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アートの算盤術

電話、遅すぎ。と青山BCの方はさすがにおっしゃら
なかったが、まごまごしていたらウチダセンセイのト
ークショー&サイン会はまたたく間に満員御礼になっ
てしまったそうである。当たり前か。
ちえ、またナマウチダセンセイにおめもじのチャンス
を逃してしまった。

ぐりぐりと来年度予算の作成にいそしんでいたら眼球
が痛くなった。
いまだ影も形もない来年から再来年にかけての公演に
ついて、演目やら出演者やらを勝手に想定して「なん
ぼかかるか」を算出するのである。
他の事務的な予算執行とは違って、実際に計画通りの
公演が実現する可能性はゼロに近い。
しかし「オレを信じて黙って○○万円くれ」といって
も予算はくれないので、予算要求の根拠を言葉は悪い
がでっちあげるのである。
なにしろ予算総額が妥当なセンに収まればよいのであ
るから、パソコンの中には夢のような一座による夢の
ような配役の公演が出来上がる。
しかしパソコンの中がきらびやかになればなるほど一
抹の哀しみが訪なうのも否定できぬ事実なのであった

一方、秋の公演準備のため楽屋の廊下を飛び回る。
「おはようございまーす」と楽屋ののれんを分けたら
目の前に細木数子が座っていて思わず「ひっ」と声が
出た。
と思ったら細木数子に扮した中村歌江さんであった。

テレビで見るとおりのあの数子の髪型のかつらで、鼻
の横にちゃんとほくろを描いて、コブシ大の指輪をい
くつもはめて、黄色いパンツスーツの裾からパンスト
をはいた足が見えている。
何か言わなくてはと思い咄嗟に「すごいですね」と言
ってしまったが失礼だったかもしれない。
「かつらがすごいリアル」とか「指輪は自前にちがい
ない」とか「きちんとパンストもはいてるのか」とか
そんなことばかりが気になって、何を喋ったかよく覚
えていない。
楽屋のれんは異空間へのドアである。

一方で、「日本の文化政策とミュージアムの未来-都
市政策における課題と芸術文化の役割」という難しそ
うな名前の研究会に出席。
かつて「風雲三宅坂劇場」に書いたように、私はアー
ト・マネージメント系の言説にかなり疑問をもってい
て、というか結局は行政側のアリバイ作りに都合よく
使われるだけなんだろうなあという気がしていて、こ
ういうタイトルを見ただけで「いやあ、いいですいい
です私はちょっと」という感じなのであるが、報告者
がお二方ともかねて注目していた方であったので、た
だでさえ細いのに眠くて開かない目を一生懸命開けて
出かけたのである。ふう。

お一人は栗原一浩さん。
武蔵野市の文化会館でクラシック音楽担当のプロデュ
ーサーをなさっておられる。
あまたある公立文化ホールが苦境に悶絶するなか、独
創的なコンサート企画を次々にヒットさせ、過去7年間
すべての公演のチケットを完売したというツワモノで
ある。
もともとは市役所職員からの出向組(といっても市長
じきじきのお声がかりだそうで)で、どうせ3年経った
ら異動だろうと思っていらしたのが、もう14年いらっ
しゃるそうである。
かねてから「ははーん、この人はヨーロッパのモデル
を武蔵野市で実践しようという魂胆だな」と思ってい
たのであるが、お話を伺うとまさにその通り。
こういうモデル移植がずばり的中するというのは稀有
な例であるが、ご本人もおっしゃるように、一定規模
で一定の行政的条件が整った都市だったからこそ成功
した方法であろう。
各地方自治体の皆様は「ウチも一発」などと安易に真
似しないように。
というか「真似」した時点で何かが終わってますから

7年間不敗のツワモノだけあって、「これだけのことを
やれば売れないはずがない」「客を釣るのは簡単」「
今はわざと売れないように、『ほどほどに売れる』よ
うに企画している」などの恐ろしい言葉がぽんぽんと
出てくる。
字ヅラだけ見るとなんと傲慢な人だろうと思われるか
もしれないが、決してそんなことはない。
興行とは「大変多くのお客様にお運びいただいて感謝
感激ですう」などという美しい言葉で済む世界ではな
い。
公立施設だろうがなんだろうが、切符を一枚でも多く
売った方がエラい。
そのためにプロデューサー=興行師は極めて利己的か
つ狡猾な釣り師でなくてはならないのである。
栗原さんのお尻をナデナデして少しは売れ行きにあや
かろうかと思ったが、やめておく。
報告が始まる前は「現場系の人間として何か発言しな
くては、ふがー(鼻息)」と張り切っていたのだが、
おっしゃることいちいち全くもってその通りなので、
特に疑問も付け加えることもなかった。
「なるほど。いっぽうそれに比してワタクシの場合は
・・・」と「ワタクシ語り」を展開する方を研究会や
学会でよくお見かけするが、小心者のワタクシにはと
てもそんな荒々しい所業はできないのである。

栗原さんのお話をわたくしなりに総括すれば、

  有能な人が一人いれば事は足りる

  組織はその邪魔をするな

ということである(栗原さんは『そんなこと言ってな
い』とおっしゃるかもしれないが)。
ア-ト・マネージメント系言説の大きな弱点の一つは
、組織とか社会とかいう鳥瞰的な視点から網をかぶせ
ることに気をとられて、実はアートの原動力である「
個人のエゴイスティックな欲望」をほとんど不問に付
していることである。
アートは有能な個人の「うっせーな、おもしれーから
作ってんだよ」というエゴイスティックな欲望によっ
てのみ作られる。
そういう猛獣めいたアーチストの欲望を「うんうん、
芸術は大切だよねえ、わかるわかる、僕たちもみんな
で協力するからね、キラキラ」という論理で掬いとろ
うとしてはいかんのである。
となると「では『公共性』は極めて個人的な営みであ
るアートとは永遠に相容れないのですか、どうなんで
すその辺は」と突っ込まれそうであるが、そんなこと
はないのである。ま、その辺の話はまた改めて。

佐藤道信さん。
「美術」という言葉、あるいはそれをめぐる様々な言
葉が、100年ほど前の日本でどのように製造されたのか
、ということを研究しておられる方である。
不肖ワタクシは100年ほど前の日本で「歌舞伎」や「型
」や「伝統」や「伝承」や「(芸の)保存」などとい
う言葉がどのように製造されたのかということに興味
をもっているので、じゃあ美術の業界ではどうだった
のかということには大変関心がある。
会の性格上「文化政策史」という枠組みにこだわられ
たのであろう、そういう通史概論的なお話よりはもっ
と局部を突っ込んだお話を個人的には期待していたの
だが、やむをえない。ってなんでえらそうなんだ。
近代文化史研究も流行して久しいものだが、目新しい
ものを探してきてぽんぽんと並べて「国民国家がなん
たら」というところに着地するのももう完全に賞味期
限切れ(当分はまだお商売になると思うが)。
やはり証拠物件を一つ一つほじくり出して手がかり足
がかりにしていく、佐藤さんのようなご研究こそが私
にとってはエキサイティングなお手本なのである。と
思わず御著書を再読。

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2005年09月27日 20:18に投稿されたエントリーのページです。

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