2008年04月15日

ちゃらちゃら宣言

義太夫三味線・鶴澤寛也さんの「はなやぐらの会」で
前説。
仕事帰りとて開演時間ぎりぎりに駆け込み、その勢い
でお客様の前に飛び出すと、なんだか見知ったお顔が
ずらりと並んでいる。
後ろの方には職場の先輩方がちらほら。
N峯プロデューサーもいらっしゃる。
最前列には金原瑞人センセイ、客席のど真ん中には橋
本治センセイがご鎮座まします。うう、調子が狂う。
とりあえず「柳」は大好きな浄瑠璃であるので自分の
思うところをぜいぜいと述べ、いよいよ浄瑠璃が始ま
るときにはもう息も絶え絶えであったが、たちまち背
筋がしゃきんと伸びた。
仕事柄、見聞きした芸の良し悪しをどうこう申すのは
厳しく自制しておるのであるが、これはきちんと申し
上げておこう。
竹本駒之助師の浄瑠璃が実に素晴らしかった。

ヒロインのお柳さんは柳の精霊である。
前世からの契りを果たすため、仮に女と変じて姿を現
している。
したがって浄瑠璃も三味線も「普通の人間ではない」
というところを表現しなくてはならない。
浄瑠璃でどうやってそれを表現するかというと、音程
を「ぜんぶはずす」(駒之助師)のだそうである。
そのはずす幅がもちろん半音とかそういう騒ぎではな
くて、聴き手の鼓膜が「?」と生理的な違和感を感じ
るか感じないか、まあ普通は感じないよな、というく
らいのほとんど微分積分音波分析的レベルでズレた声
を出すのである。
これをやられるとこの「?」という違和感が聴き募る
うちに実にもうなんとも居心地の悪い怪し恐ろしの気
配となってひしひしと身に迫ってくる。
で、普通の人間の部分を語るときにはまたオーソドッ
クスな音程にすとんと戻らなくてはならず、かといっ
てその落差を感じさせられると聴いている方は興醒め
になる。
そういう精妙な音程の操り方をオンヅカイ(音遣い)
というが、すぐれた太夫は、オンヅカイひとつでこの
世とあの世を行ったり来たり聴き手を振り回す、まさ
にマホウツカイなのである。
それでいて物語の骨格は「柳の木が一本すーっと通っ
てるって感じでしょ」(橋本センセイ)とあくまでか
っきりとしている。
こんなに身を乗り出して義太夫に聴き入ったのは久し
振りだった。

終演後、うだうだと閑談。
橋本センセイに「キミはこういうチャラチャラした仕
事いっぱいしてさ、『ああこいつには組織の重要な仕
事は任せられないな』って思わせてさ、早く『おめこ
ぼし』みたいな部署に左遷されちゃえばいいんだよ。
うっしっし」と言われ、感涙を催す。
ああ、このお方はなんでもお見通しなのだ。
初日打ち上げはN峯プロデューサー、H凡社のS口・
F田両氏とビールを飲みながら悪だくみをめぐらす。
チャラチャラ。

二日目はさらにパワーアップした浄瑠璃光線を浴びて
腰くだけ。
客席ではハンケチを目に当てる方が続出している。
2008年の東京新宿南口のビルの8階で、座布団に座っ
て250年前の浄瑠璃を聴いて泣いている人がいる。
こういうのは大変すばらしい文化的光景であると思う
のだが、現代日本の文化シーンにおける義太夫節をは
じめとする伝統芸能の取り扱われ方というようなもの
を思い合わせると少し暗い気持ちになる。
終演後は寛也さんのご紹介で辻原登センセイと一献と
いう、これまた夢のごとき光栄に浴する。
「私はたとえ純米大吟醸でも熱燗でいただきます。ひ
やでそこそこおいしかろうと、燗をしておいしくない
酒は、それはダメです」
「ははあ、ひやだとごまかしがきくわけですね」
「そうです。本当にいい酒はひやでも燗でもおいしい
、いや燗をしてこそお酒本来のふくよかな甘みが味わ
えるものです」
というセンセイのご指導のもと、銘酒を一合ずつ次々
にあけていく。
名高い「吉本」だけにきっとお燗の温度もよろしいの
だろう、どのお酒も個性がはっきりしているにもかか
わらず、ふわっとやさしい味がする。
肴はイカと胡瓜の塩もみ、花わさびのおひたし、ナマ
コ酢、お造り、山菜の天ぷら。
どれも美味。それになにより上品ぶっていないで量が
どどんとあるのが喜ばしい。

恥ずかしながら『遊動亭円木』『円朝芝居噺』路線の
きわめて偏った読者でしかない私は、辻原センセイが
気難しい方で酒席の途中で口をきいてくれなくなった
りしたらどうしようと密かにハラハラしていたのだが
、初めてお目にかかるセンセイは大変に色っぽいジェ
ントルマンで、いっぺんに惚れてしまいました。ぽー

「はなやぐらの会」にお運びいただいた皆様、どうも
ありがとうございました。
今後も精出してチャラチャラさせていただくことにし
ます。って誰に宣言を。

2008年01月11日

三宅坂から新年のご挨拶

えー、新年おめでとうございます。
文字どおり盆と正月だけの更新になってしまっており
ますが、本年もご贔屓賜りますようよろしくお願いを
申し上げます。

日本劇団協議会の機関誌『join』に、演劇プロデュー
サーの北村明子さんへのインタビューが載っていた。
いつもロビーで天下を睥睨なさっているお姿を遠くか
ら拝ませていただいているが、ここに開陳された北村
さんの演劇制作に関する基本方針はまことに明快で真
っ当である。
要するに舞台は「プロフェッショナルの手に成る興行
」であるということなのだが、実はいまこういうこと
をはっきり言う人は少ない。

「人が入っても赤字になるような興行をしちゃダメだ
よ。入らなかったっていうんだったらわかるけどね。
そうじゃないんだったら、最低限黒字になる興行を打
たないとダメってことでしょ。」

「公演によっては、助成金を利用させてもらおうかな
というものもありますか?」
「うん。いわゆるかけるお金、舞台費だったりなんか
が、ある程度よりいいものをつくりたいという気があ
るときにね。採算ベースじゃないところでもうちょっ
とお金かけられるんだったらかけたいというところが
あって。でも、もしそれがダメだったら身の丈の予算
を立てるしかないでしょう。いずれにしろ、助成金あ
りきで予算を立てるというのは、ちょっとマイナーじ
ゃない。(略)木戸銭頼りにして成立しないものって
、どうなんでしょう。」

「身の丈の予算」というところにご注目ください。
「だって北村さんは早くから野田秀樹みたいな天才と
組んでたわけだし、客の入る仕掛けをしやすい恵まれ
た環境にあるからそういうことが言えるんだ、ブーブ
ー」という嫉妬の声が聞こえてきそうだが、そういう
ハナクソみたいなことを言ってはいけません。

日本で形成されてきたカッコ付きの「アート・マネー
ジメント」業界では、「どうやって資金調達をするか
」、ハイカラに言うとファンド・レイジングが大きな
テーマとして喧伝されてきたし、今もされている。
狭義には、企業からの協賛金や、各種財団・官公庁か
らの補助金や助成金をいかにたくさんもらってくるか
、そういうお金集めのスキルをどんどん研鑚しましょ
うというおすすめである。
これはさかのぼればあの有名な「あらゆる芸術活動は
経済的に自立できないものである」という命題に基づ
いているし、資金調達を徹底的にマニュアル化し、そ
れに習熟していることを制作者の必須条件としている
アメリカを一生懸命に追っかけている議論である。
また日本でも現に木戸銭だけでは到底やってけない所
帯がたくさんあるからそういう話題に食いつく人がい
るわけだが、これと「木戸銭でやってけない興行に果
たして意味があるのだろうか?」という北村さんの問
いかけとは真っ向から対立する。

なーんでか(@堺すすむ)。

アート・マネージメント、文化行政、文化政策、そう
いうアートにとっての「外部」を飛び交う言説は、興
行といういかがわしい語彙を徹底的に排除することに
よって成り立っているからだ。
オペラ・オーケストラから義太夫・講談に至るまで、
舞台公演のたぐいはいま官公庁的タームでは「芸術活
動」として括られる。
芸術は国家や社会にとって大変重要なものです。
ですからお金もあげましょう。ぜひがんばって芸術活
動を展開してください。
おおそうか。ワシらは社会的意義のある芸術活動を行
うのであるから、できるだけたくさんのお金を集めて
、少しでも規模の大きな活動を展開していかねばなら
ぬのだ。
私の目にはこういう発想が現在の舞台制作業界のメイ
ン・ストリームであるように見えてならないが、ほん
とにそれでいいのだろうか。
ヨーロッパ諸国のように文化を対外戦略の武器にする
のなら話は別だが、いま日本の業界で担ぎ回っている
社会的意義なんぞ「まあ結果としてそういう面も生じ
ますかね」という程度の話でしかない。
だいたい、たとえ資金調達のためのエクスキュースだ
ったとしても、社会のため、国家のため、なぞという
意識のちらつく場所で制作されたアートが、果たして
面白いことがあるだろうか。
だいたい「お客さん」の姿がちっとも出てこないのっ
て変でしょう。
「楽しいからやってんだべらぼうめ」「これやってな
いと生きてられないんだべらぼうめ」という極めて個
人的な衝動や欲望を体で表現する人たちがいて、その
ヘンテコな衝動や欲望を見たくてしょうがない人たち
がわざわざお金を払って集まってきて口をあけて見物
して帰る。
こういう一見プリミティヴに過ぎるような「興行」モ
デルが維持できないのであれば、それはもうホントは
「誰にとってもいらないもの」なのではないのかね、
と北村さんのはるか後方から出たり引っ込んだりしな
がら「そうだそうだ」とヤイヤイ言ってみたりなんか
するのである。

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