5月18日(水)
編集部欠員のためのスタッフ募集面談を今週いっぱいかけてやっている。
即戦力がどうしても欲しいので、募集告知に「経験者希望」という表現を入れた。
応募された方は約400名。
本来なら全員の方にお会いして、面談をするべしなのであるが、職務経歴書付きの履歴書と作文で1次選考をさせていただく。
東京の大手出版社あるいは三大新聞社のバリバリ現役の編集者や記者の方、京大・阪大・神戸大はじめ同志社・立命館…といった難関の大学を卒業されて、さまざまな仕事についてる方や、出版関係、広告関係の会社をいったん辞めて求職している方、大学卒業後人力車を曳いている人やさまざまのアルバイトをしている方など、本当にいろんな人がうちの会社で働きたいということでご応募していただき光栄である。
またここ数年、2~3の大学で講義を頼まれることがあり、先週もとある大学で授業をした。
わたしは雑誌編集者であって学者ではないので、だいたいは「マスコミ志望者のための講座」とか「キャリアトレーニング特別講義」とかいった内容のものである。
そして具体的には、今の学生さんに出版社への就職志望者が多いから、その出版社とはどういうところなのかとか、雑誌を編集している現場の様子や、時には「出版社に入社するには、学生の時に何をしておけばよいのか?」「出版・編集の仕事をするにはどういうスキルが必要なのか?」みたいなことを話すことを要求されたり、「売れる特集企画はどうやって立てるのか」みたいな質問があったりして、困ってしまうのであった。
その前に、「働くこと」「仕事をするということ」「社会人になるということ」とはどういうことなのか、ということを解っていただけないと一緒に仕事が出来ないからだ。
だからどうしても「大学生の時に〈真面目に〉考えなくてはならないこと」とは「業界のことをよく知って」いたり、その業界においての「ある種のスキルをあらかじめ身に付けて」いる、とかが重要ではない、という軸足になる。
そんな時に例をあげてお話しするのが、受験勉強とかテストのことである。
私たちの仕事というのは、答えはあらかじめ用意されていないというか、問いと答えがセットになっていない。
けれども受験勉強とかテストというのは、当然問いと答えがセットになっている。でないと「点」がつけられないから意味がないからだ。
けれども受験勉強の果ての入学試験というのは、問題が出された時に、まずはザーと全体を見渡して、自分に解けるものと解けないものをまず見分けて、解けるものからやっていく。
後の残った時間で、グレーゾーンというか、自分が解けそうなものにあたる。
つまり、分かるものと分からないものに区分けするある種の能力が要求され、分からないものを捨てることから始めてしまう。
これが致命的に、そのまま社会に出ていく大学生を損なっているのだと思うのである。
考えてみればすぐに分かるのだが、人は自分が分かるものしか分からないし興味あるものしか興味がない。
だから、分かるものばかりを基礎にそれをカタログ方式で並べようとか、インデックスをつけてそこにあてはまるコンテンツをぶらさげよう、といった発想を取ってしまう。
これは今、現にストックしている情報を「どうさばいて」「ひとまとめにくくってしまおう」という作業である。
けれども3×4=12で1アールが100平方メートルだとか、南船場や堀江でカフェという業態にあてはまる店を順番に並べてみても、そんなのは本にならない。
とくに編集という仕事においてだけではなく、仕事というものにおいて、「わからないものを捨てる」というのは、一番下手くそなやり方だと思う。
分からないものを分からないまま、分かりそうになるためにどう展開していくか。それが編集的には、いい仕事の仕方、つまり「問いの立て方」なのだと思う。
その問いの立て方が的確であれば、コミュニケーションは延々続く。話がオープンエンドで、どんどんページが出来てくる。
けれども、あらかじめ問いと答えがセットになっていて、それが容易であれば容易であるほど、正解は早く出る。だからそこで、話が終わってしまう。
仕事とくに編集という仕事には、マニュアルがありません。
だいたいそんなことをお話しする。
4時から6時過ぎまで、今日の10数名の方々の一次面接を終え、神戸に向かう。
かねてからミーツ誌面に出ていただいたり仲良くさせていただいている神戸製鋼ラグビー部の平尾くんと監督の増保さんと、この長屋の主・内田先生と哲学するソムリエの橘くん、そして副編のあおやまとで「一献いかがが」という企画である。
大阪人の平尾くんとは酒場で会って話したこともあるし、こないだなど泥酔状態のオレは「せやけど、平尾くん。キミは男前や」とか、訳が分からんことをいってからんで迷惑をかけていて、ほんまにすんません。
名門のラグビーチームのまだ若き30代前半の監督・増保さんとは、初対面であるが本当に話がはずむ。
東京のご出身だが関西弁がうまい。多分、ラグビーのみならずコミュニケーションの達人なのだろう。
大阪生野や東大阪の中学のラグビーの話、「にぃーにぃーさんろく(2236)」とかのサインの発音が関東のチームと関西のチームとはぜんぜん違うし、秋田県のチームのそれはちょっと分からない、とかの話からいろんな話題が盛り上がり、当然男のすなるヤクザ話、内田先生の武道的ビジネス論、甲野先生の魔法的身体感覚、禁煙ブームの気持ち悪さ、とかで気がつけば12時過ぎだった。
オレは例のごとく、背広の内ポケットに常備しているコルト38口径の岸和田だんじり話を手を伸ばして取り出し、内田先生および橘くんに「またか」と困惑させるも、増保さんには「おもろいおもろい」と聞いていただきごきげん状態である。
一緒に話をして気分がいいというのは、またお会いしたいということにつながり、オレが入社試験で面談をさせていただくのはそういう人を探しているのに違いない。
つまり「この人と、一緒に仕事をしたいと思えるかどうか」なのである。
酔っぱらって歩いて帰って、こんなことを思った(今思っている、のか)とつらつら書いているのだが、内田先生の『「大人」になること--漱石の場合』の一節が出てくる。
おべんちゃらとかではなく、ほんとうにそうだと身体に染みつき、血に溶け込み、骨にからみついている。
>「真面目」とは、まっすぐに相手の顔に向き合うということである。
>まっすぐに相手の顔に向き合って、「あなたのことが気がかりなんだ」と告げる。ただそれだけのことである。
>そしてそれが人間としてもっとも基本的な「構え」であり、青年にとって一番大事なことは「何を知っているか」「何ができるか」ではなく、未来に対して、他者に対して、どれほど開放的に、愉快に応接する用意ができているかである。