« Octubre 2005 | メイン | Diciembre 2005 »

Noviembre 2005 アーカイブ

Noviembre 1, 2005

アルタミラ・プラネタリウム

 たしか社会の教科書の最初の方に出てくるアルタミラの洞窟画は、スペインにある。赤っぽい絵でバイソンが描かれた、あれだ。
 アルタミラの洞窟は、マドリードから北へ北へと進み、わりと高い山をいくつか越えるかその間を縫って向こう側へ出て、大西洋まであと5kmくらいになった地点の、小高い丘の上にある。海からの湿気を含んだ空気は柔らかで、緑が、とても多い。

 洞窟はいま、多くの観光客を愉しませた代償として保存状態が悪化したために、閉鎖されている。1万5千年も前に描かれ、無事にその状態を保ってきた作品が、発見(1879年)からほんの120年あまりで危機に瀕するとは……。
 2001年以降、一般見学は、同じ敷地内に作られたレプリカの洞窟の博物館で行われている。
 実際に行ってみたが、絵の制作手順などもわかる仕組みになっていて、かなり楽しい。当時、エアブラシの手法を用いていたなんて、知ってました?
(詳しくは、「イベリア半島ふらりジカタビ/人類最初の芸術、アルタミラへ」まで)

 アルタミラの洞窟画は、「人類初の芸術」である、らしい。
 芸術史でも、いちばん最初の授業でいきなり出てきた。
 歴史の授業でも、大きく取り扱われた。
 せっかく地元にいるんじゃもの、よし、本腰を入れて考えてみよう。


■フェルミン・マリーンはこう云った:
「歴史があらゆる場所で同時に進むと思ってはいけない。授業でとりあげるのは、『その時代の一部の最先端の人間』のことだけなのです。
 まぁアルタミラのクロマニョン人なんていうのは、いまならインターネットを駆使する超先端人間ってとこね。ムフ」

 ムフ、で終わるからには、愛すべきフェミニンな巨漢の、歴史の先生である。前回、どうしたことか名前を間違えて書いてしまったけど、正しくはフェルミン・マリーン・バリゲテ先生。実はどこかフェミニンな名前だったのね。

 フェルミンの歴史の授業は、旧石器時代からはじまった。
 旧石器時代は、前期、中期、後期に分けられる。

 紀元前200万年前の旧石器時代前期、スペインには、その前まで地続きだったアフリカから渡ってきていた人類(原人のホモ・ハビリスとホモ・エレクトス)が住んでいた。
 気候は温暖で、人類は食物が入手しやすい河畔に住み、そして火を知らなかった。
「でもね。はい、ここ注目よー。
 200万年前といっても、アストゥリアス(スペイン北部)の山深いところに住んでいた民は、紀元前1000年頃にフェニキアの民が地中海岸に来て大規模農業を始めた時代にも、まだ火すら知らなかったの。
 忘れちゃダメよ。歴史は、一気には進みません」

 やがて、紀元前30万年前頃からとされる旧石器時代中期になると、人類(旧人のホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス)が登場する。
 気候の悪化を受け、洞窟に住む割合が増加する。その一部は、ついに火を作ることを知る。もともと木の実の殻を割るために使いはじめた石器が進化し、動物の解体や矢尻として使えるようになる。

 そして紀元前3万年前頃からの旧石器時代後期。ホモ・サピエンス・サピエンスのクロマニョン人が現れる。
 気候はこれぞ本当の意味での大氷河時代で、人類は洞窟に住み、遠くまで獲物を獲りに行かなければならなくなる。まぁマンモスもいたから、一頭仕留めれば、けっこうもったはず。外は寒いから肉の保存も楽だろうし。
 1グループは約30~50人で、人数の増加に伴い、「体力がある男が狩、そのあいだ女が洞窟で家事」などの役割分担が発生。
 平均寿命は18~20年と短く、慢性的な食糧不足と、血縁内交配により死に絶えたグループもけっこう多いと思われる。
(ただしスペインで、20歳を超えた、「歯のない」女性の化石が発掘されて謎を呼んでいるとか。すわ、旧石器時代の『楢山節考』か! ここ、今度詳しく訊いてきます)

 この旧石器時代後期の、さらに後の方となるマドレーヌ文化時代に、アルタミラの洞窟画は誕生するのだ。


■リカルド・アブランテスはこう云った:
「絵が描かれたのは、洞窟を奥へ奥へと進み、天井も低くなった『隠れた』場所なんですね。なかには、人間が寝そべって天井に絵を描きつけるような低い場所さえあります」

 リカルドは芸術史の先生。森本レオに似た穏やかな語り口と、世が世なら七宝のループタイでもしてそうなファッションセンス(いつも同じカーディガンだ)と、たまにお尻を掻くクセが、これまたとても愛されている。

 曰く、当時の人間は洞窟に住んでいたといっても、専ら居住に使われていた空間は、自然光が入り、火を使っても充分に新鮮な空気が供給され、かつ湿気の少ない、入口付近の場所である。
 一方で絵が描かれたのは、上記のように光が届かず、湿度の多い、かなり奥へと進んだところ。たしかに絵の保存には適した状態なのだが、果たして、そのとき絵を書いている人間が、「やったね! ここなら絵がずっと痛まず保存されるや」なんていうのを最大の要因として、場所選びをするだろうか?
 しかも、どうもこの場所というのはなにか重要な意味があるらしく、狭い場所に何世紀にもわたって絵が描かれ続けたため、一部では絵が上下に重なりあったりもしてしまっている。なんなんだ?


■中沢新一はこう云った:
「真っ暗闇の洞窟の中で、新しいタイプの人類が自分の内部にのぞき込んでいたのは、大脳の内部を猛烈な早さと強さをもって流動している、この『心』のむきだしの姿だったのではないでしょうか。」(「ほぼ日刊イトイ新聞/芸術人類学編」)

 中沢氏によると、旧人と新人との決定的な違いは、ニューロン同士の間に新しい接続のネットワークが作られることで、人類の心に新しい領域が生まれ、「表現」を行えるようになった点にある、という。
 その「心」を見つめるために、「イニシエーションを受けた大人の男だけが、そこに入っていくこと許され」、「増殖の儀礼をおこな」う「真っ暗闇」が必要だったのではないか、と。

 ニューロンの話は初耳で、なるほどこの時期に人類最初の芸術が生まれた理由が、なんとなく納得できた。
 しかし「儀式としての暗闇」については、半分同意し、半分はなんか他にもないかな、と感じた。感じたまま考えていたら、とんでもないところに行き着いた。


 リカルド曰く、描かれているのが野生のバイソン、鹿、馬、マンモスなど狩の対象となる動物で、さらにどれも丸々と太っていることから、これらは狩の成功を祈るものではなかったかと考えられている、という。
 さらに同時期のフランスの遺跡からは、バイソンなどがひしめく一角に、女性器が描かれていたるのが発見されている。とするとこれは、繁殖への祈りだろう。

 大氷河時代で、30~50人(なかには乳呑み子や足腰立たない老人や妊婦もいたろう)が運命をともにする洞窟での生活で、食料確保と繁殖は、切なる願いである。それらへの祈りが行われたとしても、ちっとも不思議ではない。

 いや。人類初の芸術は、それらの「成功」への祈りというよりも、発達したニューロンが思わず描き出す「失敗した場合への不安」を先取りしてしまうようになった人間の、その不安なり不吉さなりを、なんとか遠ざけるための、必死の祈りではなかっただろうか。
 絵を描くというのは、人類にとって、おそらくかなりの「跳躍」だ。私なら好物の明太子を追いかけているときよりも、苦手なゾンビに追いかけられているときの方が、たぶん必死で走るし、必要ならば「跳ぶ」。

 繰り返すが、描かれるのは、ちょっとありえないくらい丸々と太った動物ばかりだ。厳しい氷河期に、動物だけは食料が豊かだった? そんなことはないだろう。その絵は、人間に対して、かなり辛く当たる自然環境への、「そうあってくださいね」という、祝福ではなかったか。
 食料確保への祈りだけならば、なぜ植物が入ってこないのかが、わからない。みんなが大好きな美味しい果実だってあっただろう。また、この時期は、すでに釣り針が作られている。魚の絵だって、あってもいいはずだ。
 しかし実際には、「ときに、狩を試みる人間を殺してしまう」くらいの力を持った、大型の動物しか描かれていない(ウサギだっていない。捕まえるのは、より簡単なはずなのに)。
 ならばその絵は、人間に生命を与え、ときに生命を奪う、力強い自然への寿ぎではなかったか。

 そう思えば、光に溢れた日常生活の場からできるだけ遠く離れた、暗い「秘密」の場所まで行って絵を描いた理由が、なんとなく実感としてわかる。半分くらい、わかる。村上春樹が言うところの「井戸」の意味とつながってくるような、でも実在する場所としての「洞窟の奥の奥の暗いところ」ではないかな、というかんじで。


■湯川カナは、こう思った:
「しかしなんで、天井なんだ?」

 中沢新一的にでも村上春樹的にでも、とにかく暗いところに行くのはいいとする。
 しかしそこでなぜ、天井に絵を描く?

 ふつうなら、壁に描くはずだ。私ならそうする。この次の時代となる中石器時代だって、絵は屋外の壁に描いている。その方が、腕だって疲れない。それに「手の届く場所にある天井」なんかよりは、壁の方が、どれだけかスペースも広いし。
 彼らは石の粉を植物の茎を使って吹きつけるという高度なエアブラシの手法も使っていて、それならなおさら、勢いあまった粉が顔面にバラバラ降り注ぐ天井よりも、壁に描く方が理に適っている。

 そういうデメリットがあるのに、たいした理由もなく、わざわざ何世紀にもわたって天井に描き続けることはしないだろう。なぜだ? なにか、「天井に書く方が理に適っている」ことがあったのではないか? どうしても上を見なければいけないものって、なんだ?? そしてできれば、暗いところがいいものって。
 ……あっ! 私は急に、閃いちった。そうだ、プラネタリウム、だっ!

 2年前にアルタミラへ行った際、深夜にマドリードを出発するバスに乗った。道中ほとんどの区間、バスは、ヨーロッパ大陸唯一の乾燥気候として知られる、カスティージャの大地をてくてくと進んだ。
 カスティージャの夜を車で進むという経験は、何度もある。高速道路を降りると地上に光はなく、満天の星が頭上を覆う。天の川、なんていうのも、ここで初めて見た。それは感動的に美しくて、私は本当に何度も何度も夜空を見上げた。(もっと光のないサハラ砂漠の夜空は、もっともっとすごかった。あれが古代の夜空だろうか?)

 古代、人間のグループの中で最初に権力をもつようになったのは、魔術師だとフェルミンは言った。農業をはじめたグループにとって、星の運行から季節を読み、明日の天気を予言できる人間は、ものすごく重要な意味を持つ。
 そして旧石器時代後期のクロマニョン人の一部は、すでに、植物の栽培をはじめていた。
 また、アルタミラの洞窟画から1万年も経たないくらいで始まる新石器時代には、すでに天文学上の知識を表すストーンヘンジが作られている。


 思いっきり飛躍していると思うのだけど、アルタミラの天井画は、星図に、なってはいないだろうか? 何世紀かにわたって描き続けられるあいだ、それを意図した者はいなかっただろうか?
 アルタミラの一連の洞窟画の最大の特徴は、各々の絵に統一性はなく、動物のスケールからその状態(停止している、動いているなど)まで、それぞれまったく違うものが、一頭ずつバラバラに描かれている点にある。
 共通の背景などはなく、前述のように、重なって描かれているものもある。なぜか、狭い、ごく限られた空間の中に。

 彼らは発達したニューロンで、空に無数に散らばる、しかしどうやらなんか規則性があって動いている星と、わりと身近な大きな動物とを結びつけて、描きはしなかっただろうか。……しなかった、かもしれないけど。してないかなぁ?

 あぁもう、なぜ人類最初の芸術が、壁画でなく、天井画だったんだ!
 気になって、今夜は眠れなさそうだ。
 明日(11月1日)は諸聖人の日(大雑把だね! 聖人みんなまとめてドンと来い!の祝日だ)。休みが明けたら、リカルドに訊いてみようっと。

Noviembre 8, 2005

スペインの万葉歌と携帯語と恐竜的覚醒

 スペインにいて、まわりはだいたいスペイン語を話している。
 テレビを見れば、ジャッキー・チェンが妙にテンションの高いスペイン語を話しているし(吹き替えはいつも同じひと)、『アルプスの少女ハイジ』のテーマ曲は「アブエリート、ディメ・トゥ♪(=おじいちゃん、教えてよ)」からはじまる。
 ドラえもんは、空を飛ぶためにジャジャーンと取り出した道具の名前を、"Esto es gorro-coptero"と高らかに宣言する。「ゴーロ・コプテロ」=キャップ(頭に被る)・コプター。「竹」という要素が、すっかり吹っ飛んでいる。ま、竹とんぼなんてないもんねぇ。

 ことばは、世界を描く筆である(違うか?)。知らないと、頭の中の「世界」から、そこに対応する光景がすっぽり抜け落ちてしまう。「ゴーロ・コプテロ」を楽しむスペイン人の頭に、しかし、夕焼け空をゆるやかに飛んでゆく竹とんぼの風景は映らないように。
 その逆もまた真実。というか、スペイン語力がさほど高くない私の場合、ひょっとしたら、かなりシュールレアレスティックな「スペインの絵」の中で、暮らしているのかもしれない。

 というわけで。そんな、ここでの毎日の生活そのものであるスペイン語が、今日のテーマであります。


■サンス・ビジャヌエバはこう云った:
「最古のスペイン語は、アラビア語で書かれていた」

 紀元前3世紀のポエニ戦争から、スペインはローマ帝国の支配下に入り、ラテン語が話されるようになった。というか、19世紀まで、一部の公式文書はラテン語だったらしい。
 でも、話し言葉は、地方ごとにどんどん変貌を遂げる。
 たとえば10世紀前後のスペインには、全土にさまざまなロマンス語(ラテン語から変化した言語。イタリア語やフランス語も)があったらしい(インド=ヨーロッパ語に属さないバスク語を除く)。
 そのうち、いちばん内陸にあって、しかもいちばん訛がきつい(アクセントの置かれる母音を開いてしまう。例:porta「ポルタ(扉)」→puerta「プエルタ」)言語が、たまたまその地方で興った国が後にスペインを統一したため、今日のいわゆる「標準スペイン語」となった。支配したものの勝ち、である。
 この「標準スペイン語」のことを、現在4つの公用語をもつスペインでは、国獲り合戦に勝利したそのカスティージャ王国(わが故郷長崎の『カステラ』の語源だ!)にちなんで、「カステジャーノ」と呼んでいる。
 だから、私がペラペラと喋っていると、市場のおじさんから、「あんた、カステジャーノが上手だねぇ!」と言われるのだ。「スペイン語が」とは、あまり言われないの。

 という歴史をもつスペイン語(つまりカステジャーノ)の最古の文学的テクストは、つい50年ほど前に発見された。それは10世紀頃、アンダルシア地方のモサラベ(イスラム教徒の支配下のキリスト教徒)が用いていたというロマンス語の作品。
 しかも、エジプトで発見された。
 アラビア世界で有名な詩人による、神殿への奉納を目的とした長くてかっこいい詩の最後に、なぜか数行だけ残されていた謎のことば。アラビア語では、まったく意味をなさない、文字の連なり。
 実はそれが、「アラビア語を使って書かれた、スペイン語」だった。

 アラビア語は、子音しか用いない。右から左に書かれるそれを左から右へと書き直し、いちいち母音を補ってみたら、スペイン語の詩が現れたのだという。最古のものは、1040年制作とされる。
 中国語と万葉仮名の関係と、似ているかもしれない。新しく生まれた言語を、誰かが必死で音だけを拾って、ぜんぜん違うことばで書きつけたのだろう。
 この、初々しいスペイン語による最古の詩というのを、実際に読んだ。どれも女の子が主人公で、その恋や喜びや嘆きや悲しみをうたっていて、シンプルで、力強いものだった。「あかねさす紫野行き標野行き」という詩歌を、思い出した。万葉ブリブリ、ってやつね。


■マリア・エレナ・コルテスは、こう云った:
「言語はすべて、省エネ化の方向に進みます」

 言語学の授業。マリアはいつも、白髪混じりの美しいワンレングスを揺らしながら、つま先まで完璧にコーディネートされたスーツ姿で現れる。とある雨の日は髪をくるりとまとめ、ピンキーとキラ-ズ風の帽子を被って現れた。もちろん、そのままで授業を進める。まるで舞台を観ているようで、その過剰さがまさにスペインらしい、と、いつも惚れ惚れしてしまう。

 さて、スペイン語には単複あわせて6つの人称があって、かつ、3つの話法において計15の時制変化がある。語学に詳しくないから説明が間違っているかもしれないけど、つまりひとつの動詞が、「私(一人称単数)/恋する(直説法現在形)」「あなたたち(二人称複数)/恋をしていたとしたら(接続法過去完了形)」など、90通りに変化するのだ。うえー。
 そんななか、スペイン語学習者にはありがたいことに、理論上はあってしかるべき「接続法未来」(「恋をするなら」)という時制が、ない。それはなぜかといいますと。

 かつて16世紀には、接続法未来形はあった。『ドン・キホーテ』にも、この活用がでてくる。しかし、と、マリアは髪を慎重にかきあげながら言う。
「だけどね、面倒でしょう? だから、どんどん接続法現在形(「恋をしているなら」)で代用されるようになってきて、ついにはとうとう『ない』ことになってしまったの。すべての言語は、自然と、省エネ化の方向に進むものなのよ」

 この「省エネ化」、実は現在のスペイン語でも起こっている。直説法未来形(「恋をするでしょう」)もまた年々使われなくなっていて、すでに大多数が、現在形を用いているのだ(「明日、恋をする」)。さらには同じ直説法の不確定未来形(「恋をしていたかも」)や不確定未来完了形(「恋をしてしまっていたかも」)も、より一般的に使われる線過去形(「恋をしていた」)に取って代わられつつある。

 さらに最近では携帯メッセージの普及によって、通信代節約のために、言語の大幅な置き換えが行われている。発音しない子音はカット(ahora→aora)、同じ発音の短いスペルがあればそれを代用(es→s、que→k)、意味が通じるなら記号で代用(más→"+")……。結果、「息子から送られたメッセージが読めない」親が急増し、そのため先月、言語の分野でもっとも権威ある王立スペイン語アカデミーが、「携帯文字辞典」を完成させたという。

 外来語の氾濫(だいたいもともとスペイン語の1割くらいはアラビア語由来らしい)も、思い出したように、何度も話題になっている。
 どこもおんなじだねぇ。
 携帯電話という同じツールが広まり、文字数に応じた課金という同じシステムが採用されれば、レストランで音楽をかけないほど喋り好きなスペイン人だってやっぱり、「あけおめ、ことよろ」になるらしい。


■カルメン・サンチェスはこう云った:
「世界でいちばん短い物語は、7つの単語でできています。それは、"Cuando despertó, el dinosaurio todavía estaba allí."です」

 テクスト分析の授業にて。カルメンもかなりユニークなのだが、その詳細はまた今度。
 さてこの文章、直訳すると、「目覚めたとき、恐竜はまだそこにいた。」となる。
 主語は通常、スペイン語では表記されない。ここでも表記されていないが、三人称単数なので、彼、彼女、あなた、あるいは誰でもいい誰か、というあたりになる。
 動詞を見ると、「目覚めた」というのが点過去形で、「いた」というのが線過去形。ということは恐竜は、目覚めた行為よりも前から「いた」ということになる。さらに「まだ」と言っているくらいだから、かなり前からいたのだろう、「そこ」に。
 「そこ」とはどこのこと? そして恐竜とは?

 作者は、アウグスト・モンテロッソ。グアテマラに生まれ、アメリカへ渡り、さらにメキシコに移住した作家である。この作品(ちゃんと「小説」として発表されている)は、1959年に、メキシコで書かれた。

 当時のメキシコでは、PRI(制度的革命党)が政権の座についていた。1929年の結成時から与党であり、59年の段階で、すでに30年が経っていた。
 30年。教室での反応によると「民主主義に立脚する現代社会ではちょっと想像を絶するほどの長期間」も与党であり続けることができるほど、PRIは巨大で、権力的で、圧倒的な力をもっていた。だから、彼らは「恐竜」と呼ばれていた。

 メキシコで彼(あるいは誰か)が目覚めたとき、「恐竜」は、まだ、そこにいたのだ。

 時代の閉塞感を表した小説、と、説明できるかもしれない。そこはわりと、どうでもいい。
 それにしても。
 この「小説」の主人公である彼(あるいは誰か)は、目覚めたらまだ恐竜がいたことにがっかりして、もう一度寝ることにしたかもしれない。でも、再び目を覚ました彼が見たものは。
 これを書いた時点でアウグスト・モンテロッソは知らなかったはずだけど、「恐竜」PRIは、結果として2000年の大統領選に至るまで、実に70年間という「現代社会ではあってはならないほどの長期間」も、政権の座にとどまり続けたのだ。

 あるいは作者は、そのことをもすら、知っていのだろうか。ゴヤが『カルロス4世の家族』で、彼らの身に降りかかる暗澹たる未来(トラファルガーの海戦で「無敵艦隊」壊滅、そして引き入れたナポレオンによるスペイン侵略)をすら描き出した、と言われるように。
 あぁ。そういえば直説法線過去形は、不確定未来形の代わりにも用いられうるのではなかったか……。

 「芸術家」たちはいまこの瞬間も、どこかに「恐竜」を見て、それを描き出しているのかもしれないなぁ。

Noviembre 14, 2005

スペインふところ事情

 「スペインは、公務員の給料が抜群に良いと聞いたのだけど、ほんとですか?」
 ブラジル人から勉強に来ている、『永遠の17歳』という雰囲気のマルコスが、思い切った質問をした。
 フランコ時代を学ぶ特別ゼミナールでの、出来事。
 あっ、そいつはあまりにも無体な。そう思ったときには、歴史も担当してくれている大好きな巨漢の教授が、「せっかくだから、率直に言おう」と、脇の下に汗を滲ませながら答えはじめていた。思わず、メモを取った。


■フェルミン・マリーンはこう云った:
「このコンプルテンセ大学で勤続25年。私の月給は、750ユーロだ」

 しーん。
 教室が、静まり返った。
 750ユーロは、本日の換算レートで10万3890円。
 10万3890円。
 10万3890円!!

 スペインは物価が安いから10万円でも高給なのかというと、そうではない。
 現行の法定最低賃金は、月額で513ユーロ(約7万1000円)。
 実のところ、フェルミンの給料とは、月にして3万円くらいしか違わないのだ。「掃除婦で、私より多くもらってるひともいるかもね」と、本人も言っていた。

 といっても、物価が安いから10万円でもやっていけるんだろう、というのも、違う。
 やっていけやしない。
 たとえば住居を見てみると、自宅から通えない学生や独身の社会人の場合、ほとんどがルームシェアなのだが、この相場が最近は350ユーロ以上(約4万8000円)。
 4畳半どころじゃなく、トイレもシャワーも共同の、室内に自分用の冷蔵庫もテレビもない、ふつうのアパートメントの1部屋の値段が、これである。
 ワンルームは、その倍。
 2部屋以上あるファミリータイプは、その3倍。

 つまり、45歳で、スペイン最高峰の名門国立大学(らしい)で25年のキャリアをもち、数年前には優秀な学者として公的機関による表彰も受けている、ファンタスティックな歴史学教授のフェルミンが、その給料だけでは、家族で住まうアパートの家賃も払えないらしいのだ、正味の話。

 フェルミン夫妻は、共働きだという。
 そして周囲を見ても、たしかに30代、40代は共働きが多い。
 なぜか。
 ふたりで稼がんと生きていけん、という、かなり切実なケースが少なくない。

 フェルミンの奥さんは、厚生省の機関の課長で、月給は800ユーロ台(約11万円)。
 彼らは日本ならさしずめ「東大教授の夫と、国家公務員の妻」なのだけど、ふたり足した稼ぎが、月に20万円にもならない。
 ちなみに、マクドナルドやケンタッキーのセットメニュー(一般のものと比べて割高ではない)は、約5ユーロ(約700円)だ。楽じゃないのだ、まったく。


 ここから、みっつの「スペイン」を読むことができる。

 ひとつ。スペインでは、公務員の給与が、すっかり低い。これは、フランコ体制の支持者となることで公務員が高い給与と地位を得てきたその独裁時代への反動、ということらしい。

 ふたつ、2002年のユーロ導入以降のインフレがひどい。誰もが、「実際、物の価格が軒並み6割は高くなった」と言っている(1ユーロ=166.386ペセタという換算レートに由来する。結局、1ユーロ=100ペセタになったかんじなのだ)。
 例を挙げると、私が5年前には600円で食べられた喫茶店の昼の定食が、いまでは1000円くらいになっている。そして公務員(に限らず、たいていのひと)の賃金は、据え置かれたままだ。

 みっつ。失業率が、やっぱり高い。だから安定職である公務員には、給料が安くても、まだ少なからぬメリットが感じられるのだという。
 一方、日本なら学生バイトが多いマクドナルドなど単純労働のポストは、上記の最低賃金で働く移民で占められる。一説によると、大学新卒の失業率は、きつい仕事を嫌がるせいもあって、実は約50%にも達しているのではないかという。


■某ビッグクラブの、育成部門スタッフはこう云った:
「スカウトの視線は、近年は郊外に向けられています」

 今週、これは大学ではなくサッカー関連の仕事で、某ビッグクラブの関係者の話を聞く機会があったのだが、そのとき、こんな話が出た。
 曰く、先進国となったスペインの子どもたちの関心は、「どこでも1つのボールで20数人が遊べる」サッカーばかりではなくなってきた。現実にこの数年、自分のクラブで育てる良い選手を見い出そうとする下部組織のスカウトたちは、郊外、つまり、移民労働者が主に住む地域を重視するようになっているのだ、と。

 つまり、こういうことだ。これまでは南米の選手というと、古くはディ・ステファノから、最近ではロナウドやロナウジーニョやアイマールまで、「母国の代表選手がスペインのプロリーグに呼ばれる」というスタイルだった。だがこれからは確実に、「南米からやってきた移民の、スペインで生まれた子どもたち」が増えてくるだろう。彼らはプロの選手となり、代表選手ともなる。ちょうどフランス代表の、ジダンやアンリのように。
 隣国フランスの話は、この呑気なスペインでも、もうとっくに、他人事ではなくなりつつあったらしい。
 ガーン☆となった。
 ぜんぜん気がつかなかった。対岸、っていうか、ピレネーの向こうの火事だと思ってた。


 かつてオイルショック以前、スペインは国策として、ドイツやスイスなどの先進国に、100万人単位で移民を送り込んでいた。国が、その「旅行」をオーガナイズしていた。そして彼らが母国に送金した外貨が、今日に至るスペイン発展の礎を築いた。
 いまはそのスペインに、100万人単位で移民が押し寄せてきている。一時期は日本をも下回っていた出生率が上昇したのも、ほとんど移民の「おかげ」だ。
 しかし、移民、移民、と気軽にいうけれど。
 私も、そのひとりだ。それこそ、他人事じゃない。

 今週、大学のトイレに、「移民は出て行け!」という落書きを見つけた。
 「大学は出たけれど」ちっとも仕事の見つからない、ってことになりそうな学生が、思わず書きなぐったのかもしれない。……ちょと、胸が痛んだ。

 といっても、今回のフランスの暴動は、いまのところ、スペインではとても冷静に受け止められている。まさに「対岸の火事」といった雰囲気だ。
 でも。いつか、サッカーのスペイン代表チームの主力が「移民の子どもたち」になったときにも、彼らは同じように落ち着いていてくれるだろうか。

 すでに、治安の悪さは移民のせいにされている。
 実は数年前、自宅に泥棒に入られたのだけど(ドリルで壁に穴を開けられたんよ。やるねぇ)、そのとき「これは移民の仕業だね」と、非常に恰幅の良い警部は悠々と葉巻をふかしながらそう即断してのたまった、なにも調べようとせずに。

 また、内田さんが指摘していた公教育の質の低下もすでに大きな問題となっていて、カトリック系の私学には、「赤ちゃんがお腹の中にいるときから」入学待ちのリストに名前を並べるほどの騒ぎになっているという。月に最低でも500ユーロはするという私学の月謝を払える家庭は、そんなに多くはないというのに。


 自分だけが無事でいられる、とは、本当に考えちゃいけないのだ、と、つくづく思った。
 書いているうちに本当にそう思って、ぶるぶる震えてきた。
 移民としても、あるいは移民を受け入れる側としても、あるいはその他のすべての局面においても。
 世界に巻き込まれて、私は生きている。のだね。

Noviembre 21, 2005

ケルティック・スペインのひみつ

 現実とは、とかく雑多で複雑で。
 スペインという国を、「理論」で知る前にいきなり「現実」で体感してきたため、「ジャングルの中でいきなり目の前に現れたどえらく臭いラフレシアを前に呆然とする」ばかりの日々を送ってきた。
 いまのスペイン学の勉強は、それを振り返って「あの花は東南アジアのみに見られ、その悪臭は、花粉を媒介するハエを誘うのに役立つ。なお、これを発見した、ホテルでも有名なラッフルズにちなんで、ラフレシアと呼ばれる」とインデックスをつけて記憶を再構築するようなもので、元Yahoo! JAPAN第1号サーファーとしては(そうじゃなくても)、どうにも楽しくて仕方ない。
 それがたとえ「O型は大雑把」みたいなことでも、思わす納得してしまいそうになる。

 今回の話も、聞いていて最大級の衝撃を受けたのだけど、さあさどこまでそれをベースに再構築してよいものやら。
 「そう言われれば、と思い当たる節」をたくさん頭に浮かべつつ、悩んでいるところです。


■フェルミン・マリーンはこう云った:
「今日のスペイン人の最大の特徴的資質とされているホスピタリティーは、ケルト文化に由来するものです」

 実はこの週、なぜフェルミンが巨漢なのか、涙なしには聞けないような(「ちょちょぎれる」、ってやつだ)話も明らかになるのだが、それはまた後日に譲るとして。

 紀元前1000年頃、地中海をフェニキア人が軽快に渡ってイベリア半島東部・南部にやってきていたのと同じ時期、大西洋に面する北部・西部には、ケルト人がやってきていた。
 この2大文化(「地中海-イベリア文化」と「大西洋-ケルト文化」)こそが、スペイン文化という「折りパイ」の最下層を形成している。

 ケルトとスペインという組み合わせは意外かもしれない。え、そんなことないですか 私は、ここに来るまで知らんやったです。
 スペイン語で「ケルト」は、「セルタ」。サッカーに詳しい方ならご存知のガリシア地方のチーム「セルタ・デ・ビーゴ」は、「ビーゴ市のケルト人」という意味だ。また音楽に詳しい方ならご存知の同地方の民族楽器「ガイタ」は、まったくのバグパイプである。

 さて。ケルト人社会を構成する基本単位は、部族である。いくつかの家族が集まったものが血族で、いくつかの血族が集まったものが部族になる。1部族の人数は、最大で1000人くらいだったという。そんな部族社会の最大の特徴は、民主主義と平等であった。

 政治機関は各血族の主なメンバー数十人(80~100人/1000人の部族)による集会であり、そこに数人の長老が、アドバイザーとして関与するシステム。これが、「下院/上院(貴族院)」というヨーロッパの議会の原形となっている。
 また戦争の際には、その時点で最適任と思われる人物がリーダー(カウディージョ、「頭領」)に選ばれるが、選出においてその社会的地位は問われない。実際、後に行われるローマ人との戦争では、家族を皆殺しにされたとある羊飼いがリーダーとなっている。
 戦争が終われば、その職は解かれる。偉いのは一代限り、しかも一時期だけ。
 王や貴族、また社会階級の違いなども存在しなかった。

 ということで、今日的な表現を用いると、「極めて民主的な社会」だったという。
 なぜなら、みんな一様に貧しかったから、なんだそうだ。

 そんなケルト人の「掟」というか、行動基準が、「ホスピタリティー」である。
 町という大きな、でも稀薄な関係のなかで、王を頂点とするヒエラルヒーに属して盛んに外部と交易をしながら暮らすイベリア人と異なり、ケルト人はあくまで部族で結束し、自分たちで生活に必要なものを生産するという閉じられた世界での行動を基本とする。
 「他人」は、だから、とても厄介な存在だ。
 殺すのは簡単だ。でもそれでは部族間の抗争が絶えず、ちっとも社会が落ち着かない。
 なので、ルールを決めた。
 自分の庇護下に入った訪問者や捕虜の生命は、自らの命を賭しても、責任を持って護る。それが、「ホスピタリティー」なんだそうだ。

 「情に厚い」といわれる今日のスペイン人の、その源は、このあたりにあるという。
 実際、スペイン人の「厚意」は、尋常なものではない。
 家に誰かを招くときには、ホストが食事から宿泊の世話まで、非常なる責任感をもって引き受ける。ゲストが一歩自宅を出てから、再び自宅のドアを開くまで、すべてがホストの責任。もちろん、交通の手配もホストのマターだ。
 外で食事をしても、割り勘なんてみっともない真似は、まずしない。誰かが、まとめてみんなの面倒を見る、奢る。他は子どものように、「ごっそさん!」と礼を言うだけだ。(その意思と能力があるなら、次にまとめて奢ればいいという、社会的合意がある)

 一方でゲストにとっての「掟」とは、これほど責任をもってもてなしてくれるホストに対して、失礼のないようにすること、となる。
 出された食事がまずくても、会話がつまらなくても、決してそれを表明しない。もし招かれた部族でそれをやれば、少なくとも自分の部族との戦争になるし、っていうか大抵はその前に自分自身が寄ってたかって殺されてしまうだろう。
 フェルミン曰く、実はスペイン人は学校で、先生に対して質問をすることはまずないのだという。質問をするという態度が、「あなたの教え方が下手だから、わからないんだよねー」という、極めて失礼なものと受け取られかねないからだそうだ。

 私自身、それが仕事の相手であれただの旅先であれ、スペイン人が、私がそれを断りでもしようもんなら泣かんばかりの切羽詰った雰囲気で、驚くような厚遇を申し出てくれるという場面に、何度も遭遇している。
 年上のひとと食事に行って、まず金を払うことはない。
 道を訊けば、その場所まで付き添って案内してくれる。車を運転中なら、どんなに遠回りとなろうとも先導してくれる。
 遠方では企業オーナーから有名シェフまでが、メシはもちろん、ぜひ自宅に泊まっていくようにと強く勧めてくれる。

 そうか、彼らはケルトの子どもたちであったか。
 そして私はたいてい、「ことばの不自由な、かわいそうな外国人」と思われ、手厚くもてなされているわけなのね。なるほど。
 こうなりゃ、歌うしかない。

 ♪オーオ、アイム・アン・エイリアン、
  アイム・ア・リーガル・エイリアン、
  アイム・ア・ジャパニーズ・ウーマン・イン・スペイン~

 ……なんか淋しいのはなぜ?


■フェルミン・マリーンは、こうも云った:
「しかし、ケルト文化が継承されなかった部分もある。その最大のものが、女性への概念だ」

 ケルト文化では、女性は男性と同じ権利をもち、それどころか家族または一族の「大黒柱」とみなされていた。
 女は社会構成を構成する貴重なメンバーとして牧畜や海女の仕事に従事し、経済活動の一翼(あるいは重要部分)を担っていた。現在でもケルト文化が色濃く残るガリシア地方では、海女の母ちゃんが一家を食わせているケースがよく見られる。
 同地方は日本に輸出されているホタテやムール貝で有名だが、とくにペルセベというスペイン人が大好きな貝(カメノテ、烏帽子貝)は岩場でしか獲れないので、毎年、何人もの海女が命を落としているという。
 ケルトの女たちは勇敢なことでも有名で、部族がその生業のひとつである「略奪」を行うときや、戦争のときには、左手に子どもを抱き、右手に武器を持って、戦ったりもする。

 このガリシア地方には50年ほど前まで、こんな習慣も残っていた。
 一家の大黒柱である「強い女」は、弱いところを見せるわけにはいかない。そんな女がもっとも弱くなるとき。それは、出産である。痛い、らしい、どうやら。私は知らないが。
 そこでガリシア地方では、女は出産を、家から離れた山中などで、家族の目から隠れてこっそり行った。その後、女が赤ちゃんを伴って帰宅すると、今度は男がベッドの中で、「女の代わりに」陣痛の苦しみを演じてみせたのだという。

 しかし、そんな「強い母ちゃん」は、現代スペインの女性観という問題への、一般的な解答にはなっていない。女はふつうは、「弱くてそれ自身では無価値な、男が守るべき存在」と思われている。
 実際に1982年、つまりほんの23年前まで、スペインでは女に相続権がなく、個人のIDも持てず(=父か夫の名でしか労働契約も結べない)、銀行口座も開設できなかった。

 これは、「女は『花』であり、夫から子への相続の橋渡しとしてしか意味をもたない」とする、フェニキア→ローマ→カトリックの考え方をベースにするものだという。もちろん、バチカンに認められた「カトリックの擁護者」フランコが、それを徹底的に推し進めたのだけど。

 なので私は今日のスペインにおいて、ケルト的に庇護されるお客様の外国人で、かつイベリア的に庇護される無力な女で、えっと、なんというか。
 なんというか、たしかにこれはこれですごく居心地はいいのだけれど。
 なぜか、たまにムキーッ! と暴れたくなる。
 あたしはここにいるよォ、と、叫びたくなる。

 あるいはその声が届かないと思ったとき、
 ほんとに、スティングの透明な声が、ふと、聞こえてくる。
 それがマドリードのありふれた犬の糞だらけの街角でも、
 太陽と赤茶けた土しかないラ・マンチャの荒野でも、
 ふいに、ずーんと淋しさに貫かれることがある。

 ♪オーオ、アイム・アン・エイリアン、
  アイム・ア・リーガル・エイリアン……

 あぁ、なんで「リーガル」(合法)ってわざわざ言ってるのか、はじめてわかった気がする……。

About Noviembre 2005

Noviembre 2005にブログ「湯川カナの、今夜も夜霧がエスパーニャ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブはOctubre 2005です。

次のアーカイブはDiciembre 2005です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35