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2005年4月 アーカイブ

2005年4月 5日

そこらじゅうで春のかおり

4月4日(月)

「しまった。ジョンのひじの骨はジャンに貸したままだった」

あるとき、ジョンは思い出したようにそう言った。

貸していたのは、ジョンの右腕のひじの骨らしい。

あるとき、ジャンに「骨を貸して」と言われて何の気なく貸したジョンは、それ以来気にすることなく過ごしていたようだが、きょうになって、ふと思い出したようだった。

骨を貸したジャンは、そのままふらりとどこかへ行ってしまったそうである。
 
貸したジョンのほうは、思い出したから気になって、貸したのはいいが返してもらっていないことに気づくとたちまち、骨の必要性を感じた。
だから、ジョンはジャンを求めて、しばらくはまた出かけることにしたのだという。

というのもジャンは、ジョンとは違って、行き先も告げず、ある日突然気づいたらどこかにいっているようなヤツらしいからだ。
そして、場合によっては、そのどこかから連絡があるときもあれば、どこかに行っていたことをあとから教えられることもあるのらしいというようなヤツらしいからだ。

とにかくジャンは、ひとところに落ち着かない性格なんだと私はこれまでずっと、そう聞かされてきた。


4月3日(日)

晴れる。曇る。雷がなる。雨が降る。変な天気。

4月2日(土)
 
そこらじゅうで春の香りがする。
足取りは軽く、心は明るく、態度はでかく。
さくらは、もうすぐだ。


4月1日(金)
 
背後からいきなり「やあ」という声がした。

誰の声かと思って振り返ると、声の主は「僕だよ」とこたえた。
しかしその「僕」には何ら見覚えがない。
自らを「僕」と名乗るひとなんて、この世に山ほどいるのだ。

それでも記憶を呼び起こそうとした。
だが、うまくいかなかった。
何の記憶もないまま、しばらく(といっても実際は数秒のことだろうが)考えた。
どこかで、「僕」と名乗る声の主との記憶が眠ってないか、探し続けた。
 
しかしどうやって考えても、動いても、そう簡単には何も出てこなかった。
記憶の片隅に触れるようなヒントを得るような記憶は、まったく見つからなかったのである。

これでは反応のしようもない。
仕方なく面倒のない程度に、にっこり笑って応答した。
すると、声の主はこう続けた。

「あ、その顔は覚えてないね。そりゃそうだろうな。いつだったか、一度会ったきりだから。でもよかった。元気そうで」。

声の主の言うことには、やはり私たちは、それほどよく知る間柄ではないみたいだった。
それでも私が元気なのかそうでないかくらいは見分けられるくらいには、相手は私のことを知っているようだった。
そう思って改めてよく見ると、声の主はイヌのような顔をしていた。


3月31日(木)

年度末明日は早速年度初。

3月30日(水)

いつもながらM先生は、さわやかである。
お話をうかがっているだけで、たいそう落ち着いた気分になるのである。
にこやかに笑い、たくさんの話題を振りまき、そのどれもが美しくまとめられる。
見え隠れする品位というか、大人の色合いを感じ、
大人とはこういうものなのかと気づく瞬間が多々あるのだ。
と書けば、誰もがすごく神秘的な様子を浮かべられることだろう。
そう神秘的なのです。
それはまるで竜宮城にいるかのように。
ただならぬ浮遊感と安堵がわたしを襲う。

ご多忙中のなか、足を運んでくださる。
そのことだけでも深く感謝した。しかし、それでも感謝したりない。
この思いはいつの日か必ず、大人になって。
さ、早く大人にならなくては。

2005年4月 9日

今週から勤め人

4月8日(金)

緊張は続くよ、どこまでも。

4月7日(木)

きょうはクラブ紹介があった。だから、きょうもクラブ紹介に出た。
きょうは稽古があった。だから、きょうも稽古をした。
きょうはいい天気だった。だから、きょうも笑っていた。

4月6日(水)

ちょっと寒かった。花冷えかな。

4月5日(火)

あのグレゴリー・ペックと、どこをどうみてもカッコいい野村萬斎と、やっぱりきれいな川原亜矢子と、関東方面のMさんと、マフラーS寿司と、親戚Oと、『ミリオンダラー・ベイビー』の日だぜ、べいべー。

2005年4月16日

覚えていたわけじゃないのに、毎年思い出してしまう加山雄三の誕生日

4月15日(金)

 こころはいつも“Shall we Dance?”
 リチャード・ギアはなぜ日本人受けするのだろうか?について考えた。
 すこし考えてから書いてみようと思う。


4月14日(木)

 気持ちいいほどのお天気だった。

きょうも邪悪になる。
「邪悪になる」と書いたが、実際は「気づいたらそうなっていた」のほうが日本語として正しい。というのも「気づいたらその自体は済んでいた」からである。
どうしようか、こうしようかと「迷う」という行為のその前に、ワルイコトをしていたのであって、きちんと身体が受け止める(能が認識する)頃には、穢れなき悪意による行動が完了していたというのが、いま想定できる手順である。
しかしあくまで想定である。
実際はどうなっているのかだから、身体の中を廻る道筋を取り出して反応を示すことは難しい。
ただ言えるのは、「気づいたらそうなっていた」ということであり、それは表現者の気持ちにより近いということである。よってこの場合の正しい表現となるということである。


4月13日(水)

週の三日目ともなると身体がだれてくるかと思いきや、そんなことはない。
元気はつらつ!
ま!どこかのドリンク剤でもあるまいし。
ともあれ、「週の真ん中、あーそうなんだ」という感覚だけがある。ほへへ。

それにしても思うのは、このところ、まるで頭を使っていないことである。

え?じゃあ、今までは使ってたのかって?
うーん、うーん、これは問題だ。大問題だ。
答えは・・・じゃーん、使ってたんだよ、これが。

え?あれで?って?
仕方ないよ。頭悪いんだから。
悪い頭を使うのって難しいのよ。悪いんだから。ねーお客さん。

その分、身体は使ってましたよね、実際。
あ、そっか、それは今もそうなのだった。

え?頭も身体だって?
そうですね、おっしゃるとおり。
たしかに。あい、すいやせん。

じゃあさ、こういうのはどう?
言うなれば、わたしはなんとなく身体派。(筆者注:肉体派ではない)。

どうかしら、こういうネーミング。
え?やだって?
いや、あんたじゃないよ、わたしの話し。

ま、いいよ。
それでかどうか、(→どういうつながりだよっ!)なんとはなく、良くも悪くも身体の感覚が変わってきている。

良い方では、身体はこれまでになく細かな感じや印象を受ける。
歩いていて、誰かに手を振って、電車に乗って、本を読んで、眠って、音楽聴いて、お稽古して、御飯を食べて・・・。

ときどきのなんでもないしぐさの中で、これまでにない微妙な感覚がある。
ときに、とても細かな流れの中にいるように思えて、心地よい。

悪い方はでは、悪いので書きたくないし、悪いことはすぐに忘れてしまう。
よって書くことが出来ない。ああ、残念残念。

さあ、きょうも邪悪度炸裂だ。


4月12日(火)

火曜日の雨だ。
天気予報大はずれ。それを信じたわたしもバカだ。
にっこりと営業スマイルで難を逃れる。


4月11日(月)

幼い頃からの刷り込みのせいか、忘れたくても忘れられず、覚えていたいわけじゃないのに毎年思い出してしまう加山雄三の誕生日。


4月10日(日)
 ちょっと部屋を春っぽくした。


4月9日(土)
 
それは平成何年の?さくら舞い散る春の頃。
 花を芽でたしひとびとの、一部はやうやう勇み足。

 よりてシリウス探求目的地、そこはただただ、ただひとり。
 ひとりなれども桜色、静かな心地ぞ運ばせる。

ひとはみな、小腹を空かせし体躯なり。
一同の声はいつしか笑ひとなりて、しばしほうばり、ほうばれ、喜ばれ。

果ては西洋蹴鞠の真似事となり。
蹴鞠相手に「おふ」ひとと、「ながむ」ひととのたがひとは、いかにも大なりなどとは申さむ。重ねて感じるところなり。

2005年4月19日

ジョン・レノンを忘れちゃいませんか

4月19日(火)

最近自転車をよくこぐようになった。
理由はお天気がいいからである。

近場で目的地もはっきりしているなら、歩いてそこにいくのもいい。
バスに乗って、どこかふらりふらりと行くというのもいいものだろう。
しかし歩くと疲れることがある。バスに乗ると道が混んでいることがある。

疲れも混雑も、それはそれで偶然が引き起こしたことなのでそう深くは気にしない。だが、時間帯によっては、運が悪くずっと立ったままいったい何をしにいったのかわからない、といったかなり不幸な目に遭う(だろう)ことがある。だから、このごろはバスを控えている。

それでも歩くのもそう悪くないと思ったり、バスなんか嫌いだと思ったり、そのときどきの感情の赴くままにいる。そして、そのときどきの感情のままにいる。そう、こんなことひとつでも、先のことはわからないのだ。

バスは、幼いころからあまり乗り付けていない。
電車と同じくバスにもまたある程度のマナーがあるはずだが、バスに乗る習慣をほとんどもたずにきたので、それがまったく身にしみてないのである。「もたない」というよりも「しらない」のである。

それでも遠方や出先、移動で使うことがある。(ひとりの場合)。
しかし乗った途端にいつ料金箱に入れるのか、バスチケットはどこで取るのか、両替はできるのか、どこで降りるのか、降りる合図のベルを鳴らすのはいつなのだ?などのさまざまな状況がいっぺんに目の前にやってくるようで、なんだか落ち着けない。

それにまた、あのバス独特のエンジンのにおいが苦手で、酔いそうになるのだ。これら数々の状況があって、バスに乗るときは、いまだに少なからず緊張してしまう。だから、乗るときはいつも勝手にベルが鳴ればありがたく思うし、両替せずに料金箱にコインを投入できれば楽だし、前払いならさらにいいと思っている。普段は何でもないラガールカーが、正義の味方にみえること、しばしである。

こういうわけで、バスに乗ると緊張していて、表の景色を楽しんでいる場合などほとんどないのである。ああ、これは全部路線バスなんかの場合のはなしですが。

さて、話を戻して、最近の移動は専ら自転車である。
免許を取って以来、自動車フレンドリーな自転車操車(自転車操業ではない)となったので、あの夏以降は結構道路も夜道も注意深いものである。

無下に横断歩道を渡ったり前方不注意で横断したりはしない。まあ、よく言えば、相手の気持ちを考えるようになったてことだな。そう考えると、全国民がこういう訓練を受けてもいいかもしれない。免許の要/不要は別にして、こういう機会は必要だ。見る目ががらっとかわるんだもの。

ところで、友人M/Oは、先日、自転車に乗っていて、自動車との接触事故に巻き込まれたそうだが、その後身体の不調はないのだろうか。身体は大丈夫なのだろうか。

聞いた話しによれば不幸中の幸いらしく大きな怪我はなかったそうだが、ほんとに大丈夫なんだろうか。というのも、ああいうものは数年後!どどーんとやってくる、ということがあるからだ。少ないながらも経験上。かくいうわたしも19歳の厄年のとき、恐ろしいくらいの「当たり」の中に巻き込まれた。そのうちひとつが自転車乗車中の自動車との接触事故である。

「19歳で厄年」などというのはあまり迷信ぽくって気にかけてなかったのだが、その年の(数えになるので厳密には後厄というものになる)春分も過ぎると、わたしは事件と事故と病に遭遇した。それもみな偶数のぞろ目の日に。

初っ端が自転車での事故であり、忘れもしない4月4日のことであった。
朝からバイトに向かうのに、例によって自転車をこいでいた。

北から南へ駆け抜けるわたし。西から東へ向かう自動車。
見通しはさほど悪くない路地の交差点だったが、一瞬にして、ばっこーんとぶつかり、自転車のハンドルがぐにゃっと曲がった。

東側にこけた自転車に守られるようにしてわたしは地面に倒れ、そして、「あ!」と思った。
それは、わたしが生まれて初めてのバイト代で買った自転車だったのである。
ぐしゃ。としていた。

色も黒と紫といった結構いい感じでタイヤも分厚く高さもちょうどよくって気に入っていたのだ。しかも、かなりの掘り出し物だったので、「ううう・・・」と悲しくなった。

なのにそれは瞬時にハンドルのゆがんだ自転車となった。
すごく哀しかった。

それでもなんとか外科に行き、レントゲンを撮った。ほかにも検査を受けたが、結果は打ち身程度のことで免れた。シップをあてがわれて、うちに帰った。

それから数年後、わたしは三宅接骨院で首の骨のあたりを三宅先生に診てもらうことがあった。どうやらそこには、ぼこっと一部、骨の出た箇所があったらしい。

「どうしたの?」と先生に尋ねられるまま、思い起こせば数年前、わたしは接触事故に遭ったことがあったのだった。当時の外科の判断では何もなかったが、結果として、数年間、わたしのからだはゆがんでいたのである。

ああ、そう大きな症状も何もなくてよかったよ。
しかもそれが手伝って・・・後には背中が!ひゃーあっ!ということにあるのだから、侮ってはいけない。

あなおそろしや、十郎殿。


4月18日(月)

不思議なことに月曜日が楽しいと思えるこのごろだ。
春のうららかな陽気のせいで、ついに、あたまが参っちまったのか?

いや、そうでもないだろう。
なぜかはわからぬが「月曜日の憂鬱」みたいなものがない。
月曜日の憂鬱。

なんて、いやなことばだ。でも、しっくりいくのは、きっと大昔から日曜日が休みの世界ばかりで生きてきたからだろう。

「月曜日の憂鬱」の次は「月曜恐怖症」だった。
月曜恐怖症。
これまたなんて、響きの悪いことばだ。
おそらくここから少し解放されたのだろう。
とにかく上機嫌。
喜びついでにモップなんぞをかけてしまった。


恒例の月9の時期がまた来たらしい。
今回はあのKムタク主演の『エンジン』である。(彼のことは書かないはずだったかもしれないが、まあよいではにゃーか)。
見ようかどうしようか迷うくらいなら、見てから判断してもよかろうと思うにいたり、時間ぴったりにチャンネルを合わせたりしている。たとえどこか遠くで、「君も懲りないやつだねえ~」と言われても。

で、今回はよさそう。
なんでかって?
そりゃあ、ま、愛だの恋だの言ってるだけじゃなくて、世に言う拡大家族ですか?ま、そういうのをぐぐぐっと扱ってそうにみえるからですかねえ。

しかーしこの脚本家は、大型機械がお好きなんでしょうかしら?

ねえ。どないだす?たろーさん。


4月17日(日)

あたたかなごご。
あたたかなあなご。


4月16日(土)

あるとき、1通の手紙が届いた。差出人はジョンとある。

「ジョン」と言われて思い出せるのには何人かいた。
ジョン=コンスタンティン、ジョン=クラーク、ジョン=フォード、ジョン=ウェイン、ジョン=キューザック、ジョン=マルコヴィッチ…ジョン?

ただひとり「ジョン」であってそれ以外の名を知らないのがいた。
「ジョン」としか名乗らないのがいた。おそらく、あのジョンである。
「便りがないのがいい便り」なんて、いつも口癖のように言っていた、あのジョンである。

いったいぜんたいどういう風の吹き回しだろう。
ジョンは口癖以外にも、恐ろしいほどの筆不精でもある。
ジョンが切手を買うなんて想像できなかった。買い方もどこにそれが売られているのかも、知らないくらいのものだったからだ。
いつだったかネコの手でも借りたいくらい忙しいときがあった。たまたま横にジョンがいたので、「切って買ってきて」と頼んだら、「どこにあるのか知らない?切手って何?」などと言われた。説明するのも面倒なくらいくたびれてもいたから、あとから泣く泣く、自力で買いに行ったことがある。
その話しをしたともだちからは、「実際ジョンはネコじゃないから忙しいときでも使いものにならないね」と言われた。たしかに。それはたしかなことだ。

だから、ジョンがペンを手にして、郵便を送るなんて、あまりに無意味なことのように思えもした。
ペンもまた、ジョンにとっては使い方にならないように見えたからだ。
ジョンにとって、手紙を書くという動作は、どこにも存在していないことのようで、どうやってつなげればいいのかわからなかった。


でも、届いた手紙には、こんなことが書いてあった。

 「遠い海が見えるところにいる。
  どうやらジャンが来たみたい。
  勘は外れてなかったよ。
 でも残念なことに、ヤツは、すぐまたどこかへ行ってしまったらしい。
 近くの民家のおばさんがそう教えてくれた。
 いつもの無愛想加減からすれば信じられない話だろうけど、ジョンは意外にそうい う情報を収集するのがうまいんだ。
 とにかくヤツの行く末はまだわからない。
 ジョンとしては、ジャンがどこに行こうと勝手だけどね、骨を返して欲しいんだよな」


ジョンからの手紙など読んだこともないはずなのに、相変わらずだな、と私は思った。
ジョンの勘なんて知らないし、ジョンの自己肯定的な語り方も初めて知ったのに、当然のように話を進める。
相変わらず自らを一人称で語る。
だから、どんなカッコいいことを言っても、どんな決めセリフを語ってみても、こどもみたいに見える。でも、それ以外何ともいいようがないのだろう。だって、ジョンはジョンでしかなく、ほかには、ことばをもたないのだから。

結局ジャンどころか、ジョンもまた、どこにいるのか、こちらにはわからないままだ。
わずかな証拠となりそうなハガキの消印は、雨のしずくでインクがにじみ、うまく読み取ることができない。お約束のように雨が降る日に届くのだ。こういうのは。
神様もやることがなかなかにくい。

2005年4月27日

「やさしいですね」と言われた

4月26日(火)
 
何とも言えない火曜日の朝だった。昨日の続きの朝だった。
せめて、雨よ降らないでと祈ることくらいしかできず、溢れ出しそうな涙を抑えることしかできず、手を合わせることしかできなかった。


4月25日(月)

海がある。
海があると、そこを泳ぐひとがいる。泳ぎたいと思うひとがいる。
だからこれは、海で泳ぐ、あるいは泳ぎたいと思うひとがいれば、の話になるのだけど。

ひとが泳ぎたいと思う海は、どのような海なのだろうか。

そのまえにひとつ。
海で泳ぐひとは、「海」で泳ぎたいと思う。それは、川でもなく池でもなく湖でもない。海である。まずは、これを頭にいれておかねばならない。

面倒なのでまとめて、「海で泳ぐ、あるいは海で泳ぎたいひと」は「海で泳ぎたいひと」にかかわる話になるのだけど。

海で泳ぎたいひとには、「泳ぎたい海」がある。
「泳ぎたい海」は、いつもできるだけ快適であるほうがいい。それは快適なほうが泳ぎやすいからだ。単純な理由だ。

「快適である」とはどういうことか。あるいは、「快適である」ためにはどうすればいいのか。
それには、「快適である」と判断されうる条件をいくつかでも満たしていればいい。
では、その条件とはなんであるのか。

快適であるためのひとつは、海を泳ぐひとの泳ぎ方をよくすることである。
たとえば、いろいろな泳法があることを教える、知らせる、アナウンスする。泳ぐのに適した時期や時間帯がいろいろとあることを告げる、見つける、発表する。
いつも同じ場所ではなく、違う場所のほうがいいことを示す、公開する、明らかにする。
ときには何か道具を使うほうが便利だということを知らせるなど。

もうひとつは海そのものの環境をよくすることである。
海を泳ぐひとが、いつでも充分に泳げる環境をつくることである。
ごみが落ちていては泳ぎにくいし、工場の油が散漫していても泳ぎにくい。
魚が死んでいるような排水溝の付近では誰も泳ぎたいとは思わない。
かといって、小さなこどもが騒ぎまくってはしゃいで観光化された海もあまり喜ばしいものとは映らない。
潮の満ち干きや水温もある。
泳ぐより釣りに適した場所であることや、ぼんやりできるための砂浜をつくることも海の環境を快適に保つためのひとつとなるだろう。

このような条件を挙げてみてわかるのは、海が「快適である」ためには、このどちらか一方だけが優れていてもよくないし、どちらもだめでもよくない。それは、どちらか一方だけがよくなることだけで、もう一方がよりよくなることは難しいからである。

一方が一方にまかせっきりではなく、どちらも「よりよく」、「快適で」あるための環境や設備や方法を学んでこそ、海は海としてありうることができるのだ。海を泳ぐひとが存在できるのだ。いうなれば相乗効果的に発展していかねばならない。

そうであるからこそ海を泳ぐひとが快適であるための方法は、海という環境をよくすることにつながっていくのだろうし、海という環境がよくなれば、海で泳ぐひとの快適さは数段よくなっていくのだろう。

また海を泳ぐひとの環境をよくすることは、時代や社会や組織の要請、設備やもともとの環境、資質などが関わる。いまある設備や需要や場所や資質を最大限に生かし、いかにしてそれらに付随するポテンシャルを引き出すか。いかにしてきっかけを見出し、導くのか、である。問題となるのは。

だから、いつでも海で泳げるような環境を整備していなければならないし、未来に向けて整備する精神を海という場にもまた培うこととなるのだろう。


しかし海もまたさまざまである。

現実の海には日本海もあれば、アドリア海もあり、インド洋もあれば、渤海もある。ノルウェー海もあれば、地中海もあり、ラブラドル海もあれば、ボーフォート海もある。
どこかしこも日本海では問題であるし、どこにいってもボーフォート海でも困る。

海の環境を整えるのは、もともとの海を泳ぐひとをどう生かしていくのかに密接に関わる。よって、その海を泳ぐひとに適した海でなければならない。それを見出すことがなによりも先に感じるべきことである。

結局、海と海を泳ぐひととは、どちらが主流だとか優位だと言うのではなく、常に関わりあい、補い合い、刺激し、前に進み、変化するものである必要がある。

環境を維持しながらも変化する。
環境をつくるというのがひとであり、ひとがいるから環境ができる。

理論だけを申せば、そうなる。

それは、ごくごく当たり前のことのように、私たちの目の前にある自然な出来事である。ひいては宇宙の出来事のなかに私たちが生きる限り、明らかなことである。

海の整備士は、宇宙に生存するもののひとりである。
そのひとりはいま、何ができるだろうか。


4月24日(日)

合気会主催多田宏講習会に参加。

多田先生の講習会は大盛況で、心も身体も新たに洗い流された気分。

多田先生はお会いするだけで、パワーが漲ります。
先生の暖かなお声とお姿は、いつ拝見しても、美しいのです。


4月23日(土)

ねえ、いつだったか一緒に見た夜空のこと、覚えてる?
星が出ていて、月を眺めながら、騒いだよね。
空の大きさに憧れて、暗かったから、結構カッコいいことばでつながってたよね。
あったかくて、すずしくて、風がとても心地よかったな。
いつかまた、あんなふうに、同じ空を眺めることができるのかな。
あの頃が一番よかったなんて思いはしないけど、いまはただ、あのときのことを思い出すのが、なぜだかちょっと辛いんだ。


4月22日(金)
 
ごめんねじろー。


4月21日(木)

いまさらじろーらも。


4月20日(水)

「やさしいですね」と言われた。

おそらく生まれて初めてことではなかろうかと思う。
そう言ってくれた人は、わたしが生まれてからのあいだに出会った時間が、とても少ないひとなんだろうな、たぶん。

About 2005年4月

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