11月23日
勤労感謝の日ではあるが、いろいろと忙しい。
まず、今日は自由が丘道場50周年記念のお稽古があるということで、目黒区の碑文谷体育館まで向かう。
学芸大学駅を降りててこてこと歩いていると、杖を持って歩いている人がちらほらと見られたのでその人たちについて歩くと道に迷わずに割とすんなり到着する。
1:00から準備運動をして、それから呼吸法・木剣・杖のお稽古をする。
まとまった木剣と杖のお稽古をするのは多田塾合宿以来かもしれない。
ということなので気合を入れて木剣をぶんぶん振る。
今回のお稽古では、呼吸法を行った後に木剣による四方切り・木剣による横面打ち四方投げの動きを行い、その後に一の杖、二の杖、植芝盛平先生の和歌山の杖、と振っていく。
今回のお稽古では、杖や木剣を振ることに重点をおいている。
気合を入れすぎてぶんぶんと振りすぎたせいで15:00くらいで体力が持たなくなる。
でも、杖や木剣を振ってトランス状態になっているくらいが一番楽しい。
この後に渋谷ブックファーストでいろいろと調べ物をした後に、駒場祭の打ち上げに参加。
ここでわたくしが何を思ったのかは省略。
また時間のあるときにでも書いておこうと思います。
11月22日
今日は会社のお金で死ぬほど焼肉を食べてきた。
ユッケとレバ刺しを一人占めして食べていると、至福の気分。
11月21日
駒場祭の1日目。
1日目だけれども今日が演武会。
わたくしは、五月祭の演武会に出させて頂いたので今回は見てるだけ。
結局、昨日一歩も外に出ることが出来なかったのでネットカフェでいろいろと調べ物をして、それから駒場に向かう。
道場に着いたら、すでに開会の挨拶が始まっていた。
ので、急いで座って皆様の演武を見る。
ここに詳細な感想を書くと長くなってしまうけれど、簡単に書けば日頃の弛まぬ鍛錬の成果が如実に現れたのではないかと思われる。
特に、ひろたかくんの演武の、眩暈がするほどに美しい円運動のフォルムには思わず見入ってしまった。
学生のみなさまは恐ろしく成長が早い。
わたくしも調子こいてお稽古をさぼり倒していると、すぐに追い越されてしまうかもしれない。
(ていうかもうとっくの昔に追い越されてるんですけどね)
クレープも食べて帰りたかったのだけど、初日ということもあってやけにクレープ作成に手間がかかっているのでお金だけ置いて池袋へ直行する。
直行しよう、と思ったけれど駒場キャンパスから渋谷へ抜ける近道の途中でF住さんに遭遇したので、少しだけ柏陰舎に立ち寄ってお抹茶とお菓子を頂く。
この後は池袋に行って用事をこなしたりだとか、夜の8時から「新選組!」を見たりだとかして一日が終わる。
11月19日
お芝居にいってきた。
今日はまりりんたんと新宿まで行って山本耕史主演の「リンダリンダ」を観てきた。
今回のミュージカルは鴻上尚史演出で、全曲ブルーハーツの楽曲を使用しているのが売りらしい。
劇団四季が「マンマ・ミーア!」という全曲ABBAの楽曲を使用しているミュージカルを参考にした、という話だそうだ。
仕事が終わってから急いで新宿歌舞伎町の劇場に直行し、まりりんたんを待つ。
「遅いなあ」と思っていると、開演5分前くらいにまりりんたんがやってくる。
パンフレットを見ながらまりりんたんといろいろと話をしていると、突然大音量の音楽が鳴り始めて劇が始まる。
お芝居の内容は、大手レコード会社にヴォーカルを引き抜かれ、ドラムの人も脱退してしまって取り残されてしまったバンドのリーダーが仲間を呼び戻すために「アザハヤ湾の堤防(←長崎県の諫早湾の堤防のことかな)」を爆破しようとする計画を立てるが、そこに元過激派のおじさんとパンク・ロッカー志望の警官が絡んできてなんたらかんたら。。。。という感じ。
そこに「バンドで成功したいという夢」「才能がないのであきらめなくてはいけないという現実」「共産主義革命という『夢』を30年間追いつづけてきたが、その努力が無駄なものでしかなかったという現実」「一度は諦めてしまったけれども、それでも捨てられない『ロッカーになりたい』という夢」という登場人物の人々の思いがいろいろと交錯する。
お芝居の構成上、要所要所にブルーハーツの楽曲を使用しなくてはいけないという縛りがあるのでストーリー展開が2の次3の次になってしまうのと、今回の役が「新選組!」の土方歳三のように山本耕史さんの魅力を十二分に引き出すものでは無かったというのが少々不満ではあるけれど、それでも3時間歌あり、小ネタあり、アクションもありで決して飽きさせないつくりになっていたと思う。
山本耕史は格好いいし、SOPHIAの松岡はやはり本職だけあって歌はうまいし。
お芝居が終わった後、トイレに行ったり出演者の皆様に送られたお祝いの花を見て、それからまりりんたんに「このまま帰りますか???」と聞いてみたところ「このまま帰るわけがないじゃないですかあ!!!」ということだったので、以前下見をしておいた劇場の楽屋口で出待ちをすることにする。
かれこれ20分くらい晩秋のけっこう底冷えのする歌舞伎町の路上で待っていると、何故か椅子を持った山本耕史と、付き人らしい顔のきれいな若いお兄さんが出てきた。(まりりんたんはそれにマネージャーをやっているヤマコーのママもいたと言うけれど気が動転していてそこまで気がつきませんでした。)
一瞬ぼーっとしてしまったけれども、3時間の公演で相当疲れがたまっているというのに希望者にはサインをしてくれていた。
まりりんたんに「何かペンある?」と言われたので急いで筆入れからペンを出そうとする。
でも、細くてあんまり出の良くないボールペンを選んでしまったらしく、せっかくまりりんたんが山本耕史にパンフレットにサインを書いてもらったのに、ものすごくかすれてしまった。
すると、山本耕史が「このペン、出ねえな」とつぶやいた後に、一度まりりんたんに書いたサインを再度サインの筆跡がはっきりと見えるように丁寧になぞってくれた。
もう、激しく「申し訳ありません」という感じ。
この後、興奮状態のまりりんたんと一緒に新宿西口のワインバーに行って、昨日解禁されたばかりのボジョレー・ヌーボーを飲みながら今日のお芝居についてだとか「新選組!」についてのあれこれを1時間ほど話した。
今年のボジョレー・ヌーボーは去年と違って薄いくせに妙にアルコール風味がきつめで、おつまみも頼まずに2人で1瓶空けたらひどく悪酔いしてしまった。
11月17日
仕事の帰りに近くの神社の壁にかかっていた「厄年」の看板を見てふと思いついた。
前々からこの「厄年」の看板を見て、「男子は25歳、42歳、60歳とある程度の間隔でばらけているのに、女子は19歳、33歳、38歳と人生の序盤から中盤あたりに固まっているのはどうしてかしら」と思っていたけれど、33歳というのは女子の呼称が「お姉さん」から「おばさん」に変化するあたりの年で、38歳というのは、閉経が起こって子供が産めなくなるかどうかの臨界点なのかなと。
で、世界中の女性が全力で無駄な努力をしたり多額の金をつぎ込んだりしても、そのあたりの年で上に書いたようなやな感じの変化が発生してしまうということは大昔と比べてもそんなに大きく変化はしていないと。
もしそうだったら、厄年には十二分に気をつけても気をつけすぎることはないかな。
そのあたりの年になったら、極めて危険そうだし。
11月15日
昨日の「源さんマトリックスショック」のせいか夜中ずっと腹痛に悩まされて眠れず、朝になっても全く動けそうにもない。
しょうがないので職場に電話連絡を入れて、午前中は様子を見ることにする。
午後になってから完全ではないけれどもようやく作業が出来る程度には回復した。
ところで今日は七五三の日らしいとネットを見て初めて気づいた。
「七五三」とは言っても、幼児の死亡率が高かった昔と違って、現在では子供が死なないで無事に成長するということがあまりにも当たり前のことになってしまったので「とりあえず3歳まで生き延びた」「とりあえず5歳まで生き延びた」「何とか7歳までは生き延びたこれでひとまず大丈夫」というように喜ぶというのも現在ではあまり実感のあることではないなあと。
しかし、行事が一つ廃れてしまうのを目の当たりにしてしまうのは何となく寂しい気もする。
11月14日
「新選組!」漬けの一日。
文化庁芸術祭に出品するためにBSハイビジョンで再放送された「友の死」を見るためにネットカフェのケーブルテレビが見られる席の場所を取って、見てみた。
8月に放送されたものと編集が一部異なるという話だったので注意深く見ていたけれど、オープニングテーマ曲の前に放映されるダイジェストが少し長めだった以外はそんなに大きく内容は変わらなかった。
「友の死」を見るのはこれで3回目。
内容はもう全部頭の中に入ってはいるけれども、それでもやはり目が潤んでしまう。
家に帰ってからたまっている家事をこなしたり、夕食の麻婆豆腐を作ったりしているうちに夜の8時になったので、第45回「源さん、死す」を見ることにする。
正直言ってわたくしはものすごく期待していました。
これまで新撰組隊士の死を描いた回には外れがなかったもので。
しかし、肝心の源さんの死亡場面でいきなり映画「マトリックス」のようにで飛んでくる弾丸の軌跡がCGでつけられていたり刀で弾丸を弾こうとしているときに「カキーン」という効果音がつけられたり、あと大阪城にいる近藤勇のところへ源さんが亡霊となって最期の別れの言葉を告げに行く場面で、源さんの幽霊の背後に妙に青すぎる光が特殊効果としてつけられていたりしたのでどうしてもドラマに入り込むことが出来なかった。
もう一度録画したものを上記の演出はなかったものとして脳内変換して見直してみると、そもそも幽霊が出てくるのってどうよ、とか「鳥羽・伏見の戦い」でロケを行わずスタジオのみで撮影されたので何だか狭っ苦しい、というのはあんまり気にならない。役者のみなさまもちゃんと演技している(細かく指摘すれば台詞がものすごく棒読みの人もいるけれど。)
良いドラマ、というのは見てる人間を現実の世界からドラマの世界に引っ張りこむ力を持っている。
(現に8月に「友の死」の録画を見たときには、1週間ほど現実の世界から戻ってこられなかった。) ものすごくよいドラマやお芝居、というのは例えどんなにセットが粗末なものであっても役者の演技で観客を引っ張りこむ力がある。
「新選組!」はこれまで絶対的な数は多くないかもしれないけれど、それでも決して少なくはない人々をドラマの中に激しく引きつけてこれまでやってきたのに、話の流れにそぐわない特殊効果がせっかくドラマの世界に入り込んだ人間を現実に引き戻してしまうような形になってしまって、それが非常に勿体ないと感じてしまった。
少しだけほっとしたのは、源さんを演じている小林隆さんがこの仕上がりにけっこう満足しているような感じのことを「ステラ」のインタビューで語っていたことだろうか。(でも、放送時にCGでこんなことになってしまっていることを知らない、ということも有り得るかも。そうだったら凄くかわいそうだなあ。)