10月22日(水)
 その日は、まるで初冬のようで、時折時雨るこの秋で一番寒い日だった。僕は、前回と同様に9時20分梅田発の全但バスに乗り、豊岡へと向かった。豊岡市役所の宮垣さんに会うためである。途中、中国自動車道での渋滞で予定より少し遅れ13時過ぎに豊岡市役所に到着。2階の「コウノトリ共生課」のカウンターで宮垣さんを待っていると、奥の方からニコニコしながら大柄な宮垣さんが現れた。カウンターの脇にあるテーブルで、名刺をいただき、僕は簡単な自己紹介をすませた。僕はなにより、宮垣さんを紹介してくれたAさんとの関係を知りたく、まず、そのことを尋ねた。その出会いもまた、偶然が重なったようないきさつで、さらにAさんのお友達Bさんも現在進行形で、豊岡と関わっているそうで、運命論者の僕としては、たまらない話を伺った。
「Aさんからは、話の概略は聞いています。何か面白いことをしましょう。」と、宮垣さんから話を切り出された。
「民間として何かお手伝いできるようなことがないか、そのヒントを探しに来ました。意見を聞かせてください。」と、僕は答えた。
 いろいろと話をしていくなかで、話題が日高町に及んだ。
「凱風館では、合宿で最低でも年4回は、日高町に行っています。「ときわ野」さんというところでお世話になっています。」
 宮垣さんは驚いた様子で、「「ときわ野」さん、よく知っています。いま、息子さんの代になって、がんばられていますよ。」
 しかし、「ときわ野」周辺の民宿、旅館では、後継者問題が一番の問題であることを、宮垣さんから教えてもらった。温暖化による雪不足に加えて、経営者の高齢化、後継者不在のため、半分以上の民宿、旅館が廃業を視野に入れているそうだ。前回、中貝さんに教えていただいた観光業の人手不足問題、そのものである。その問題も含めての解決策として、現在、豊岡市が取り組もうとしているのが、「豊岡市大交流ビジョン」だと教えていただいた。この取り組みに、宮垣さんが熱く語る一言、「そういうコミュニティをつくりたいんです。」に僕も熱く反応した。
 「コミュニティ」は、僕の起業イメージを表現するのに、ぴったりの言葉だった。
 少し大仰な言い方になるが、この「金まみれの世界」からこぼれ落ちていく人たちに何とか寄り添っていきたい、僕はそんなふうに思っている。そして、そのことは、子供たちにも同様である。今の教育システムに適合しない子供たちをなんとかできないのだろうか。
 僕の知り合いの子供にこういう子がいる。その子は小さなときから、異常なまでに象のことが好きで、寝ても覚めても象のことばかり考えていたそうだ。その象好きが高じて、将来は、「象使い」になることを決めた。「象使い」になるためには、タイに行く必要があることを知った彼は、今ほどインターネットが発達していない時代に、独学でタイ語を習得し、「象使い」の学校を卒業後、見事に「象使い」になったそうだ。僕は、この話が大好きで、現在の教育システムでは、この子は単なる変人に映るだろう。また、いくら稼いでいるかも知らない。しかし、彼は、自分の持っている才能を自分の力で見事に開花させたと言えるだろう。今さら、僕などが言うまでもないが、子供の持っている可能性は、想像を絶するものがある。野球の大谷選手も、野球がしたいという理由だけで、修学旅行に行かなかったそうだ。天才とは、そういう人たちのことを言うのだろう。僕は、天才を見てみたい。
 子供に対する、そんな僕の思いを、宮垣さんに伝えたところ、宮垣さんも同意された様子で、「井上さん、豊岡では、こういう取り組みもしているんです」と、「森のようちえん つむぐり」の話も聞かせていただいた。まだまだ小さな活動だが、その「つむぐり」の卒業した子供たちは、明らかにほかの子供とは全然違うそうだ。遠方から通わせている方もいるそうだ。
 今回の豊岡行きは、日帰りで体力的には少しきつかったが、実りの多いものになった。
 別れ際、中貝さん同様「紹介したい人がたくさんいます。」と言ってくれたので、僕は、「では、よかったら宴席を設けてください。」と言うと、「人選に苦労しそうです。」と笑いながら答えてくれた。母親の口癖は、「但馬は、人がええから」というのは、本当だった。
 最後に、余談になるが、今、神鍋は「UFO」の町になりつつある。この秋に、奥さんが合気道合宿で「ときわ野」を訪れた際、来年の予約をお願いしようとすると、その時期は、空いていないと言われ、理由を聞くと「UFOフェス」があるからと。そのことを、宮垣さんに伝えたところ、「そうなんですよ~」と笑っていた。UFOが見れるか否かわからないが、来年の「神鍋高原フェス まんまる」には行ってみようと思う。

【参考】
「ときわ野」
https://tokiwano.com/
「豊岡市大交流ビジョン」
https://www.city.toyooka.lg.jp/shisei/keikaku/1019147/1009343/index.html
「森のようちえん つむぐり」
https://nextgreen-tajima.amebaownd.com/pages/5005737/page_202106080716
「神鍋高原フェス まんまる」
https://fes-manmaru.com/

 大仰なタイトルにしたが、本当に「そう」なので、よければご一読ください。

 9月30日
 9月22日の中貝さんとの面談結果を紹介いただいた内田先生に報告するため、寺小屋ゼミが始まる前の15時半からお時間をいただいた。9月30日というと、会社では、上期の締め日で夜は打ち上げという日である。そんな日にわざわざ会社を休むなど、まわりの人間からは、大変奇異な目で見られたが、そんなことは今の僕には、たいして重要ではなかった。
 冒頭に、「大駱駝艦」の話をすると、内田先生もびっくりされて、麿赤児がかつて在籍していた劇団「状況劇場」の芝居を花園神社で観たときの話を嬉しそうにされていた。唐十郎、大久保鷹、麿赤児、そして音楽は山下洋輔という何とも贅沢なメンバーが同じ空間に存在していたなんて信じられない。とても羨ましい。そんな時代も過去の日本にはあったのだ。
 話が一気に横にそれそうだったので、本題に入った。
 「空き家問題について、中貝さんに意見を伺いました。仏壇問題が最大のネックとのことです。僕も不動産業界に長く携わってきましたが、恥ずかしながら全然知りませんでした。」 
すると、「えっ、知らなかった!」と内田先生にびっくりされてしまった。
 内田先生によると、仏壇問題の件は、以前お仕事相手から聞いたことがあるそうで、その解決策として、「留守番」を仕事にしている人もいるとのこと。「留守番人」は、ただひたすら「留守番」だけを専らおこなうだけで、大した報酬は得られないものの、接客や営業をまったくする必要がなく、人と接することが苦手な人にとってはうってつけの仕事
といえる。「空き家問題」解決策の一つになるかもしれない。
 次に「そうそう、サライネスって漫画家の「誰も知らんがな」って知ってる?」と、内田先生は、何かに気づかれた様子で、僕に尋ねた。
 僕が、「知りません」と答えると、「誰も知らんがな」の舞台となっている旅館について、内田先生がサライネスさんに「何となく「香住あたり」に思えてきました。」と直接Xで聞いたところ、「だいたいそのあたりです」との返事があったそうです。起業に向けてジグソーパズルのピースが少しずつ埋まってきているようで、なんだか不思議だ。漫画は全然読まないが、今度読んでみようと思う。また、地方の抱える問題の一つ、観光業の人手不足問題については、二冊の本「新・観光立国論」(@デービッド アトキンソン)、「芸術立国論」(@平田オリザ)を教えてもらった。
 

10月17日
 僕は、どうも原理主義者たちが苦手だ。僕にとっての原理主義者とは、卑近な例で申し訳ないが、「「カレーライスにはウスターソースをかけるのが普通」のように「AはBであるべき。」ということに固執している人たちのことを指す。このようなことを熱く語られても、僕は困惑するばかりだ。そして、往々にしてそういう人たちは、熱く語りたがる傾向が強い。面倒くさい。僕は、特に何かに強くこだわるという性向がほとんどない。大概のことはどちらでもいいのだ。雑な人間だ。
 そう言いながらも、僕は「運命論」原理主義者である。出会いたい人、コト、モノには必ず出会えると固く信じて疑わない。これまでに出会った、数々の人、コト、モノは、どれもちょっとしたことがきっかけとなっている。2002年、JR東西線の社内で雑誌「ミーツ」のページをぱらぱらとめくりながら、初めて内田先生のエッセイを読み、いまではこうやってお話ができるようになったこと。19才のときに観た、当時大人気のバンド「A Decade In Fake」のリーダーに今ではギターを教わるようになり、時々差しでお酒を飲んだりすること。それらのことは、あらかじめそうなることが、最初から決まっていたかのようなふうに僕には思えて仕方がない。自分から能動的に、その出会いを探したことなど一度もない。なにを、僕はグダグダと書いているのかというと、先日「そのような」ことが起きたからだ。
 僕の「社長日記」を内田先生がXで投稿され、その投稿を通じて「社長日記」を読まれたAさんから、奥さんを経由してメールが届いた。メールを読みながら、僕は鳥肌が立った。内容は、Aさんはここ数年、仕事で「豊岡」と関わりを持つようになったそうだ。僕のことをその仕事先の「豊岡」の方に話をしたら、大変興味をも持たれたらしい。Aさんからは、「私で役に立てることがあったら何でもいってください」と、大変うれしいプレゼントもいただいた。僕はすぐにAさんに連絡をし、その方の連絡先を教えてもらうことにした。
 Aさんの仕事、出身地などから「豊岡」とはおよそ接点などないように思えたが、本当に不思議なものだ。なにか大きな力が僕の背中を後押ししているように思えて、僕はワクワクした。
 早速、僕は、その「豊岡」の方に連絡をし、5日後の10月22日に会うこととなった。
 続きは次回に。

 内田先生からこのシリーズのタイトルについて「井上英作の社長日記」と名付けていただいた。往年の東宝の喜劇映画「社長」シリーズのようなタイトルで、まるで森繫久彌になったような気分だ。
 さて、前回の続きとなるが、まずは、中貝元豊岡市長に会ってお話を伺うことにした。そこで、せっかく豊岡に行くのに何か別の用事がないか思案していたところ、「そうだ、この時期は豊岡演劇祭をやっているのでは?」という、いつもの勘が働き、すぐに調べてみるとやはり的中していた。さらに、豊岡に行く9月23日の演目を見て、僕は腰を抜かしそうになった。大袈裟ではなく本当に。なんとその日は「大駱駝艦」の公演があったのである。「大駱駝艦」というのは、麿赤児(大森南朋の父といったほうが、今の若い人たちには分かりやすいかも知れない...)が主宰する「暗黒舞踏」集団である。僕のなかでは、「大駱駝艦」と「但馬」との接点を、まったく想像することができなかった。「但馬」というのは、どちらかといえば保守的な街で、自分の両親からも、まったく文化的な香りを感じたことがなかったからだ。なにせ、父親は、7才の僕に、映画「女囚さそり」を見せるような人だった。
 9月23日9時20分「城崎温泉」行きの全但バスに乗り12時半に豊岡に到着。
 開演まで時間があるので、「コウノトリの郷公園」で時間を潰す。そういえば、毎年恒例の凱風館「海の家」に向かう丹後鉄道の列車の車窓から、田んぼに佇むコウノトリを今年も見かけた。中貝元豊岡市長の大きな成果は、隣町の京丹後市にまで及んでいた。
 その後、ホテルに戻りテレビで相撲中継を途中まで見て、18時開演に合わせて、会場の「豊岡市民プラザ」に向かった。会場に入って僕は驚いた。なんと300人弱の客席は満席だった。
 翌日9月24日朝、僕がホテルのロビーで中貝さんに会うための準備をしていると、眉毛のない丸坊主のお兄さんたちがぞろぞろと現れた。「大駱駝艦」のメンバーである。彼らの会話を盗み聞きしていると、「麿さん」とう言葉が飛び交う。すると、そこに全身黒づくめでサングラスをかけ、ハットをかぶった男が現れた。麿赤児だった。
 興奮冷めやらぬまま、僕は中貝さんに会うために、「とゞ兵」へと向かった。玄関で、
「すみませ~ん」と言うと、奥のほうから足早に中貝さんが現れた。僕は少し緊張した。どちらかといえばあまり緊張しない方だが、20年もの間、豊岡市長として数々の功績を残されてきた方を前に緊張しない方がおかしいかもしれない。
 事務室に通され、僕は簡単な自己紹介をすませ、僕が起業するに至ったいきさつ、「女性」をターゲットにした起業イメージ、「但馬」への思いなど、ド素人の僕の妄想とも覚束ない質問や考えに、中貝さんは、ニコニコしながら、ひとつひとつ丁寧に答えてくれた。
 おおむね僕の考えていることには賛同いただけたが、いくつか助言をいただいた。

その一
 自分ひとりでがんばってはダメ。同じような考えをもった人をまずは探すこと。
 「そのためには、十分なリサーチが必要です。」
 「その期間として約1年間現地に足を運び現場の声を聴いてみようと思っています。」と僕は答えた。中貝さんは、ニコニコしながら頷いてくれた。
「必ず同じ考えをもった人がいます。探せば必ずいます。仲間を増やしましょう。」

その二
 中貝さんは、今、地方で困っていることの一つに観光業界の人手不足問題を挙げられた。たとえば、かつては、「部屋食」というお部屋で晩御飯をいただくということがあったが、どうしても人手が足りないので、大部屋で宿泊者全員に食事を提供せざるを得ない。かつてのようなきめ細かなサービスができないことで、客離れに繋がらないか経営者は非常に危惧しているそうだ。そのための解決策として、旅館業と並行しながら、介護施設の運営を行っているところがあるらしい。親の介護を理由に社員が辞めないようにするために経営者が考案したそうだ。

その三
 「空き家問題」について質問したところ意外な答が返ってきた。
 「それは、実は仏壇問題なのです。」
 つまり、一年の内、お盆の数日だけ、お墓参りに帰省した親族が集まる「場」を確保するためだけに、一年間の殆どを空き家にしているということらしい。恥ずかしながら、不動産業界に37年も携わっていながら、全然知らなかった。想像している以上に「空き家問題」の根深さを思いしらされた。
 気が付いたら2時間近く、中貝さんがいうところの「おしゃべり」をしていた。やはり、現場の方のお話を伺うのは、とても楽しく大変参考になった。
 別れ際に、「何か見ておいた方がいいところがあれば教えてください。」と尋ねたところ、
 「カバンストリート、豊劇ぐらいかなぁ。」
 「見るところより会わせたい人がたくさんいるので、また、いつでもいらしてください。」

 「仲間」は、目の前にいた。起業への光が少し見えた。

【参考】
「豊岡演劇祭」
https://toyooka-theaterfestival.jp/
「大駱駝艦」
http://www.dairakudakan.com/rakudakan/top.html
「コウノトリの郷公園」
https://satokouen.jp/
「とゞ兵」
https://todohyo.com/
「カバンストリート」
https://toyooka-tourism.com/spot/kaban-street/
「豊岡劇場」
https://toyogeki.jp/
「なぜ豊岡は世界から注目されるのか」(@中貝宗治)
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721270-9&mode=1

2年前の夏、毎年「極楽ハイキング部」が主催している「中村壮でたらふく魚を食す」ため、男鹿島に向かうフェリーのなかで、僕の隣に座っていらした内田先生から突然こう言われた。

「あと何年で定年なの?」
「2年です。」
「定年後は何をするの?」。
「...。特に、何も考えていないです。」

内田先生は、3秒ほど何かを考えている様子で、「起業しない?」とおっしゃった。
まったく自分のなかで思い及ばなかった「起業」という言葉に僕は困惑したが、なんとなくそれもありかなと、なぜか、その時にそう思った。それから、自分のなかで具体的な「起業」についてのイメージを膨らませていった。なにせ、40年近く同じ業種でサラリーマンだけをやってきた僕が起業なんて可能なのだろうか?そもそも何をしよう、そんな、葛藤を繰り返しながら、僕は「但馬」と関わりたいと思った。直感だけで、これまで生きてきたような人間なので、今回も自分の直感を信じることにした。

僕の両親は、「湯村温泉」、ドラマ「夢千代日記」で知られている、兵庫県美方郡温泉町というところで生まれ育った。その後、結婚を機に親戚を頼って兵庫県川西市に居を構え、60年前の1965年8月に僕が生まれた。僕が小学生の頃、毎年お盆になると、お墓参りのために温泉町の双方の実家に帰省した。それは、国鉄宝塚駅から特急「まつかぜ」に乗り、浜坂駅で降りて、そこからバスに乗るという4時間弱の子供にとっては少々ハードな旅だった。お盆の間は、毎朝6時に起床したあと、親族総出でお墓参りに行き、昼間は諸寄海岸で海水浴をし、夕方にもう一度お墓参りをしたあと、夜は楽しそうな大人たちの宴会を眺めるというのが、僕の夏休みのルーティンだった。そんな子供のころの楽しい記憶からか、いつしか僕は自分のことを但馬の人間だというふうに自覚するようになった。

子供のころ、「但馬」は冬になると雪深く、冬の日本海の暗いイメージと重なり「裏日本」などと揶揄されていた。確かに、当時母の実家には、玄関の脇に20㎡ほどの空間に牛がいて、お風呂は、所謂「五右衛門風呂」で、鉄製の釜の底に木製の底板を踏みながら入浴するもので、外からおばさんがかまどに薪をくべてお湯をわかしてくれた。僕は、そんな母の実家を「牛の家」と呼んでいた。そして、今でも高速道路が幾分整備されたとはいえ、大阪から車で約3時間半ほどかかる辺境なところであることに変わりはない。現在、「温泉町」は2005年に「浜坂町」と合併し「新温泉町」となり、人口約11,000人、高齢(65才以上)化率約41%と典型的な日本の過疎化した町の典型と言えるだろう。

 そんな「但馬」に人を送り込もうというのが、僕の起業イメージである。現在、僕の働いている不動産業界では、長い間活況が続いている。そんな状況下、独立をしたり、さらにいい条件で転職する若い社員が後を絶たない。平成バブル、リーマンショックを経験した僕からすると、今回の活況は、単なるバブルと思えなくもないが、そう思いながらこの状況が長く続いているのも事実である。そんな若い社員を見ていると、話題の殆どが、「金」の話ばかりである。

 一方、シングルマザー(世帯数:約120万世帯、平均年収:約236万円)、引きこもり約146万人(15才から64才)、増え続ける不登校児童約34万人など、彼らの存在を、いったいどう考えればいいのか。彼らの居場所はないのだろうか。そう思ったときに、この二つを結び付けることはできないだろうかと思い至った。

 なぜなら、所謂転職サイトでは、彼らは、最初から除外されているからである。一方、但馬も日本全体からみれば、切り捨てられようとしているといっても過言ではないだろう。二つとも、「金」の世界から見放された存在だと言えば言い過ぎだろうか。そうであるなら、「金」の世界とは別の世界で生きていくことはできないのか。

 僕の考えていることを具現化するために、これから約1年かけてリサーチを行おうと思っている。実際に但馬に足を運び、いろいろな現場の方の声を聴くことにした。この起業に関して「ひと山当ててやろう」などの野望はないが、だからといって、40年近くビジネスの世界に生きてきた人間の矜持として損は出したくない。

 リサーチの第一弾として、僕は、内田先生から紹介いただいた中貝前豊岡市長に会って話を伺うことにした。僕が言うまでもなく、中貝前豊岡市長は、豊岡市長時代に、コウノトリの野生復帰、「城崎国際アートセンター」オープン、「芸術文化観光専門職大学」開学と数々の功績を残された方である。あの豊岡でそんなことができたのかと、但馬を知っている僕としては、ただただ驚くしかない。そんな中貝前豊岡市長に、まずはお会いしたいと思ったのである。そのときのことは次回で詳しく話をしたいと思う。

 内田先生の一言から始まった今回の「起業」だが、僕は、なにより亡くなった両親への「親孝行」になればいいなと思っている。