« 2005年03月 | メイン | 2005年05月 »

2005年04月 アーカイブ

2005年04月01日

ボローニャ駅奇譚(こわいよん)

かつて旧サイトにちらりと書いたのであるが、私はイタリア滞在中に霊体験のように思える体験をした。
私はちっとも霊媒体質ではない(と思っている)し、幸いそんな体験は後にも先にもそれっきりである。
別に「あなたの知らない世界」のような劇的な恐怖をともなう体験でもなく、自分としては非常に合理的で納得のいく話だと思っているのだが、内輪の酒席で興に乗じて披露したりすると意外に大きな反響がある。まあ酔っているせいかもしれないが。
たぶん私にとっても、イタリアの思い出ベストテン第五位ぐらいには入る出来事なので、この辺で筋道をたてて総括しておくことにする。
筋道をたてると申しても、細かい点はもう記憶がおぼろになっているし、それを調べ直して明らかにしようという気もない。
長いので二回に分けます。

7月末か8月あたまのこと。
ヨーロッパは記録的な猛暑でイタリアも暑かった。
田舎町にお祭りの取材に行った帰りだった。
フィレンツェ行きの電車に乗り換えるために、一旦ボローニャ駅に降りた。
午後遅くの太陽がまぶしかったので4時とか5時とかいう時間だったのだろう。
乗り換えの待ち時間が30分ぐらいあった。
私は駅の待合室が嫌いである。
ゴミが散らかっていたり空気が悪かったりして不快なことが多いし、酔っ払い・置き引きなどの怪しい人がいる可能性も高いので、駅の待合室にはなるべく入らないようにしている。
たいていはホームにいて売店や通行人の様子を楽しく眺めながら電車を待つ。
しかしなぜか(今にして思えば)その時は躊躇することなく待合室に入っていってストンと腰を下ろした。
夏のこととて、もしかしたら自分で感じる以上に体が疲れていたのかもしれない。
ストンと腰を下ろしてまっすぐ顔を上げると、すぐ目の前に大きな碑が建っている。
碑は待合室の入口に背を向けているので、入るときには気付かなかった。
見上げるほど大きい碑なのでなんだろうと思って字を追ってみると、1980年にここで爆弾テロがあり、その犠牲者の名前と享年が刻まれていることが分かった。
すぐ横には爆心地というのか、「まさにここに爆弾が置かれ爆発しました」という地点がそのままに保存してあって、剥がれた床や壁の一部が柵で囲われている。
へえ、ボローニャ駅でそんなことがあったとは知らなかった。
結構な人数死んでるんだな。
ちょうど「人の死をどうやって記念するか」みたいなことに興味をもっている時だったので、何かのネタになるかもしれないと思い、立ち上がってインスタントカメラで(当時デジカメが故障していたので)写真を撮った。
また座って改めて碑を読み直してみると、名前で性別が分かるし、享年が書いてあるので、大まかな人物像が描ける。
夫婦や家族連れが多い。もちろん赤ちゃんや子供もたくさんいる。
うーむ、やはりテロというのはろくなものではないなあ。
こうやって電車待ってて突然親子そろってボカンって死んだらたまらんなあ。
とつらつら名前を読んでいるうちに、急に涙が出てきた。
それもドラマで見るような「ツーッ、ポタリ」みたいな可愛らしい出方ではなく、突然だらだらと涙があふれてきて、うえっうえっと思わず声が出そうになる。
なんじゃこれは。
別段彼らの死に対する哀悼の情に打たれて感極まったわけではない。と思う。少なくとも自分の意識としては非常に醒めている。
「ネタになる」レベルで碑を読んでいたら、突然の嗚咽。
瞬間「あ、これはちょっとやばい系かも」と思った。
体の変化が余りにも突然だし、自分の意識と連係してなさ過ぎる。
霊(というものがあるならば)に反応する体質の人たちに、似たような現象が起きることはかねて仄聞している。
ひょっとしたらいま自分に起きているのはソレかもしれない。
とすると、周りの人に恥ずかしいこともあるけれど、ここにあんまり長居するのは、なにかこう非常に良くないことなのではあるまいか。
慌てて荷物を持って逃げるようにホームに出たら、しばらくして涙と嗚咽と動悸がゆっくりおさまってきた。
予定の電車に乗り、なんだかポカンと間の抜けた気持ちでフィレンツェのわが家に帰ってきて、ワインを飲みながら少し考えた。
駅の待合室で電車を待っていて、突然ボカンと爆発があって即死してしまったら、きっと自分が死んだのかなんだかよく分からないに違いない。
そういう人たちが「一体いまのこの状態はなんだ?」と、20年以上経った今でも不審に思っている、ということが、ひょっとしたらあるかもしれない。
仮に「ああオレ死んだんだ」と思っても「ま、しょうがないわな」と納得できない人だっているだろう。なにしろ爆弾テロだから、普通なら「なんでー?」と思うだろう。
そういう「なんなんだ?」「なんでー?」というような、感情というか思念のようなものが、あの場所の空気中にいまだに滞留している、と仮定してみよう。
碑に刻まれた名前を読んでいくうちに、自分はその人たちの生きていた時の姿を想像し、いくばくかの同情や悲しみを寄せた。
その悲しみの感情と、空気中に漂っている彼らの感情とが重なって、あたかも接触の悪い電球が一瞬ピカリと光るように、周波数をシンクロさせてしまったのではないか。
その瞬間に、彼らの感情や思念を私の身体器官が受信して変換し、嗚咽という形で現出させた。
という解釈はどうだろう。
よくは分からないが、自分的にはものすごく納得がいった。
ま、世の中にはそんなこともあるわな、と思って寝た。

私の解釈が正しければ、なにしろ三十路を超えて初の霊体験である。
少しどきどきするが、ネタとしてはなかなかの上モノである。
まずは東京にいる連れ合いにご機嫌伺いの電話をかけ、ついでにコトの顛末を報告&自慢することにした。
現地時間は昼の12時か1時ぐらい。
うちの電話は玄関を入ってすぐの廊下にあって、その横はバスルームになっている。
換気のため洗面所のドアはいつも半分ほど開けてある。
電話をしながらだと、半分ほど開いたドアの隙間から、一番手前にあるビデと洗面台が見える。
内装はイタリアっぽく真っ白で、明るく清潔感のあるバスルームだ。
いつもの通り格安国際テレカで電話をかけ、わが家の様子などをひととおり聞きながらふっと(こういうときは本当に「ふっと」ですね)目を上げると、洗面台と自分との中間ぐらいで、高さ160cmぐらいのところに、白い雲のような小さなもやもやができてきた。
ん?と思ったら、しゅーっとバスケットボールぐらいの大きさになった。
といっても輪郭のある球体ではなく、スケスケ半透明の綿菓子という感じ。
立ちくらみか眩暈でそういう模様が見えたのかと思って目をぱちぱちさせてみたが、別にそういうことはない。視界も意識もはっきりしている。
場所が場所だから湯気かとも思ったが、お湯を使っているわけでもないし、朝からドアを開けてあるので室内は完全に乾燥しているはず。
排水管から何かの湯気がとび出して来た?
それにしても湯気がこんな固まりになって一つ所に静止するだろうか。
というようなことを1.5秒ぐらいの間に考えたが、実は本当はピンときていた。
目の前のもやもやには、なにかこう、意思をもつもの独特の「気配」のようなものがあった。
ボローニャ駅での出来事が一瞬にしてつながった。
私は、これがボローニャ駅での一件に深い関係のある存在(たぶん人)であって、フィレンツェの私のところまでついて来てしまったのだと直感していた。
それから考えたのは、「こういう人に近づいて来られるのは基本的によくないことである。だからいま起きている状況を電話で先方に伝えてしまうと、もしかして先方にも何か良くない影響を与えてしまうのではなかろうか」ということだった。
そこで電話ではごく普通に会話を続けながら、これから状況は変化するだろうか(例えばもやもやが私の方に向かってくるとか)、変化すればどう対応するべきか、とピリピリに緊張したまま、もやもやを凝視していた。
目と、耳&口が別々の回路でフル稼働していたが、気持ちは落ち着いていた。すごく集中していた。
しばらくするともやもやは「ふー」とゆっくり消えてしまった。
30秒か1分か3分か、時間はよく分からない。
電話での会話はなにごともなかったかのように終了した。(つづく)

2005年04月04日

世の中にはそんなこともあるのよ

(つづき)
バスルームの白いもやもやは全然人のようには見えなかったけれど、霊感の強い人ならもしかしてはっきり見えたのかもしれない。表情とかまで。うわーいやいや。霊感微弱でよかった。
これがもし本当にボローニャ駅でお亡くなりになった方だとすると、大変お気の毒には思うけれど、これはもうお引取りを願った方がお互いのためであろう。
きちんと熱意をもって筋を通して説得してみよう。話せば分かる。
ということで、

1.あなたは死んでいて、生きている私とは住む世界が違うこと
2.私に何か言われても何もしてあげられないこと
3.私は困惑するばかりなのでもううちには来ないでほしいこと

を、空中に向かって日本語で説明してみた。
拙いイタリア語よりは日本語の方が誠意が通じると思ったからだ。
演劇のワークショップではあるまいし、われながらどうかと思う姿だが、この手のややこしいことに巻き込まれるのは本当に嫌なので必死である。
そうしておいてとにかく自室の机に向かって座ってみたが、だんだんどきどきしてきて落ち着かない。

電話とちがってリアルタイム実況中継ではないし、まあメールなら害はなかろうと、それまでの出来事をメールにしたためて、家人に送信しようとした。
送れないんだ、これが。
正確には覚えていないが「送信できません」だか「接続できません」だかのメッセージが出て、メールが送れない。
二回、三回、四回と試すが、送れない。
パソコンのことだからこんなことがあっても全く不思議ではないが、こんなことは初めてである。
五分ほど時間をおいてやってみるが、まだ送れない。
部屋じゅうの空気が塊になってみしみしと迫ってくるように思われて、耐えられずに「かんべんしてよー」と声に出して言ってみる。
自分の声によって空気の塊に切り口が開けるような気がして。
冷たいのか熱いのか分からない、変な汗が出てくる。
これは結構深刻な状況なのかもしれないと思って、机の前で固まったまま真剣に考えた。
メールが送れないのは、「メールを送ってほしくない」という誰かの意志かもしれない。
ということは「他の人に知られたくない」ということか。なぜだ。分からない。
しかしここで送信を断念するということは、その者の意志に従うことになり、「言うことをきいた」ということになる。
それでよいのであろうか。
それとも生者である私が、よく分からない何者かの意志に従う必要はないのだから、あくまで送信にこだわった方がよいのであろうか。
でも変な意地を張ることによって嫌なことが起こりはしないか。
これは難しいぞ。
悩んだ挙句に結局私は後者を選び、間をあけて何回か試行するうちに(それでも何回かは送れなかった)無事メールは送信された。やれやれ。
しかし油断すると何かが現れそうな気がして緊張がとけない。上半身が凝ってきて痛い。
また出てきたらどうしよう。粘り強く説得するのか。
みんなが昼寝しているわけでもあるまいが、真夏の昼間は静まりかえっている。

ネットでボローニャ駅の爆弾テロのことを調べてみた。
「もしかしてこれは『調べさせられている』のか?」とも思ったが、これぐらいはいずれにしても避けて通れない道だろうから調べた。
イタリアは1960年代末以降、マフィアの抗争事件、「赤い旅団」による首相暗殺、右翼・左翼双方による無差別テロ頻発と、血なまぐさい暴力の時代に突入する。これを「鉛の時代」と呼ぶ。
ボローニャ駅の事件もその重苦しい空気の中で起こった。
ボローニャはもともと左翼勢力の非常に強い町で、テロの標的になりやすい下地はあった。
1980年8月2日、ボローニャ駅構内で爆弾テロ発生。
85人死亡、200人負傷。
戦後ヨーロッパでは最も悲惨な無差別テロ事件の一つ。
極右団体NARが犯行声明を出したが、背景にはかなり込み入った国際政治事情があるらしい。
驚いたのは次のところである。
当時早稲田大学の学生だった20歳の日本人男性が亡くなっている。
現地で碑を読んだ時には日本人の名前には気づかなかった。
そこにある名前の全部は読まなかったので、もしかしたら後半の方にあったのかもしれない。
これは私の妄想に過ぎないし、それを書くのは御遺族の御心情を考えると軽率かとも思うのだが、もしかしたらうちのバスルームに現れたのは彼なのかもしれない、とその時は思った。
さすればわざわざ旅行中の日本人の、しかもそういう感度のものすごく鈍い私のところを選んでやって来たのも納得がいく。
彼はまだ日本に帰れずにいるのではないかしら。
重ねて申し上げるがこれは私の妄想に過ぎない。
もうこの一件はこれですべて終了ということにしようと思った。

一週間ぐらい経って、写真のプリントを引き取ってきた。
お祭りの写真がずーっとあって、最後にボローニャ駅の写真が二枚出てきた。
もうお分かりですね。
写真が変なのである。
二枚とも、例の碑の部分だけが、墨で塗りつぶしたように真っ黒けになっている。
刻まれているはずの文字はみごとに一文字も判読できない。「うっすら」とも出ていない。何かの手違いで、紙焼きした後に上から塗りつぶしたのではないかと思うくらい見事に真っ黒。
もちろん逆光になってしまったという可能性もある。できればそうあってほしい。
しかし私は仕事で写真を撮ったりもするので、最低限逆光にならないぐらいの心がけと技術はもっている。
写真を見ても、いわゆる逆光の写真とは全然写り方が違うし、碑の部分以外の周りの風景はごく普通に写っている。すごく不自然で違和感がある。
そして画面右上方から碑の中央付近にかけて赤っぽい光のようなものが写っている。構図が違う二枚とも。
この「光のようなもの」はよくテレビの心霊写真解説で見るし、写しそこないの決定的証拠のようにも思えるのだが、なんだかいまひとつ解せない。
一連の出来事の後とあっては、もはやこの不自然な写真も、一連の出来事の線上にあるとしか思えない。

その後ほどなくしてペルージャから友人の文化人類学徒・M嶋さんが遊びにやって来たので、一部始終を話してビビらせる。
M嶋さんも私と同じく「ま、世の中にはそんなこともあるわな」派の人であるが、さすがにこれから泊まろうという部屋の話だから少しは気味が悪いらしい。
しかし緊張を強いるような「気配」は、わが家からもうなくなっていた。
「やっぱり一連の出来事は誰かの意志によるものだったのだろう」ということに話は落ち着いた。
物知りのM嶋さんに「鉛の時代」のことなどを詳しく教わるうち、「え、ちょっと待って。そのボローニャ行った日って、テロのあった日とちゃうん?」と言われて、私は黙ってしまった。
M嶋さんも黙ってしまった。
調べればすぐ分かるのだが、それが8月2日だったかどうかは、わざと確かめなかった。
いまも確かめていないが、ものすごく近い日だったのは間違いない。

幸いその後の生活に障りはないし、自分としてはとても貴重な体験だったと思っている。
こうして筋道をたてて整理してみると、なかなか興味深い話のようにも思えるし、全く大したことのない話にも思えるし、「全部偶然と妄想じゃん」と言われても「そうかもね」としか思わないような気もする。
ま、世の中にはそんなこともあるわな。

2005年04月23日

歌舞伎の見方

職場のおねえさまが「ちょっとちょっと」と物陰に呼ぶので、いよいよ左遷人事の話かと思ったら「あれ書いてんのあなたでしょう?私ウチダセンセイを人生の師と仰いでいるのよ、実は」と告白された。
タナコといえば子も同然というが、私は単に更新のご面倒をおかけしているだけの、通りすがりのタナコに過ぎない。
だから「センセイに応援してますって言っといてね」と言われても、「あのう、うちの職場に大ファンのおねいさんがいますう」とバカ丸出しのお口上をここに書くことしかできないのである。

私は歌舞伎を見るのが大好きだが、それを仕事にしてくれと神に跪いて祈ったおぼえはない。
またしても公演シーズンの幕明き。
これから来春までは馬車馬のように働かなくてはならない。
あんまり忙しいので歌舞伎が見られないのである。いやほんと。
行きたい芝居や寄席に好きなだけ行かせてあげるよ、と耳元で囁かれたら、私はうかうかと悪魔の足下に魂をなげだしてしまうであろう。

「歌舞伎って本番までにどれくらい稽古をするんですか」とよく聞かれる。
現代演劇やミュージカルだと一ヶ月から二ヶ月、もっとかける場合もあるが、歌舞伎ではだいたい四、五日。
前月の興行が終わってから(25日とか26日とか)当月の初日(1日とか2日とか)までの間に行うわけであるから、どうしたってそれぐらいの日数しか確保できない。
もちろん公式の稽古にかかるまでの間に、役者さんたちは台詞を覚えたり先輩に教わったりビデオを見たりして個人稽古を始めているのであるが、4日や5日の総稽古でお芝居の幕を開けるというのはいくらなんでもムチャである。
でもそういうものなのだ。
だから初日が開いてもしばらくの間はみんなが手探りである。
台詞を覚えていない人にはプロンプターとしてお弟子さんや狂言作者さんが付くので、前の方の席だと台詞が二度聞こえてお得だ。立場上許されない冗談でした。すみません。
「あっちの衣裳の方がいいや」「この台詞はカットしよう」「やっぱり正面から出て」「照明落として」と演出が変わってしまうことも多い。
古典芸能といえども細かいところは揺れているのである。
そういう諸々の変更が落ち着くのがだいたい三日目。
だから開幕から三日目を「返り初日」と呼ぶ。
わざわざこの日を指定してチケットをお求めになるお客様もいらっしゃる。
またお芝居の内容が固まって、役者さんも間違えず確実に出来るようになった状態を「初日が出た」という。「○○助さん、やっと初日が出たよ~」というように使う。
このように興行上の初日と実質的な「初日」にはタイムラグがあるのだが、大正ぐらいまでの歌舞伎はもっとすごかった。
演目が決まらない、配役で揉めている、資金繰りの不首尾など諸々の事情で、初日がずるずると延びる。
みんな「まだかなーまだかなー」と待っているといきなり「明後日初日!」みたいなお触れがある。
めでたく初日が明いたとしても、予定の演目が全部見られることなどまずあり得ない。

時間切れになると幕の途中でも突然「今日はここまで!」と言って終わってしまう。
それで切符代を返せ、と怒る観客もいなかった。
日が経ってだんだん上演時間が縮まってくると、見られる部分が少しずつ増えてくる。

けれども「五幕目は結局最後まで見られなかったね」「どんな話だったんだろうね」てなこともよくある。
つまり人々は、一定の時間のなかに「初め」と「終わり」のある「演劇」を見に来ているのではなくて、桟敷に座っているあいだに目の前をなんだかキレイで感動的なものが右から左に流れていく、その「あいだ」を舌なめずりしながら楽しんでいた。
別に初めから終わりまで付き合う必要はなくて、食べたいとこだけ食べて、お腹一杯になれば帰ればよい。
そういうものだったのだ。
今では考えられないが。

About 2005年04月

2005年04月にブログ「風雲三宅坂劇場」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2005年03月です。

次のアーカイブは2005年05月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35