家人には常々「あのね、休みだから旅行しようっての
は安直の極みなの。家にいて普段とは違う時間を味わ
うのがほんとの休みなの。テレビを見てごらんなさい
あの世間の混雑ぶりを。ああいやだいやだゾッとする
ね」と言い聞かせてきたが、どういう風の吹き回しか
夏休みの小旅行に。
というか、息子に「海行きたい?」と聞いたら、きら
きらした瞳で「うん!」と言われたので、そういう風
の吹き回しである。
宿は千葉の某温泉。
湖があってそこは関東有数のブラックバスの釣り場と
して有名らしいが、あいにく釣りに興味はない。
外房の海まで出る足場にちょうどよくて、涼しそうな
のと、あとは真っ黒けの温泉がお目当てである。
車を運転するのは5年ぶりぐらい。
レンタカーの営業所から道路に出るときはいきなりぶ
っつけやしないかとどきどきしたが、じきに勘を取り
戻した。
私は「ちまちまと細かく決められた手順をいささかの
間違いもなくきっちりと完遂する」のが大好きなので
、運転免許を取るときは教則本をすべて暗記し(注:
当時18歳)、実地教習で求められる操作や確認の手順
も完璧にこなした。
まあそれと実際の運転技術とは別だが、そのとき覚え
た貯金が一応役に立ったかっこうである。物事の基本
というのは覚えておいて損がない。
で、東京湾アクアラインを通って千葉まで行ってみた
が、いくら海の上とはいえ道路を通るのに3,000円はボ
り過ぎです。悪代官かよ。
途中にあるPA「海ほたる」も、海の上におっ立って
いるのだから水平線を眺めるのにはいいが、完成当初
喧伝されていたほど楽しさ満載の施設というわけでは
ない。まあ要するに高速道路のパーキングエリアに過
ぎないのだから、それにしては立派ね、と申すべきか
。
東京と千葉を直線道路で直結!というのは、地図で見
るといかにも思いつきそうなアイディアだが、実はち
ょいとばかし人々の感覚とはズレた発想だったのかも
しれない。
カー・ナビ子さんの言いなりになって湖に到着。
ずっとナビ子さんの声を真剣に聞いていたら「およそ
。500。mで。左方向。です」という。機械。声が。耳
に。ついてしまった。
宿で車を降りると、ほぼ同時に釣竿を抱えた古典的釣
り人ルックの中年男女がやはり車を降りた。
もしかして釣り人の集うことで有名な宿で、夜になる
と囲炉裏を囲んで魚拓自慢が始まって「どうです。亀
山のバスの当たりはまた格別ですなあ」と話しかけら
れるような所だとどうしようかと思ったが、特にそん
なことはなく、程々に使い込まれた民宿であった。
ほとんど転げこまんばかりに待望のお風呂にとびこむ
と、こげ茶色のお湯は予想以上に濃く、浸けた掌がす
ぐに見えなくなる。
ヌルヌル感もものすごくてメカブになった気分である
。
なんでもここのお湯は湯気を吸うのも大変体にいいら
しいので、一生懸命鼻の穴を広げて蒸気を吸い込む。
5分も浸かっていると顔から汗がどどどどと噴出してき
た。
あああ大地の恵みよありがとう。
「ビールビールビール」とうわ言を言いながら探した
が自販機がなかったので、帳場にいたおねいさんに懇
願して瓶ビールを分けてもらい、湖に面した部屋のテ
ラスでごきゅごきゅとまず一杯。
だあー極楽。
予想通り湖上をわたってくる涼風がなんともはや心地
よい。
テーブルの上には久しぶりに見るアマガエル。
こういう何もしない時間が気持ちよいという感覚は、
学生時分には全く理解できなかった。
それだけ私が疲れたおっさんになってしまったという
ことなのであろう。
よかろう。ならばおっさんとしての楽しみを満喫して
やろうではないか。どんとこい。
というわけで、竹の子の甘酢漬け、山くらげのキムチ
、ヤマメの塩焼きなど、お宿手作りのシブい酒肴を食
い散らしつつ地酒を次々に飲み比べ。
うーむこりゃたまらんたまらん。
なんでも近くに久留里という名水の出る町があって、
あまり知られていないがおいしい銘酒がたんとできる
そうである。
くるり。素敵な名前の町ね。ほほほほほ。明日行って
みようかしら。
酔っ払っておネエ言葉になっているうちに目の前がく
るりくるりとしはじめた。
起きるとまたひとっ風呂浴びて、朝ごはんを鬼神のよ
うにたいらげ、海へ出陣。
びっくりするぐらいきれいな水を堪能した後、寿司屋
で地魚を修羅のごとく食らい、次なる渓谷の温泉宿へ
。
露天風呂で平泳ぎを楽しんだ後、またもやさんざっぱ
ら飲み食いしたところへ、名物・鮎の炊き込みご飯が
登場。
これはもうパス、と思ったら、あまりの美味にひと釜
いってしまう。
風呂に入るとお腹が空くものであるが、いくら温泉の
功徳とはいえ、この道中の食事量はわれながらどうか
と思う。
しかし体調はぐんぐんと良くなっている。
何物かがごりごりに鬱積していた体が、ぐっと軽くな
ってきている。不思議だ。
「おいしい空気とごちそうでのんびりリフレーッシュ
!」などというのも「けっ、そんなものなくたってリ
フレッシュぐらいできらーな」と思っていた私である
が、とうとうそんなものが抜群に効果を発揮するぐら
いのくたびれたおっさんになってしまったらしい。
ええい仕方がない、おっさんになってやろうじゃねえ
か、と諦念の境地に至る重大な契機になったことに関
しては、今回の小旅行は相当の意義あるものであった
と認めざるを得ないのである。