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Diciembre 2005 アーカイブ

Diciembre 6, 2005

ぜんぜん高貴じゃないぞスペイン貴族

 日本はいい国だぜ、のっけからなんだけど。
 今回の大学や、以前、1ヶ月だけ顔を出した語学学校など外国人が集まってくる場所にいると、いかに日本が「庶民がお金を持っている国」なのかが、よくわかる。

 フランコ体制を学ぶ特別ゼミナールで、「フランコ体制下のスペインでは、大学というのは中流階級である役人の子息を対象にしたもので、庶民(=下層階級=国民の90%以上)が学費を払えるようなものではなかった。そこでフランコ死後の民主化過程において、学費の値下げが真っ先に行われた。現在、この大学の法学部で、学費は年間600ユーロ弱(約9万円)である」という説明を受けたときのこと。

 スウェーデン人のカリンちゃんが、挙手した。「っていうか、どうして無料にしないんですか?」

 スウェーデンでは、義務教育に加え、大学も無料なのだという。
 そして国内で学ぶ学生にはもちろん、さらに海外に留学しているカリンちゃんには、毎月、住居費はカバーするくらいの金額が、国から援助されるのだとか。

 「年間にたった600ユーロだよ、暖房代くらいの実費だよ」「いや、完全無料にしなきゃおかしい」 珍しく先生と押し問答をするカリンちゃんの袖を私は引いて、「あのね、日本では年間100万円はするよ。医学部とか、1,000万円することもあるんだって」と、囁いた。
 「えっ!」 彼女は大きな青い目を見開いて絶句すると、小さな声で「……誰が払えるの?」と訊いてきた。
 そう言われれば、たしかにそうだ。でも、私んちだって、それ、払ったんだよなぁ。


 日本では庶民が、一応、なんとか「それくらいの」お金を融通できる。
 もうひとつ例を出すなら、大学卒業後、あるいは会社勤めを辞めて海外留学、というのも、ここで見る限り日本人が断然多い。
 現地で働かなくても済む充分なお金を貯めてきて(ビザの問題で労働ができないというのもあるのだが)、地方都市やヨーロッパ各都市をまわったりして、滞在を楽しんでいる。

 一方、大学在学中の交換留学は、提携大学があるせいもあって、アメリカ人をよく見かける。若人たちは短い滞在を満喫しようと、週末といわず平日といわず、ディスコに繰り出している。(赤十字でボランティア活動をするクラスメートもいるが)
 その他の国から来た学生は、だいたいバイトをしている。それが違法でも、働いている。ドイツやオランダやフランスからの20歳前後の学生は、住み込みのベビーシッターをしながら。東欧や南米から来た25歳前後の学生は、ウェイターやウェイトレスをしながら。前出のカリンちゃんも、チョコレートショップでバイトをしている。
 バイトをしていないのはかなりの金持ちで、実際に会ったのはロシア人と中国人とヨルダン人。

 私の実感では、世界はすごく大雑把にいうと「庶民の家の子が海外留学に来て、現地でバイトをして生計を立てる」国と、「金持ちの家の子が来て、バイトをしない。貧乏な家の子もスペインには来るが、その場合には学校なんか通わずに必死で働く」国とに大きく分けられて、日本は、そのどちらにも入らない。
 日本は、「庶民の家の子が来て、働かずに学生生活を楽しむ」国だ。
 大学の学費のことを考え合わせても、今日の日本の庶民って、他の国の「けっこう裕福な家」に相当するのではないだろうか。ストックではなくフローの方ならとくに。

 ということで、今日のテーマは、社会階級です。


■オルデン・ヒメーネスはこう云った:
「スペインでうっかり『ノブレス』なんて言ってはいけない」

 現代スペインに関する思想史の先生との会話で、うまくことばが出てこず、「ほら、『ノブレス・オブリージュ』みたいな概念って、」と言ったときのことだった。
 セネカと同じコルドバ出身のオルデンは血相を変えて、「いかん、決して混同してはいかん。スペイン語の『ノブレス』には、それに相応しい一切の価値がないばかりか、その対極にあるような存在だ」と注意してくれた。

 そこで、ハッとした。
 そうか、スペインにはいまもノブレ(貴族)がいるんだ。

 たとえば、ゴヤの『裸のマハ』のモデルかもしれない(たぶん違うけど)ということで有名なアルバ女公爵。彼女は18世紀の美しき開明派だが、現在も、そう呼ばれる女性がいる。
 こちらは故・清川虹子似の老婦人。アルバ公爵家の現当主で、貴族として46の称号を持っている。

 彼女が、フェニキア人が持ち込んだラティフンディウムが根強く残るアンダルシアを中心に所有する(と思われる)土地の広さは、不明。公表された、オルデンの出身地コルドバ県内分だけで約3,000haあり、数年前に1億3700万ユーロ(約200億円)と査定されている。ま、ほんの一部だろう。
 むろん、建物も絵画も宝石も、たくさん所有している(はず)。また現代の金持ちとして、当然あちこちの会社を持っている(はず)だが、どれくらいの資産があるのかは不明。

 スペインにおいて、貴族はノスタルジィを伴う過去のものでも、また無害なお飾りでもない。


■フェルミン・マリーンはこう云った:
「フランコ時代の『200家族』が、フランコの死を迎えてどうなったか。……接収? とんでもない。なにも変わらなかったのさ。今日までも、そして明日からも」

 200家族とは、フランコ体制に迎合して、アミーゴーして、利権を貪ったやつばらの総称。フランコは各産業で独占・寡占状態を作り出し、その利権を彼らに与えた。フランコの私的友人や側近などの成金が、フランコに靡いてうまい汁をじゅうじゅう吸ったという。
 格式ある貴族を前にしてもフランコは、「で、お前はなんでそこにいるの?」と言った(ようなものだった)。そこで「あなたのお役に立つために」と答えられなければ、彼は放逐されるだろう、財産は没収されたうえで。
 で、多くの貴族は、残った。残って、汁をじゅうじゅう吸った。

 「上流階級つうのは、社会が認めるから上流階級なんだ。その社会がフランコ独裁体制なら、当然、フランコに認められるように振る舞う。彼らに、社会批判をする意思も、その能力もないよ」

 反対したものの末路は?
 内戦中、そしてその後に捉えた共和主義者を、フランコは、各地の闘牛場に収監した。
 すり鉢状になっている闘牛場は脱獄がまず不可能であり、その高い壁が外部からの視線を遮り、かつ、町外れにあるため隔離も簡単。
 数年たち、栄養と衛生面の問題から収監者のかなりの数が死に、残ったものに反抗の能力がなくなったと見たところで、フランコは彼らを故郷に帰らせた。
 その姿が、フランコ体制への反逆者の末路としての、なにより「良い例」になると踏んだからだ、という。


■フェルミン・マリーンは、こうも云った:
「『スペイン国民を護るため、私はこの身を神への犠牲に捧げる』、フランコはそう言ったんだよ」

 人間はすべてアダムとイブの子どもである、聖書によると。
 彼らが国として集まった以上、そこには集団としてのひとつの「国民」があるだけで、各々に異なる個人というものは存在しない。(だから、差異に基づく政党や地方自治は存在しない。そして無神論者(類似のアナーキスト)と外国人を嫌悪する)
 そしてフランコは、彼ら神の子どもたちを代表し、彼らを護るために、神に自らを犠牲に捧げて奉仕するのだ。らしいのだ。

 国民を庇護する責任のあるフランコは、彼らの自由、公平、平等、進歩、保健、教育、経済的発展などのすべての面倒を見る責任がある。
 これは、そう、「父」の姿だ。
 フランコ体制を一言で表すと、家父長主義、になるという。

 そしてフランコが父として君臨した国のパターンが、末端では各家庭で繰り返される。
 ここで大活躍したのが、カトリックだ。
 教会は、毎週日曜のミサ(出席しなければならない社会的プレッシャーが存在した)や告解(同前)を通じ、各家庭に、あるべき父の姿、母や子の姿を教え続けた。
 フランコ時代、「個人」というものはなかった。あるのは「家」と、それを構成する家族のプロトタイプだけだった。

 誰もがこうして「よき父(母、子ども)」を演じるようになったとき、その価値観を揺るがすものが出てきたらどうなるか?
 自ら、排除するだろう。ちょうど模範的な生徒が、掃除をサボる生徒を、その良心から、先生にチクるように。
 こうしてスペインは、オート・ポリス化された。

 フランコが死んで4年間、スペインは「何事もなかったかのように」機能し続けた。
 陸海空軍の総司令官である国王を深く信頼し、手の届かない貴族は憧れの存在で(アルバ女公爵はワイドショーの常連)、カトリックであり、外国人は本当のところあまり好きではない(観光産業の重要性がわかってるから、お国のために我慢するけど)。
 それが、現在まで続く、スペインの庶民のひとつの典型なんである。


 共和国政府に対する軍部クーデターの際、モロッコ駐留軍を指揮していたフランコは、ジブラルタル海峡を越えてスペインに上陸した。
 彼はそこで、拍手をもって迎えられたという。
 他地域からそれぞれマドリードを目指した数人の将軍が、ある者は孤立し、ある者は死んで、力を失ったのに対し、フランコだけが偶然生き残り、彼を「カウディージョ(頭領、ケルト文化に由来)」にした。

 スペインでフランコを迎え、首都マドリードまでの道を開けたは、国の中で最貧の、それゆえに熱心なカトリック教徒が多く、共和国政府のラデイカルな宗教政策に不満と不安を抱いていた、アンダルシアの人々だった。むろん、財産を保持したい教会や大地主や貴族も、拍手を送り彼を送り出した。

 スペインがフランコを望んだのだ。
 フランコは、75年に死ぬまで、スペインに独裁者として君臨した。
 「誰も、出て行け、と言わなかったからだ」
 そう言って、フェルミンは話を結んだ。

Diciembre 26, 2005

バルセロナのサッカーファンはなぜフィーゴに豚の頭を投げつけるのか?

 これは又聞きなのだけど(ハッ、ほとんどのことが又聞きではないか)。
 1992年のバルセロナ・オリンピックの開幕前、世界各国の新聞に、一面全部を使った次のような広告が載せられたという。

(カタルーニャ州およびバルセロナを示す地図とともに)
「バルセロナは、カタルーニャです」

 しかしイマジン、想像してもごろうじろ。
 たとえば先ごろ万博会場となった愛知県が、世界中に向かって、
「愛知県は(日本でなく)中部地方です」
「これまで(日本の東京ではあったけど)オリンピック経験のない愛知県を次回開催地に!」
「(EUはないからたとえば)国連は、日本とは別に、中部地方を一国として扱え!」
 というメッセージを発したならば。
 けっこう、ぎょっとすると思う(と書いて、これで「ぎょっとする」自分にいまぎょっとしたのだが、それはさておき)。


 有名な話だが、バルセロナで「あなたは何人(なにじん)ですか?」と訊くと、まず「カタルーニャ人です」という答えが返ってくる。
 もしうっかり「あなたはスペイン人ですか?」と訊こうものなら、「違う、一緒にすな!」と怒られるかもしれない。
 ちょうどそれはコチコチの阪神ファンに、「西武の田淵、大好きだったんですよ」とうっかり話してしまったのと同じような状況だ(つまりベースにある「好意」とて、「勘違い」された彼の怒りを抑える効果をもたないだろうという意味)。

 現在、カタルーニャ州は高度な自治権を有しており、道路標識も役所や小学校から家庭への通知も、公用語のカタルーニャ語が用いられている。
 カタルーニャ語のテレビも新聞も雑誌もあり、ハリウッド映画だってカタルーニャ語吹き替え。
 学校の授業はカタルーニャ語で行われ、そこでは標準スペイン語(カステジャーノ)は「外国語」として学ぶ。
 まぁスペインの中での、ちょっとした「特別扱い」だ。
 ただし私はどうしても「中央」マドリードにいるせいで、そういうの(たとえば、F.C.バルセロナ(=阪神)からレアル・マドリー(=巨人)に移籍してきたフィーゴに、両チームの試合がバルセロナで行われた際、「裏切り者!」の合唱とともに豚の頭が投げつけられることなんか)を、「ちょっとそらさすがにやりすぎじゃない?」と思うきもちは、ないわけでもなかった。
 あった。
 しかし、この度、かなり認識を改めましてございます。(無批判ではないけれど)
 いやはや歴史も、学んでみるもんどすなぁ。あぁ冷や汗。


■フェルミン・マリーンはこう云った:
「カタルーニャの起源は、フランスになりまーす」

 405年、西ローマ帝国が国内事情からグダグダになって国境警備に手がまわらなくなったところで、ライン川の向こうの寒いところにいたゲルマン系諸族が、より豊かな土地を求め、川を越えて帝国侵入。
 それはゲルマン諸族による、「西ヨーロッパ争奪イス取りゲーム」であった。
 最大の勝者フランク族は、フランスあたりのいちばん良い場所を占領。
 居場所を見つけられなかったいくつかの民族はフランク族によってさらに西へと追われ、ご苦労なことにピレネーを越えて、そしてまさか大西洋を渡るわけにもいかず、イベリア半島に留まり割拠する。
 西ゴート族は、しかしこの流れにすっかり遅れを取っていた。
 彼らは頭を働かし、まず、ローマに攻め込んでその力を見せつけるという手段に出た。
 そして怯える西ローマ帝国皇帝に対し「なあにローマを取ろうってわけじゃござんせん。それどころか、あっしがお前さんのためにですよ、あのごちゃごちゃしてるイベリア半島をちゃちゃっと綺麗にしてきてみせまさぁ」と約束して信用され、そして実際に見事に駆逐し、んでもって当然、そのままそこに居座った。
 475年、フランク族を牽制することができるトローサ(現トゥールーズ)を首都に定め、西ゴート王国の独立を宣言。
 翌年、西ローマ帝国滅亡。
 507年、西ゴート王国とフランク王国とが決戦。敗者となった西ゴート王国はピレネー以北の領土を失い、つまりはイベリア半島に引っ込むことで手打ちとなり、首都を半島の真ん中のトレドに移す。

 そんなかんじで、約200年が過ぎる。

 711年、西ゴート王国が国内事情からグダグダになっていたところ(協力貴族に気前良く土地をあげ過ぎたため。あら日本の歴史と同じね)、自身の出世とライヴァル放逐を計る国境警備担当貴族の手引きによって、北アフリカまで来ていたイスラム勢力がジブラルタル海峡を渡りイベリア半島に侵入。
(もちろん、この裏切り貴族は、新支配者となったイスラム勢力により、ライヴァルともども放逐された)
 グダグダの王国はドミノ倒しのように次々と征服され、イスラム勢力はなんとほんの約20年後には、フランク王国の奥深くまで攻め入っていた。

 が、732年、ついに現在の北フランスとなるトゥール-ポアティエ間の戦いで敗北。
 このときの手打ちは、両国の国境を「北はピレネー山脈/南はエブロ川」と定めるというもの。そしてこの両者の間に帯のように広がる地域は「イスパニア辺境領」として、勝者フランク王国の支配下に置かれることになった。
 ピレネー山脈の清冽な雪解け水を湛える肥沃な土地、地中海に面した温暖な気候に天然の良港……。
 イベリア半島には珍しいこのような好条件に恵まれたここイスパニア辺境領の、中心的港町こそが、バルセロナだったのである。

 で、100年弱が過ぎる。

 810年、フランク王国が国内事情からグダグダになってしまったため、手がまわらなくなった国境警備を放棄。
 イスパニア辺境領の警備を担当していた各伯爵が、この機に乗じて、それぞれ伯爵領として独立する。
 これが今日の、カタルーニャ州の起源である。
 なるほど道理で、知人のカタルーニャ人は、「ありがとう」というとき、「グラシアス(カタルーニャ語・標準スペイン語ともに)」ではなく、「メルシー」と言うわけだ。(しかも、ジャン・レノに似てるし)
 彼らのオリジンは、現在のフランスにあったわけなのね。

 しばらくいくつあの伯爵領が分立していたカタルーニャだが、やがて彼らの代表としてバルセロナ伯が選ばれ、全体がバルセロナ伯国としてまとまることなった。
 諸侯の「代表者」である彼の権力は、「すでに存在するコンディションを背景に発展した国のトップ」によくあるように大きく制限されており、戦費はもちろん、自身の食費ですら、有力諸侯による議会の承認を必要としたという。
 当然、あまりにも諸侯の利害に反するようなら、簡単に首をすげ替えられた。
 なぜなら彼をバルセロナ伯たらしめている権力の源は、諸侯の利害関係の一致という点にしかないからだ。
 カタルーニャではそういう「国民の代表者タイプ」以外の「トップ(=王)」を、決して戴いたことはない。
 後にバルセロナ伯が隣のアラゴン国王を兼ねることになるが、これとて中身は同じでああった(ちなみに「彼が王である必然性はない」という考えは、血で血を洗う絶え間ない王位簒奪戦を生んだ)。

 ということで、こんなことにもなっている。


■フェルミン・マリーンは、こうも云った:
「歴代のスペイン国王は、現国王も含め、カタルーニャ自治州に一歩足を踏み入れれば、『王』ではなく、『バルセロナ伯爵』という地位になります」

 どびっくり。


 さて、そういうわけでカタルーニャは、あの有名なレコンキスタによってキリスト教徒が再征服した土地、「ではない」。
 「ではない」ことで、後に(現在まで)スペインの主導権を握ることになったスペイン中央部カスティージャと、文化的背景に大きな違いができた。


 711年、ジブラルタル海峡から半島に侵入したイスラム勢力は北へ北へと攻め上がり、上がりすぎてフランク王国内で行われたトゥールポアティエの戦いで敗北したが、エブロ川以西のイベリア半島全域を掌握した。
 イスラム勢力の北上に際し、それまで少数の西ゴート族に支配されていたヒスパノ=ローマ人やユダヤ人は、税金を払えば「自由」を認めてくれた彼らの傘下に、率先して編入されていった。
 では、イスラム支配によってほんの20年足らずの間にあれよあれよと特権を失ってしまったほぼ唯一の存在、西ゴート族(貴族)はどうしたか。
 大部分は、イスラム傘下に入った。税金を払い社会的地位を諦めれば、彼らは「異教徒」にも寛大だったからだ。(西ゴート族は、当初キリスト教の異端アリウス派だったが、後にカトリックを国教化している)
 しかしそれを受け入れないごく少数が、イスラム勢力に追われるように北へ北へと逃げた。
 そして半島北部アストゥリアス地方の、かつてローマが陥落させるまで300年を要した険峻な山中に籠もった。
 寒さと飢えに凍えながら、彼らは、考えた。
 それでも僕らは戦うんだ。なぜならこれは、異教徒の魔の手からキリスト教を守る、聖戦だからだ。
 状況の困難さが、彼らをファナティックにした。
 722年、西ゴート貴族を中心としてまとまった勢力が山の中で行われたコバドンガの戦いでイスラム勢力に初勝利し、ここにアストゥリアス王国を建設。
 こうして、キリスト教勢力によるレコンキスタ(国土再征服運動)が始まった。

 以上が、カスティージャ(中央スペイン)における王制の起源である。
 なので、現在も国王の後継者の地位にある皇太子(現在は、フェリペ皇太子。その後は、先日生まれたレオノール王女の予定)は、「アストゥリアス皇太子」の称号で呼ばれる。


 さて、戦争を主な仕事とする彼らは、とにかく強い戦闘集団を作って効率よく戦うというのを最大の目的に(なんせもともと土地も人民もない兵士の集団なので、統治を考える必要はない)、全権力を掌握する長としての「王」をトップに戴いた。
 他のヨーロッパ諸国やカタルーニャと違い、まさにゼロから始まったカスティージャでは、既存のコンディションに配慮する必要はまったくなかったのだ。
 この「戦闘集団としてのトップ」は、ケルト文化での「カウディージョ」(個別の戦いに際して選ばれる頭領で、勇敢であらば身分は関係なく羊飼いでもなれ、そして戦いが終わると職を解かれる)に似ているが、大きく違うのは、カスティージャの王は実に今日まで、その職を解かれていないという点にある。
 なんせ、この戦争=レコンキスタは、約800年も続いたのだ。
 しかも強大な敵に一致団結して立ち向かうため、彼らは「王」に、ケルト文化にはなかった世襲制度を取り入れた。そのため、力をもった新興貴族が気軽に実力で王位を簒奪する、なんてことも封じられた。
 こうして1492年にレコンキスタが終わった時、もはや誰もが、800年の間に化け物となっていたスペイン王に向かって、「あんたの役目は終わったよ、お疲れさん!」とは言えなくなっていたのだ。

 というわけで、その起源において全権力を集中させるために創り出されたカスティージャの王は、当然ながら、国のために自分が良いと思ったら、勝手なことをやり放題にやる。
 しかも戦いは聖戦であり、自分は神の意を受けた王家として選ばれし地上の代理人、いやもうまったき正当な存在なのである。
 「神意にもとづく戦争のため、金を出せ」と宮廷(議会)に一方的に命令するのなんて、御茶の子さいさい。立派な建物も建て放題。
 やがて太陽の没することなき帝国を築く神聖ローマ帝国皇帝カルロス(カール)5世は、宮廷をすら、生まれ育ったオーストリアからごっそりと引き連れてくるだろう。スペイン貴族はいきなりまとめて窓際族(そりゃ、王に追従するようになるわね)。
 そしてその息子であるフェリペ2世は、新大陸発見で得た巨万の富を、当然の権利(あるいは正義に裏づけされた義務)として対プロテスタント宗教戦争に費やし、スペインを何度も破産宣告させるに至らしめるだろう。
 そんな、時に横暴な王家はどうなったかということ……。
 今日まで、続いている。

 「王は、絶対的に偉い」
 それがカスティージャ、つまりは現在のスペインのベースになっている国の、王の姿なのである。


 絶対的な存在としての王を考えるとき、現在でも9割以上がカトリックというスペインの民は、うっかり、神を前にしたときと同じ態度を取ってしまう。(まぁ、国と教会ぐるみでそうさせてきたのだけれど)
 つまり、思考停止だ。
 そのロジックは、「イエスか、ノーか」ではない。「イエスか、イエスか」。オー・イエス、オンリー・ビコーズ・ユー・アー・イエス・キリスト。

 この思考の落とし穴から、「スペインの敬虔なるカトリックの民(羊)を、自分の身を犠牲にしても守るカウディージョ(羊飼い)」と宣うフランコが最終的に掌握するに至る強大な権力が、ズルズルと這い出てきた。
 そしておそらく同じ穴から、そんなフランコの後継者と指名された現国王フアン・カルロス1世および王家への、スペイン市民の驚くほどの信頼(それは帰依と言っていいほどの)が湧き出している。
 圧倒的な支持を受ける現国王に対して、
「でもさ、彼は父親から王位を世襲したわけじゃなくて、共和制成立で外国に逃げた祖父の代で本当はスペイン王家は断絶してるよね。でさ、現国王はフランコの後継者として王座に就けたんだから、実質的にはその源泉はフランコにあるわけじゃん?」
 と言うのは、雰囲気としてタブーだ(もちろん自由だけど)。

 そして善良なるカスティージャの民は、現国王がバルセロナを訪問した際、カタルーニャ人たちが彼を「私たちがするように」熱狂的に歓迎し敬わないことを、けっこう不満に思う。
「王様に対し、な、なんて失敬な!」と、生々しい感情的な怒りを感じてしまう。
 でも本当はカタルーニャ州では、現国王は、バルセロナ伯爵に過ぎないのだ。
 カタルーニャはカタルーニャとしての至極当然なやりかたで、「王」を遇しているのだ。

 あぁ、まさか、そんなことだったとは。
 そんなこととは、つゆ知らず、カスティージャの民と化しつつあった私もまた(こういう雰囲気は知らないうちになんとなく染み込むものだ)、ものすごい落とし穴にハマってしまっていたのだなぁ……。
 でもやっぱり、サッカーグラウンド内に豚の頭を投げ入れるのは、危険なのでやめましょう。もったいないし。


 というわけで次回も、レコンキスタ。
 レコンキスタと現在のスペイン社会(政治面)との関係、の、予定です。

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