« 2005年02月 | メイン | 2005年04月 »

2005年03月 アーカイブ

2005年03月03日

更正せよニッポン

あびる優の件について警視庁が聴取に乗り出したというが、そりゃそうだろう。
テレビで堂々と発表された上にかく巷間の話題となった日には、立場上放置するわけにも参りますまい。
しかしあの番組内容がホリプロ・日テレ双方の関係者を見事にスルーして、めでたく放映に至ったというのは驚きである。
いかに個々の番組が野放し・ノーチェック・現場任せ体制のもとに作られているかがよく分かる。
企画を作る仕事場では、上の者がうるさく管理すればするほど企画が詰まらなくなる。
たいていは現場任せの方が面白い企画ができる。
それは大変よく分かるが、そういうレベルの問題ではなーい。
テレビ、特に民放の制作の人たちの一部は、この世間で一体何がよくて何がダメなのか、なんだかもうよく分からなくなっているのではなかろうか。
瑣末な例であるが弊社などには「義太夫ってなんですかぁ?」「○村×之助ってどういう人ですかぁ?」という類の電話がテレビ番組の制作部を名乗る人からしょっちゅうかかってくる。
お互いに社名を明らかにした上での社会人の会話としては「お忙しいところすみませんが」とか「恐縮ですがお教え願えませんか」とかいう言辞をともなうのが標準的な姿だと思うのであるが、そういうのはあまりない。
雰囲気としては「あのさあ、ちょっと教えてくれる?」という感じである。
現にそういう言葉遣いをするおじさまも時にはおいでになる。
電話というのは正直なもので、相手が向こうで頬杖をついて鉛筆を鼻に突っ込んでブラブラさせている(※イメージ)のまでありありと見える。
なぜそんなに偉そうなのであろうか。
私には分からない。
番組名や局名を名乗れば「わあ、テレビの人だあ~」とポーッとなったり「はは、これはどうもすみません、私どもは何も悪いことはいたしておりませんのではい」と恐れ入ったりすると思っているのであろうか。
そりゃあね。お客様のご質問に懇切丁寧にお答えするのも、手前どもが担うべき公共サービスの一環でございますよ。
ですから一般のお客様には誠心誠意対応させていただいておりますですよ。それはほんとに。
でも分からないことがあったらまず手元の範囲で調べてみるのが人の道ってもんじゃありませんかね。
まして番組制作スタッフならあなた、調べるのも仕事のうちじゃありませんか。
なにも図書館へ行ってくださいとは申しませぬ。
電話の前に、せめて国語辞典卓上版かネットをちょいと開けてみていただきたい。
ほとんどの問題はそれで解決するはずです。
それでも「そんなにヒマじゃねーもんなーオレたち」とかって言うのかな。そういう人は。
あ、あと学生さんで「卒論を書いていてえ、どんな資料があるか分からないんですけどお」と電話してくるひと。
早く更生してくださいね。

2005年03月12日

文楽の想像力

相変わらず文楽・人形浄瑠璃が盛況である。
かつて、例えば昭和三十年代に、文楽がこのような隆盛を見せるとは一体誰が予想したであろう。
かつて文楽も他の芸能と同様、興行会社によって切り盛りされていたのだが、ついに商業ベースでは立ち行かなくなって、大雑把にいえば経営が国の手に委ねられることになった。
もちろん今だって決して商業的に成り立っているわけではないのだが、少なくとも文楽を見たい!というお客様が山のようにおられ、チケットがなかなか手に入らないというのは事実である。大変に景気がよろしい。
違いの分かるネスカフェのCMにお人形さんが登場する始末である。
そういえばかつてどこかの航空会社のCMにもお人形さんが出ていた。
実盛みたいな立派な武士のお人形、緊張しているのか険しい表情で機内のシートに座っている
→辺りを見回し、足をヨイショと延ばしてシートをリクライニング。「お?意外に快適かも」と表情ゆるむ
→ホッとリラックス、スチュワーデスと談笑する実盛
みたいな。
あれ可愛くて大好きだったんですがもう一度やってくれないかしら。

二月は色々なお客様がみえた。
H水社のK山さん。あいかわらず男前である。
ご挨拶にお席まで参上した、いわばこちらがホストであるのに、「お仕事はどうですか?」みたいな優しさあふれるトークにこちらが癒やされてしまった。
作家のM浦しをんさん。あいかわらずお雛様みたいな方である。「あやつられ文楽鑑賞」、皆さんも読んでくださいねー。
プランナーのS藤雅彦さん。
初めてご挨拶申し上げるのだが、その才能につねづね畏怖さえ感じている私は、恥ずかしながらバリバリに緊張してしまった。
風のように颯爽と登場してバリトン声で「本日はようこそ」とぶちかまそうと思っていたのだが、通路を行くおばさんに突きとばされた上に声がかすれてロレツがまわらず、アワアワの変なファンの人になってしまった。S藤さんは明らかにビクッとして少し腰を浮かしていた。怖がらせてすみませぬすみませぬ。
さらに連れ合いからバレンタインのチョコをことづかっていたので、S藤さんにお渡ししたら「くすくす」と笑われた。
さすがのS藤さんも三十路を越えた既婚の男からバレンタインチョコを手渡されたのは初めてであろう。
文楽、楽しんでいただけましたか。

「三十三間堂棟由来」(通称「柳」)はまるっきりヨーロッパの童話みたいで、想像力あふれるイメージ(という言い方は日本語として変か)が次々に登場する、ものすごーくよく出来たファンタジーだと思うのだが、あまりそういうことを言う人はいない。
鷹狩りの鷹が柳の木の枝にからまったので木を伐り倒してしまえということになる。
そこへ現れた弓の名人・平太郎。矢を射って見事に鷹を助け、柳も伐られずに助かった。
恩返しのために柳の精は女性の姿(その名も「お柳」)となって現れ、平太郎との間に子をもうける。この植物の精、特に柳の精ってのがいいでしょ。生々しくないのに色っぽくて。
ところが時の法皇の病気平癒を祈る三十三間堂建立のため、その柳の木が伐られることになる(ちなみに病気の原因は『柳の枝に刺さった髑髏』)。
ひそかに夫とわが子に別れを告げるお柳。
柳を切る斧の音が「てうてう」と響き、柳の葉がはらはらと舞い散る中、お柳は苦痛に身悶えしつつ嘆き悲しむ。
驚いた父子が柳のところに駆けつけると、すでに切られた柳が運び出されようとするところ。
ところがいくら押しても引いても、夫婦親子の別れを惜しんで柳はビクとも動かない。
そこで子が綱を引くと、不思議や柳はスルスルと動き出す。
「綱引き捨てゝ『わつ』と泣き、縋り嘆けば父親は、涙に声も枯れ柳」。
どうです。なんかヨーロッパっぽいでしょ。谷中安規調の絵本で読んでみたくなりませんか。
昔の作者の想像力ってすごいわ。

2005年03月16日

「余人を以ては代え難い人」について

春の人事異動祭り、絶賛開催中。
騒がしいっちゃあありゃあしない。
それより問題は「ひきつぎ」である。
リーマンを長らくやっていると、自分が職務経験によって得た情報や技術を他人に伝えて共有してもらわなくてはならない、という局面がしばしば生じる。
担当者が変わる場合の「ひきつぎ」はその最たるものだ。
こういう目的でこういう作業が必要で、原則はこうなのだがこれに関してはこういう事情なので、具体的にはこういう手順で進めてくださいね。
というような説明をしなくてはならない。
これができない人がいる。
大量の仕事を深夜のサービス残業までしてばりばりやっつけておられるので「他に人がいないわけじゃなし、ちっとは分担すればどうかね」と思うのであるが、あいかわらずご自分でばりばりばりと大量の仕事を抱え続けておられる。
他人に仕事をふるのが不得手なのか、もしくは他人が信用できないから任せるのが嫌なのか、もしくは情報や技術を独占することでプチ権威を保持したいのか分からないが、とにかく人に仕事を分けてあげない人なのである。
結果として仕事は消化されるわけだから問題はないかというとさにあらず。
わが社のように頻繁に人事異動祭りが開催される所では、いつ「ひきつぎ」が必要になるか分からない。
いざその段になると、「ご自分でばりばり」型の人はたいてい「無能の人」になってしまうのだ。
そういう人は断片的で要領を得ない説明をちょこちょことした挙句「まあ実際にやってみないと分からないよね」「君も近い仕事してたから大体のことは分かるよね」「君なりのやり方でやるといいよ」「また分からないことがあったら聞いて」てなことをおっしゃり、そそくさと引き出しの整理を始めたりする。
私はこういう言動は甘ったれていると思うし、こういう言動がまかり通る組織に明るい未来はないと思う。
結果、新担当者は全く悪くないのにもかかわらず、膨大な資料のほじくり返しやせでもがなの問い合わせに無駄な時間を費やし、状況予測の困難さにストレスを溜め、十分な対応ができないので仕事相手からの信用は動揺する。
有能な人ならそれでもなんとか辻褄を合わせてしまうものだが、そこでは多大な人的コストが浪費されているわけである。
芸人さん・職人さんの世界なら話は分かる。
芸人さん・職人さんの仕事はとうてい言葉で説明しつくせるものではなく(できる部分も多いとは思うが)、スキル習得の基本は「見て盗め」「体で覚えろ」である。
しかるにリーマンともあろうものが、自分の仕事をうまく言語化できず、同じ組織内の人に必要な情報を伝えることができないというのは、これはダメダメの誹りを免れないのではなかろうか。
社内で「あの人がいないと困る」といわれているような人は、実は後進を育てるのが不得手な、もしくは嫌な、要注意人物なのではないかとひそかに疑っている。
なんだか最近仕事がらみの文句が多いなあ。ぶつぶつ。

2005年03月25日

そもそもなぜそのご研究をなさるのか

開花が待ちきれずに「桜の葉切りそば」で春を祝す。
四国出身の私は、真っ黒でうまいそばつゆに当たった時だけは「東日本に住んでてよかったー」と思う。
目下の心配事は関東大地震である。

某研究会にて。
某発表者の発表後、ごく自然に口からこぼれた、という調子で、聴衆の一人から質問があった。
「あのう、お話自体は面白く伺いましたが、そもそもなぜそのご研究をなさるのか、なぜその研究対象をお選びになったのかが、私にはよく理解できませんでした。そのご研究をなさることの意義、と申しますか。そのあたりについて、お考えをお聞かせいただけませんでしょうか」
これに対して発表者は正面からは答弁せず、なんとなく発表内容を敷衍するような内容の説明を行った。
質問者は特に食い下がるでもなく、質疑応答がよく噛み合わないまま曖昧な感じに発表は終了。
散会後の人だまりの中で、正対するご意見を耳にした。
ある方は「『あなたの研究にどんな意味がありますか?』などと問われて明瞭に答えられる研究者などいない。質問するほうが非常識である」とおっしゃり、ある方は「研究者が自分の研究の意義を説明できないなどもってのほかである。たとえ不十分にもせよ、あの質問にはきちんと答えるべき責任がある」とおっしゃった。
私は圧倒的に後者のご意見に与する。
前者のご意見を述べた方は、どうも質問を「その研究が具体的・実際的にどんな役に立ちますか?」という意味にとられたようだが、質問者の真意はたぶんそうではない。
私も発表を聞いていて、質問者と同じ、もう全く同じストレスを感じた。
私や質問者が聞きたかったのは「どんな役に立つか」ということではない。
その研究によって、これまでの諸研究では知られることのなかったどんなことが明らかになるのか、あるいはそれによってどんな新しい視点や問題点が提示されることになるのか、少なくともその予想・見通しだけでもいいから聞きたかったのである。
研究者を標榜する者には、このようなことを言語によってきちんと述べ、自分の研究の重要性を説明する最低限の義務と責任があると思う。
極論すれば、その説明がむりむり捻り出したアクロバティックなエクスキュースであっても、ないよりはあるべきだと思う。
いくら綿密な調査や華麗な言説であっても、そういった背骨のないものを学問と呼ぶべきではない。
例えば歴史研究は、どんなものを対象にしてもたいがいは面白い。
「明太子史」や「筆ぺん史」や「ひきだし史」が書かれたとしたら、きっと「へえー」と唸るような興味あふれる事実が現れることであろう。
著者の筆力によってはものすごく魅力的な読み物になるはずである。
しかしそれを学術研究と「称したい」のであれば、明太子史や筆ぺん史やひきだし史を語ることによって、われわれの歴史観や社会観がどのように変化を迫られ、または裏付けられるのかをきちんと述べなくてはならない。
そのへんのケジメというものが。そうケジメです。
少なくとも大学や学会という形をとって浮世に出来するような、学問をおこのう場においてはですね。
ユルユルではいかんのではないかと。
「どう?面白いでしょ?」だけでは、これはちとまずいのではないかと。私は。申し上げたいのである。以上。
前回に続いて「説明責任を果たせ」特集をお届けいたしました。

About 2005年03月

2005年03月にブログ「風雲三宅坂劇場」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2005年02月です。

次のアーカイブは2005年04月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35