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2005年05月 アーカイブ

2005年05月01日

だんじり関連クラフトメン

4月29日(金)

ゴールデンウイーク最初の日は岸和田である。

この長屋で2年間書いてきた「だんじり日記」をベースにした「岸和田だんじり本」
の表紙その他の打ち合わせで、篠笛(シノブエ)の奏者かつ研究家の「民の謡」森田
玲さんと、だんじりものグラフィックデザインの奇才・六覺千手さん兄弟にお会いす
るためだ。

森田さんは多分日本で初めての篠笛のCDと『岸和田八木だんじり祭 鳴物十三ヶ町宮入り 上・下巻』(バチさばきと指使い、地車のコマ音、ケヤキの匂いまでもを捉
えた、他の追随を許さない最高の音質と空間性。という謳い文句もそのままだ)とい
う2枚組の実録CDを出しており、プロの篠笛奏者に加え史上最強のだんじり鳴物研
究家である。

また六覺千手さんの描くだんじり曳行シーンは素晴らしい。そしてだんじりフォトグ
ラファーとしての腕も、自身がグラフィックデザイナーということもあいまって、題
材となるシーンの的確さに加え、どれも構図がピシッとしていて非常に「わかってる」
写真である。

晶文社の担当の安藤さんに、この六覺千手さんの一連の作品を見ていただいたところ、安藤さんは即決、この日オレは表紙とカラーページ1折の制作依頼のために、南海電車に乗って忠岡駅で下車し、約束の午後4時にそのアトリエを訪ねたのだ。

実際の写真からCGに取り込み、だんじりの微妙複雑精密な彫刻から、曳き手や鳴物、前梃子、大工方…の動きまでを再現してゆく六覺千手さんの手法は精巧そのもので、同様に「地車のコマ音、ケヤキの匂いまで」伝わってくる。

その資料としてわが五軒屋町の新調記念アルバムや曳行シーンの写真はもちろん、5月8日の掃除の日にだんじりを出す際、実物の写真撮影のために五軒屋町のだんじり小屋にやって来る。
その時に前梃子係としてイラストに入れたいのM人(本年度若頭筆頭)、M雄(平成
16年度同)の写真も撮らせてほしいとのこと。

その日はこの後、鉢巻きにする手拭いのデザインの打ち合わせでM人と会うことになっていたが、アトリエからM人に携帯を入れると、すでに彼は出来上がっていて「おう、それは気合い入ってるのお」と上機嫌だ。

森田さんと鳴物論議沸騰して、実際に小太鼓をオレが叩き(太鼓を置いてある家なんて初めてだ)、彼がだんじり囃子を少しだけ演奏する。
こうなると話は止まらなくなるので、M人の約束が功を奏したことになる。

忠岡駅から岸和田駅までは普通電車で3駅、約10分。
この日はまるで夏の暑さのなか、てくてくと3分くらいだけなのにテーラータカクラ
まで歩くと汗をかいてしまった。
M人は缶ビールを飲んでいて、うちわであおいでいる。
速攻で「おう、まあ飲めや」と同じ缶ビールが出てきて、プシュー、ぐびりと飲る。
あー、うまい。

今年若頭筆頭(責任者)のM人は、二十一町の責任者で構成する若頭責任者協議会の副会長に当たっていて、ほとんど毎週寄り合い連発である。
だから仕事なんてやってる場合ではない、というより実際は大卒後長年勤めていた大手の生命保険会社を辞めて、文字通り仕舞た屋になっているテーラータカクラに戻って、そこに住んでいる。

以前から勘亭流や江戸ひげ文字を上手に書くという特技を持つ彼は、さまざまな町から、祭礼時の友誼町同士の交換用の団扇の文字書きや飲食店の「大入」額等々を頼まれていて「忙しいんや」と言っている。
筋海町、中之濱町はじめとした作品をうれしそうに見せてくれる。
世の中にはこういう忙しさもある。

だんじり大工や彫物師もわからないことを彼に訊きにくる、という筋海町の今年同じ
若頭筆頭の「だんじり博士」泉田くんは泉田くんで、「祐風堂」という、いわば「だ
んじり総合商社」みたいな店を開いたばかりだ。
名刺には「文字書工・旗、纏、法被、襷、飾物一式修理、新誂・看板、表札請負」と
書いてある。

M人とその店を訪ねる。
岸和田旧市はもちろん岸和田以外の市や地区の法被や襷の受注品やサンプルが並べられている。
世の中にはこういう職業もある。

岸和田という町にいると、世間というものは果たして広いのか狭いのかを考えさせら
れる。

「おたくヤクザ」

5月1日(日)

夜中の3時に酒腹状態で腹が減ったので、歩いて35秒のローソンに行くと、文藝春
秋が1冊だけ残っていた。
特集は「平成ホリエモン事件」。
この号は、6月26日付のこの大家さんの書くブログで、当の大家のウチダの親父さ
んが、「大真面目に不真面目極まりない文章」を適当に書いて、1万円の原稿料をも
らったとかを読んでいたのを思い出し、「オレも編集者の端くれ、滅多なことは致さ
ぬが、版元の為にも、せめて店子が…」と夜中の食い物と一緒に買うことにする。

「各界著名人64人が推す 次の総理はこの人」というコーナーがあり、一番手の西
尾幹二、続いて小林信彦、瀬島龍三(このおっさんNTT顧問・亜細亜大学理事長になってたんや)…と来て、ちょうどど真ん中くらいに、あったあった、うちの大家の内田
樹(神戸女学院教授)。
題して「浮かんだことがない」。
読み直してみると、ほんまにそうやし、大笑いである。

けれどもほかの「各界有名人」はだれで、どういう有名人が「誰を次の総理に」とい
うことを書いているのかだけしか興味がなかったので、おかげでそのあとキリンラガーの小瓶を2本も飲んでしまった。
完全に出来上がってる状態で寝て、明くる日(といっても当日の昼過ぎだが)起きた
ら、それは完全に忘れていて、ついでに何を買って帰って食べたのかも忘れていて、
いかんなぁ、これではアル中やんけ、と思い、ゴミ箱の中をのぞいたら、シュウマイ
ともずくのパックが出てきたので、ようやく思い出した。

けれども、特集ホリエモンの部分は、少々真剣に読んだ。
といっても伊藤忠の社長や大前研一とかのいわゆる「会社経営」の人の文章は、「読んでも読んでない状態」である。
読んだのは、まず立花隆さんの文章で「インターネットがあれば、新聞もテレビもい
らない」と堀江は言ってのけ、情報源として最重宝しているのは自社の社員が毎日作成している社内メルマガと言い、またおまえとこのライブドアの記者制度ってあるけど、ろくな記者もろくな記事もない、ただ自社発の記事のアリバイづくりだけやない
か。
その「デイリーさくサク」というメルマガも、既成の新聞や通信社あってのことやな
いか、と書き捨てておき、「既成メディアの情報力は、合わせると万をもってかぞえられる第一線の取材記者群の取材能力にある。そしてそれらの記者たちが集めてくる一次情報を吟味し、評価し、記事にまとめ上げていくすぐれた編集者たちの知的エネルギーにある。」と繋いでいる。
要するに、「一次的なオリジナル情報をバイアスをかけずに右から左に丸ごと流すの
が理想だ」と主張する堀江は、ゴミだらけガセネタだらけのそんな情報の山に対峙す
る一般大衆が、アップアップするのをわかっていないのではないか、ということだ。

このところ冴えている精神科医の斎藤環さんのは「診断名は『社交的引きこもり』」
というタイトルだ。
これもまたおもろい。
そもそも「金で買えないものはない」と言う堀江は、ほんとうは「金」も「自由」も
いかなる価値も信じていない。
読み手と書き手のマッチメイクだけがすべてで、2ちゃんねるも新聞もアクセスが多
ければそれが価値基準だとうそぶくが、それはある種のシニシズムに過ぎず、ほんとうは堀江はコミュニカティブでない。
なぜならコミュニカティブな人間は、当の自分を仮託する物語を飽くことなく探すは
ずで、彼は物語などを生きてはいなく、ただ終点がない「欲望そのものが自己目的化する」という点で「ひきこもり」やないか、と書いている。

平川克美さんは「金で買えないものはない」という堀江のことを、ほんとうにそうだ
と思っているのなら「度し難いバカだ」とブログで書いておられたが、その8ページ
に亘る特集号インタビュー「牙を抜かれた経営者は去れ」(これもあんまりなタイト
ルやなあ)を読んで、オレは気分が悪くなった。

「40歳以上は経営陣から引いたほうがいい、というのは真実だ」というのはオレに
当てはめてみても、まあそうかも知れん場合があるにしても、ニッポン放送買収のこ
とを「僕のように若くてしがらみもない、(メディアに触れられたくないことを)報
じられて困ることのない人間しか手が出せなかった」と言っている。

これは思い上がりとかいったものでなく、まるでアウトロー、つまりその博打場にお
いてのヤクザの論理である。

「自分が楽しく生きたいんですね。世間的な、俗な意味でいえば、金にも権力にも名
誉にも実は全然興味がない。だって、もうすべて手に入れちゃったから。これ以上何
があるんだ、というぐらい」と言い、続けて「みんなが幸せに生きられる社会の仕組
みを作るために何をしたらいいのかを、毎日頭が痛くなるほど考えているんです。考
えているけど、結局それは自分が楽しくやりたいから。別に奉仕なんかしたくありま
せん」と言う。

そういうことに毎日頭が痛くなるのは「度し難いバカ」に加えて「度し難い極道」だ
からである。
こういうヤツには、頼むし、どうかだんじり祭には参加しないでほしい、と祈るばか
りだ。

「世の中は移り変わるんだから、続くことを求めることがナンセンス。 百年続く企
業をつくるなんてくだらないと思うし」
というのは、何なんだろう。

ヤクザにも博徒とかシャブ屋とか企業舎弟とかいろいろあり、おたくにもモノレール
おたくとか少女の死体おたくとかいろいろあるが、「おたくヤクザ」というのは、オ
レは生まれてこの方初めて見た。
ヤクザとかおたくとか以前に、とにかく人間としてダサイのである(平川さん流に言
うと、なんたって野暮天なんだよ、か)。

あんまり気分が悪いので、ほんとうは編集部に出なあかんけど、仕事をサボって酒でも飲みに行こう。雨の休日の街も良いもんだから。

2005年05月09日

さよなら春一番

5月4日(祝)

4日の「国民の休日」は、服部緑地へ「春一番コンサート」の第3日目に行く。
去年も第2か3日目かに行っている。

このコンサートは1971年5月に天王寺の野外音楽堂第1回目でが開かれた。
確か、高校1年生の時(とすれば74年である)、こないだ亡くなった高田渡、加川良、遠藤賢治とかのフォークな兄貴たちが出ていて、それを見に行った記憶がある。
中山ラビという女性のシンガーソングライターが、かっこいい歌詞の歌をジョニー・ミッチェル風に大まじめに唄っていて、久しぶりに邦楽の彼女のレコードを買ったことを記憶している。

その頃、オレは近所やアメリカ村に出入りしていた4~5歳上のサーファーという新しいタイプの風俗や人種に憧れ、出来たばかりの森本徹さんの「メロディ・ハウス」に行って、ウエストコーストもんの音を聴きまくり、そのまま西海岸の風に乗った気分でいた。
なので、ちょっと古いというかドメスティックな感じがして、それっきり行かなくなっていたが、去年の「春一番」にバッキーイノウエに誘われて行った。

ちなみに「春一番」は79年に一度終了し、94年に大阪城野外音楽堂で復活し、その後この服部緑地の野外音楽堂に場所を移したらしい。

イノウエに「何時くらいに行くんや」とその当日の朝に連絡すると「オレらは京都を1時までに出るよって」と返事があって、家で適当にありものでブランチを食ってラガーの小瓶2本を開けて、いい天気だったので適当に半ズボンをはいて1時過ぎに神戸を出て、JR大阪駅から地下鉄に乗り換える途中、イカリスーパーに寄ってチュウハイ6本とテキーラのレモンソーダ割りの瓶2本を買った。この高級スーパーは保冷剤を詰めてくれるからである。

会場に着いたので、 入口からイノウエに「今、着いた」と電話して当日券を4千円払って入場すると、すぐにイノウエ率いるキヨちゃん、元「西成の少年」こーじくん、河原町に「水商売のような服屋」を開いたばかりのエディ片山、「飲み盛り・音聞き盛り」30代シンマくん、北新地でたまに会う「酒場馬鹿」の坂本くんがいた。
おっさんばかりのメンバーである(おばはん約1人)。

彼らは弁当を食いながら、缶ビールで相当出来上がっている。
「コウちゃん、食えや」と食べ物を出してくれるが、オレは「食うてきたから、ええわ」といって、それでも中華テイクアウトのザーサイをアテに、立て続けにテキーラ2本を開けた。

わけのわからんおっさんのギターバンドが出ていて、「ナンやこれは」とこーじくんとエディに言うと、ギタリストでもあるこーじくんは「今から、オレらやってもこいつらよりもええで」と応え、ライブハウスをやってたエディは「笑うしかないな」といって、げらげら笑った。
イノウエは居眠りしている。

白のタキシード着た昭和歌謡な司会者が「大西ゆかりさんにフォローを頼みます」といって、ユカリちゃんが登場した。
友だちのユカリちゃんは飛び入りのあと、オレらの席に来て「まいどまいど」といってどこかに行った。

なぎら健壱がテンガロンハットをかぶって、たくさんのバンドを引き連れて登場する。
中川イサトがいる。一人ずつソロを取るが、番茶の出がらしも出がらしな抜群に気の抜けたカントリーで、飲むしかない。

一人ずつ持参した半ダース見当のビールやチューハイがアッという間になくなる。

このクソ暑いのにいつも通り蝶タイをしたマトバックス・的場光旦さん夫妻がやってくる。
奥さんは完全に酔っぱらっているし、それも脱力的に笑うしかない。

史上初の「ボサノバ演歌」と名高い「カオリーニョ藤原と彼のボサノムーチョ」が出てきて、もの凄くいい演奏を聴かせてくれた。
あとで詳しい関係者に聞くと、盆踊りで人気の「江州音頭ラッパー」桜川唯丸の弟子らしい。

それから数組あとに出てきた訳の分からん「少年の主張」シンガーソングライターは、我々にとって聞くに堪えない演奏で、シンマくんは「完全に、しらけさせてますね」といって、あちこちからヤジが飛びまくる。
イノウエはキヨちゃんどっか会場外に出ていってしまった。
オレはかわいそうだが「おいきみ、どこの駅前で唄てんや~」とヤジり、笑いを取った。

「もう帰りましょか」とシンマくんが言い出した頃、やっと彼が引っ込み「坂田明」のバンドが登場する。
50代半ばのスキンヘッドの的場さんは「さっかたぁ~、ひさしぶりやのお~」と大声を出すと、ステージから坂田さんはチラッとこちらを向いて、軽く右手を挙げて応えた。

レベルが違う演奏である。 去年のトリだった山下洋輔を思い出す。
「佐渡おけさ」風のエフェクトを聞かしたボーカルも抜群だ。長いちりちり髪のピアノの女性もむっちゃうまい。
坂田バンドが終わり、大拍手のあと「さあ帰ろう」といって席を立つ。

次は「友部正人」でまだプログラムがあるが、みんなで会場を出て「ミナミへ行こか」となるも「緑地公園唯一のまともな居酒屋」に、こーじくんに案内される。
おでんも串カツが美味かったし、みんなが寛いで、芋・麦とも焼酎のボトルがバカスカと空いた。

伝統の「春一番」は今年で終わるらしい。
終わってよかった、とオレは思う。それは「しみじみ」とかではなく、本当にそう思う。

2005年05月10日

ラテンでサンパな岸和田風フランス料理

5月7日(土)

大阪きっての仏レストランとして知られる「ラ・ベカス」が、四つ橋から編集部から徒歩2分の高麗橋4丁目に移転してきた。
このレストランはルレ・エ・シャトーに加盟、グラン・ターブル・デュ・モンドにも取り上げられている凄いレストランで(極東では確か2~3軒だけだった)、渋谷圭紀シェフとは旧知の仲だ。

彼がミヨネーのアラン・シャペル、パリのオテル・ド・クリヨン、ロビュションといった3つ星レストランを経て、生まれ故郷の大阪に帰ってきてもう15年になるだろうか。

ロビュションがまだ16区のロンシャン通りに「ジャマン」という名前でやっていた頃、直前に電話で予約を取ってもらったり、友人のアラン・パッサールという天才のシェフがロダン美術館の近くで2つ星をやってるからそこも行ったらいいとか、オレがまだバリバリのグルメとファッションな副編集長をしていた頃、パリコレに行った時についでにどこに行くべきかなどなどを彼がいろいろ教えてくれた。

そのアラン・パッサールのレストラン「ラルページュ」は96年、あの「トゥール・ダルジャン」と入れ替わる形で3つ星になったのだが、オレが行ったのは確か92年冬と93年の春・秋だったと思う。

世界で1番予約が取りにくかった「ジャマン」は、92年冬にあいにく1週間の滞在中の昼しか予約できなかったが、昼メシの「ムニュ・デギュスタシオン」(お味見という感じで6皿くらい小ポーションで出てくるコース)がうまくて、岸和田弁英語で「無茶苦茶うまい、こんなん食うたことない、最高だ」とかメートルに話したら、あとで立派な鼻のロビュションが出てきて、「渋谷は元気か」とか「雑誌でオレの店のこと書くんか」とかメートルの英語通訳で話して、「あと2日パリにいるんやけど」といったら、「もっと食べたかったら、明日の遅くに来い」「10時くらいでエエか」「よっしゃ、それでええ」みたいな感じで、翌日のディナーにありついた。
イタリア語もそうだが、ラテンでサンパなフランス語は岸和田弁に訳しやすい(といってもオレは英語しかできないが)。

オレはその夜、気が大きくなって、「大丈夫、安く出してるから」と昨日のメートルの薦めるままにグラーブの1級のシャトー・オー・ブリオンを抜いて、広東料理のエビチリソース風オマールみたいな料理とか、トリュフどんぶりとでも形容したいような料理が出てきてとても驚かされたし、ここで渋谷はオードブルと肉を担当していた、ということを聞いた。
帰りに「記念としてメニューをくれへんかなあ」と言ったら、「ええよ、ほな帰って渋谷に見せとけ」とくれた。
隣の初老の夫婦客は日本通だとかで話に入ってきて、シガリロを1本勧めてくれた。

彼が渡仏したのが80年で、この最後のジャマンで活躍して(修業ちゃいます)大阪に帰ってきたのが89年だったと聞いている。
「ぼく、日本の80年代、知りませんねん」と言っていたが、81年の神戸ポートピアホテルのオープンの際に、メインダイニングとして入ったレストラン「アラン・シャペル」のお披露目会のために、シャペルと一緒にスープ係で日本に来てたことを先輩記者から聞いたことがある。

それはさておき、次号「ミーツ」はニュースのページで、この店の移転記事を書かないといけない。
ということで偶然にも今日すでに取材を入れている。担当は副編のS岡だ。
オレは案内が来ていたし仕事とか関係なくいち早く食べに行きたかったのだが、ゴールデンウイーク始まる4月29日にオープンということでなかなか予約が取れなかったのだ。
「まあしゃあないし、ええか」と思っていたが、本町の若頭でワイン商のH出が、オープン数日前にミナミの酒場で渋谷シェフとばったり出会って「7日なら何とか」と予約を入れてくれた。

H出が聞いていたとおり、前のベカスとは全然違うシンプルな内装で、めっちゃ広いウェイティングのラウンジバーも併設されている。
7時半にもう満席状態のなか、ど真ん中の席に案内される。
タバコを吸おうとすると、禁煙にしたらしい。なるほどそれでウエイティングがあるんか、と納得。
席に着くと初対面のスーツを着たメートルが「シェフからです」とシャンパンを出してくれて、名刺をくれた。この新店のための新スタッフらしい。

新しい店なので、あれこれ見渡す。
レストランや料理屋でほかの客をじろじろ見るのは、とてもイモな行為で街的ではないがしょうがない。
OL風、それもテレビのキャスター風の女性客が多くて、いつもよりちょっとアレでナニな感じがするが、そんなのはどうでもいい。

けれどもメニューを開くといつも通りのアレだ。
「アレだ、と言ってもわからへんやんか」と言われそうだが、書くととても長くなるし仕事の文のようになるので今回はやめとく。

前の店の通り、しばらく放ったらかされる。
「何食う」「コースでええやン」「せやのお」となって、メートルに訊くと、オマールのサラダ、鯛のポワレのホタルイカと何か(忘れた)のソース、子羊のロティ苺ソースだが、「オードブルのオマールを特別に活け伊勢エビのロティに替えることができますが」というので、「伊勢エビってどうな。美味いのは味噌汁ぐらいちゃうんか」「まあ、そう言うてるんやからええやんけ」と、そのスペシャリテにした。

アミューズのポタージュの冷製に何かのテリーヌをこそいだリエットみたいなのを入れたようなのが出てきて、シャンパンで一気に食べる。美味い。
岸和田のワイン屋のH出は、ワインリストを見る。
「あかん老眼や。字が小さいから読めへんわ。ひろき、お前読め」
と渡されて小声を出して読むが、訳の分からん地区の知らんドメーヌだらけなので、じゃまくさくなって「すいません。虫眼鏡ありますか」といったら、メートルはにこっと笑って懐中電灯を出してくれた。
H出はうーんと一通り見て、「お、これおもろい」とロワールのルイイという銘柄を選ぶと「グラスで出してますし」と、とりあえず1杯。
ドカンとてんこ盛りの量で出てくるのが、オレらに「水商売」してくれているのだろう。
うまい、としかいいようがない。

やっと伊勢エビが出てくる。
「泉州の水なすと香味野菜と…」と説明してくれるが、オレらは「おおー、でかいのお」と伊勢エビの半身を見て感激し、ちゃんと聞いていない。第一そんなのは見たら分かる。
ちょい半生加減な火の通し方が抜群で、ミソの部分がちょうど生ウニのようになっていてこれはすごく美味い。
「せやけど、これパンに付けるんか」
「フィンガーボール出てるから、指でもなんでもええんちゃうんか」
うまいうまい。グラスワインをもう一杯、ええい、瓶ごと頼めや。

ふた皿目の鯛のポワレもこんな感じで、以下同文。

オレは一皿食べ終わると、どうしてもタバコを吸いたくなって「ちょっと、行ってくるわ」と高校生が部室でタバコを吸うような気分で席を立つと、メートルがついてきてくれ話相手をしてくれる。
渋谷シェフも出てきていろいろと話をする。

「近いし、昼もちょくちょく来てくださいよ」
「せやけど、ここで食べたら2時間かかるし、飲んでしまうし」
「早く出すようにがんばりますから」

こんな感じで、一皿終わるたびにタバコを吸いに行く。
チーズもデザートもワインでいって、最後のエスプレッソが出てきたのが11時前だ。
ほんとうに食べるのは早いが、食事時間は長い。

昼メシ時に女同士で食べてるシーンがどうしても嫌いなイラチの大阪人、そして若い頃からてっちりや鮨や焼肉やフレンチにしろ「外でうまいもんを食う」のは男ばっかりでという癖がついている岸和田人に、フランス料理というのは食事の愉しさを教えてくれる。

2005年05月13日

また熱い夏がやってくる

5月8日(日)

午前9時から、奇数月恒例のだんじりの掃除。
だんじり本体の保守・監理は若頭の管轄である。
だから奇数月の第2日曜はだんじり小屋を開け、屋根から腰回りと全てを覆っている埃よけのシ-トカバーを外し、コンプレッサーの風圧で細かい埃やチリを吹き飛ばし、建築現場用の大型の掃除機で吸い取る。

このだんじりは平成10年新調なので、今年で7年目の祭を迎えるわけだが、新調を決定したのがその10年ほど前で、そこから積み立てが始まり、製造が始まったのが平成7年頃。
その間、だんじり大工は誰に発注し、彫り物師は誰で…なとを決定し、大きさやスタイル、三百部材を超えるパーツのなか、とくに腰回りや見送り、松良(まつら)の彫り物のテーマを何にするかとか、その数年は本当にいろいろな資料をあたり町内以外のいろいろな人と話をし、その積み重ねで現在のだんじりが完成した。
オレは新調して5年目に若頭筆頭をしたという幸運もあるが、三十代になるかならないかの拾伍人組の時から若頭に上がる約10年、一番「だんじりとは祭とは何か」が分かってくる時に、現在進行形の形で新調にたずさわった。
なので、まあ人よりは非常にだんじりには詳しくなったし、いっぱしの説明も出来るようになった。
そして、気がつけば今年の若頭のメンバーを見渡すと、最年長になっている。
思うに先代だんじりは大正12年新調で約70ぶりの新調なので、これに関しては「新調の時に現場にいた」ほんとうにラッキーな人生である。
ちなみに前代のだんじりは堺市太井町に譲り、現在当町で曳行中だ。

この日は「だんじり日記」の表紙ほかをお願いしている、だんじりものグラフィックデザイナー六覺千手さんと、我が国屈指の篠笛の奏者でだんじり囃子研究家の「民の謡」森田玲さん兄弟がわざわざ五軒屋町まで来ている。

森田さんは6月19日の岸和田文化会館で行われる「地車祭鳴物 岸和田の笛」という研究考察会イベントを企画していて、自らが「岸和田のだんじり祭~これまでの鳴物とこれからの鳴物~」いう講演を行い、その後のパネリストとしてわたしに参加して欲しい、ということで二つ返事で諒承していたのだが、とにかく「お会いして話を」ということでわざわざチラシの校正を持ってきてくれて説明してくれる。
加えて7月2日・3日「祭の響き~笛と太鼓の音体験~」という石川県で400年以上の歴史を持つ「浅野太鼓文化研究所」とのコラボ・イベントがあって、その際に五軒屋町の鳴物の「宮入太鼓」の実演を頼めないか、とのオファーで早速、中央地区のソフトボール大会の最中の青年団団長に携帯を入れて出演の打診をするも、即決。
「今年の鳴物責任者はS田か。恥かかさんといてくれよ、と言うといてくれ」と念を押す。

六覺千手さんはイラストのための取材で、うちのだんじりのディテールと左右前梃子を長年持っていたM雄(平成16年度若頭筆頭)とM人(本年度筆頭)の写真を撮る。
両人は照れに照れ「梃子ないからポーズ取られへん」といいながらも、「もうちょっと早よ言うてくれてたら、散髪に行っといたのに」とかます。

10時半に小屋を閉め、会館で若頭幹部会。
御献灯台の設置および鉢巻用の手拭いの発注についての申し合わせ。

2005年05月19日

江的編集者就活心得

5月18日(水)

編集部欠員のためのスタッフ募集面談を今週いっぱいかけてやっている。
即戦力がどうしても欲しいので、募集告知に「経験者希望」という表現を入れた。
応募された方は約400名。
本来なら全員の方にお会いして、面談をするべしなのであるが、職務経歴書付きの履歴書と作文で1次選考をさせていただく。
東京の大手出版社あるいは三大新聞社のバリバリ現役の編集者や記者の方、京大・阪大・神戸大はじめ同志社・立命館…といった難関の大学を卒業されて、さまざまな仕事についてる方や、出版関係、広告関係の会社をいったん辞めて求職している方、大学卒業後人力車を曳いている人やさまざまのアルバイトをしている方など、本当にいろんな人がうちの会社で働きたいということでご応募していただき光栄である。

またここ数年、2~3の大学で講義を頼まれることがあり、先週もとある大学で授業をした。
わたしは雑誌編集者であって学者ではないので、だいたいは「マスコミ志望者のための講座」とか「キャリアトレーニング特別講義」とかいった内容のものである。
そして具体的には、今の学生さんに出版社への就職志望者が多いから、その出版社とはどういうところなのかとか、雑誌を編集している現場の様子や、時には「出版社に入社するには、学生の時に何をしておけばよいのか?」「出版・編集の仕事をするにはどういうスキルが必要なのか?」みたいなことを話すことを要求されたり、「売れる特集企画はどうやって立てるのか」みたいな質問があったりして、困ってしまうのであった。
その前に、「働くこと」「仕事をするということ」「社会人になるということ」とはどういうことなのか、ということを解っていただけないと一緒に仕事が出来ないからだ。
だからどうしても「大学生の時に〈真面目に〉考えなくてはならないこと」とは「業界のことをよく知って」いたり、その業界においての「ある種のスキルをあらかじめ身に付けて」いる、とかが重要ではない、という軸足になる。

そんな時に例をあげてお話しするのが、受験勉強とかテストのことである。
私たちの仕事というのは、答えはあらかじめ用意されていないというか、問いと答えがセットになっていない。
けれども受験勉強とかテストというのは、当然問いと答えがセットになっている。でないと「点」がつけられないから意味がないからだ。
けれども受験勉強の果ての入学試験というのは、問題が出された時に、まずはザーと全体を見渡して、自分に解けるものと解けないものをまず見分けて、解けるものからやっていく。
後の残った時間で、グレーゾーンというか、自分が解けそうなものにあたる。
つまり、分かるものと分からないものに区分けするある種の能力が要求され、分からないものを捨てることから始めてしまう。

これが致命的に、そのまま社会に出ていく大学生を損なっているのだと思うのである。
考えてみればすぐに分かるのだが、人は自分が分かるものしか分からないし興味あるものしか興味がない。
だから、分かるものばかりを基礎にそれをカタログ方式で並べようとか、インデックスをつけてそこにあてはまるコンテンツをぶらさげよう、といった発想を取ってしまう。
これは今、現にストックしている情報を「どうさばいて」「ひとまとめにくくってしまおう」という作業である。
けれども3×4=12で1アールが100平方メートルだとか、南船場や堀江でカフェという業態にあてはまる店を順番に並べてみても、そんなのは本にならない。

とくに編集という仕事においてだけではなく、仕事というものにおいて、「わからないものを捨てる」というのは、一番下手くそなやり方だと思う。
分からないものを分からないまま、分かりそうになるためにどう展開していくか。それが編集的には、いい仕事の仕方、つまり「問いの立て方」なのだと思う。
その問いの立て方が的確であれば、コミュニケーションは延々続く。話がオープンエンドで、どんどんページが出来てくる。
けれども、あらかじめ問いと答えがセットになっていて、それが容易であれば容易であるほど、正解は早く出る。だからそこで、話が終わってしまう。
仕事とくに編集という仕事には、マニュアルがありません。
だいたいそんなことをお話しする。

4時から6時過ぎまで、今日の10数名の方々の一次面接を終え、神戸に向かう。
かねてからミーツ誌面に出ていただいたり仲良くさせていただいている神戸製鋼ラグビー部の平尾くんと監督の増保さんと、この長屋の主・内田先生と哲学するソムリエの橘くん、そして副編のあおやまとで「一献いかがが」という企画である。

大阪人の平尾くんとは酒場で会って話したこともあるし、こないだなど泥酔状態のオレは「せやけど、平尾くん。キミは男前や」とか、訳が分からんことをいってからんで迷惑をかけていて、ほんまにすんません。
名門のラグビーチームのまだ若き30代前半の監督・増保さんとは、初対面であるが本当に話がはずむ。
東京のご出身だが関西弁がうまい。多分、ラグビーのみならずコミュニケーションの達人なのだろう。
大阪生野や東大阪の中学のラグビーの話、「にぃーにぃーさんろく(2236)」とかのサインの発音が関東のチームと関西のチームとはぜんぜん違うし、秋田県のチームのそれはちょっと分からない、とかの話からいろんな話題が盛り上がり、当然男のすなるヤクザ話、内田先生の武道的ビジネス論、甲野先生の魔法的身体感覚、禁煙ブームの気持ち悪さ、とかで気がつけば12時過ぎだった。

オレは例のごとく、背広の内ポケットに常備しているコルト38口径の岸和田だんじり話を手を伸ばして取り出し、内田先生および橘くんに「またか」と困惑させるも、増保さんには「おもろいおもろい」と聞いていただきごきげん状態である。
一緒に話をして気分がいいというのは、またお会いしたいということにつながり、オレが入社試験で面談をさせていただくのはそういう人を探しているのに違いない。
つまり「この人と、一緒に仕事をしたいと思えるかどうか」なのである。

酔っぱらって歩いて帰って、こんなことを思った(今思っている、のか)とつらつら書いているのだが、内田先生の『「大人」になること--漱石の場合』の一節が出てくる。
おべんちゃらとかではなく、ほんとうにそうだと身体に染みつき、血に溶け込み、骨にからみついている。

>「真面目」とは、まっすぐに相手の顔に向き合うということである。
>まっすぐに相手の顔に向き合って、「あなたのことが気がかりなんだ」と告げる。ただそれだけのことである。
>そしてそれが人間としてもっとも基本的な「構え」であり、青年にとって一番大事なことは「何を知っているか」「何ができるか」ではなく、未来に対して、他者に対して、どれほど開放的に、愉快に応接する用意ができているかである。

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