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2004年12月 アーカイブ

2004年12月05日

そこら辺の理科一類のお兄さんと交ぜるとわかんなくなりそうな地味な服装の細身の綺麗な人

12月3日

 全身に澱のようなものというか、砂のようなものがたまっているような感覚があって、身体が相当に疲れやすくなっているような感じで違和感がある。
 できることなら、休みを取って十分に睡眠を取って体の中にある老廃物を全て排出してしまいたい。
そんな気分だ。

12月1日

 早いものでもう12月。
 今日は残業が終わった後にまりりんたんと待ち合わせをして、まず新宿の駅ビルでロシア料理を食べる。寒くなってきたので、つぼ焼きもボルシチもドリアも食べたくなってしまってなかなかメニューが決まらない。結局つぼ焼きとドリアのコースにボルシチも追加注文して3つとも全部食べてしまう。
 その後、まりりんたんが「サインだけではなく写真も一緒に撮ってもらいたい」というものだから、再度山本耕史の出待ちを試みる。
 けれど、今日は出待ちをしている人が待っている通用口とは違うところから出てしまったらしく11時30分まで待っていても空振りに終わる。
 もうすぐまりりんたんのお誕生日なもので、「人生において何かほしいものはありますか???」と聞いてみると「歳さま☆」と答えられてしまった。さてわたくしはいったい何を買って渡せばよいものかと悩んでしまう。 

11月28日

 今日は堺さんの出演している劇「喪服の似合うエレクトラ」を見に行った。
 今日もまた新宿から初台まで歩いていく。
 新国立劇場は非常に立派な劇場で、建物もものすごく綺麗。
 客席に座って周りを見回してみる。先週新宿に「リンダリンダ」を見に行ったときと比較すると、比較的年配の方も多いように思えた。けれど、大部分はわたくしと同様に「新選組!」を見てから堺さんのファンになった女子どもであるように見えた。
 パンフレットを買って、まりりんたんにメールを打って座席に座って暫しの間待つ。
 今回の席は座席と舞台との間が結構近そうな感じなので、嬉しい。
 
 この劇の構成は3部構成になっていて、堺さんは第2部からの登場。
 でも、堺さんがまだ登場しない第1部からけっこうこのお芝居に圧倒されてしまった。
 日本人の感覚で見ると、絶対に口にしてはいけないはずの秘密や心の奥底にあるはずの葛藤を平気で口に出したりするので相当にびっくりしてしまうのだけれども、慣れるとけっこう楽しかったりする。
 全てのことが台詞上で表現され、ノンバーバルなコミュニケーションが一切排除されている、という世界観は有り得ないと言えば有り得ないけれども。
 愛、憎しみ、欲望、束縛、死、そのようなものが渦巻く凄まじいお芝居で、かなりの頻度で役者の誰かが絶叫していたりする。異様といえば異様なのかもしれない。
 そして第2部から堺さんが登場すると、舞台から目が離せなくなる。
 堺さんは顔も綺麗だし、声も綺麗なのだけど、一つ一つの動きに圧倒的な「切れ」と「冴え」があるのが舞台系の役者として凄いところだと思う。
 特に、愛人と共謀して父親を殺害した母親に言いくるめられて、母親に抱きついてベタベタと甘えているところにお姉さん役の大竹しのぶが「オリン!」と堺さんの役名でえらくドスの利いた声で呼ぶと、まるでおもちゃの兵隊か何かのようにパッと立ち上がって20度くらい反り返って直立不動の状態になる、というシーンがあるのだけれどもそのシーンの動きの「切れ」と「冴え」があまりにも凄いものだから、全然笑いどころではないシーンなのに、会場のあちこちから笑い声が起きていた。
 堺さんは前に「はなまるマーケット」のトークの中で「血圧が上がるようなことがあんまり好きではないので、休みの日には運動などは一切しない」と老人のような事を語っていたけれども、きっと武道をやらせても物凄い動きをするのではないかな、と思った。 
 上演時間3時間45分というお芝居は、その長さをまったく感じさせず、あっという間に終わってしまう。
 
 そして、お芝居が終わった後にまりりんたんと合流して、2ちゃんねる等でやってはいけないと指摘されていた出待ち行為を試みることにした。
 わたくしはお芝居関連のことにはあまり詳しくないのですが、劇団四季や宝塚の公演と違って「出待ちをしている人」というのが非常に珍しいらしく、楽屋口の近くで待っていると、出てきた推定40歳前後のお姉さん5,6人に「堺さんを待っているの?」と声をかけられたりしてしまった。そんなに目立ってしまっているんだろうか。
 心の中でで「身長172cm前後で、そこら辺の理科系の大学院生と交ぜるとわかんなくなりそうな服装の人、身長172cm前後で、そこら辺の理科系の大学院生と交ぜるとわかんなくなりそうな服装の人…。」と念じながら楽屋口から出てくる人全員を入念にチェックしているのだけれどもそれらしい人はなかなか現れない。
 そして、母親役の方や堺さんの恋人役の方が出てきた後に、身長172cm前後で黒縁の眼鏡をかけた、そこら辺の理科一類のお兄さんと交ぜるとわかんなくなりそうな地味な服装の細身の綺麗な人が、他の2人の男性と連れ立ってわたくしたちが待っていた場所と反対側の方向に歩いていってそのままエレベーターに乗り込もうとするのを見てしまった。
 心の中が「うわあ、失敗した。。。」という思いで一杯になって、まりりんたんが「ねえ、あれっぽくない???」と声をかけてきても言葉を発することも動作を起こすこともできなくなって呆然と立ち尽くしていたのだけれど、わたくしたちの前にいた男の方がどうしてなのかわからないけれども「雅人さん、行っちゃったよ」と話し掛けてきたのでそれでようやく我に返ったのでエレベーターの前までダッシュすることにした。
 エレベーターの正面10mくらいの場所までダッシュするとちょうど閉じかけていたエレベーターのドアが完全に閉じてしまう直前で、ドアが閉じてしまうまでのほんの僅かな時間だけ堺さんを見ることができた。
 わたくしが万感の思いを込めて会釈をすると、堺さんがそれにたいして軽く微笑んで下さった。
 でも、その繊細かつ複雑な微笑みの表情からは「応援してくれてありがとう」と「こうやって騒がれたり追っかけられたりするのはあんまり得意ではないので、できればそっとしておいてくださいね」というようなような感じのことが読み取れたので、激しく「出待ちして申し訳ありません」という気持ちになってしまった。
 それにしても、出待ちの際にわたくしたちの前にいた男の方は一体何者だったのだろう。
 堺さんのことを「雅人さん」と呼んでいたところから推察すると、おそらく事務所の関係者の人で、出待ちをしている女子どもが堺さんに危害を加えないように見張っていたのだろうか。 

11月26日

 新国立劇場の下見をするためだけに初台のオペラシティまで行く。
 明日が激しく待ち遠しい。 

11月25日

 三日酔いで気持ち悪いのでまったくお仕事にならない。
 しかも三日酔いに加えて全身の筋肉痛もひどかったりするので、非常につらい。

 昨日、今日と連続して引きこもりのお兄さんが家族を殺害するという事件が起こっているけれども、「ついに来るべき時が来たか」というような感じでめちゃくちゃにびっくりするということのほどでもないかも。
 この3年間ほどずっとわたくしの中では「本当の意味での『家』を持たない人間、アジールを持たない人間は人生の中で受けた傷をどこで癒せばよいのだろうか」ということと「心的エネルギーが完全に0になってしまった人間は、どうやってエネルギーを回復して行けばよいのか」ということの2つが人生における重要なテーマとしてずっとあった。
 引きこもりな人々、というのは家の中が快適だから引きこもっているわけではないと思う。
 というよりは、世界のどこにいても激しく傷つけられてしまうから不快な場所だとはわかっていながらも家の中にこもっているしかないのではないだろうか。
 そういう引きこもりな人々、外界と接点を持たないがゆえにリビドーを蓄積してしまっている人々が何かのきっかけによって容易に暴発するというのは何年も前から想像できていたはずなのだけれども。 ああそういえば村上龍が「恋愛の格差」の177ページにこんなことを書いていた。

(以下引用開始)
 十年後を考えるとフリーターという状態は不利だ。十年後を考えるとことが当然のことになっている社会だったら、フリーターは容認されないだろう。理解不能な現象として扱われるだろう。つまり、社会心理学や労働経済学の学者が集まって、その病理を徹底的に研究するだろう。十年後を考えると明らかに不利だということを平気で行う集団は社会的に、危険だからだ。今の日本のフリーターも非常に危険だ。彼らの多くはいつかは気づくことになる。三十五歳になって何の知識も技術もない人間は、社会の底辺でこき使われるしか生きる方法はないのだということに気づく。そのことに愕然として、社会を憎悪するものが今よりも圧倒的に増えるだろう。
 彼らは反社会的で犯罪的な組織に吸収されるかも知れないし、そういう組織を作るかもしれない。いずれにしろそういうときに社会は多大なコストを払うことになる。
 そういうことははっきりとした事実なので、デンマークの記者は、そもそもどうしてフリーターという人種が存在するのかがわからない、と言ったのだ。どうして日本の社会はフリーターを容認するのか、と不思議に思ったのだ。
 フリーターには未来がない、という当たり前の事実を隠そうとする人は、その人自身も未来をイメージすることができないのだろうと思う。
(引用終了) 

 この文章は「フリーター」を念頭に置いて書かれたものではあるけれども、これを「引きこもり」あるいは「NEET」と置き換えても十分に意味は同じものとして通るだろう。
 どうして「フリーター」「引きこもり」「NEET」の抱える病理を徹底的に研究し、彼らを真っ当な社会の構成員に引き戻すような努力が行われないのだろうか???と思ってしまう。
 きちんと書くと長くなってしまうけれど、今の20代の人間というものは相当に大変な状況に置かれてしまっている。「引きこもりによる家族の殺人」でも「幼女連れ去り」でも「練炭とインターネットを使用した集団自殺」でも、その根っこにあるものが何であるのかをきちんと見据えない限り、日本社会は近い将来に致命的に多大なコストを払うことになると予測される。それでも問題を全て先送りして社会の抱える負債を若者に払わせようと企んでいるのかと思うと、とっても暗澹たる気分になって仕方がない。

11月24日

 おととい、昨日と連続して飲み会があったせいか激しく二日酔いで、お仕事にならない。
 ネットで調べていたりいろいろと考えていたりするうちに、「新選組!」第45回「源さん、死す」の仕上がりが全く泣けないものになっていた理由が次のようなものであることがわかってきた。

・やはり通常のドラマの中でいきなりCGが脈絡なく使われると、物語を構成している世界観の連続性がおかしくなってなんとなくドラマの世界から醒めてしまう。
・源さんが死ぬときのシーンで飛んできた銃弾の軌跡がCGで付けられているが、あれを見るとどうしても映画「マトリックス」のことを思い出してしまい、ドラマの世界から醒めてしまう。
・さらに源さんが死ぬときのシーンで銃弾を刀で弾き返しているが、その時の「カキーン」という効果音を聞いてしまうとそれがトリガーとなってしまい、ドラマの世界から醒めてしまう。
・それにこの銃弾を刀で弾き返すシーンというのが、数ヶ月前に「トリビアの泉」の中のコーナー「トリビアの種」で放映された「日本刀と銃が対決するとどちらが勝つのか」というものからアイディアを得て作られたらしいのだけれども、それを知ってしまうと、何で多くの視聴者が見ているだろうと思われるものからネタを拾ってきてしまったんだろうと思ってしまい、醒めてしまう。
・大阪城で、近藤勇と源さんの亡霊が会話をするシーンで源さんの背後につけられていた青い光は、おそらく「スターウォーズ」でジェダイの騎士の霊体が青く光っていることからの流用ではないかと考えられるが、あの青い光があるとそちらにに気をとられてしまい役者さんの演技に集中できない。
 
 「スターウォーズ」や「マトリックス」の系統の映画は、CGや特撮で作りこんだ世界観を楽しむので、CGは映画の世界に観客を引きずりこむための装置として機能しているけれども、それを少しだけドラマに流用したとしても、演出の人が意図したような効果があるとは思えない。むしろ今回の場合は、逆効果になってしまったのではないかと。
 
 

2004年12月21日

single bellの季節です

12月20日

 筋肉痛が、痛むのです。
 昨日のお稽古で腕に力が入りすぎたようです。

12月19日

 記念すべき一日に成り損ねた日として、記憶に残そうと思う。
 お稽古に行って帰ってきた後、異様に喉が乾いてなぜかメロンソーダをがぶ飲みしてしまった。体が人工的な甘みを欲している。
 

12月18日

 わたくしはどうやら12月を甘く見過ぎていたらしい。
 日記も「書こうという気になれば、1週間分の日記くらいすぐにかけるよははは」と思っていたけれど、精神の具合をちょっと悪くしているうちにあっという間に1週間が経過してしまった。この間全く日記を書こうという気になれなかった。
 そして、この1週間にあまりにもいろんなことがあったせいで部屋もずいぶんと散らかってしまった。
 さすがに部屋の居住性が著しく低下してしまったので、掃除をする。
 掃除をしたついでにこたつのセッティングもする。
 しかし、部屋の中に余分なものが有り過ぎるので、根本的に部屋の中にあるものを減らさない限り完全に片付くということは無さそうだ。

まず「SPA!」のバックナンバーを処分して、それからもう読まない本を半分くらい処分しなくてはいけなさそうだ。
 本っていうのは、どうしてぼーっとしていると勝手に増えていって居住空間を占有してしまうんだろう。って言っても原因はわたくしが効率よく片付けていないからだろうけど。本買い過ぎなんでしょうね。毎日何らかの情報を頭の中に流し続けていかないと飢餓感を感じるのです。
 
12月14日
  
 まりりんたんに渡すものがあったので原宿のジョナサンで待ち合わせ。
 ビーフシチューハンバーグセットを頼んだり途中で買ってきた「新選組!」関連の記事の載った雑誌を見たりしているうちに、まりりんたんから電話がかかってくる。
 美容院に行っていたのだけど、同じ時間帯にに石田純一が2階で切ってもらっていたらしいので出待ちをしたいとのこと。
 そういうことらしいのでさらに15分ほど待つ。
 淡々とビーフシチューをすすっているとまりりんたんが現れる。
 出口に車を横付けしてすぐに出発してしまったので、石田純一には会うことができなかったらしい。
 でも、担当の美容師さんの話によると石田純一は結構白髪になっているとのこと。
 そういう話や例によって「新選組!」の話や堺さんの話や山本耕史の話などをしているうちにあっという間に12時近くになってしまう。 
 お仕事以外の自分の時間が、もっとあればいいのにと思う。 
 日記を書いたりだとかその他やりたいことが有り過ぎて困る。
 
12月13日

 とりあえずまりりんたん、お誕生日おめでとう☆

12月12日

 そう今日は「新選組!」最終回の日で。
 さらに今年最後の多田塾研修会の日でもある。  
 取り逃さないようにきちんとビデオの予約をして、朝食兼昼食を食べた後に本部道場まで向かう。
 小笠原伯爵邸の前の交差点でぼーっと信号待ちをしていると、内田先生とドクター佐藤らしき人物が自分の目の前20mくらいの地点を通り過ぎていった。
 そして、道着に着替えて道場に行くと、妙にK錬会の人々が多いような気がする。
 今日は久々の研修会ということもあり、呼吸法・足捌き・体術・太刀取り・杖を満遍なく一通り行う。
 お稽古というのはいい。
 日常生活を送っていると、どうしても自分の中に「魔」が蓄積してくる。
 でも、お稽古をしている時は自分の精神と身体の中に良くない物が存在しない状態に保つことができる。自分がお稽古を続けている理由は、たぶんそれだと思う。

  お稽古が終わった後に他の人は食事に行ったようであるけれど、わたくしは「新選組!」の最終回を見るから、という理由で家に帰る。
 「新選組!」最終回「愛しき友よ」は、ものすごく大泣きはしなかったけれど最後を締めくくるにふさわしい内容だった思う。
  内容が従来の大河ドラマらしくないとか、近藤勇と坂本竜馬が知り合いだという設定が有り得ないとか、視聴率が低いだとか散々な叩かれ方をしたけれども、近年に見たドラマの中では傑出した出来であったと思っている。こんなに面白いものを日本国民の6人に1人しか見ていないというのは、非常にもったいないなあとか思ってしまうのですが。
 たぶんわたくしにとって、2004年は「新選組!」が放映された年として記憶されるのでしょう。
 追っかけのためだけに会津に行ってきたり、DVDを予約したり、「新選組!」を通して初めて知った役者さんの舞台を見に行ったりと、随分と派手に散財してしまった。楽しかったけれど。
 現在進行形で「祭り」が進行している状況に参加すること、ていうのもきっとなかなか経験ができないことだろうなと。
 三谷幸喜と香取慎吾と、その他NHKの皆様にはお礼を言いすぎる、ということができないくらいだ。

12月11日

 今週末は内田先生も上京していらっしゃるし、「新選組!」最終回を記念して様々な見逃せないイベントもあるので、絶対に体調を崩して倒れたりはできないのだけれども、生理痛がひどくて気持ちが悪い。
 だけどそんなことも言ってられないので、最低限のお部屋の整理をした後に新宿に行ってブックファーストに立ち寄った後、西新宿の住友ビルの中にある朝日カルチャーセンターに向かう。
 「身体性を超えて」の分だけ大量に申し込み用紙が用意されているので、きっと大量の聴講者がいるのだろう。
 生理痛がひどいのでぼーっとしていたところに内田先生から声をかけられる。
 かなりぼーっとしていたようで一瞬気づかなかった。
 申し訳ありません。
 会場の教室に入るときに頂いた内田先生と春日武彦先生の対談の載った新聞をぼーっと読んでいるうちに内田先生と三砂ちずる先生が入場して、対談が始まる。
 周りを見回してみると、心なしか着物の女性が多いような気もする。
 三砂ちずる先生は、そんなに「産め産め産め産め」と主張するような感じの人でもなく、極めて冷静に話をするような方のように思えた。あくまでわたくしの個人的な感想なんですが。「オニババ化する女たち」に対する各方面からの批判も、そんなに意に介していないように見えた。

 対談の内容は、覚えている限りでは「『オニババ化する女たち』が評判になった後、三砂先生が大学の同僚のフェミニストな人々から吊るし上げを食らった話」「フェミニストの大御所である某U先生から『疫学者が科学的根拠のないこういう発言をしてもらっては困る』という微妙といえば微妙なコメントが返ってきた話」「そういえば最近、人々が言語化されないコミュニケーションを理解する能力が落ちてきているなという話」「医療の現場でも、数値データばかりが重視されてデータには現れない兆候を若い医師が見落としてしまうので誤診が多くなっているという話」「どうして人は体に良くない人工的なものに嗜癖してしまうのかという話」「最近カナダでは子供にも甘いものを食べさせないで、お誕生日パーティなどでも野菜のスティックにタルタルソースなどをつけて食べさせているので、何か嫌な感じがするという話」という話があったと思われる。
 個人的には、数値データには表れない事柄が初めから無い物のようにして扱われている、という話がこのところずっと考えていることと一致したのでかなり興味深く聞くことができた。
 しかし、対談が終わったくらいに貧血が一番ひどくなってしまい家に帰って横になって、その後に最終回前夜ということで「新選組!」の出演者が勢揃いする「Sma-station4」に備えることにした。
 「Sma-station4」が始まるまでに「オニババ化する女たち」を読み返してふと思った。現代の女性には失われてしまった身体的技法というのは、すなわち「肛門を締めること」ではないだろうかと。


12月9日

 そろそろクリスマスも近くなってきたのでまるケーキを予約しなくてはいけないなあ、と思うのだけど一人でクリスマスケーキを黙々を食べるというのもどうかな???と思う。
 奇特な人がいっしょにまるケーキを食べてくれれば良いのですが。

12月5日

 12月なのに最高気温が25℃近くまで上がったという、とっても異常気象な一日。
 今日は「新選組!」を通してお友達になった方から「壬生義士伝」と「ココニイルコト」のDVDを借りてきたのでネットカフェに6時間篭ってまとめて見ることにする。その間に阪神ジュベナイルフィリーズの中継を見たりする。
 どうでもいい話だけれども、「阪神ジュベナイルフィリーズ」という名前の語感がどうしても好きになれない。お馬の年齢の数え方が従来の数え年から満年齢へと変わったときに従来の「朝日杯3歳ステークス」というレースの名前が「朝日杯フューチュリティステークス」になり、従来の「阪神牝馬3歳ステークス」というレースの名前が「阪神ジュベナイルフィリーズ」になったのだけれども、どうもこの長ったらしい名前がどうにも気に食わない。
 話が脱線してしまった。
 「壬生義士伝」も新選組を題材とした話なのだけれども、「新選組!」とは全く違う趣の話で、これはこれで面白い。
 だんだらの配色は赤と黒だし。
 殺陣のシーンも多いし。
 火薬量も多いし。
 CGで生首が飛んでいるし。
 「新選組!」では山南敬助役だった堺雅人さんは、こちらでは沖田総司役を非常に凶悪に演じている。最初のシーンで、新選組屯所の中庭で隊士がお稽古をしているところを上空から俯瞰した視点で撮影しているのだけれども、その中に一人次元の違う動きをしている人がいるなあと思っていたらやっぱりその人が堺さんだったりする。
 その他不逞浪士との切り合いのシーンでは斬ると同時に蹴りを入れるような非常に凶悪な殺陣を行っていたり、東北の農民が飢えに苦しんでいるときに平然と牛鍋やメロンを口にしていたりなど、山南さんとは非常に似ても似つかない役を爽やかかつ極悪に演じている。
 「ココニイルコト」は「壬生義士伝」とは一転して非常に癒される話。
 わたくしが前に「堺さんは広告代理店に勤務するダメ社員で、関西人で、熱烈な阪急ブレーブスのファンで、それで最後には難病で死んでしまう役なんです」とまりりんたんに説明したら、なぜか猛烈に引き付け笑いを起こして止まらなくなってしまったけれど実際に見てみたら本当にその通りの話だった。堺さんとは関係ないけれど、真中瞳が異様に美人に見えるのにびっくりした。
 この人はやはり芸域も広いし、凄いと改めて思う。もっとTVにも出てきてほしい。
  

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