現実とは、とかく雑多で複雑で。
スペインという国を、「理論」で知る前にいきなり「現実」で体感してきたため、「ジャングルの中でいきなり目の前に現れたどえらく臭いラフレシアを前に呆然とする」ばかりの日々を送ってきた。
いまのスペイン学の勉強は、それを振り返って「あの花は東南アジアのみに見られ、その悪臭は、花粉を媒介するハエを誘うのに役立つ。なお、これを発見した、ホテルでも有名なラッフルズにちなんで、ラフレシアと呼ばれる」とインデックスをつけて記憶を再構築するようなもので、元Yahoo! JAPAN第1号サーファーとしては(そうじゃなくても)、どうにも楽しくて仕方ない。
それがたとえ「O型は大雑把」みたいなことでも、思わす納得してしまいそうになる。
今回の話も、聞いていて最大級の衝撃を受けたのだけど、さあさどこまでそれをベースに再構築してよいものやら。
「そう言われれば、と思い当たる節」をたくさん頭に浮かべつつ、悩んでいるところです。
■フェルミン・マリーンはこう云った:
「今日のスペイン人の最大の特徴的資質とされているホスピタリティーは、ケルト文化に由来するものです」
実はこの週、なぜフェルミンが巨漢なのか、涙なしには聞けないような(「ちょちょぎれる」、ってやつだ)話も明らかになるのだが、それはまた後日に譲るとして。
紀元前1000年頃、地中海をフェニキア人が軽快に渡ってイベリア半島東部・南部にやってきていたのと同じ時期、大西洋に面する北部・西部には、ケルト人がやってきていた。
この2大文化(「地中海-イベリア文化」と「大西洋-ケルト文化」)こそが、スペイン文化という「折りパイ」の最下層を形成している。
ケルトとスペインという組み合わせは意外かもしれない。え、そんなことないですか 私は、ここに来るまで知らんやったです。
スペイン語で「ケルト」は、「セルタ」。サッカーに詳しい方ならご存知のガリシア地方のチーム「セルタ・デ・ビーゴ」は、「ビーゴ市のケルト人」という意味だ。また音楽に詳しい方ならご存知の同地方の民族楽器「ガイタ」は、まったくのバグパイプである。
さて。ケルト人社会を構成する基本単位は、部族である。いくつかの家族が集まったものが血族で、いくつかの血族が集まったものが部族になる。1部族の人数は、最大で1000人くらいだったという。そんな部族社会の最大の特徴は、民主主義と平等であった。
政治機関は各血族の主なメンバー数十人(80~100人/1000人の部族)による集会であり、そこに数人の長老が、アドバイザーとして関与するシステム。これが、「下院/上院(貴族院)」というヨーロッパの議会の原形となっている。
また戦争の際には、その時点で最適任と思われる人物がリーダー(カウディージョ、「頭領」)に選ばれるが、選出においてその社会的地位は問われない。実際、後に行われるローマ人との戦争では、家族を皆殺しにされたとある羊飼いがリーダーとなっている。
戦争が終われば、その職は解かれる。偉いのは一代限り、しかも一時期だけ。
王や貴族、また社会階級の違いなども存在しなかった。
ということで、今日的な表現を用いると、「極めて民主的な社会」だったという。
なぜなら、みんな一様に貧しかったから、なんだそうだ。
そんなケルト人の「掟」というか、行動基準が、「ホスピタリティー」である。
町という大きな、でも稀薄な関係のなかで、王を頂点とするヒエラルヒーに属して盛んに外部と交易をしながら暮らすイベリア人と異なり、ケルト人はあくまで部族で結束し、自分たちで生活に必要なものを生産するという閉じられた世界での行動を基本とする。
「他人」は、だから、とても厄介な存在だ。
殺すのは簡単だ。でもそれでは部族間の抗争が絶えず、ちっとも社会が落ち着かない。
なので、ルールを決めた。
自分の庇護下に入った訪問者や捕虜の生命は、自らの命を賭しても、責任を持って護る。それが、「ホスピタリティー」なんだそうだ。
「情に厚い」といわれる今日のスペイン人の、その源は、このあたりにあるという。
実際、スペイン人の「厚意」は、尋常なものではない。
家に誰かを招くときには、ホストが食事から宿泊の世話まで、非常なる責任感をもって引き受ける。ゲストが一歩自宅を出てから、再び自宅のドアを開くまで、すべてがホストの責任。もちろん、交通の手配もホストのマターだ。
外で食事をしても、割り勘なんてみっともない真似は、まずしない。誰かが、まとめてみんなの面倒を見る、奢る。他は子どものように、「ごっそさん!」と礼を言うだけだ。(その意思と能力があるなら、次にまとめて奢ればいいという、社会的合意がある)
一方でゲストにとっての「掟」とは、これほど責任をもってもてなしてくれるホストに対して、失礼のないようにすること、となる。
出された食事がまずくても、会話がつまらなくても、決してそれを表明しない。もし招かれた部族でそれをやれば、少なくとも自分の部族との戦争になるし、っていうか大抵はその前に自分自身が寄ってたかって殺されてしまうだろう。
フェルミン曰く、実はスペイン人は学校で、先生に対して質問をすることはまずないのだという。質問をするという態度が、「あなたの教え方が下手だから、わからないんだよねー」という、極めて失礼なものと受け取られかねないからだそうだ。
私自身、それが仕事の相手であれただの旅先であれ、スペイン人が、私がそれを断りでもしようもんなら泣かんばかりの切羽詰った雰囲気で、驚くような厚遇を申し出てくれるという場面に、何度も遭遇している。
年上のひとと食事に行って、まず金を払うことはない。
道を訊けば、その場所まで付き添って案内してくれる。車を運転中なら、どんなに遠回りとなろうとも先導してくれる。
遠方では企業オーナーから有名シェフまでが、メシはもちろん、ぜひ自宅に泊まっていくようにと強く勧めてくれる。
そうか、彼らはケルトの子どもたちであったか。
そして私はたいてい、「ことばの不自由な、かわいそうな外国人」と思われ、手厚くもてなされているわけなのね。なるほど。
こうなりゃ、歌うしかない。
♪オーオ、アイム・アン・エイリアン、
アイム・ア・リーガル・エイリアン、
アイム・ア・ジャパニーズ・ウーマン・イン・スペイン~
……なんか淋しいのはなぜ?
■フェルミン・マリーンは、こうも云った:
「しかし、ケルト文化が継承されなかった部分もある。その最大のものが、女性への概念だ」
ケルト文化では、女性は男性と同じ権利をもち、それどころか家族または一族の「大黒柱」とみなされていた。
女は社会構成を構成する貴重なメンバーとして牧畜や海女の仕事に従事し、経済活動の一翼(あるいは重要部分)を担っていた。現在でもケルト文化が色濃く残るガリシア地方では、海女の母ちゃんが一家を食わせているケースがよく見られる。
同地方は日本に輸出されているホタテやムール貝で有名だが、とくにペルセベというスペイン人が大好きな貝(カメノテ、烏帽子貝)は岩場でしか獲れないので、毎年、何人もの海女が命を落としているという。
ケルトの女たちは勇敢なことでも有名で、部族がその生業のひとつである「略奪」を行うときや、戦争のときには、左手に子どもを抱き、右手に武器を持って、戦ったりもする。
このガリシア地方には50年ほど前まで、こんな習慣も残っていた。
一家の大黒柱である「強い女」は、弱いところを見せるわけにはいかない。そんな女がもっとも弱くなるとき。それは、出産である。痛い、らしい、どうやら。私は知らないが。
そこでガリシア地方では、女は出産を、家から離れた山中などで、家族の目から隠れてこっそり行った。その後、女が赤ちゃんを伴って帰宅すると、今度は男がベッドの中で、「女の代わりに」陣痛の苦しみを演じてみせたのだという。
しかし、そんな「強い母ちゃん」は、現代スペインの女性観という問題への、一般的な解答にはなっていない。女はふつうは、「弱くてそれ自身では無価値な、男が守るべき存在」と思われている。
実際に1982年、つまりほんの23年前まで、スペインでは女に相続権がなく、個人のIDも持てず(=父か夫の名でしか労働契約も結べない)、銀行口座も開設できなかった。
これは、「女は『花』であり、夫から子への相続の橋渡しとしてしか意味をもたない」とする、フェニキア→ローマ→カトリックの考え方をベースにするものだという。もちろん、バチカンに認められた「カトリックの擁護者」フランコが、それを徹底的に推し進めたのだけど。
なので私は今日のスペインにおいて、ケルト的に庇護されるお客様の外国人で、かつイベリア的に庇護される無力な女で、えっと、なんというか。
なんというか、たしかにこれはこれですごく居心地はいいのだけれど。
なぜか、たまにムキーッ! と暴れたくなる。
あたしはここにいるよォ、と、叫びたくなる。
あるいはその声が届かないと思ったとき、
ほんとに、スティングの透明な声が、ふと、聞こえてくる。
それがマドリードのありふれた犬の糞だらけの街角でも、
太陽と赤茶けた土しかないラ・マンチャの荒野でも、
ふいに、ずーんと淋しさに貫かれることがある。
♪オーオ、アイム・アン・エイリアン、
アイム・ア・リーガル・エイリアン……
あぁ、なんで「リーガル」(合法)ってわざわざ言ってるのか、はじめてわかった気がする……。