア株の存在が東京証券取引所の耐用年数を既に超えてしまったシステムに不必要に大きな負荷をかけてしまっていたのだ、ということは容易に推測される。

という３つの事についてだった。

いろいろなネット上の情報を見ていくうちに、急成長を続け多大な利益を出しているという綺麗にお化粧された決算報告書やマスメディアの「既存の旧勢力に対抗する改革者」というイメージによって人々をライブドアの株式を買うように扇動し、その株式売却益によって弥生会計やターボリナックスや近鉄の球団やニッポン放送やフジテレビなどの既存の企業を買収しようとするビジネスモデルというのが確立しており、ポータルサイトやブログというのはIT企業という体面を保つだけに運営していたのだということが徐々に理解できるようになった。
ちょっと前に「株式上場ということを行うことによって創業者には億単位の利益が懐に入る」ということを知って、えらいことびっくりしたのと同時にそのあたりの知識に疎かった自分を少し恥じた。
それまで、なぜ人々が「ビットバレー」と騒いているのかよく理解できなかったし、大学時代に少しだけアルバイトしたところの社員の人が「ネットスケープの会社を作った人のように資産６０億を目指します！！！」とえらいことハイテンションで語っている理由もよくわからなかった。
このあたりの経済や会計絡みの知識も生きていく上で踏まえておかないといけないな。と思う反面、適当に投資家にとって見栄えのよい会社を設立して株式上場を行い、億単位の利益を懐に入れることを目的にするのは真っ当な方法ではないな、とも思う。
そこら辺のバランス感覚が微妙に狂っているのが現在の世相であると感じる。


１月１７日

先週の土曜日から、風邪のせいで、著しく思考力と読解力が低下している状態が続いている。
週末に日記の文章をある程度書こうと思っていたけれども、１文字も書けていない。
今日は阪神大震災から１１年目の日であり、幼女連続殺人を犯した宮崎勤被告の最高裁の判決が出る日であり、そしてこの日に国会でヒューザーの小嶋社長の証人喚問が行われ、さらに昨日の夜から徹夜で六本木ヒルズのライブドア本社と、新宿歌舞伎町のライブドアのメールサーバーが置かれているビルに強制捜査が入っている。

何かとてつもないものが動き出したのだ。ということは理解できるけれども、どちらの方向に動き出そうとしているのか。
堀江貴文という人物は何者だったのだろうか。ライブドアの株主や先の衆議院選挙で彼に投票した人々が信じていたように、閉塞した社会を変革する力を持つ改革者であったのだろうか。
それとも、大きな組織の傀儡として人々の目を引きつけるように動いているだけに過ぎなかったのだろうか。
そうだとしたら彼の背後にある組織は何なのだろうか。
この国を守ろうとして動いているものだろうか。それとも、この国を弱体化させようとして動いているものだろうか。
２ｃｈのスレッドを見たりニュースを見たりして、自分なりに何とか状況を把握しようとしたけれども、風邪のせいで著しく思考力と読解力が低下しているので大量の情報を脳に入力しようとするととっても気持ちが悪い。
こんな大変な時に風邪を引いているなんて、自分が情けないと思う。。。]]>
      
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   <title>東浩紀問題を考える</title>
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   <published>2006-01-10T01:13:10Z</published>
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   <summary>１月９日 連休の３日間は、寒すぎて結局ほとんど何も出来ないまま終わってしまったか...</summary>
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      １月９日

連休の３日間は、寒すぎて結局ほとんど何も出来ないまま終わってしまったかも。
冬になってから、お風呂のお湯が非常にぬるいお湯しかでない状態が続いていて、長時間お風呂に入っていたら心底身体が冷えてしまっていたけれども、今日はまともに熱いお湯が出たので、１時間ほどお湯に浸かり老廃物をすっきり落とすことにした。
それから、こたつに入ってからきな粉もちなどを食べているとものすごく幸せな気分になってきてそのままこたつから出られなくなってしまった。
このままではいけないので、今から新宿にでも出かけてこよう。。。

１月８日

前回のエントリーで「今年以降に起こりそうな事」をいろいろ書いてみたりしたのですが、東浩紀氏と北田暁大氏の主催するトークセッションを見に行ったりしたときに思ったことを書いてなかったのでその分を追加して書いておくことにします。

３、「自分を取り巻くシステムに潰されないように生き延びるということ。」

昨年の東浩紀氏の主催するトークセッションを見に行ったりした時の感想は、一言で表すと「東浩紀がうざい」ということになります。でも、東浩紀氏をうざいと思ってしまった理由についてはいろいろと重大な事が含まれていると思われるので、それについて書いていこうと思います。
東浩紀氏をうざいと思った理由は、斎藤環氏が「東さんはどういう目的で言論活動を行っていて、社会がどのような状態になるのが理想だと思っているのですか？？？」というような趣旨の質問を投げたのに対して、「僕は、『自分の中にどのような欲望があって、それに基づいて言論活動や批評を行っているのか？？？』という質問に答えることができない。何故なら、僕は学問的トレーニングを受ける過程で自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことが禁忌であると教え込まれてしまっているからだ」というような内容の回答をして、その後斎藤環氏が何度か同じような趣旨の質問を繰り返したけれども、東浩紀氏は決して「自分は○○ということを目的として言論活動を行っている」とは答えず、トークセッションの中で話題になっていた「ニートや引きこもり」はどうすべきなのか、という件に対しても明確に「こうすべきだ」とは断言しなかった。ということに集約されます。

この辺りの議論を聞いていてイライラしてきたオーディエンスは少なくなかったように思われるのですが、わたくしは学問的トレーニングをちょこっと受けたので、何故東氏が「自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことは禁忌だ」というような内容の事を言ったのかというのは何となく推測できるのです。
「自分は○○ということを目的として研究活動・言論活動を行っている」ということを断言してしまうと、そこが自分自身の議論のセキュリティ・ホールとなってしまい、意図的にその部分を突かれて他の人に論破されてしまった場合に、自分の精神に取り返しのつかないダメージを受けてしまうからです。
しかし、現在大学で行われている文系の学問的トレーニングは「議論に勝つ」ということが重要視されていて、他人に論破された言説はどこかに欠陥があったものだ。とすることが主流になっているので、自分自身の欲望・自分自身の実存が自分の論説とどのように関わっているか・自分自身は何に動機付けられて言論を行っているのか、ということは議論に勝つためには徹底的に隠さなければならない。東氏を始め、このような環境で過ごしてきた人々が「自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことは禁忌」と思わされていることは仕方のないことなのかもしれません。
ですが一方で「ニートや引きこもり」のような実際の問題に直面した場合に、そのような価値観で言論活動や批評を行ったとしても実効性のある「響く言葉」として一般の人々には届かないのではないかと思ってしまったりするのです。

このトークセッションの前半で「批評というものは行き詰まっているのだ」という共通の認識には到達したのですが、では何故批評というものは行き詰まってしまったのか？？？ということを考えると、文系の学問的トレーニングを受けていく過程で、他者を圧倒する知識や議論に勝つ技術は身についたけれどそれと引き換えとして実効性のある「響く言葉」で語ることができなくなってしまった。そして、このような状態は上の世代が行っている&quot;文系の学問的トレーニング&quot;というもので、事実上言論において大切なある部分がスポイルされてしまうシステムになってしまっているのだ。ということを東浩紀氏の振る舞いを見ていると思わざるを得ないのでした。
しかし、このような現象は東浩紀氏が自分自身の欲望を明確に口に出すことができないという事だけに発生していることではなく、「ニート」の問題にも共通している部分があるのです。
「ニート」の急激な増加は、日本の長期的な不況と世界的な雇用の流動化（正社員が減少し、アルバイトや派遣社員が増加しているのは日本経済が長期低迷しているから、というだけではなく欧米でも同じような事が起こっているのです）という社会の変化が一番の要因であり、多くの父親が会社員として働くことになった結果、子供達が社会人としての基本原則やルールを父親から伝えられることなく就職する年齢を迎えてしまい、その結果適切に社会人になるための門を叩くことがということが出来なくなってしまっている。ということも要因として存在し、その次くらいに本人の資質や性格が関係してくるとわたくしなどは勝手に考えていたりするのですが、このような大きな枠組みによって「ニート」の状態にあることを余儀なくされているのだということをどれだけのニートが自覚しているだろうか、と思ってしまうのです。
努力して職を見つける。ということにしても自分を取り巻く状況がこのようになっているということを踏まえて上手に動かないと、自分を取り巻くシステムにそのまま押し潰される。ということにも成りかねないのです。

はっきりと書いてしまうと「現代の世の中は若者が若者のまま、成熟して上の世代に引導を渡したりすることなくゲームや買い物などにうつつを抜かしてくれればいい」という強力な圧力が掛けられていて、上の世代から好かれて社会に迎え入れられるのは「おじさん世代から見て理想的な属性を持ち、おじさんの作った社会で何も問題を起こすことなく振舞うことのできる、おじさん世代から見ての『理想の若者』を完璧に演じることのできる人間」だけなのでしょう。
しかし、このような状況下でも上手に何とか生き延び、実効性のある「響く言葉」を語り、目の前の問題を解決するためにあれこれ議論するだけでなく動くことが求められている。というのが現在の団塊ジュニア世代以下の人間には必要なのだ、と思うのです。上手に何とか生き延びること。実効性のある「響く言葉」を語ること。あれこれ議論するだけでなく動くことは私たちにとって得意な事ではありません。それでも、閉塞した状況から一歩前に進むには、上手に何とか生き延びて、実効性のある「響く言葉」を語り、あれこれ議論するだけでなく実際に主体性を持って行動することが必要となってくるのです。


１月７日

今年初めてのお稽古。
わたくしはやはり、合気道が好きなのだなあ。ということを改めて実感する。
技をかけ、受けを取っているときに「何かとつながっているのだ」ということを実感する。
それは「社会の外側にある大きな世界とつながっている」という感覚なのだろう、と思う。
合気道をきちんとお稽古する前は、自分自身の存在があまりにも小さくて孤独なので何かに押し潰されそうな思いになることが多かった。誰かに依存しなくては自分の精神を支えることも出来なかったと思う。
けれど今はもう、「普通に自分で自分を支えて生きる」ということが出来るようになった。


１月４日

仕事始めだったのですが、いきなり残業。
でも、仕方がないので溜まっているお仕事をこなす。
社会人になってから休みが少ないのがちょっと悲しい。
      
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   <title>新年のご挨拶</title>
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   <published>2006-01-05T00:03:58Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:05Z</updated>
   
   <summary>１月１日 新年あけましておめでとうございます。 先月の後半の２週間は、田口ランデ...</summary>
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      <name>uchida</name>
      
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      １月１日

新年あけましておめでとうございます。
先月の後半の２週間は、田口ランディさんの公開講座に行ったりだとか、東浩紀氏の主催するトークセッションを見に行ったりだとか、「あいのり」に出てた人のお店に行ってきたりだとか、けっこういろいろなことがありました。
でも、新しい年になったということで、家の中を出来る限りきれいにして、小さいけれどしめ縄も玄関先に飾って、松のとげとげした枝も飾って、木剣で四方を軽く切ったりして、軽く邪悪なものを払ってから、昨年のことは昨年のことでエントリーに書ききれなかった分は仕方がないということで、新年のエントリーでも書くことにします。

新年エントリーは２００５年度から勝手に「今年以降に起こりそうな事」を思うがまま書き付けるということにしているのでどうか皆様よろしくお願いします。

１、「沈黙の螺旋からロングテールへ」

ブログというものが人々の間に普及して約２年くらいの月日が経過して、大きな組織にも所属しない無名の個人が情報を発信することが可能になったということが徐々にリアルな社会にも影響を及ぼしていると思われるのです。
（このあたりの事はいろいろと声を大にして言いたいこともあるのですが、言ったら大変になることも少しあるので今回は言わないことにして先に進みます。）
このことと直接はリンクしていないはずなのですが、フジテレビ・ＴＢＳの買収騒動やＮＨＫ・朝日新聞の不祥事連発に代表されるように、既存のマスコミの組織が一部腐りかけていることが一般人の目にも明らかになってきて、マスコミが本来果たすべき社会の木鐸としての機能が果たされなくなっている。というより、「どうもマスコミは社会の木鐸としての機能を果たしていないらしいぞ」ということが人々の間で共有されつつあるということが、実はネットメディアの発達よりもマスメディアに対して重大な打撃を与えているのではないかとわたくしなどは思うのですが、マスメディアの側にいる人はそんな風に考えている人は少ないような印象を受けたりします。

わたくしがまだ大学に籍を置いていて、うっかり社会心理学などを勉強していた時には「沈黙の螺旋」理論ということが言われていて、あえてgoogleで検索したりすると、
&quot;個々人は、マスメディアや周囲の人間の声を通じて意見の分布や世論の動きを敏感に意識しており、さらに何よりも自分の意見が孤立化することへの恐怖感をもっている。すると、少数派は孤立を恐れて発言を控えるようになり、一方多数派意見は積極的に発言するという螺旋的ループが発生するために、全体的な意見の分布は実際よりも多数派に偏っているように見えてしまうというもの&quot;（isedキーワード「沈黙の螺旋」より）
などと定義されたりしています。世の中にまだネットがなくマスメディアが力を持っていた時代には「メディアの言ったこと」は強制力を持っていて、少数派の意見の持ち主およびマスメディアの喧伝する意見に反対するものはただ口ごもるを得なかった、その結果メディアは人々の意見に大きな影響を与えるように見えたということです。

しかし「２ちゃんねる」を始めとする巨大掲示板群やブログ、ソーシャルネットワークサービスが普及するにつれて、少数派の意見の持ち主やマスメディアの意見に疑問を持つ人々が新聞の記事やＴＶの放送などを見てネットに「○○はこんなことを言っていたけれども、何か違わないか？？？」と書き込む、ということが可能になってくると、どうもマスメディアが個々の人々の意見を沈黙させて人々の意見に大きな影響を与える力というのが弱まってしまっているようだ、きちんとデータを取っているわけではないから脳内の仮説にしか過ぎないけれど。ということが言えるようになってきたのではないだろうか、と思うわけです。

去年ネットに詳しい人々の間で流行した言葉に「ロングテール」というものがあって、わたくしが理解している範囲で説明すると&quot;従来本とか音楽用ＣＤというものは、上位２０％の売上げを上げているものが８０％の利益をもたらしており、残りの売れない８０％の領域のものは速やかに店の棚から撤去したり返品したりするのが常であったが、Amazonのようなネット販売をするところでは店の棚のスペースに制限がないので、売れない８０％の領域の商品からもけっこう無視できないくらいの利益をあげることが出来る&quot;みたいな感じになります。
それで、「ロングテール」とマスメディアの影響と何が関係あるのか？？？と、ほとんど全員の人が思われるかもしれないのですが、情報の流れがマスメディア＋ネットという状態になることによって、従来は売れない８０％の領域に入ってしまった本やＣＤのように非常に肩身の狭い存在であった少数派の意見の持ち主やマスメディアに反対の意見の持ち主というのが、インターネット上で意見の交換を行うことによって「確かに僕たちは全体でみると数が少ないかもしれないけれど、でもこんなに大勢の仲間がいるもん」とコロニーを結成して内部で結束して開き直ってしまう、そしてマスメディアで流される意見とオルタナティブに、マスメディアで流される意見と異なる意見も並列してネットメディア上で流されることになる。その結果、かつては一定の権威が付されていたニュースメディアが「２chの実況版で突っ込みをいれながら、エンターテイメントとして筑紫哲也の『News23』を見るのだ」というような捉え方をされるようになり、相対的にマスメディアが力を失ってきているのだ。というのが現状ではないかと思われるのです。

ということを踏まえて、今後メディアというのはどんな風に変化していくのだろうか？？？ということを少しだけ考えてみると、マスメディアが何もしなくとも徐々に力を失っていく状況で、それに加えて「何かものすごい不祥事が起きてしまった」「何か某企業の都合で本来報道されて然るべき事が報道されていない」「こんな文章を社説として載せるなんてもはやメディアの情報は接触するに値しない」と思われるようであればさらに加速度的に力を失っていって、現在起こっていることをわかっている人がきちんと改革を行ったメディアは今後も生き残るだろうけれども、そうでなければ従来マスメディアが担ってきた機能はネットメディアによってある程度暫定的に代替されるのだろう、と思うのです。
あと蛇足なのですが、「自分の意見と同じ人間だけで固まる。自分の摂取したい情報だけ摂取する」というコロニーの住人にいかにコロニーの外部の情報を伝えるか、ということも今後のメディアには必要となってくるのだろうと思われるのでした。そのあたりを踏まえて新しいメディアというのは誕生し、発展していくことなのでしょう、と思うのでした。


２、「ぼーっとしても安心して生活できたムラ社会から信頼できるかどうか峻別する必要があるモヒカン型社会へ」

人々の生活の基本となる「衣・食・住」のうち、「食」については米国産牛のＢＳＥ問題や寄生虫入りキムチの問題、「住」については年末のマンション・ホテルの耐震強度の偽造問題と、一般の消費者の信頼を根底から覆して地獄に突き落とすような出来事が発生したのも２００５年の特徴と言えるのではないか、と思います。
このあたりの問題は多くのブロガーの皆様によって書かれた事ではあるのですが、リスクの高い食品・内容の割には通常の値段よりはやけに安い物件は避けて通るべきだ、というのは消費者の知恵として当然あるべきなのですが、だからといって「通常からいって考えられないほど安い物件を疑いもせず購入してしまったのだから、マンション購入者の自己責任だ」という言説はどこか馴染まないものがあるのです。
株の世界では、「例え証券会社の人の口車に乗せられたからといって、株式投資をして全財産を失ってもそれは所詮自己責任だ」という考え方が常識らしいのですが（それで個人投資家をカモにするためにいろいろと仕掛けがあるのだ、ということを上司のおじさんから聞いてしまいました）、そのような「騙されて損をした方が悪い。騙された方の自己責任だ」という言説は株の世界や一部の商売の世界など限られた範囲での常識であって、一般人に関係があるような「衣・食・住」にまでそのような原則が適応されるというのは少なくとも従来の日本にはなかったことであり、このようなリスクから消費者は守られるべきだ、とやはり思ってしまうわけです。

しかし今の日本の現状を見ていると、「企業の側が真っ当に商品を作って、それを消費者に売る」のではなく、「企業の側が消費者の無知に付け込んで、金銭を詐取する」という行為に手を染めることによって利益を得ようとする企業が現れてしまうのを完全に止めることは不可能だろう、という結論になってしまうのです。
それが人々の倫理の低下に由来するものなのか、消費者があまりにもナイーブに過ぎることに由来するのかは、分かりません。
かつて日本人の大半が農業か自営業に従事していて、多くの人が「ムラ社会」に属していて、地域共同体が大きな力を持っていたときはその相互監視機能によって「他人を騙す」という行為が厳しく咎められていたのに対し、多くの人々が都市に生活し、地域共同体がほとんど力を失ってしまい、スーパーの店員や不動産業者などのある一定の「役割」を持った人間と個別に向かい合う必要性が生じた場合には、それらの「役割」を持った人間が相手の無知に付け込んで騙す可能性もあるのだ、ということを頭の片隅に入れておく必要性が出てきたということです。
ということを言っても、わたくしを初め多くの人々が都市部に住んで、スーパーで売られている食品に何かとんでもない物が混入されている可能性を考えることもなく、地下鉄の運転手が突然「○○ちゃんが好きだあああ」と叫んでそのまま時速１２０kmで脱線して何かに激突するという可能性を考えることもなく、普通に都市生活を送っている訳で、その理由は商品のブランドに対して信頼していたり、「道で通行人にいきなり殴りかかって金品を奪うとしたら、警察に捕まる」といった法律の抑止力を信頼していたり、「普通、地下鉄の運転手が突然『○○ちゃんが好きだあああ』と叫んでそのまま時速１２０kmで脱線して何かに激突することは有り得ない」というような感じに見知らぬ他者が合理的に行動することを信頼していたりすることを前提としている訳です。

相手の無知に付け込んで騙す人々、というのはこんな感じに生活していく上において信頼すべき点において相手の信頼を裏切って得をすることを試みる訳なのですが、このように無知だったりぼーっとしていたりする人々をモヒカン族が獲物を狩るがごとくに騙して歩く個人や企業は、残念な事ではあるのですがおそらく今後増えていくことが予想されるのです。
このような状況である以上、何か騙されて酷い目にあった挙句「自己責任だよバーカ」と言われないためには、一般の人々にも相手を信頼できる人間か信頼できない人間かを第一印象で判別する能力・嘘を嘘と見抜く能力が今後必要不可欠になってくると思われるのです。書いていて「はああ」と溜め息をつきたくなるような現状ですが。

それと最後に１つだけ付け加えると、信頼できる人間か信頼できない人間かを第一印象で判別する能力・嘘を嘘と見抜く能力というのは脳内であれこれ考えて判断を下すのではなく身体の感覚や直感によって感じるものではないか、と思うのです。
「あるある大辞典」のサイトで、「騙されにくい人というのは、一日の歩く量が多い人だった」というような実験結果をちらっと見たことがあるのですが、実際の学術論文でこのような研究が行われているかどうかを一介の会社員であるわたくしは知りません。
しかし、相手に関する状態が非常に少ない場合に信頼できる人間か信頼できない人間かを判別しなければいけない時には、体感を研ぎ澄ますのだ。ということを今まで１０年以上武道をやってきた経験がわたくしに教えてくれた、と思うのです。

......脳内にあった考えを一気に書き出していったら、いつのまにか日付もかわって分量も１０キロバイトを超えてしまいました。
今年は身辺雑記よりも、ネットの肥やしになるようなある程度ちゃんとした文章を書いていこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。
      
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   <title>Ｑちゃんアネハ陰謀を推理する</title>
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   <published>2005-12-20T11:19:47Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:05Z</updated>
   
   <summary>１２月１７日 きょうはひどく寒くて眠い。 師走というのは恐ろしいもので、ぼーっと...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nagaya.tatsuru.com/mika/">
      <![CDATA[１２月１７日

きょうはひどく寒くて眠い。
師走というのは恐ろしいもので、ぼーっと一日を過ごしているとあっという間に時間が過ぎていってしまう。
いろいろと書きたいこと・書くべきことはあったはずなのに日記は書けず、先週分の日記も中途半端に書いたまま放り出してしまっている。。。
あまり良くない。
でも眠い。
今日の朝は６時に目覚まし時計をかけて、一度目が覚めたのにそのまま２度寝をしてしまい、次に起きた時には８時を過ぎてしまって大変な思いをした。（そのせいでお稽古に出ることが出来ず、Ｋ藤氏に立て替えてもらっていた２５００円を返すためだけに駒場に出かけることになった。）
それなのに上野でドネルケバブなどを食べている間にひどく眠くなって２時から５時までお昼寝をしていたはずなのにまだ眠い。
なんでこんなにも眠いのだろう。


１２月１１日

今日は、日記の文章を書いた後に今年最後の多田塾研修会に行ってきた。
今回はやけに人が少ない。
でも、これくらいの人数だと技をかけるのに不自由はしないのでいろいろと太刀取りの技を行う。
駒場祭の演舞会の時に太刀取りをやろうとして、でもいろいろと試してみてやっぱり止めて無難に両手取りを
やることにした。その後のいろいろを考えると、あえて太刀取りをしなかったのは正解だったように思える。
でも、いつかはちゃんと人前で見せられるくらいにしておこう、と思う。


１２月８日

マンションの耐震構造の偽造問題については、未だにネット上やＴＶの報道番組でいろいろと議論されている。
今週発行された週刊誌の中で、「姉歯建築士の妻が重度の鬱病で、入退院を繰り返していた」という記述があったので、少し思うところを書いていこうと思った。
多くの報道がなされるうちに、マンションの耐震構造の偽造は姉歯氏個人によって行われたのではなく、建築主・施行主から総合経営研究所という建築コンサルタントまで全てが組織ぐるみで行われていたらしい。ということが明らかになっている。そして、今回の件は決して特殊な事例ではなくその他建築業界で行われていることの氷山の一角でしかないことも十分に推測可能である。
そして、姉歯建築士はこのような巨大すぎる不正の仕掛けの中の「使える歯車」にしか過ぎないことも。
１１月２４日ののエントリーの中で「自宅兼仕事場の建物の細部がひどくボロボロだ」ということを書いた。
それ以外にも一つ気になっていたのは家の中庭に空き缶を入れたゴミ袋が大量に放置してあったことだった。でも、その時は「建物があんなにボロボロなのだから、どうせ燃えないゴミも大量に溜め込んでしまっていて放置してあるのだろう」と思っていた。
しかし家の中庭に放置してあったゴミ袋の中身の空き缶というのは、どうやら姉歯家から出た燃えないゴミではなく、家の横に設置された自動販売機から出たゴミが庭の中に投げ込まれたものだということだ。

ここからはあくまでわたくしの想像に過ぎないことを明記しておく。

民家の横に自動販売機が設置されているというのは、決してないというわけではないけれども住宅地の中では稀だ。現地に足を運んだことはないけれども、特に交通量が多いわけではない箇所に自動販売機は設置しないのが普通、だろう。普通はある程度の交通量がある道路に面するように自動販売機は設置する。
そして、自動販売機の横にゴミ箱はなかったのだろうか。
家の庭に空き缶が大量に投げ捨てられる事態が生じているのならば、自動販売機の設置者と姉歯家側で何らかの交渉が行われていたとしてもおかしくないのだが、そうはならなかったのだろうか。
鬱病患者というのは、自分の身の回りの秩序が誰かによって乱されるような事態にひどく弱い。
もともと鬱病を患っていた姉歯建築士の妻が家の庭に空き缶を投げ込まれることが続くことによって、さらに病状を悪化させていったことは容易に想像できる。
ここで一つ恐ろしいことを思いついた。
もしも、自分の意のままに構造計算書を偽造させることのできる建築士を血眼になって探していた人間が、姉歯家の庭に空き缶を大量に投げ込むことでわざと姉歯建築士の妻の病状を悪化させていたとしたら......？？？

ここに書いたことはあくまでわたくしの妄想にしか過ぎない。
しかし一方で「このようなことも有り得ない話ではない」と思っている自分もいる。
いろいろ考えたので、一度立ち読みでざっと読んだ文春新書の「拒否できない日本」を改めて買ってきて読み直すことにした。
この本の冒頭で、建築士の資格制度を国際的に統一するという協定がアメリカと中国との間で締結された、ということ。それと今回のマンションの耐震構造の偽造問題の黒幕とされる内河氏が中国国内の建物のコンサルティングも大量に引き受けていること。そしてこのマンションの耐震構造の偽造問題がこの時期になって表沙汰になったこと。
全てが繋がっているのだとしてもおかしくはない。


１２月５日

「生協の白石さん」の本は驚異的な売れ行きを示し、電車の中にある中吊り広告に書かれていることを信用するとすると、既に６０万部出荷されたらしい。
googleで検索したところ「電車男」の発行部数は５０万部らしいので、「生協の白石さん」はネット発のムーブメントの中で最も多くの書籍を売り上げたコンテンツの著者と言うことになってしまった。
しかし「生協の白石さん」は別に有名になって本を出そうとしたわけでもなく、自分のブログを持っていたわけでもない。（「がんばれ、生協の白石さん！」というブログは存在するけれども、このブログはＫ條氏という生協の白石さんをこよなく愛する農工大生のお兄さんが運営しているのあって、白石さん自身は自分の回答をネット上にアップすることは全くしていないのであった。）
ただ単に、「一言カード」の質問に面白い回答を書き続けただけであった。
これは今までの自分のブログのあり方を見直したほうが良いのかもしれない。

ところで「生協の白石さん」の本と「がんばれ、生協の白石さん！」のブログ(http://shiraishi.seesaa.net)を読んでいて気がついたことがいくつかある。

<I>Q.白石さん好きっす。
A.光栄っす。（白石）</I>
<I>Q.単位がほしいんです。
A.そうですか、単位がほしいですか。
私は単車がほしいです。お互い頑張りましょう。（白石）</I>
<I>Q.いつか白石さんを越えます。
A.何については存じかねますが、越えて下さい。
私は最近、肥えています。（白石）</I>

「一言カード」の質問と回答を３つほど書き出してみたけれども、共通しているのは質問と回答とで韻を踏んでいるということだろうか。
質問が白石さんに届いていて、そして回答されているということを感じられているのは質問と回答が韻を踏んでいる、あるいは質問者と同じモードにチューニングされているということでないかと思った。

それと、「生協の白石さん」が原則として本人の都合と白石さんファンの人々の希望によって原則として顔出ししていないのも何となくいい感じを醸し出している。
普段は東京農工大の小金井キャンパスの生協に勤務していて、３６歳既婚、小沢健二似で趣味はビリヤードとダーツということは既に公表されているけれども、マスコミに顔出しをしていないので何となく謎の人のようなイメージがある。
その正体不明の人に「一言カード」の質問を投稿すると、白石さんの返事が書かれる。
そのようなコミュニケーションのあり方が、以前内田先生が何かの本で書いていた「原初の交換貿易」のあり方に類似しているのではないかと思った。]]>
      
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   <title>リアルなものとリアルでないものの境界線について</title>
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   <published>2005-12-04T03:43:38Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:04Z</updated>
   
   <summary>１２月３日 眠いなあと思ってずっと寝ていると、昼過ぎまで寝てしまった。 反省して...</summary>
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      １２月３日

眠いなあと思ってずっと寝ていると、昼過ぎまで寝てしまった。
反省して、溜まっていた洗濯物を洗濯して、朝日カルチャーセンターに電話して、ヴィレッジヴァンガード川崎店に問い合わせをして、携帯電話の新製品を見てきた。
その後ネットを見ていたら、景気回復の実感が全く感じられないのにのに株価が１５０００円を突破したのは、韓国政府が崩壊の危機にあるので、韓国資本が大量に日本株の取得に走っているからだという書き込みを見つけた。
真偽のほどはわからない。けれども、大変な事が水面下で起こっているのだというのは何となく分かる。

１２月１日

もう、１２月。
怠惰にぼーっとしている自分に不満。

１１月３０日

「ソニーのウォークマンの使用体験記を記載したＢＬＯＧが炎上して、閉鎖された」ということを聞いたので残っていたgoogleのキャッシュを読む。
何でも、「自分の所有しているMacのマシンではうまくダウンロードできなかったので、Windowsマシンを買い換えてダウンロードしたらうまく出来た」という記述があったのに、５日前のエントリーに記載されているマシンの写真にはWindowsキーがしっかり写っていたということで、４００以上のコメントが殺到して閉鎖に追い込まれたということ、らしい。
わたくしがこの件を知ったのは、このブログが閉鎖に追い込まれた後なので現在googleのキャッシュに残っているもの以外の他のエントリーを読むことができないけれども、上記のWindowsキー以外にも「MacのマシンではうまくダウンロードできないというでWindowsマシンを買い換えるくらいのお金があるのならば、初めからipodを使ったほうが良いのではないか」という疑問や「素人さんが書いている体験記にしては、エントリーにアップロードされている写真には二重に影ができており、おそらくハロゲン光源を使用しているいるものと思われる。おそらく写真はプロの手によって撮影されたものだろう」という見解も出されている。

昔まだ大学にいた頃に「『リアルなもの』と『リアルでないもの』を分ける境目とは何なのだろうか」ということを真剣に考えた。今回の件からふと思ったことは、細部まできちんと作られているものがリアルであると人々に認知されるのではないだろうかということに気がついた。
ちょっと前に、「水曜どうでしょう」に出演している鈴井さんのインタビュー記事をちらっと読んだ事があったけれども、そこで「（ＴＶなので、夜行バスに乗るときと目的地に到着した時の映像を撮影して、後はバスの車内の映像をそれらしく撮影して編集し、実際には夜行バスではなく飛行機で移動しているのだということも可能かもしれない。）しかし、実際に東京から福岡まで夜行バスで移動して、福岡に到着した時に疲労困憊しきった表情を撮影するとか、ベトナムでトゥクトゥクに乗って長時間移動してしまったせいでお尻が痛くて痛くてしょうがないといった映像を撮影するとかすることが、面白い番組を作る秘訣なのだ」ということを語っていたような気がする。

「神は細部に宿る」というこという言葉もある。
脳で判断して、視覚や聴覚や触覚などで判断して、それ以外の身体的感覚で判断して、「矛盾がない」と判断されたものが「リアルである」と認識されるのだろう。
今回の炎上したウォークマンの使用体験記につけられたコメントの中には、「ビジネスブログでも、成功しているものは消費者と同じ視点、同じ場所に立ってリアルに綴っているようなものであり、このように露骨に人を騙そうとするような意図が見え隠れするものはその意図が透ける」というような内容の意見があった。
インターネットが普及して電脳空間上に多くのテキストが氾濫するようになった時に、文章の細部や、文章の持つ身体感覚性が重視されるようになったとは興味深い。
しかしWebを取り巻く情勢というのは、文章の細部や、文章の持つ身体感覚性をさらに重視する方向に進んでいくのだろう、と思う。


１１月２８日

いつものようにネットの記事を眺めていたら、「ミス＆ミスター東大」の記事が毎日新聞のサイトに掲載されたいた。
「ミス東大コンテスト」というのは、ＴＢＳ系のＴＶ番組「学校へ行こう！」に登場するおもしろ大学生や、ＩＱ１９０の天才少年がどれくらい凄いことかを証明するために、比較対象としてＩＱテストを受ける東大生などのＴＶ番組に出演する学生エキストラを集めてくることなどを生業としていた、元スーパーフリーのＮＯ．２で、レイプ容疑で逮捕された岸本英之氏らによって企画されたのだ。ということは前にもこの日記で書いたけれども、もう一度書いておく。
そういう事情があるので、「ミス東大コンテスト」は初めから学園祭を盛り上げるために学生達の手によって行われているというよりは、「ミス東大」のブランドを最大限に活用してあちこちからお金をもらってこようとする商業主義的な感じが色濃くあったりした。
で、「ミス東大」だけではなく最近の「ミス・キャンパス」に関連した記事をあちこちで見かけることが多いけれども、「ミス○○」という肩書きがアナウンサー試験を突破するための資格の一つになっているような感じを受けてしまうのである。
美人かどうか、くらい写真と実物を見て判定できそうな感じもするのですが、、、と思うのですが。
でも、「肩書きはないけれども美人」という女の子と「『ミス○○』という肩書きがある美人」という女の子の２人がいる場合、「肩書きはないけれども美人」という女の子の方が美人で将来性がありそうだとしても、「『ミス○○』という肩書きがある美人」という女の子の方が採用する理由として周囲を納得させることができるということで採用されるというのが、現在の放送局の採用のあり方なのでしょうか。
そんな事情もあるので何としても「ミス○○」の肩書きが欲しいという人も現れたりしていて、何年か前の「ミス慶應」のコンテストの際には、かなり不透明な選考が行われたのだということも聞いている。

まあわたくしにとっては縁のない話なので、「ミス○○」の肩書きを有り難がるおじさんも「ミス○○」の肩書きを得るために奔走するお姉さんも興味の範囲外で「ふーん」というような感じではあるけれども、大学生限定のミスコンは流行っているのに、一般の「ミス日本」や「ミス・ユニバース」の受賞者はあまり注目されないのは何でだろう、などと思った。

１１月２７日

駒場祭演武会の当日。
とはいっても、かなりの稽古不足なのでちょっと不安。
朝起きておうちのマンションの通路でちょっと受け身の練習でも行った後、朝食に豆腐丼を食べて駒場キャンパスへと向かう。
ちょうど、黄金色に色づいた銀杏の葉っぱがものすごく綺麗。でも学園祭なので人が多くて前に進むのも困難な感じ。
道場に到着すると、一緒に演武するはずだったＴ雄氏とＴ崎嬢が来ていないということなので、急遽受けのお兄さんを２人用意する。
「別に緊張なんかしないもん」と思っていたけれども、後輩のみなさまの演武を見ながら出番を待っているうちに妙にトイレに行きたくなってくる。

演武は、まずまずの出来でした。と思うことにする。
その後、模擬店で毎年恒例のクレープを食べて、その後に渋谷のブックファーストに行って「知に働けば蔵が立つ」を買っておうちに帰った。

１１月２４日

職場の飲み会の後に、電車の車内の中吊り広告をぼんやりと眺めていたら「髪型も偽造、姉歯建築士」という週刊文春の記事を見つけた。
これはちょっと酷いなとも思ったけれども、この姉歯建築士という人物をＴＶで見ているとある種の不自然さを感じてしまう。
それは「髪型が不自然」とかいう見れば１秒で分かることではなく、そこそこに整った身なりであり愛車がベンツということと、ＴＶで映されている自宅兼仕事場の建物の細部がひどくボロボロになっているということの２つに何か不気味なアンバランスさを感じてしまうからだ。
昔何かの雑誌で、専業でヒモをやって生活しているという男性が「どうやって寄生対象となる女性を見つけ出しているのか？」という質問に答えて「どこか目が虚ろであるとか、かばんの替わりに紙袋に物を入れて歩いているとか、靴がやたらに貧乏くさいとか。。。そう、何か見た印象がどこかアンバランスな感じの女性にターゲットを絞って声をかけてます。」と答えていたのを覚えている。
その、ヒモの男性のターゲットにされている女性と同じようなある種のアンバランスさを姉歯建築士を見ていると感じるのだ。
このアンバランスさというのは、悪しき者の悪しき意図に付け入る隙を与えてしまうような心の状態が目に見える形で現れたものなのだろう、、、かと思った。

１１月２３日

碑文谷体育館で杖と木剣の特別稽古があるということなので、目黒区まで出かける。
最初に呼吸法を行った後、杖と木剣をひたすら振る。
トランス状態になるほど振る。
自分の脳内で何かを考えなくても、自然に体が動くくらいのレベルにまで杖や木剣を振るのが良い。
こうして体を動かしていくうちに、少しずつ感覚が戻ってきて身体がきちんと頭で思い描いたように動くようになる。
うん、だいぶ身体の感覚が戻ってきた。
諸般の事情により、ずっとお稽古に行っていなかったけれどもこれで少しは駒場祭演武会でまともに動けるだろうか。
      
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   <title>生協の白石さんは東京農工大の宝です</title>
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   <published>2005-11-21T13:03:47Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:04Z</updated>
   
   <summary>１１月２０日 最近日記が書けてないのは、別に忙しいわけでも文章が書けない状態にあ...</summary>
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      <![CDATA[１１月２０日

最近日記が書けてないのは、別に忙しいわけでも文章が書けない状態にあるわけでもなく、ただひたすら眠いからだったりする。
今日も、放っておくと何時間で寝てしまう。「寒いなあ」「眠いなあ」と思ってずっとふとんの中にいたらお昼の１２時過ぎまで寝てしまっていた。
５時半過ぎに身支度をして、久しぶりに甲野先生の講習会に出かける。

脳が半分寝てるような状態だったので、甲野先生の技の数々にひたすら感嘆するばかりだった。
もっとお稽古がしたいなあ。

１１月１９日

お稽古に行こうとしたけれど、生理痛が痛いので起き上がれない。
しばらく横になっていたら、お昼過ぎになってようやく痛みが引いてきてまともに動けるようになった。
今日一日結局何もしなかった、というのも休日を無駄に過ごしてしまったようで癪なので本棚を整理して、お部屋の床に積んであった本を収納することにする。
いらない本は処分し、捨てるには忍びないけれどもあまり読んでない本は奥のほうに並べておき、読む頻度が高い本は本棚の前の方に並べる。
内田先生の著書を並べていったが、遂に棚の一列分には収まりきらなくなった。
冊数を数えてみると、２５冊あった。
先日亡くなったピーター・Ｆ・ドラッカー氏が９５年間の生涯の中で執筆した本の冊数が３０＋αであることから考えると、多いと言えば多いのか。
わたくしの記憶が確かならば、この日記を書き始めた時に既に出版されていたのは「ためらいの倫理学」「『おじさん』的思想」「期間限定の思想」「大人は楽しい」「現代思想のパフォーマンス」の５冊だったように思う。この２年間ちょっとの間に約２０冊が出版されているということになるのか。
これでは出版される本の品質が中谷彰宏の領域に近づきつつあるのも無理もない、と思いつつ本の整理を中断してちょっとネットで調べてみたところ、中谷彰宏がこれまでに書いた本の冊数は４００冊を既に超えるらしい、ということが分かった。
......内田先生には良質の本を数多く書いて頂きたいと思った。

本がある程度片付いたら、空間が出来たのでこたつをセッティングすることにした。
温かくて気持ちが良いのでそのままこたつから出られなくなってしまった。


１１月１７日

２日ほど前から、厚着をしていても寒くて寒くて仕方がない。
仕事中もあまりにも寒気がするので全く集中できないくらいだ。
こんなときは現実逃避、温泉、サウナに限る。
ということで、お仕事が終わった後に後楽園ＳｐａＬａＱｕａに行ってサウナに入ってお風呂に浸かる。
温かいっていいなあ。
一生ずっと温泉につかってぼーっとしていられるといいのになあ。
そんなことを考えながらぼーっとする。

岩塩のサウナに入っていると、へそピアスをした白人のお姉さんや中国語を話す３人組のお姉さんが入ってきてそして出て行く。日本はこれまで世界の片隅でぬくぬくとムラ社会を営んできたけれど、国際化の波を逃れられないのだな、と何となく思う。


１１月１２日

ピーター・Ｆ・ドラッカー氏逝去。
享年９５歳。
９５歳の人が老衰で亡くなることは、その年齢からいって仕方のないことではある。
しかし、この方の驚異的な点はこの年齢でも現役の大学教授として講義をしていて、第一線の経営学者として数多くの論文を書き続けていたということだ。
そして、９５年の生涯の中でオーストラリア皇帝退位から世界恐慌、ナチスドイツの台頭に第２次世界大戦を経て日本経済の隆盛と凋落から現在のＩＴ革命に至るまでの世界経済を見続けてきたその見識は、他の経営学やビジネスを説く人間とは一線を画する深さが存在したように思える。
多くのビジネス書が、「短期的には儲かるかもしれないけれども、長期的な観点で見た場合にはこれってどうなんだろう」という事例を誉めていたり、「儲けるためには道義的に反することも行う必要がある」というようなことを述べていたりすることもあるのに対して、倫理・原理・原則のような人間にとって大切なものが経営にとっても大切なのだと語っていた印象がある。
......こんなことを書いていてもわたくしはドラッカー氏の著書を一冊しか読んだことがない。
しかし、彼が「Web2.0」という言葉に代表されるような今後の１０年の間に起こり得る社会や経済の変化に対して、一番正確に予測していたのだろうと思えるのだ。
だが、ドラッカー氏はその変化した後の世界をもはや見ることが出来ない。
ここから先は、自分達の知識や経験を元にして今後の１０年の間に起こり得る社会や経済の変化に対して、何とか生き延びることが要求されているということだ。

目の前の闇を凝視したところで、ただ何か巨大で不気味なものが蠢いているらしいということだけが見えるだけではっきりとした未来が見えるわけではない。
それでも、未来を見ようとした人間、未来がどのような時代になるのかを頭の中に絵を描いた人間だけに未来を予測することが可能であるはずなのだ。
目前に広がる闇の中で小さく光る希望を、見つけ出すことができるのだろうか。。。


１１月９日

「生協の白石さん」がネット上で評判になっているらしい。
とはいっても、「生協の白石さん」はネット上に日記を書いていたり、ブログをやっているというわけではない。
どこの大学の生協にもある、生協の利用者と職員が品揃えなどの要望のメッセージをやり取りする「一言カード」の質問にひたすら回答をしている、ということだけである。
しかし、この「一言カード」の質問に対する回答が超絶に面白く、そして深いと言うことで、「生協の白石さん」が働いている東京農工大学の有志がネット上に「一言カード」の質問に対する回答をアップしたところ、「一言カード」の質問に対する回答をアップしたサーバーがあまりのアクセス数の多さにダウンしてしまうほどの反響を得ることになった。
そんな「生協の白石さん」の人気に後押しされて、遂に「生協の白石さん」の本まで出版され、東京農工大学の学園祭でサイン会を開くまでに至った。ということらしい。
そんな「生協の白石さん」の名回答を一つ紹介しておきます。

<I>Q.愛は売っていないのですか？

A.どうやら、愛は非売品のようです。
もしどこかで販売していたとしたら、それは何かの罠かと思われます。
くれぐれもご注意ください。（白石）</I>

この他にも、「牛を置いてください」「単位売ってください」というような無茶な要望や「豆？」「ナブラチローワ！！」というようなほとんど禅問答に近いような謎かけに対しても、白石さんは丁寧かつ誠実な回答を行っている。
このように、どんな質問に対してもしっかりと受け止めて回答する「生協の白石さん」は、東京農工大学の貴重な宝だ、と思った。]]>
      
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   <title>thes little shop of horors はジャック・ニコルソンの出るオリジナルが面白いです（監督はロジャー・コーマン！）</title>
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   <published>2005-11-07T03:05:47Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:04Z</updated>
   
   <summary>１１月６日 今日は何もすることがないので、１週間分の日記を書いている。 それと、...</summary>
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   </author>
   
   
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      １１月６日

今日は何もすることがないので、１週間分の日記を書いている。
それと、田口ランディさんのエッセイ「馬鹿な男ほど愛おしい」を読む。
最初に「できればムカつかずに生きたい」の引きこもりの兄の死について書かれた文章を読んで激しい衝撃を受けたけれど、でも家族の問題がある程度解決してしまったら徐々に文章から受ける衝撃の度合いが少なくなってしまうものか。。。と思ってしまっていたけれどやっぱりこの方は物凄く才能がある。

１１月５日

まりりんたんと一緒に山本耕史主演の「リトル・ショップ・オヴ・ホラーズ」を見に行く。
１６：５０に渋谷で待ち合わせて、そこからてこてこと青山劇場まで歩いていく。
劇場に入る前に、一応楽屋口と駐車場の入口の位置を確認したけれども、今までのことを考えると楽屋口から出てくることはないだろう、という結論に達したので今回は出待ちなどはしないことにする。
「今回の役はね、花屋で働いている情けない男の人の役なの。そういう役だからずっと冴えない黒縁メガネをかけているの。だから今回のお芝居のパンフレットは買わないわ」と言っていたまりりんたんは、売店で「新選組！」の土方歳三の洋装姿のポスターを発見してしまったらしく、即座に購入していた。

席に座っていろいろ話していると急に劇場の照明が暗くなり、ミラーボールが回り始めてお芝居が始まる。
最近わたくしの視力が急激に落ちてしまったらしくて、まりりんたんから宝塚観劇用高級オペラグラスを借りないと小堺一機と上原多香子の顔が判別できなくてかなり鬱が入ってしまった。
肝心のお芝居は、エンターテイメント性が強くてけっこう楽しめたし、かつて河村隆一プロデュースでソロデビューした時には超絶に下手だった上原多香子の歌もちゃんと聴けるようになっていた。
しかし、ラストが主人公が人食い植物に食べられて終わるという近年稀に見るバッドエンドで少し驚いた。
これと、山本耕史が最初から最後までずっと冴えない黒縁メガネをかけ続けていて綺麗な顔がきちんと見えないことさえ無かったら。。。と思ってしまったけれども、仕方のないことか。

お芝居が終わってから、渋谷の「Bobby&apos;s_Cafe」に行って飲んだくれる。
そこで、大学の学園祭でミスコンを開催することの是非や、ミス＆ミスター東大コンテスト開催にスーパーフリーのＮｏ．２の人間が関わっていたということや、「ネットワーク・ハイ」というのが存在していてネット上に文章を書き込むことで躁病が誘発される場合があるということや、その他いろいろを話しているうちにいつのまにか１２時近くになってしまっていた。
何か物凄く酔っ払ってしまった。


１１月２日

上司のおじさんが出産祝いのお返しとして「超絶においしい中華料理」をご馳走してくれるらしいということで千歳烏山までついて行く。
そこで、貴重な黄色いニラを使った炒め物や、フカヒレと豆腐入りの春巻きや、北京ダックや、鮑とホタテの貝柱の出し汁が濃厚に含まれたリゾット風の炒飯などを頂く。
非常においしい。
最近物事が思うように行かなくて、少し落ち込んでしまっていたけれど、おいしいものを食べると少しの間確実に幸せになれる。
これが「小さくとも確実な幸せ」というものなのだろうか。


１１月１日

猪口邦子新大臣の、青いお姫様ドレスがちょっと凄い。
「１０年前の雅子皇太子妃殿下のご成婚の際に新調したものだ。」ということらしい。
確かに日本に住んでいる限りあのドレスを着る機会というのは滅多にないので、晴れの舞台にあれを引っ張り出して着てみたいという気持ちは分からない訳でもない。
しかし、大臣の認証式にあの青いお姫様ドレスを着てくるというのは、どうなんだろう。
「所詮は、晴れ舞台に嬉々として青いお姫様ドレスを着てくるようなタイプの人間なのだ」ということを世間に知らしめることにはならないのだろうか。
そういえば、猪口邦子新大臣は青いお姫様ドレスだけではなく、同じデザインで色違いのピンクのお姫様ドレスを以前着ていたような記憶があるのだけれど、どうなんだろう。


１０月３０日

今日は毎年恒例のハロウィンパレードが川崎で開催されるので、それに参加する。
ＪＲ川崎駅のホームで待ち合わせをして、会場に向かう途中に「そういえば去年の今頃は『新選組！』に凄まじいはまり方をしていた」「そういえば去年ここで『電車男』は本当に起こったことか作り話か、とか２０代後半の女性がツインテールの髪型にするだろうかということを話し合ったな」ということを話した。　
今年のハロウィンパレードは例年よりもそうとう気合を入れて準備しているらしかったので、特設の受付があり更衣所としてテントが設営されている。
駅前をゴスロリの服を着た人や魔女の服を着ている人がいると、何となくハロウィーンっぽいなと思う。
今年は昨年と異なりＰＲに相当力を入れたせいか、仮装する人もそれを見物する人もものすごく多い。
　
更衣所のテントで、わたくしはメイド服に、まりりんたんはミニスカポリスの服に、まーべらすちゃんはインド人の服に着替える。
着替えてからそこら辺の雑貨屋を見て回って「細木数子キティがかわいくない」とか「リラッくまのポーチがかわいい」とかそんなことを話す。
それから、レストランでオムレツを食べてビールを飲んでいろいろお話などをしていると外から大音量の音楽が流れてくる。ハロウィンパレードの始まる時間になったらしい。
ということで、仮装した人の列の最後尾に並んで川崎の街のアーケードを一回りする。
今年は「スターウォーズ」に登場する帝国軍の兵士の服を着ている人はいなかったけれど、ケンタウルス族のように下半身が馬になっている人や、頭に直径１メートルくらいのお正月の飾り物をつけている人などがいた。頭にかぼちゃを被っている人や、ゴスロリの服を着た人はけっこうたくさんいた。
去年に比べると観客の数が圧倒的に多くて、なんか圧倒されてしまった。
仮装している人々の列や、目立つ仮装をしている人に携帯についているカメラを向けている人もたくさんいた。
パレードの最中には、「ザイン」の黒い服を着たお姉さんと白い服を着たお姉さんの衣装が「プリキュア」の主人公２人に似ているとか、そんな話をした。

パレードが終了して、仮装コンテストの結果発表は興味が無いのでそのまま抜けて着替える。
「さてこれからどうしましょう。」とわたくしが言ったところ、まりりんたんが「去年行った焼肉屋に行って焼肉を食べたい」と行った。わたくしは、去年ハロウィンパレードの後に焼肉を食べに行ったことや、その焼肉屋の場所を完全に失念してしまっていたのでいろいろととやかく言われてしまったが、京急川崎駅の前までいったところで焼肉屋の場所を思い出したので、そこに行って死ぬほどお肉を焼いて飲んだ。
      
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   <title>映画秘宝十周年の夜</title>
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   <published>2005-10-30T01:49:13Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:03Z</updated>
   
   <summary>１０月２７日 そういえば最近日記をまともに書いてない。 多くの本を読んでインプッ...</summary>
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      １０月２７日

そういえば最近日記をまともに書いてない。
多くの本を読んでインプットの量を多くすると、こうして文章を書いてアウトプットをする量が明らかに減ってしまう。
しかし、世の中には内田先生を初めとして尋常ではない量の本を読むのと同時に尋常ではない量の文章を書くブロガーの人々は数多く存在するのだから、やはり時間の使い方をある程度改善したほうがいいのかなあと思う。

１０月２３日

久しぶりに何も予定が入っていない日曜日。
なのでひたすら本などを読んで過ごす。
「街場のアメリカ論」もさくさくと読み終える。
ほんの少し昔なら、このような書き方をしたアメリカ論に対して激しい怒りを覚えた人も多くいただろう。
もちろん、現在でも表面上には表さないけれどもふつふつと激しい怒りを覚えている人は少なくないと推測される。
しかし戦後６０年が経過し、さらにブッシュ政権下で９．１１事件→アフガン侵攻→イラク戦争→ハリケーン「カトリーナ」「リタ」の対応の失敗というアメリカの「暗部」や「弱さ」が露呈する事件が連続して発生する中で日本にかけられた「従者の呪い」というのも少しずつ解けているといった印象を受ける。
これからの１０年間は、日本はアメリカと中国の２つの超大国の間のパワーゲームに翻弄されることが確実である。というより、既にこの２か国間の間の綱引きは開始されてしまっている。
そのような中で日本の外交は大きな変化を迫られており、アメリカに対してもとりあえず追従しておけばよいという訳にはいかなくなり、中国あるいは韓国に対してもとりあえず謝罪しておけばよいという訳にはいかなくなっている。
そのような状況下で、「街場のアメリカ論」を初め多くの「反中国本」「反韓国本」「反アメリカ本」は読まれているのではないかと思った。

１０月１９日

片山さつき代議士や佐藤ゆかり代議士などのいわゆる「女性刺客」と呼ばれる人々をＴＶで見ていて、ずっと心の中に微妙な違和感があったけれどその正体がはっきりした。
社会的地位・お金・他者の承認などの獲得を目指してひたすらに突き進む人々は、社会的地位・お金・承認を与えることのできる立場の人間によっていいように操られるということだ。
人々が羨むような社会的地位を与えられ、高賃金を獲得し、美しく整形し高価なブランド物を身に纏って華々しくメディアに登場したとしても、やはり所詮は「駒」の役割でしかなく「盤上の駒を動かす人間」の都合でいくらでもいいように動かされたり、取り替えられたりするのだという事実が透けて見えてしまう。
官僚の世界や、外資系の金融屋の世界、あるいは学問の世界でサクセスしたいと考えている女子はそれこそ星の数のように大勢存在するが、冒頭に挙げた女性刺客の人々をロールモデルとして自己形成に励む女子はどれほど存在するのか？と考えると微妙だ。
「財務官僚として活躍し、高い地位を得たい」「外資系金融機関で働いて、エコノミストとして評判を得たい」と人々が思うことと、「片山さつきのようになりたい」または「佐藤ゆかりのようになりたい」と人々が思うことが等価になっていない。おそらくそれがキャリアの構築を目指して邁進する女性たちが直面する歪みの現れになっている。

でも、こんなことを書いていても社会的地位・お金・他者の承認などの獲得を放棄して達観できるほどまだ人間ができていない。
とりあえず冬物のお洋服がほしいなあ。

１０月１６日

予想通り？試験がボロボロだったので、過去は振り返らないことにする。
少しおうちで休息を取ってから、新宿ロフトプラスワンに行って、映画秘宝１０周年記念祭を少しだけのぞいてみる。
ほぼ満員状態だったので隅っこの席に大人しく座って、ロシアで製作されたというイッセー尾形主演の昭和天皇の自伝映画や、フィリピンやインドの女性主人公のアクション映画の映像を見る。
周りを見回すと、おそらく今まで新宿ロフトプラスワンに行った中で一番客層が怪しい。
「映画だけに人生の情熱を注いできたんだなあ」ということが外見からも見受けられる人がたくさんいる。

町山氏と柳下氏が司会や映像の解説をしながら、いろいろなゲストが入れ替わり立ち替わり登場してきて話をしたり、映像を流したりしていたけれど、自分の脳内で作成した「スターウォーズエピソード３＿シスの復讐」のストーリーを延々と解説する人や、角川春樹が別荘でＵＦＯを呼ぼうとしていた話や、知り合いの人が心筋梗塞で病院に運ばれるまでに２度心停止した際の凄まじい体験談や、コンビニエンスストアを開店したら精神的にアレな人々ばかりが来店して大変な事になったという話などをする人などが登場して、何だか物凄いことになった。
ふと、入場したのが８時半過ぎで時計を見るともう１１時を回っているのに、対談が全く終わる気配が見られないので近くにいた係の人に「今日の催し物は何時に終わるのですか？？？」と聞いてみたところ、「今日は、allです。朝までやります。」という答えが返ってきたので、明日も仕事があるわたくしはびっくりしてそのまま帰ることにした。とにかく凄かった。
      
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   <title>葡萄漬けな日々</title>
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   <published>2005-10-15T11:32:40Z</published>
   <updated>2006-11-07T12:38:03Z</updated>
   
   <summary>１０月１５日 明日は試験。 そして、明日でこの日記を書き始めてから２年になる。 ...</summary>
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      １０月１５日

明日は試験。
そして、明日でこの日記を書き始めてから２年になる。

昨日の夜にひどい夢を見た。
私はある人とキャッチボールをしている。
私自身はキャッチボールをすることでお互いの感覚が通じ合っていることを確かめ合いたいため相手のお兄さんに向かってまっすぐのボールを投げる。
ところが、相手のお兄さんは私に向かってまっすぐのボールを投げてはくれない。
時には頭の上よりもはるかに高い場所に、時には完全にあさっての方向に。
その度に走ってボールを取りに行くのだけれども、繰り返し繰り返し走りつづけているうちに少しずつ疲弊していく。
しかし、相手のお兄さんは取れそうもないボールでも取って投げ返すことが愛情と信頼の証であると考えているようだった。まっすぐのボールを投げるのではなくて、取れそうもないボールを投げること。それは相手のお兄さんの内部にある不安から生じていて、何かを試そうとし、また何かを守ろうとしているのだろうと思った。
それでも私は走りつづけてボールを取り続けようと思ったけれど、最後に左の足首を捻挫してしまい、その場で「お願い、私は普通にキャッチボールをしてお互いの感覚が通じ合っていることを確認したかっただけなのに！！！」と絶叫したところで目が覚めた。

何だか疲れている。
でも、少しだけ休息を取ったらまた歩き出そうと思う。
やりたい事も、やらなくてはいけないこともたくさんあるのだから。。。


１０月１２日

健康診断に行って来たら、右目の視力が０．５まで大幅に下がっていることを知ってしまい大ショーック。
鬱の状態もひどかったのでそのまま寝込んでしまう。


１０月１０日

合宿の３日目。
合気道三昧の日々も今日が最後。
早朝の練習では、軽く呼吸法をした後に片手取り・後ろ両手取り・横面打ちの入身投げを行う。
朝から体術を思い切り行うと、けっこうハードだ。

最後の午前の練習では、杖のお稽古をする。
「一の杖」「二の杖」「植芝先生の和歌山の杖」の順番に、ひたすら振る。
杖を振っていくうちに、トランス状態になっていくくらいに振るのがよい。
たくさん振っていくうちに、杖が単なる木でできた長い棒ではなく、意志をもった生き物のように思えることがある。そんな風に思える時が、一番杖がいい感じに振ることができているような気がする。

そして最後の昼食でカレーを食べた後、お部屋でこの３日間で行った、太刀取りや二人掛け技の復習をして帰りのバスが来るまでの時間潰しをする。
昼食の時に体力の限界を越えていたせいか、昼食でカレーを食べる前に立ちくらみを起こして倒れてしまった。なので帰りのバスの中ではずっと寝てしまっていた。


１０月９日

合宿の２日目。

早朝の練習では、響きを重視した呼吸法の後に、１日目にもあった片手取り呼吸投げのようなものを４通り行う技を行ったあと、一教のくるくる回る動きを行う。
「調和」ということが大切なのでしょうかねえ、と個人的には思う。

午前の練習は、最初に相半身の入身投げと一教、横面打ちの一教などの体術を少し行ってから、青竹斬りと木剣の横面打ちの動きの１番から３番までを行う。
青竹斬り、というのは１メートルほど離して設置したそれぞれの机の端に茶碗を置いて、その間に青竹を渡してその青竹を木剣で斬ってみる、ということである。
去年の多田塾合宿で、青竹斬りの極意を悟ったような気がしたけれども、今回も青竹を斬ってみたらちゃんと切れた。女子用の細い竹だったけれど。

午後の練習は、足捌きの６番から１４番までを行った後、軽く相半身片手取りの入り身投げなどして、その後に太刀取りの練習を行う。
太刀取りは、講習会などでけっこうな回数を行っているはずだからそろそろ慣れても良いはずだけど、まだ何となく慣れない。
午後の練習の後は、懇親会。
フィリピン在住のＪさんといろいろと話をした後、調子に乗って注がれたビールをかぱかぱと飲み干していたら随分と酔いが回ってきてしまった。
以前ならビール程度のアルコール度数のお酒ではほとんど酔うということがなかった。
でも、少し弱くなってしまっているのかな。


１０月８日

多田塾合宿の一日目。
精神状態はあんまりよくない。
でも、５時３０分に起きて荷物を詰めて、７時３０分に高田馬場のＢＩＧＢＯＸに集合する。
これから３日間は合気道ずくめの生活になるということだ。
行きのバスが到着するまでの間、暫しの間待つ。
３０分ほど待つとバスがやって来たので、荷物を詰めて群馬県の山奥まで出発する。
３連休の初日だったけれど、小雨が降っていたので道路は空いていて、３時間半ほどで宿まで到着する。
途中のパーキングエリアでまりりんたんのお土産用に、舞茸キティのストラップをあらかじめ探しておく。
去年に比べて、群馬・新潟・埼玉方面のご当地キティのラインナップが大きく変わってきていろいろとかわいいデザインのものが揃っている。
特に、ドレスを着た「西武園ゆうえんち」のキティや、トキのかぶりものをしてくちばしをつけて箱に入った「佐渡トキキティ」などがかわいい。今度はこの２つのどちらかを買ってこよう。
１２時少し前に宿に到着したため、午後のお稽古が始まるまで特にすることもないので、お部屋でまったりとする。
しかし、着替える段階になって道着の下に着るシャツを忘れてきたことに気づいてしまい、蒼ざめる。
内田先生のお誕生日祝いに持ってきた天狗舞の瓶はちゃんと入れてきたのに。。。
でもまっすーは帯を入れ忘れていたので、もっと蒼ざめていた。

最初の午後のお稽古は、呼吸法と足捌きの１番から５番までにかなりの時間を割いて行った後、片手取り呼吸投げのようなものを４通り行う技をしたり、その他片手取りの入身投げ、片手取りの転換してからの入身投げ、入身か転換をして相手の背後に回ってから落とす技などを行う。
２時間ほど体術を行ってから倍音声明を行う。
今回は、道場の中央に１７０人の人間で４重の円を作ったのだけれども、真ん中の位置の内田先生の隣を確保したため、女性のソプラノのような音、あるいはパイプオルガンの音色のような音がいろいろと聞こえてきたかも。

食事の後に多田先生のお話。
合気道は百人百様であること、本部道場には教えることを生業としている師範が存在するが合気道そのものを研究している人はいないこと、その時代時代のの社会に役立つ人間を育成する「心学の道」と、世界の真理や命の源につながる方法を探究する「心法の道」が存在するということ、かつて植芝先生が「私は神道的表現で説明するが、君たちは君たちの方法でそれぞれの時代に合った説明をしなさい」と語ったこと、命の力の高め方と命の力の使い方を追及したものが合気道であること、などを仰られる。
その後は多田先生の非常にすばやい動きの過去の演武会のビデオを見る。


１０月２日

他にたくさんやらなくてはいけない事があるけれども、ついついとネットを見てしまう。
「Avexのま猫騒動」や「元Tarzan編集長のブログ大炎上」「エアロバキバキ君騒動」など、金曜日の夜から今日にかけていろいろとネット上で事件が発生している。
それらのログを見ているだけで随分と時間を取られてしまった。
とはいえ、試験勉強も進んでいないし他にやらなくてはいけないことがいろいろ存在するのですが。。。


９月３０日

最近妙に調子悪いなあと思っていたけれど、今日は遂に空けてはいけない精神の暗黒面の扉が空けっ放しになっているようで、様々な邪念が脳内の中に流れ出してきてしまう。
非常に具合がよろしくない。
しかし、同時に何か悪しき物が断末魔を上げながら倒れていっている気配がする、そんな予感もする。

追記：今日は内田先生の５５歳のお誕生日でした。おめでとうございます☆


９月２５日

本部道場で多田塾研修会の日。

少し話が脱線してしまうけれど、先週焼き肉に行った際にまりりんたんに「武道関連の話は興味が無いのでつまらない」と言われてしまった。しかし、タイトルにこういう名前がついているので武道関連の話が全く無いというのも妙な話で。
中島らものエッセイの中に、「町で偶然『喫茶なかじま』というお店を見つけて、苗字が自分と同じだということもあってふらりと入ってコーヒーでも頼もうかな、と思ったけれど中に入ってみると客がカウンターに並んでうどんをすすっていた。『きつねうどん一丁！』と注文する勇ましいＯＬもいた。そこでコーヒーを注文してみたけれど、肩身が狭かった」というような内容の文章があった。関西にはそういう看板と中身が違っている喫茶店がけっこうあるらしいけれど、わたくしはタイトルに「Ｑ伝ミカのＯＬ武芸帳」というタイトルがついているのに情報空間上の最新学説やブログ炎上や本日のおかずなどしか書かれていないブログになっているという、まだそこまでの勇気はない。

ていうことで研修会の話に戻してしまいます。
本部道場で正座をしていた内田先生にご挨拶をして、暫しの間柔軟体操などをしているとＫ錬会の人々がわらわらと集まってくる。
この日行ったことを箇条書きにすると以下のとおり。
・呼吸法
・足捌き
・二人掛け
・太刀取り
呼吸法と足捌きは両方とも１時間ずつ時間をかけて入念に行う。
特に、足捌きの方は、継いで送る足と一歩出してから継いで送る足を厳密に区別するようにリニューアルされたため、ちょっと分かりにくい。
でも、長年やってきている人間にも初心の「分からないかも」という感覚を追体験させるのが多田先生の目的なのかなあと思う。
二人掛けと太刀取りは、前回の本部道場主催の研修会の時に比べると大分ましではあるけれども、やはり人数が多いのでちょっと狭い。しかも二人掛けの表と裏の区別がよくわからない。
ああ、でも今この文章を書いていて二人掛けの表と裏のかけ方が脳内に閃いた。
何でその場で分からなかったのだろうと思うとちょっと悔しい。
      
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   <title>不幸な女子にかけられた呪い</title>
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   <published>2005-09-26T01:08:42Z</published>
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   <summary>９月２３日 愛知万博に行こうとして入場券を格安チケットショップで購入したけれど、...</summary>
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      ９月２３日

愛知万博に行こうとして入場券を格安チケットショップで購入したけれど、名古屋までの交通機関をあれこれ調べていくうちに面倒くさくなってしまった。
今日の入場者数は一日で１８万７千人になってしまったとか、日立館では８時間待ちになってしまったとか、２ちゃんねるの万博板がアクセスが多すぎて落ちてしまったとか、ものすごい話を聞いたので行かなくてよかったのかな。

９月１９日

今日は「Ｋ錬会の至宝」Ｋ藤夫妻の結婚式があった。
なので、新宿の丸井で直前に白のショールを購入してから２次会に参加する。
２次会の開始５分前くらいに到着して、化粧室で白のショールをあれこれと結びなおしていたり、ちょっと化粧直しなどをしていたりすると知っている人が入れ替わり立ち替わりやってくる。
事前に、「会場のワインバーは１００人ほど入れるから何人来ても大丈夫」と聞いていたけれど、実際に行ってみたらＫ錬会関連の人々や、Ｋ藤くんの研究室の人々や、まっすーの勤務先の人々などで人があふれんばかりになっていて、全員が席に座れない状態だった。
これもお２人の人望の成せる業なのでしょうなあ、と思った。
大変な混雑の中で乾杯し、Ｓ賀さんの司会で、２次会が始まり、結婚式の衣装に身を包んだＫ藤夫妻が登場する。
その後にご歓談タイムがあり、いろいろな人に挨拶をする。
あまりにも人が多くて、話しかけようとする人を探すのも動くのも食べ物を取りにいくのも非常に大変だった。
２代目のＳ井さんと最近のＫ錬会のことなどをいろいろと話していると、突然照明が暗くなり、窓の所に掛けれられていたスクリーンにＫ藤夫妻の出会いからプロポーズまでを綴ったビデオが映し出される。
この、２人の馴れ初めを綴ったビデオがものすごく面白かったので、会場に爆笑が起こる。
おおと思ったのは、多田先生のお宅に年始のご挨拶に伺った時に、Ｋ藤くんがまっすーに酔って絡んで「ねえ、結婚しよう。結婚しようよ」とプロポーズをしている動画があったことだ。
というか、ああいう映像を誰が撮影していたんだろう。。。
その後も、会場のあちこちに隠された景品を探すゲームや、１０人ほど代表を出してお題に沿っておもしろい写真を撮って来るというゲームが行われ、会場に爆笑の渦が絶えなかった。

いろいろ企画して準備していただいたＳ賀さんのおかげです。どうもありがとうございました。

そろそろ会もお開きかも･･････というようなタイミングで「それでは不幸な人はご起立ください。ただし女子限定です」というアナウンスがあってブーケトスが行われたのだけれども、まっすーの投げたブーケはなぜか天井の隙間に挟まってそのまま落ちてこなくなってしまい、前の方で待ち構えていた女子が唖然としてしまいもう激しく笑うしかないわね状態になってしまった。
でも非常に楽しい会になったのではないかなと思う。

９月１７日

３連休１日目の今日は焼肉を食べに足立区のはずれまで行ってきた。
昼過ぎにまりりんたんと待ち合わせをして、まずは高島屋に行って、なわとびと結婚式の２次会用のショールを見に行ってきた。
なわとびなんてものはどこにでも売ってそうなものだけど、凄く下の一般のお客に見えないところに並べられていて探すのに手間取ってしまった。なわとびは小学生くらいしかやらないと思われているのだろうか。
なわとびを購入した後に、フォーマル用品のコーナーでショールと、ついでにドレスも見て回る。
ショールっていうのは、、、布地屋さんで適当に化繊のシフォンの生地を買ってきて、裾がほつれないように熱処理をして、あとは見た感じが綺麗になるように曲率をつけておけばそれで出来上がり、という感じだけど、どうして１万円以上もするのかしらと思ってしまう。
とはいえ、最近は気力と時間が足りないので、３年前にまりりんたんの誕生日のためにアメリカのドラマに登場するウェイトレスの制服を作ったように手芸に時間をかけることができないというのがなんとも。
その後に１時間ほどカラオケ。
最近ずっとカラオケに行っていなかったのでどうもいまいち上手く歌えない。
右脳の働きがちょっと衰えているのか、、、ちょっと嫌だ。

それから電車で赤羽まで行って、赤羽駅の東口でＭ本氏と合流し、さらにそこからバスに１５分ほど乗って、焼肉屋「スタミナ苑」まで向かう。
お店の概観はそれこそ本当に「じゃりん子チエ」に出てくる下町のホルモン焼き屋のような店構えであるけれど、それでも既に３０人ほど行列ができている。
なので、まりりんたんがアルバイトの面接に行ったときに遭遇した出来事や、ブログを書くことの利点などについて延々と話す。
１６：３０になると、列が移動して店員さんが事前に聞いていた客の人数を元に効率的に人々を店の中に詰め始める。
狭いと思っていたお店の奥に離れの座敷席もあったので、何とか座ることができた。
そして、ブログを書くことの利点の続きや定期的に読んでいるブログについて、それからまりりんたんが以前勤務していた会社で発生した信じがたい出来事の数々について（この話はあまりにも凄まじいので本人の許可がとれたら一度文章化してみたい）などを話しながらお肉を焼く。
雑炊は最初に注文を聞いてから１時間かけて作るということだ。
話が（通常どおり）盛り上がっていたら、店員さんにデザートを勧められたり、店長らしき人に「あの......そろそろ２時間が経過するので......そろそろお勘定を......。」と言われてしまった。
２２００円の上ロースや上カルビなどを頼んでけっこう食べたと思ったのに、代金は３人で５５００円と意外と安かった。
しかし、使っているガスコンロが本来はホルモン焼き用に最適化されているせいか、肉を焼いた時に付着する焦げたような風味がわたくしにとっては微妙な感じだった。
まりりんたんやＭ本氏はおいしいといっていたからわたくしだけなのかも。
でも、最後に頼んだギアラや、雑炊やキャベツと海苔のサラダは以前に聞いていたとおり噂通り絶品だったと思う。
しかし、遠いからなあ。また行くかどうかはちょっと微妙だ。
それから再び赤羽に戻って、赤羽駅前天狗に行って飲む。
天狗では、「すてきなリー様」という、わたくしが今までの人生で一番女性にもてまくっていた人物の話をしたり、ソーシャルネットワークサービスのいろいろについて話したりした。
そんな感じでＭ本氏の終電くらいの時間に天狗を出た。
久々に、ものすごく飲んだような気がした。

９月１４日

今日がだんじり祭りの初日ということだ。
ちょっと前に「ＳＰＡ！」か何かで、「同僚が退職した理由でもっとも不可解だったもの」という記事の筆頭に、「一流商社マンでせっかく栄転でニューヨーク勤務が決まったというのに、『海外勤務になったらだんじり祭に出られないから』という理由でそのまま退職してしまった」という文章を読んだ時にもかなり驚いたが、江さんの日記に「祭前の夏や直前の８月に会社やそれまでの仕事を辞めるケースにもしばしば遭遇する」という内容の一文を読んで「ひえーっ」と思ってしまった。
そこまで人を熱くさせてしまうだんじりというものはいつか見に行かなくてはいけないだろう、と思いつつも今週は仕事が溜まっていてとても「だんじりを見に行きたいので休みを下さい」と上司のおじさんに言えるような雰囲気ではなかった。
でも、ものすごく熱いんだろうなだんじりというのは。

９月１３日

内田先生と池上六郎先生のトークショーがあるので、お仕事が終わってから青山ブックセンターへ向かう。
このあたりの町並みはものすごくハイソではあるけれど、この過剰にハイソでおされな感じがどうしても肌に合わない。
そんなことを考えながら表参道から渋谷への道をひたすら歩く。
青山ブックセンターに到着した時には開始５分前くらいになっていて、席がだいぶ後ろのほうになってしまった。
それでも始まるまで少し時間があったので、会場後ろの書籍販売コーナーに並んでいる本を眺めてみることにする。
「身体の言い分」やその他の内田先生と池上六郎先生の著書のほかにも、「お２人が推薦した著書」というのも販売されていており、山田昌弘氏の「希望格差社会」や、平川さんの「反戦略的ビジネスの薦め」や、現在ブログのコメント欄が大変な事になっている町山智浩氏の「バカでマヌケなアメリカ白人」や、佐々木正人先生のアフォーダンスの本などが並べてある。そういうものを見ているだけでも面白い。
それから５分ほど経過してから、内田先生と池上六郎先生が会場に入ってきて、トークショーが始まる。

池上六郎先生が「少し前まで、お年寄りといえば腰を９０度くらいに曲げて杖をついているのが普通だったんですが、あれは社会的通念が『お年寄りは腰が曲がっているものだ』となっていて、腰を曲げていても変な人に思われていなかったから曲がっていたんです。」「ときどき相当の年配の方で私のところに治療にくる方がいらっしゃるんですが、ここで治療して元気になったとしても、それから後の人生にいったい何をするんでしょうかねえ。ははははは。」などと過激な発言をなさる度に、会場の人々がどっかんどっかんと笑いが生じる。
この、緊張を一気に解きほぐすような感覚が池上先生の治療者としての能力につながっているのだろうか。
他にも、
・何かにものすごく我慢をして、イライラして不快な気分になっている人間のもっている不快感というのは、絶対に周囲の人間に伝わっている。「周りの人間にために我慢してやってるんだ」と思い込んでいる人間の周囲にいる人間は絶対不幸になっているはず。
・昔船乗りをしていたときに、アフリカの某国の港に停泊していたら船に盗賊が侵入してきた。なので船員で袋叩きにして縛り上げてその国の警察に突き出した。そうしたらその警察の人間は自分の目の前で盗賊の腕を折った。そのことを親戚や知り合いに話したけれど、誰にも信じてもらえなかった。けれど親戚の男の子が同じく船乗りになって、アフリカの某国に行って、船に進入してきた盗賊を捕まえて警察に突き出したら、やはり警察の人間が自分の目の前で盗賊の腕を折った。その時に自分の話を初めて信じてもらえた。自分達の常識を凌駕していることはなかなか口で言っても信じてもらえないようだ。
というような話があったように覚えている。

トークショーのあとに質疑応答があって、その後にサイン会。
間近で見た内田先生は、小学校で飼われているウサギレベルに目が充血して辛そうだったので、「お疲れ様です。。。」と言ったきりそのまま絶句してしまった。

９月１２日

選挙が終わった。自民党の凄まじい勝利に終わった。
新聞やテレビでは、「民主党が勝つのではないか」という報道も多く見られたけれど、大きく外れてしまった。
様々なメディアのうち、２ちゃんねるだけを熱心に見ていた人間が今回の選挙結果を正しく予測できたというのは皮肉な事だ。というか普通に考えたらおかしいだろうと。

どうしてこのような結果になったのか、ということを考えると「自民党が大勝した」というよりは「民主党が敗北した」ということの方が大きいようにわたくしには思える。
造反議員の選挙区に女性刺客を立てて、争点を郵政民営化に絞って、選挙日をわざわざ９月１１日に設定して、ワイドショーで多くの時間を選挙関連の報道が流れるようにしても、投票率の上昇は６ポイント程度に留まった。
これほどまでに「今回の選挙は、今後の日本の未来を決定する重大な選挙である」ということが言われていても３分の１の有権者は投票に行かなかった。
それよりも、従来民主党が強いと言われていた都市部で、大幅に自民党に議席が流れてしまったということが大きい。特に東京では、２５の小選挙区のうち、自民党が獲得した議席が２３・民主党が獲得した議席が１・公明党が獲得した議席が１とまさに自民党の圧勝という勢いであった。唯一民主党が獲得できた議席である東京１８区の菅直人の議席も、元の吉祥寺市長である自民党公認の候補と激しい戦いになり、日付が変わる直前にやっと当選確実が出たという状況だった。
（上司のおじさんから聞いた話では、菅直人は何かのきっかけにアメリカの金融界を牛耳る某ユダヤの財閥の総帥の激しい怒りを買ってしまって命を狙われており、そのせいもあって今回の選挙では菅直人を落選させるように激しい圧力をかけているようだ。まあ、危ないホームページに載っていた単なる噂だけれど。ということであったけれども、その話を単なるガセネタだと無視することもできないような感じである。）

このような民主党の大敗北は、メディアが喧伝するように「自民党勝利の予測が出て、勝ち馬に乗ろうと選挙民が自民党によってたかって投票した」「２０代～３０代の若者層が小泉戦略にまんまと乗せられてしまった」ということによって引き起こされたものではない。
もちろん、小泉首相の「確固たる意思」に引きずられてしまった層も少なくは無いだろうけれども、多くの有権者（それも前回民主党に投票して今回は自民党に投票した人々）は、「日本の危機的状況を打破できるのは小泉純一郎という人物か、それとも岡田克也という人物か」ということを熟慮した結果、自民党に投票したのだろう。

今回の「小泉劇場」と呼ばれる選挙戦の仕掛けは少なくない人々が見抜いている。しかし、この騒々しい「小泉劇場」を仕掛けられて、民主党の人々が正しく返し技をかけることができなかったのではないかというのが一番の敗因ではないかと思われる。
「自民党は党内の歪みを解消できた。民主党の内部に存在する旧社会党の面々はどう処理する？」「イオンの社長一族の人間が本当に弱者の味方に成り得るのか？」「民主党が政権をとったら、政策が中国寄りになったりしないだろうか？」という人々の疑問を消すことができなかったことや、選挙戦の間に、岡田前党首が「地方の郵便局に貯金を預けているような人々に１０００万円以上を預けている人はいない」と発言したこと、ＴＶ番組で各党の党首が選挙に対する思いを色紙に揮毫するように求められた際に、岡田前党首が「政権交代」と書こうとして「交代政権」と書いてしまったことなど、民主党の自殺点になると推測される行動が目立ったこと、民主党を支持していた都市在住リベラル層に「政権交代を達成することができれば、このようなことが発生する」と訴えることができなかったことなどが敗因となるのではないだろうか。

何だか書いているうちにまとまらなくなってきた。
この他にも、今回の選挙には「従来のマスコミの影響力とネットメディアの影響力」の問題、内田先生が既に書かれたように「『弱者』を名乗り利益を主張する弱者と、『弱者』を名乗り利益を主張する弱者を激しく敵視する、自分のことを弱者と思っていない弱者」の存在が大きく絡んできている。この２つについては詳しく書く余力がないけれども、この２つの点についても自民党サイドは上手に立ち回り、民主党サイドは後手後手に回った印象を受けた。そんなところだと思う。

とは言え、自民党圧勝の選挙結果を見て少し不安になってきたのもまた事実。
      
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   <title>日本はどうなる</title>
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   <published>2005-09-12T01:21:04Z</published>
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   <summary>９月１１日 ところで今日は選挙だ。 ということで、投票に行ってきた。 単純に気が...</summary>
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      ９月１１日

ところで今日は選挙だ。
ということで、投票に行ってきた。
単純に気がついた事を書けば「これまでになく投票所に人が多い」ということに尽きる。

私は小泉純一郎という人物が構造改革を成し遂げるとは思えない。
しかし、小泉内閣というのは、「郵政利権や、道路利権や、闇の勢力に強いつながりを持つ政治家を失脚させない限り構造改革など一歩たりとも進まない」ということを明らかにした。最初に掲げた公約がほとんど実行されていない、と批判する人間も多いけれど、その点については小泉内閣が果たした役割は大きい。
そして、今回の選挙によって「旧来の自民党を壊す」という目的が完遂されるわけだ。

私は何を信じるのか、と聞かれたら小沢一郎のビジョンを信じる。
それはすなわち完全に古いものが壊れた跡地に新しいものを作るということであり、会社経営に例えればＶ字回復の経路を辿るということだ。今回は「完全に壊すべきものを壊す」という段階であり、次に「新しい在るべきものを構築する」という段階が訪れるだろう。
これが正しい選択であるかどうか、不安な部分もある。
それでも、今回は必ず何かを選択しないとならない。
複数の選択のうち、「何も選ばない」という選択が最悪なものであるのだから。

･･････とここまでがお昼に書いていた文章。

今、開票速報を見ながら書いているのですが、結果は凄まじいほどの自民党圧勝である。
どうしたんだ民主党。どうしたんだ都市型リベラル派。
こうなる予兆は無くはなかったけれど、それでもいろいろと、予想を裏切られることになった。

９月８日

作家の見沢知廉氏が飛び降り自殺した、というニュースを聞いた。
とはいっても、この人の「天皇ごっこ」「調律の帝国」という作品を全部読んだわけではない。
「天皇ごっこ」が文庫化されたときに、その文庫版の後書きをＭ台Ｓ司が書いたというので、それに目を通したくらいだ。
しかし、この「天皇ごっこ」の文庫版の後書きの中で、Ｍ台Ｓ司が初めて「輝ける天皇ロマン主義」ということを言い出したのがけっこう重要な事だと思っている。
この「輝けるロマン主義」という概念がＭ台Ｓ司のフォロアーに引き継がれており、例を挙げると北田暁大氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』の中では、国家や純愛や電車男にハマるネットワーカーの特徴として「アイロニー（嗤い）」の指向と「感動を希求するロマン主義」の指向が共存しているということを論じている。

「で、だから何？」と聞かれても、作家の見沢知廉氏が飛び降り自殺した、というニュースを聞いてえらいことびっくりしたということと、Ｍ台Ｓ司が鬱になる要因がまた一つ増えたな、と思ったくらいだ。
Ｍ台Ｓ司の名前が出たついでに少し書いておくと、彼が結婚したというニュースがあまり世間に広く流布されていない（と、少なくともわたくしには感じられる）のはどうしてだろう。
自己不全感に悩む少女達を援助交際するように煽っておいた挙句に、東大教授の娘と結婚して、かつ結婚する時に「うちの家庭はクリスチャンなので、浮気することも離婚することも許さない」という誓約をさせられたということを聞いてしまうと、梯子を外されてしまったように思ってしまう女子が少なからず存在するからだろうか。よく知らないけど。

９月７日

最近、ブログ空間上で大学のコピペレポート論争が発生しているみたいです。
ということを、先週日記の文面を添付したメールに書いて内田先生に送付した。
その時には、「剽窃と霊感の間」のエントリーの内容を完全に忘れていて、後でそのことに気が付いて蒼ざめてしまった。
まあ仕方がない。よくある事だし。
その後に、大学のコピペレポート論争について書かれたブログを読んでいくうちに、少し自分の中で気になったことが出てきたので、エントリーに起こしておこうと思ってしまった。

課題としてのレポートが最低限満たすべき条件として、下の３つが考えられる。

レベル１：最初から最後まで、レポートの文章は自分で書く。
レベル２：他人の文章からの引用と自分の意見は区別する。他人の文章からの引用の場合には出典を明記しておく。
レベル３：他人の文章からの引用、過去の知的資産の流用にとどまらず、自分オリジナルの見解や意見が記載されている。あるいは、過去の知的資産を引用してこの場にレポートの形にして提出することの意義がはっきりしている。

（インターネットやgoogleが発達していなかった）従来なら、大学のレポートにおける問題というのはレベル２かレベル３の程度で議論されていた。例え他人のレポートを丸写しするような場合でも、一応は自分の手で文章を最初から最後まで書かないとならなかった。しかし、インターネット上に大量の知的資産が蓄積されるに従って、他人のBLOGの文章やはてなキーワードやWikipediaの解説をそのままコピー＆ペーストして、多少の修正を加えてレポートの体裁を整えて（ひどい場合にはレポートの体裁すら整えないで）そのまま提出しているという話を聞くと、それはさすがにどうなんだろうという気がする。
更新の程度が１～２週間に一度というヘタレブロガーであるわたくしでさえ、何かお題が出て２０００字程度のレポートであればそんなに苦もなく書くことが可能である。
ほぼ毎日エントリーをアップしているブロガーなら、息を吸って吐くが如くにレポートを仕上げることができるだろうと考えられる。（もちろん、一行日記や写真のみをブログにアップしている人々はそうではないだろうけれど。）
その一方で、文章を書いて自分の意見を表明する機会に横着して、ＷＥＢ上のテキストを切り貼りして提出する人々もいる。
機械が発達したり交通機関が発達したせいで、人間が重いものを持ち上げたり長距離を走ったりする必要性は昔ほど無くなっている。しかし、インターネットが発達したからといって文章を書く能力の必要性は無くなったわけではない。むしろ、以前より重要性を増している。
文章を書くことに習熟した人々と、文章を書くことを回避した人々の差というのは取り返しのつかない差になってしまうのではないかと思う。でも、このような二極化の傾向は止まらないんだろうなと。

９月５日

プチ断食でも通常の断食でも、大事な事は、断食を行った後に完全に食を絶っていた期間と同じくらいに、流動食を摂取して胃の働きを徐々に戻していくということらしい。
という訳で、今日の晩ごはんはコンビニで買ってきたおにぎりをお湯で溶かして、それに万能ねぎと卵を加えて雑炊にして食べる。
この３日間プチ断食を試みてみたけれど、感想としては「２日間くらい抜いていても意外と大丈夫じゃないか」ということだ。
多田先生が以前仰っていたように、これから２日間絶食するのだと強く念じていればそれほど空腹を感じないように思えるのだ。

身体の調子はよくなったけれども、９月１日付けのＢＵＢＫＡに甲野先生を誹謗する記事が掲載されていたことを思い出すとどうしても気が晴れない。
甲野先生本人に伝わるような形ではなく、ああいう「裏系」の系統の雑誌に掲載させるということ自体、所詮その程度の人物でしかないのだろうと思う。しかし、突出した才能の持ち主がリスペクトされるのではなく、人々の負の感情に足を引っ張られてしまうことが多い時代なのだ、ということを思い知らされてしまう。
      
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   <title>お祭り終わったそのあとは</title>
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   <published>2005-09-04T11:52:02Z</published>
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      ９月４日

プチ断食の２日目。
この文章を書いている今のところは、まだ断食励行中。
水とＣＣレモンとけっこうな量の紅茶は口にしたけれど、「この２日間は食事を口にしないのです。」と自分に言い聞かせるとけっこう空腹を気にすることはないのだなということを実感する。
でも、明日からはお仕事に支障をきたすかもしれないので、今日の晩からは少しずつ消化の良いものを摂取して元の状態に戻しておこうかなと。

９月３日

昨日の夜に見た夢の内容が現実のものになってくれればいい。という夢を見た。
実際には何度かあったチャンスをなかなかつかむことができない状態が続いている。
でも、この夢の内容が現実のものになっている場面を本当に強く強く渇望している。
最後にはちゃんと手をつないで、笑っている映像を頭に浮かべてみる。

最近の自分の精神の不甲斐無さに、非常に呆れ果ててしまっているので今週の週末は突発的にプチ断食を励行することに決定した。
清涼飲料水の類と、後輩のみなさまから頂いた日本各地のお土産と、Ｉ藤くんが作って持ってきてくれた黒ごまのケーキのかけら（約２立方センチメートルくらい）は有り難く頂いたけれども、それ以外の食料は一切口にしていない。
それでも今のところはけっこう気合でなんとかなっている。

９月２日

自分の行動の詰めの甘さと、最近のどこか集中力を欠いた感じがものの見事によろしくない結果をもたらして、「それは自業自得だ」と言われても、「はいその通りです。申し訳ありませんでした。」としか言えない、そういう非常に悔しくて悔しくて仕方のない一日。

８月２９日

月曜日。
職場から速やかに戻ってきて「スローダンス」を見る。
この「スローダンス」というドラマは、安易にコミックや映画から原作を採用せずに、きちんと正面から恋愛ドラマを描いていこうという姿勢がいい感じなので、いままでずっと見てきている。
でも、視聴率的には初回に２２．５％を叩き出したけれどその後は１５％から１７％くらいの数字を行ったり来たりしている。
今回のクールでは、「電車男」が平均約２０％の視聴率で人々の事前の予想を激しく裏切ってトップをひた走っており、「スローダンス」はその次くらいだから決して悪い数字だと言うわけではないけれども、でも広末涼子の出産後初復帰作であり、深津絵里・妻夫木聡・藤木直人が出演しているということを考えると、ちょっと微妙な数字だということになるのだろうか。
わたくし的には恋愛の切なさや痛さというものがきちんと書かれている脚本だと思うのだけど、ブログ上にドラマについてのエントリーをアップしている人の文章を読むと同じようには思っていない人もいるようだ。
諸般の政治的な事情で小林麻央が重要な役どころで画面に映る以外は、面白いと思うのだけどなあ。きちんと毎週１時間の時間を確保して、ドラマを楽しむという習慣がなくなりつつあるのかも。とりあえず話のあらすじだけを理解しておきたいという姿勢でドラマを見ている人だと、話のテンポが遅く展開が読めてしまうと思ってしまうのだろうか。

「電車男」は主人公のお兄さんの演技が達者なのと、それと劇団ひとりが非常にリアルなヲタクを演じていたりなど、その他いろいろ通常の連続ドラマではまず出てこないような人が数多く出演していたりするので決して面白くないものではないけれど、でもなぜこれが平均約２０％の視聴率を叩き出しているのかは、かなりの謎。
でも、強いて言えば、データには表すことができないしうまく説明することもできないけれど、得体の知れない熱気がドラマの底流に流れているのではないか、と思う。
で、この得体の知れない熱気は、特に注目も期待もされていなかった故に、純粋に面白いものを電波に流していこうという気合から生じているものではないのかなと思ってしまう。

８月２８日

おとといの午後からずっと寝ていたらほぼ風邪の症状が全快した。
ということで、軽く読書などをすることにする。
でネットの一部で「つまんない」と評判になっている、鈴木謙介氏の「カーニヴァル化する社会」を読んでみた。
で、最初に一読してみたのだけど、いまいち脳の中に言葉が入り込んでこない感じなので、少し読むスピードを落としてからもう一度読んでみる。
･･････うーん。何だろうな、この感覚は。
ネット上に頻発する「祭り」や「炎上」という現象を通して、何が言いたいのかということは何となくではあるけれども理解できるし、このお兄さんが非常に多くの知識量を持っていることも十分に分かる。
しかし、大量の情報とそれに対する分析が脳内を通り過ぎるだけでどこか言葉が「腑に落ちていない」印象を受けてしまうのだ。書いている本人もどこか自分の書いていることについて完全に納得している訳ではないというような。
ネット上に発生する「祭り」とだんじりのようなコミュニティに根ざした従来型の祭りとは何が根本的に異なるのか、人々がネット上の「祭り」を発生させるエネルギーは何に由来しているのか、就業の機会を奪われニート化した若者は何故にネット上の祭りを希求するのか･･･。ネット上に頻発する「祭り」や「炎上」という現象に着目した点は面白いのだから、読む人間が納得して脳内がきちんと整理されていくレベルでの深さの分析というものがあればもっと良いのかなあとも思った。

同い年で、自分の考えを新書として出版することのできる立場に嫉妬していないと言えば、嘘になる。しかし、本を出版することのできる立ち位置を確保するということだけでも大変なことだったということは十分に理解できることであるし、だからこそ師匠のＭ台Ｓ司が到達した場所よりもさらに遠くの位置まで辿り着いて欲しい、と思ってしまうわけなのですが、どうなのでしょうか。
      
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