メイン | Noviembre 2005 »

Octubre 2005 アーカイブ

Octubre 10, 2005

エスパーニャよりはじめまして

 スペイン、という、よくわからない国に住んでいる。どこにあるのか、冬は来るのか、「トイレはどこですか」とはどう言うのか、そんなことも知らないまま来て、気がつけば6年も経っていた。
 恋を、したのかもしれない。よくわからないまま、見よう見まねで、「彼」がそうするように昼間からワインを飲み、シエスタをし、愉快な仲間とバルをはしごし、初対面でも親しく頬にキスしあい、口角泡飛ばして激論を交わし、喜びも悲しみも涙で分かちあい、「明日できることを今日するな」という諺をうそぶきながら毎日を過ごすうち、なんだかものすごく愛するようになっていた。彼、スペインのことを。

 「あなたのことをもっと知りたいです」 そう言う代わりに願書をしたため、束脩として幾許かの金を納めて、だから先月、大学の門をくぐった。いや、学生数10万以上という欧州最大(自称←スペイン人が言ったから)のマドリード・コンプルテンセ大学は、市の一角に緑あふれる広々とした町を作っていて、狭い門なんてないのだけれど。ともかくこうして私は、哲・文学部の外国人向けスペイン研究コース(1年間)に通いはじめた。
 科目は、言語学、文学、歴史、美術史、文章読解、地理、思想史の7つ。かつて陽の沈まぬ帝国だったという歴史をもち、近代小説の祖とされる『ドン・キホーテ』を生み、っていうか人類最初の芸術であるアルタミラの洞窟壁画までがうっかりあったりするこのものすごそうな国を、いったいどこまで知ることができるのかはわからないけど(授業はスペイン語だし)、できる限りついていこうと思っている。だって、愛しちゃったンですもの。

 そしてここに、内田樹さんという、素敵な本とブログを書いているひとが登場する。この話をしたら内田さんってば、「んじゃ、うちでやってみる?」と、親に打ち込んだ千五百点分の点棒をカチャカチャと揃える手を止めてニッコリと微笑みながら(←ご本人を知らないので、ぜんぶ想像)、こちらの長屋に招いてくださったのだ。ありがたや。
 とはいっても、なんせアチキはジョン万次郎。なんの因果か流れ着いた国で、自己流で言葉を覚えただけなうえに、生来の粗忽者ときている。ひょっとしたら、というかそれ以上の確率で、学問的な間違いをしでかすだろう。だからそのときは、どうぞぶってね……では痛いので、どうか指摘してください。できれば優しく、叶うならばカバジェロ(紳士)なかんじで。

 というわけで、さっそく初回レポートです。


■アンヘル・バーモンデはこう云った:
「いまから10年後には、マドリードは、世界5大都市として数えられるようになっているだろう」

 初日、かなり偉い(らしい)アンヘル・バーモンデ教授によるウェルカム・スピーチ「マドリード、その現実と象徴」が行われた。
 まず、15世紀にスペイン統一を達成した王家が、翌16世紀に、(1)イベリア半島の統治の便宜上その中心に位置し、(2)強固な既得権を持つ教会や貴族などがいないだだっ広い土地に、いきなり作ったのがマドリードである、という起源を紹介。だいたい、それまで王と宮廷は全国を移動しながら政治を行っていたので、スペインには「首都」という概念はなかったのだ。
 新しい概念とともに、ゼロから作る我らが王国の首都。いや、活気あっただろうなぁ。ちなみに、このスペイン統一完了(半島最後のイスラム教国グラナダの陥落)が1492年1月で、同年8月には意欲に燃えるコロンブスが出港、10月に新大陸発見。1519年になると、スペイン王カルロス1世が、新大陸貿易で得た金にあかせて神聖ローマ帝国皇帝として即位(カール5世)。首都マドリードの建設は1561年、その息子であり、いまもフィリピンという国名に名を残すフェリペ2世によって。まさに、「太陽の没することなき帝国」の時代である(実際にはすぐ沈んだが)。

 それからずっとマドリードは、スペイン全土から「なにも生産しないで富を吸い上げる、ドラキュラのような町」と疎まれてきた。標高650m(飛騨高山くらい)のメセタ一帯は欧州唯一のステップ気候。オリーブが茂るには寒すぎ、小麦が育つ土も、そして水もない。流れるのは細いしょんべん川で交易の役には立たず、最寄りの海までは350km(およそ東京−名古屋間)。「しかしだからこそ」 アンヘルは唾を飛ばす。「21世紀の今日では、マドリードこそが、さらに飛躍できる都市なのだ!」 ン?

 アンヘルは言う。欧州の古い都を見ろ、パリ、ロンドン、ブリュッセルにアムステルダム、どこも歴史ある資源豊かな町で、良港か大河に恵まれている。しかし、21世紀のポスト生産資本主義経済で重視されるのは目に見えないサービスなので、そんなことはたいした問題にならない。それどころか、伝統にがんじがらめにされている古都よりも、どんどん変わりゆける可能性を秘めている新しい町マドリードの方が、よほど発展可能性を秘めているのだ。
 ごらん、いま成功をしているアメリカの都市とマドリードは、成立年代も、カオティックなところも、なんとよく似ているではないか。10年後には、マドリードは必ずや、世界5大都市として数えられるようになっているだろう。……3大都市には、まだ無理かもしれないけどね。


 実は、スペインに来てよく耳にするのが、この「スペインはもう先進国だ」「もうすぐ一流国だ」という表現である。「世界三大美術館」といえば、ここではルーブル、大英、そしてプラド。「世界三大ファッションショー」といえば、パリ、ミラノ、そしてマドリード。最初のふたつのどちらかがニューヨークに変わることはあっても、最後のひとつが変わることはない。かと思えば、「遅れた農業国だと思っているだろう」といきなり絡まれることもしばしばあって、その自信のなさにかえって驚く。テレビでG8のニュースを読むキャスターは、招かれていないことがこころなしか少し恥ずかしそうだし。

 そう、スペインはたぶんいま、ものすごく「成長」中なのだ。オイルショックがあって高度成長が終わったといわれる1973年の日本に生まれた私としてはちょっと実感がわかないけれど、先進国に追いつけ追い越せで、ちょうどモリモリ走っているところなのだ。だからこそ、欧州最大だというコンプルテンセ大学の偉い教授ともあろうひとが、集まった外国人学生に出身地を訊き、ロスやニューヨークから来た若造たちに、「ね、マドリードのこと、正直どう思った?」と、真剣な顔して意見を求めていたのだろう。

 スペインの良さって、そこ(ばかり)じゃないのにー。
 1999年、通貨がまだペセタだった時代からここにいる私は、見る間に変わりゆく街を見ながら、そう思わないわけでもない。でもそれは「外」にいる人間の、ついでにいえばG8加入国から来た人間の、勝手な感慨なのだろうきっと。高度成長期の日本だって、外からは、そういう目で眺めていたひとがいたのかもしれない。実際にスペインの多くのひとたちからすると、日本はいまでも、「老人を敬う国」という点で、もっとも信頼を置かれていたりするわけだし。

 これからスペインは、どうなるんだろう。
 学校を出て、この6年間でミラーがなかったり壊れたドア代りにダンボールを貼ったりしている車をすっかり見かけなくなった道路を渡りながら、考えた。なんというか、ドキドキする。まるで化粧をはじめたばかりの女の子のように、時には「あー、やっちゃった!」ってこともある「成長」ぶりを、私はしばらく見てみよう。これもちょうどそう、愛する者を、ただじっと見守るように。

よろしければ一年間、おつきあいください。
 

Octubre 18, 2005

スペイン歴史事始

トレドという古都がある。マドリードの南80kmくらいにあって、まぁ、奈良とか鎌倉みたいなものだ。大仏はないけれど、16世紀にエル・グレコが描いたままの街並がそっくり残っていて、旧市街全体が世界遺産に指定されている。

 この街の建築物が、かなりおもしろい。たとえば、「光のキリストのメスキータ(イスラム教寺院)」なんてのがある。まるで「阪神ジャイアンツ」的な矛盾に充ちた名前で、それだけでもドキドキするのだが、建物そのものも負けてはいない。
 上から見るとカップケーキの断面というか前方後円墳のようなそれは、前半分が四角形のイスラム様式の寺院、後ろ半分が半円形のキリスト教教会。で、それを支える土台は、西ゴート族が立てた柱だったりするのだ。
 また、こんな例もある。12世紀に建てられた寺院。ここではかつて、金曜日にはイスラム教徒が、土曜日にはユダヤ教徒が、そして日曜日にはキリスト教徒が、交替で礼拝をしていたという。そういやたしかにこの「親戚」3宗教って、礼拝の曜日、違うわ。

 やたらに様式が入り交じったトレドの寺院に入ってぽけっとしていると、なんだかとても落ち着いた気分になる。
 ラ・マンチャの強烈な太陽を遮る柱の濃い影の中に身を滑り込ませつつ、「あぁ、だからスペインって好きだなぁ」と、つくづく思うのです。

 んでは、第2回目のレポートを。


■アンヘラ・レドンドはこう云った:
「スペインは対照的な文化の交差路にあるのです」

 アンヘラは、地理の先生。黒板に、ゴルフのパターのヘッド部分を横から見たようなスペインの地図を書き、その上から縦横にでーっと線を引いた。そうして曰く。
 ご覧なさい。北はヨーロッパ、キリスト教世界。南はアフリカ、イスラム教世界。東は地中海のローマ世界で、そして西は新大陸アメリカ。スペインは、その交差路にあるでしょう。

 たしかに8世紀から約800年にわたってイスラム教国の支配を受けた国、なんて、由緒正しきヨーロッパにはない。
 皇帝ナポレオンが「ピレネーの南は、ありゃアフリカだね」と言ったというのは有名な話。まぁそのおかげで、イスラム建築の最高傑作といわれるアルハンブラ宮殿も、スペインにあったりするのだが。
 一方、あくまでプロテスタントを認めず、新大陸で得た巨万の富をつぎ込んで、カトリックの牙城としてガリガリ戦争を続けていたのもスペイン。
 実は「陽の沈まぬ帝国」時代に、4回も破産宣告をしていたりするし。儲けたのは、ドイツの銀行家ばかりなりよ。あぁあ、バッカだなぁ。

 その「宿痾」カトリックが入ってきたのは、ローマ時代。この時期、「ローマ帝国領土の端にある、世界の食料倉庫」であったスペインは、他の国ではちょっと見られないほどの、猛烈なローマ化を成し遂げたんだよね。
 だいたいそれ以前も、文化の出ずる土地、オリエントのピラミッドやスフィンクスに思いを馳せて、似ても似つかぬコピーものを作っていたくらいだし。

 どうもスペインってば、ピレネーの向こう、あるいは地中海の奥の方に、切ないまでの憧れを抱いているらしい。


■オルデン・ヒメーネスはこう云った:
「スペイン人が『ヨーロッパ』と言うとき、その『ヨーロッパ』には『スペイン』が含まれていない」

 オルデンは思想史の先生。セネカやアベロエスと同じコルドバ出身であることに、異常なまでの誇りをもっている。(いや、郷土愛がすさまじいのは、スペインではよくある話だ。うっかり隣の町を褒めたりしたら、一生恨まれたりする)

 彼が言うには、新聞でよく見受けられる表現(「ヨーロッパでは喫煙率が/チョコレートの消費量が……、一方でスペインでは……」)に顕著に見られるように、スペイン人は自分のことをヨーロッパ人だとは見做していない。
 ちなみにクラスメートのイタリア人やフランス人、そしてたぶんドイツ人やオランダ人は、そんなことはないらしい。
 では、なんだと思っているのか。「マルヘン」(縁)の国である。

 ちょうど、アジアの縁に位置し、視線を思わず太平洋の方面に向ける日本と、どこか似ているかもしれない。たとえば「アジアでは自動車の保有台数が」というとき、そこに日本は含まれているだろうか?


■オルデン・ヒメーネスはこうも云った:
「スペインの哲学が独自の発展を遂げた、2つのターニング・ポイントがある。ひとつは711年、もうひとつは1492年」

 711年、アラビア人がジブラルタル海峡を渡り(だって、たったの14kmしかないのだ)、アフリカ大陸からスペインに大挙押し寄せて、ここにイスラム教国を作った。
 有名な話なのだけど、これによって、当時のヨーロッパ社会ではすっかり忘れられていたギリシャの思想(アリストテレスの書物など)が、同じくイスラム圏内だったエジプトを経てもたらされることになった。
 はじめにアレクサンドリアのムーセイオン(学問研究機関)でアラビア語訳されたものが、スペインはトレドの翻訳学校でラテン語に訳される。それがヨーロッパに「再輸入」されることで、中世キリスト教社会の主流となるスコラ哲学を生んだのだ。

 「マルヘン」だからこそなしうる美技、かもしれない。パチパチパチ。

 ほかにもアラビア文化はスペインに、米とサフラン(こうして今日の名物料理『パエージャ』が完成)や、高度な建築技術(こうしてアルハンブラ宮殿が完成)や、漆黒の瞳と髪を持つものすごい美人(こうしてペネロペ・クルスも誕生)などをもたらした。
 もたらされつつも、「あぁ、これでヨーロッパじゃ、なくなったなぁ」と、たまに窓辺でため息をついていたのかもしれない。なんせ、この間までスペインはローマ帝国の一翼を担っていて、五賢帝のうちのふたりを輩出したりしていたのだから。


 一方の1492年は、コロンブスが新大陸を発見した年。自分が世界の西の果て(ギリシャ神話のヘラクレスも、ジブラルタル海峡に、世界の端を示す柱を立てたらしいし)に位置するんだとずうっと思っていたら、それより西にどどんとどでかい大陸が現れた。
 地図が、書き換えられる。OH! 俄然、スペインは世界の中心になったのだ。

 植民地って、どうしたらいいのだっけ? スペインはかつて自分がローマ帝国にやられたように、奴隷や黄金や食物を奪い取った。実際に当時、「俺たちは、ローマ帝国に盗られた黄金を、いま取り返しているだけだ」と言っていたともいう。わざわざ言うということは、ちょっとはうしろめたかったんだろう。
 そしてしばらくして、少しだけ、人間に普遍の権利というのを考えるようになった。やはり、ちょっとうしろめたかったんだろう。
 んで、ローマで万民法が生まれたように、人類初の(←まぁスペイン人が言うことなので)ヒューマニズム思想が生まれ、これがヨーロッパに紹介されて、国際法の概念が提唱されるに至る。

 しかしスペインは、ひとりぼっちになった。
 お隣フランスで革命が起こっても、ナポレオンが負けてウイーン会議が開かれても、スペインは国内でしこしこ異端審問で火あぶりなんかをしていた(異端審問所の廃止は1834年)。
 そんなだから、第一次世界大戦にも、第二次世界大戦にも、実は参加していない。そしてご存知のように、約40年に及ぶ、フランコの独裁である。

 「スペインは長い間、ヨーロッパどころか『世界』の一員でもなかったのだよ」 そう、オルデン先生は唇を噛んだ。


 スペインの国際社会復帰は、1982年のNATO(スペイン語ではOTAN「オタン」、あぁここでも独自路線が……)加入をもって語られることが多い。
 それから20年超、だ。
 いまのスペインは、鎖国が終わった興奮さめやらぬ明治時代末のようなものかもしれないし、国連加盟を果たし経済成長も成し遂げた80年代初期の日本のようなものかもしれないし、あるいはそういう比較はなんの意味もないのかもしれない。

 ただ、なんていうか。
「いやもう、ひとりじゃないからさぁ。『トラウマ』とか忘れちゃえよう」と言って、ぎゅうっと抱きしめたいような、そういう気分に、時々なるのでした。
 愛しいなぁ、つくづく。

Octubre 25, 2005

食べ物で綴るスペイン古代史

 スペインに来て6年。
 幼稚園に通っていた姪っ子はいまや中学受験にいそしむようになったし、当初はなにも言えず下唇をキュッと噛みしめていたあたちは、いまやボッタクリそこねたモロッコ人から「あんた、絶対日本人じゃねえ!」と褒められるように(たぶん)なった。

 ライターという仕事柄、というのを利用して、ほぼ全自治州を旅してまわったし、その土地の美味いものから有名サッカー選手、さらには地元民のコラソン(ハート)を軽くつかむ方言のひとつふたつまで、調子良く覚えたりもした。
 (ちなみに長崎に8年間住んでいたアメリカ人義姉の電話は、「ハーイ、なんばしよっと?」からはじまる。それには勝てないけれど)

 ちょうどビートルズの曲をだいたい聴いてしまったように、スペインのことも、まぁだいたい知ってしまったかな。そう、思っていた。
 もう、いまさらそげな驚くこともなかろうて。そう思っていた、のだけれど。

 第3回レポートは、「衝撃! アトランティス大陸発見(か)!?」、です。


■マルティン・バリゲテはこう云った:
「アンダルシアの、ここらあたりね(チョークまみれの短い指で、イベリア半島南西部をぐるぐると指示)。はいよく見て。ここに、タルテッソス古王国がありました。
 長いあいだ伝説上の国と思われていたけどね、いまでは実在したことがわかっています。アトランティス大陸はここのことだと考える説もあるのよ。ムフ」

 歴史担当のマルティン先生は、40代だろうか、クリクリした目とハンプティ・ダンプティよりも丸々とした豊かな体躯(120kgはあるとみた)が印象的な、フェミニンなおじさん。授業の本筋から少し脱線したことを話すときに、「ムフ」と小さく笑う癖がある。
 その「ムフ」が出た。

 2列目で授業を受けていた私はクラァ、となった。
 アトランティス大陸ぅ?


 石器時代(スペインでは紀元前2,000年くらいまで)、なんでもこのイベリア半島は、温暖な気候とふんだんな植物と動物と鉱物に恵まれた、豊かな土地だったという。
 だもんで、氷河時代に寒さを凌ぐため洞窟を見つけてそこに住んでいた一部のクロマニョン人も、「祈る」という精神的な行為をはじめるという跳躍を果たすことができた。
 「こういうのが狩れればいいなぁ」という願いが込められた丸々とした野牛や野鹿、マンモスに、「こういうのからたくさん産まれればいいなぁ」という願いが込められた女性器。
 いわゆる「人類初の芸術」、アルタミラの洞窟壁画の誕生である。
 旧石器時代後期、いまから約14,500年前のことだ。

 で、それから1万年以上が経つと、気候が良くなったため、人類は洞窟を出て、食糧や水が得やすい河畔に住むようになった。
 こうして半島南西部、おそらく現在のセビージャ(オペラ『カルメン』や『セビリアの理髪師』の舞台)のあたりで、アンダルシア新石器文化がはじまった。
 この地域には、スペインでもっとも重要な川のひとつであるグアダルキビル川があり、ついでに、野生の黒豚(最高級生ハムの素材として有名な、イベリコ種黒豚)までいた。
 ここにタルテッソス古王国ができた、らしい。

 マルティンによると、半島内陸部に誕生したタルテッソス古王国は、海に出ることなく、ここで独自の発展を遂げたという。その証拠に、地中海世界一帯に見られる土器の波状紋様が、この地域の遺物には見られない。
 民主的に選出されたふたりの王が国を統治するなど、政治・社会面でかなり高度な発展を遂げていたとみられ、そのレベルは古代ギリシャのポリスに匹敵すると考えられている(←スペイン人の言うことだけど)。もちろん、ギリシャのポリスが誕生するのよりも、何世紀も前の話だ。
 このタルテッソス古王国こそが、旧約聖書に出てくる豊かな国「タルシシュ」や、ギリシャ神話でヘラクレスがゲリュオネスの牛を追って通った土地ではないか。っていうか、絶対そうだって間違いないって。スペインではそう、言われている。

 そんなタルテッソス古王国が、なぜ跡形もなく滅びてしまったのか。
 その1:後年ここに押し寄せたカルタゴの民によって滅亡した。
 その2:大規模な地殻変動があり、海にボッチャーン!と沈んでしまった。(←ここからアトランティス伝説に繋がってくる)
 さて実際のところは? わからない、らしい。
 わからないまでもなんでなんだろうなーと考えていたら、翌週、おもしろいことを習った。


 翌週、じゃなくて、歴史の次の時代になると、イベリア半島海岸部に、海の民フェニキア人がやってくるようになった。
 地中海世界でいち早く青銅器文化に入った彼らは、青銅を作るのに必要な銅と錫を求めて、地中海を西へ西へと渡ってきた。そうしてジブラルタル海峡を越え、ついに大西洋へと乗り出した。
 しかし地中海の穏やかな海に特化して改良され続けてきたフェニキアの民の船は底が浅く、大西洋の荒波に耐えることができない。
 仕方なく彼らは、「ジブラルタルを越えてちょっと大西洋に出た」ところに、そのテリトリーの西端となる町を作った。

 これがカディス(紀元前1,100年成立。当初の呼び名は「ガディール=砦」)。
 タルテッソス古王国があるグアルダルキビル川の河口は、ほんの目と鼻の先だ。
 ちなみにカディスはフラメンコのうちもっとも代表的な種類の「アレグリアス」や「タンゴ」の発祥の地でもあり、ウニやエビなどの海産物や、すぐ近くで作られるシェリー酒やイベリコ豚生ハムが抜群に美味しい、至福の土地でもある。おっとこれは現在の話。
 当時からこの一帯では、良質の塩を作ることができた。なんせ舐めたら甘い地中海の水ではなく、ここはもう大西洋なのだから。
 なのでフェニキアの民は、ここに大規模な塩田を作った。塩は、地中海で高く売れるから。(ちなみにこの塩田は、現在まで引き続き使われている)

 フェニキアの民の目的は、交易である。
 塩田の例に見られるように、彼らはイベリア半島に、「市場」なる概念を持ち込んだ。
 それまで自分たちで消費する分くらいしか生産していなかった村々に、「いやこれ、遠くに持って行ったらけっこう高くで売れるんだよね。だからとにかくワイン(あるいはオリーブ、塩漬けの魚など)、じゃんじゃん生産してみてよ。ちゃんと責任持って売りさばくから」と説き、効率的に大規模生産ができるラティフンディウム(大土地所有制)まで導入したのだ。(これもまた、現在までアンダルシア地方に根強く残っている)

 イベリア半島が、世界の動きの中に、組み込まれつつあった。


 その後、勃興してきたペルシャによって首都ツロ(現在のレバノン)を追われたフェニキアの民は、植民市のひとつであったカルタゴに本拠地を移す(紀元前573年)。
 カルタゴは現在のチュニス、つまり地中海の真ん中あたりにあって、イベリア半島からもそんなに遠くはない。
 しかも、地中海の東半分がペルシャ領になり交易ができなくなることで、西側にあって豊かな土地をもつイベリア半島の重要性がぐぐぐっと増した。
 自ずと、ここへやってくる船の数も増えただろう。

 船は、物を運ぶ。
 おそらく、「本当はそこでの生活に必要ない『商品』を作ることで金を稼ぎ、それによって、本当はそこでの生活に必要ない輸入品を買ってよろこぶ」人々も増えたに違いない。
 だって、要らないものを買うのって、楽しいもん。

 そんな大きな流れというかうねりのなかで、海の近くにありながら頑として海に出ようとしなかった(マルティン曰く)タルテッソス古王国は、自然に衰えてしまったのではないだろうか。
 ……そう、ふと思ったのでした。


 もちろん、「海に沈んだアトランティスだ!」という方が、ワクワクはするのだけれど。
 今度、日本の江戸時代が好きだというマルティンをつかまえて、ゆっくり訊いてみようっと。ムフ。

About Octubre 2005

Octubre 2005にブログ「湯川カナの、今夜も夜霧がエスパーニャ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

次のアーカイブはNoviembre 2005です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35