ひさびさにシアターコクーンで芝居を観る。
モギリでは持つのに難渋するぐらいのチラシの束をず
しんと渡されて、やり場に困った。演劇などという極
めて効率の悪い経済活動がこれだけ活発に行われてい
るのは、少なくとも首都圏においては金の流通がとて
もよろしいしるしであろう。
theater-goersといわれるリピーターに対する宣伝方法
としては、紙のチラシが最高の武器である。
チケット予約はネットであっても「お、こんなのやる
のか」という最新情報入手の方法としては、江戸の引
札がいまだに生きている。
劇団や劇場のホームページでも、チラシのウラオモテ
を画像に取り込んでそのまんま掲載しているところが
結構あるが、あれはどういうもんだろう。
データ入力やデザインの手間が省けるということはも
ちろんあるだろうけれど、もしかしたらチラシの形に
収まっている方が対象を認識しやすいというような脳
機能上の特性が存在するのではあるまいか。
仕事の都合で美術館の学芸員さんとのお付き合いが多
くなったのだが、なぜ劇場には学芸員がいないのだろ
う。
というようなことを論じるには「そもそも学芸員とは
何をする人か」「そもそも日本における学芸員の起源
は」などと「そもそも」をたくさん繰り出さなければ
ならないから大変だ。
ざっとしたところが明治初期(って200年以上前ですが
)の文化政策の名残であって、そのときに美術館と博
物館は国策として行政制度の内部に組み込まれ、芝居
小屋は組み込まれなかった。そういうことである。
最近になって学芸担当とかキュレーターとかそれらし
い名前をプログラムに標示する劇場も現れてきたが、
もちろん西洋にならってのことだ。
西洋ではそういう人たちは、上演の参考になる資料の
収集・調査をやったり、古典的作品のテキスト・レジ
ーをやったり、上演記録のアーカイヴスを管理したり
しているらしいから、まあ学芸員と呼んでも差し支え
はなさそうだが、制度として身分がどう保証されてい
るのかはよく分からない。
今の日本の場合は、たぶん「一方でそういう学芸っぽ
い仕事も引き受けるプロデューサー」ぐらいの意味で
使っているものと思われるが、実際の仕事っぷりを考
えると、なんだかちょっと無理してハイカラぶってい
る感じが微赤面をさそう。
ただしプロデューサーの仕事がもっている専門性をき
ちんと社会的に評価していこうよ、という主張が込め
られているのならば、それは大いに賛成である。
なにしろこれからしばらくは職人の時代である。と勝
手に断言する。
経験的に習得された容易にマネのできない微細な専門
的技能こそが、そしてそれに喜んで対価を支払う業界
こそが、これまで以上に大いなる幸せを生む時代が続
くのではあるまいか。
では、家元は帰るぞ。