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そこら辺の理科一類のお兄さんと交ぜるとわかんなくなりそうな地味な服装の細身の綺麗な人

12月3日

 全身に澱のようなものというか、砂のようなものがたまっているような感覚があって、身体が相当に疲れやすくなっているような感じで違和感がある。
 できることなら、休みを取って十分に睡眠を取って体の中にある老廃物を全て排出してしまいたい。
そんな気分だ。

12月1日

 早いものでもう12月。
 今日は残業が終わった後にまりりんたんと待ち合わせをして、まず新宿の駅ビルでロシア料理を食べる。寒くなってきたので、つぼ焼きもボルシチもドリアも食べたくなってしまってなかなかメニューが決まらない。結局つぼ焼きとドリアのコースにボルシチも追加注文して3つとも全部食べてしまう。
 その後、まりりんたんが「サインだけではなく写真も一緒に撮ってもらいたい」というものだから、再度山本耕史の出待ちを試みる。
 けれど、今日は出待ちをしている人が待っている通用口とは違うところから出てしまったらしく11時30分まで待っていても空振りに終わる。
 もうすぐまりりんたんのお誕生日なもので、「人生において何かほしいものはありますか???」と聞いてみると「歳さま☆」と答えられてしまった。さてわたくしはいったい何を買って渡せばよいものかと悩んでしまう。 

11月28日

 今日は堺さんの出演している劇「喪服の似合うエレクトラ」を見に行った。
 今日もまた新宿から初台まで歩いていく。
 新国立劇場は非常に立派な劇場で、建物もものすごく綺麗。
 客席に座って周りを見回してみる。先週新宿に「リンダリンダ」を見に行ったときと比較すると、比較的年配の方も多いように思えた。けれど、大部分はわたくしと同様に「新選組!」を見てから堺さんのファンになった女子どもであるように見えた。
 パンフレットを買って、まりりんたんにメールを打って座席に座って暫しの間待つ。
 今回の席は座席と舞台との間が結構近そうな感じなので、嬉しい。
 
 この劇の構成は3部構成になっていて、堺さんは第2部からの登場。
 でも、堺さんがまだ登場しない第1部からけっこうこのお芝居に圧倒されてしまった。
 日本人の感覚で見ると、絶対に口にしてはいけないはずの秘密や心の奥底にあるはずの葛藤を平気で口に出したりするので相当にびっくりしてしまうのだけれども、慣れるとけっこう楽しかったりする。
 全てのことが台詞上で表現され、ノンバーバルなコミュニケーションが一切排除されている、という世界観は有り得ないと言えば有り得ないけれども。
 愛、憎しみ、欲望、束縛、死、そのようなものが渦巻く凄まじいお芝居で、かなりの頻度で役者の誰かが絶叫していたりする。異様といえば異様なのかもしれない。
 そして第2部から堺さんが登場すると、舞台から目が離せなくなる。
 堺さんは顔も綺麗だし、声も綺麗なのだけど、一つ一つの動きに圧倒的な「切れ」と「冴え」があるのが舞台系の役者として凄いところだと思う。
 特に、愛人と共謀して父親を殺害した母親に言いくるめられて、母親に抱きついてベタベタと甘えているところにお姉さん役の大竹しのぶが「オリン!」と堺さんの役名でえらくドスの利いた声で呼ぶと、まるでおもちゃの兵隊か何かのようにパッと立ち上がって20度くらい反り返って直立不動の状態になる、というシーンがあるのだけれどもそのシーンの動きの「切れ」と「冴え」があまりにも凄いものだから、全然笑いどころではないシーンなのに、会場のあちこちから笑い声が起きていた。
 堺さんは前に「はなまるマーケット」のトークの中で「血圧が上がるようなことがあんまり好きではないので、休みの日には運動などは一切しない」と老人のような事を語っていたけれども、きっと武道をやらせても物凄い動きをするのではないかな、と思った。 
 上演時間3時間45分というお芝居は、その長さをまったく感じさせず、あっという間に終わってしまう。
 
 そして、お芝居が終わった後にまりりんたんと合流して、2ちゃんねる等でやってはいけないと指摘されていた出待ち行為を試みることにした。
 わたくしはお芝居関連のことにはあまり詳しくないのですが、劇団四季や宝塚の公演と違って「出待ちをしている人」というのが非常に珍しいらしく、楽屋口の近くで待っていると、出てきた推定40歳前後のお姉さん5,6人に「堺さんを待っているの?」と声をかけられたりしてしまった。そんなに目立ってしまっているんだろうか。
 心の中でで「身長172cm前後で、そこら辺の理科系の大学院生と交ぜるとわかんなくなりそうな服装の人、身長172cm前後で、そこら辺の理科系の大学院生と交ぜるとわかんなくなりそうな服装の人…。」と念じながら楽屋口から出てくる人全員を入念にチェックしているのだけれどもそれらしい人はなかなか現れない。
 そして、母親役の方や堺さんの恋人役の方が出てきた後に、身長172cm前後で黒縁の眼鏡をかけた、そこら辺の理科一類のお兄さんと交ぜるとわかんなくなりそうな地味な服装の細身の綺麗な人が、他の2人の男性と連れ立ってわたくしたちが待っていた場所と反対側の方向に歩いていってそのままエレベーターに乗り込もうとするのを見てしまった。
 心の中が「うわあ、失敗した。。。」という思いで一杯になって、まりりんたんが「ねえ、あれっぽくない???」と声をかけてきても言葉を発することも動作を起こすこともできなくなって呆然と立ち尽くしていたのだけれど、わたくしたちの前にいた男の方がどうしてなのかわからないけれども「雅人さん、行っちゃったよ」と話し掛けてきたのでそれでようやく我に返ったのでエレベーターの前までダッシュすることにした。
 エレベーターの正面10mくらいの場所までダッシュするとちょうど閉じかけていたエレベーターのドアが完全に閉じてしまう直前で、ドアが閉じてしまうまでのほんの僅かな時間だけ堺さんを見ることができた。
 わたくしが万感の思いを込めて会釈をすると、堺さんがそれにたいして軽く微笑んで下さった。
 でも、その繊細かつ複雑な微笑みの表情からは「応援してくれてありがとう」と「こうやって騒がれたり追っかけられたりするのはあんまり得意ではないので、できればそっとしておいてくださいね」というようなような感じのことが読み取れたので、激しく「出待ちして申し訳ありません」という気持ちになってしまった。
 それにしても、出待ちの際にわたくしたちの前にいた男の方は一体何者だったのだろう。
 堺さんのことを「雅人さん」と呼んでいたところから推察すると、おそらく事務所の関係者の人で、出待ちをしている女子どもが堺さんに危害を加えないように見張っていたのだろうか。 

11月26日

 新国立劇場の下見をするためだけに初台のオペラシティまで行く。
 明日が激しく待ち遠しい。 

11月25日

 三日酔いで気持ち悪いのでまったくお仕事にならない。
 しかも三日酔いに加えて全身の筋肉痛もひどかったりするので、非常につらい。

 昨日、今日と連続して引きこもりのお兄さんが家族を殺害するという事件が起こっているけれども、「ついに来るべき時が来たか」というような感じでめちゃくちゃにびっくりするということのほどでもないかも。
 この3年間ほどずっとわたくしの中では「本当の意味での『家』を持たない人間、アジールを持たない人間は人生の中で受けた傷をどこで癒せばよいのだろうか」ということと「心的エネルギーが完全に0になってしまった人間は、どうやってエネルギーを回復して行けばよいのか」ということの2つが人生における重要なテーマとしてずっとあった。
 引きこもりな人々、というのは家の中が快適だから引きこもっているわけではないと思う。
 というよりは、世界のどこにいても激しく傷つけられてしまうから不快な場所だとはわかっていながらも家の中にこもっているしかないのではないだろうか。
 そういう引きこもりな人々、外界と接点を持たないがゆえにリビドーを蓄積してしまっている人々が何かのきっかけによって容易に暴発するというのは何年も前から想像できていたはずなのだけれども。 ああそういえば村上龍が「恋愛の格差」の177ページにこんなことを書いていた。

(以下引用開始)
 十年後を考えるとフリーターという状態は不利だ。十年後を考えるとことが当然のことになっている社会だったら、フリーターは容認されないだろう。理解不能な現象として扱われるだろう。つまり、社会心理学や労働経済学の学者が集まって、その病理を徹底的に研究するだろう。十年後を考えると明らかに不利だということを平気で行う集団は社会的に、危険だからだ。今の日本のフリーターも非常に危険だ。彼らの多くはいつかは気づくことになる。三十五歳になって何の知識も技術もない人間は、社会の底辺でこき使われるしか生きる方法はないのだということに気づく。そのことに愕然として、社会を憎悪するものが今よりも圧倒的に増えるだろう。
 彼らは反社会的で犯罪的な組織に吸収されるかも知れないし、そういう組織を作るかもしれない。いずれにしろそういうときに社会は多大なコストを払うことになる。
 そういうことははっきりとした事実なので、デンマークの記者は、そもそもどうしてフリーターという人種が存在するのかがわからない、と言ったのだ。どうして日本の社会はフリーターを容認するのか、と不思議に思ったのだ。
 フリーターには未来がない、という当たり前の事実を隠そうとする人は、その人自身も未来をイメージすることができないのだろうと思う。
(引用終了) 

 この文章は「フリーター」を念頭に置いて書かれたものではあるけれども、これを「引きこもり」あるいは「NEET」と置き換えても十分に意味は同じものとして通るだろう。
 どうして「フリーター」「引きこもり」「NEET」の抱える病理を徹底的に研究し、彼らを真っ当な社会の構成員に引き戻すような努力が行われないのだろうか???と思ってしまう。
 きちんと書くと長くなってしまうけれど、今の20代の人間というものは相当に大変な状況に置かれてしまっている。「引きこもりによる家族の殺人」でも「幼女連れ去り」でも「練炭とインターネットを使用した集団自殺」でも、その根っこにあるものが何であるのかをきちんと見据えない限り、日本社会は近い将来に致命的に多大なコストを払うことになると予測される。それでも問題を全て先送りして社会の抱える負債を若者に払わせようと企んでいるのかと思うと、とっても暗澹たる気分になって仕方がない。

11月24日

 おととい、昨日と連続して飲み会があったせいか激しく二日酔いで、お仕事にならない。
 ネットで調べていたりいろいろと考えていたりするうちに、「新選組!」第45回「源さん、死す」の仕上がりが全く泣けないものになっていた理由が次のようなものであることがわかってきた。

・やはり通常のドラマの中でいきなりCGが脈絡なく使われると、物語を構成している世界観の連続性がおかしくなってなんとなくドラマの世界から醒めてしまう。
・源さんが死ぬときのシーンで飛んできた銃弾の軌跡がCGで付けられているが、あれを見るとどうしても映画「マトリックス」のことを思い出してしまい、ドラマの世界から醒めてしまう。
・さらに源さんが死ぬときのシーンで銃弾を刀で弾き返しているが、その時の「カキーン」という効果音を聞いてしまうとそれがトリガーとなってしまい、ドラマの世界から醒めてしまう。
・それにこの銃弾を刀で弾き返すシーンというのが、数ヶ月前に「トリビアの泉」の中のコーナー「トリビアの種」で放映された「日本刀と銃が対決するとどちらが勝つのか」というものからアイディアを得て作られたらしいのだけれども、それを知ってしまうと、何で多くの視聴者が見ているだろうと思われるものからネタを拾ってきてしまったんだろうと思ってしまい、醒めてしまう。
・大阪城で、近藤勇と源さんの亡霊が会話をするシーンで源さんの背後につけられていた青い光は、おそらく「スターウォーズ」でジェダイの騎士の霊体が青く光っていることからの流用ではないかと考えられるが、あの青い光があるとそちらにに気をとられてしまい役者さんの演技に集中できない。
 
 「スターウォーズ」や「マトリックス」の系統の映画は、CGや特撮で作りこんだ世界観を楽しむので、CGは映画の世界に観客を引きずりこむための装置として機能しているけれども、それを少しだけドラマに流用したとしても、演出の人が意図したような効果があるとは思えない。むしろ今回の場合は、逆効果になってしまったのではないかと。
 
 

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2004年12月05日 13:06に投稿されたエントリーのページです。

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