4月15日(金)
こころはいつも“Shall we Dance?”
リチャード・ギアはなぜ日本人受けするのだろうか?について考えた。
すこし考えてから書いてみようと思う。
4月14日(木)
気持ちいいほどのお天気だった。
きょうも邪悪になる。
「邪悪になる」と書いたが、実際は「気づいたらそうなっていた」のほうが日本語として正しい。というのも「気づいたらその自体は済んでいた」からである。
どうしようか、こうしようかと「迷う」という行為のその前に、ワルイコトをしていたのであって、きちんと身体が受け止める(能が認識する)頃には、穢れなき悪意による行動が完了していたというのが、いま想定できる手順である。
しかしあくまで想定である。
実際はどうなっているのかだから、身体の中を廻る道筋を取り出して反応を示すことは難しい。
ただ言えるのは、「気づいたらそうなっていた」ということであり、それは表現者の気持ちにより近いということである。よってこの場合の正しい表現となるということである。
4月13日(水)
週の三日目ともなると身体がだれてくるかと思いきや、そんなことはない。
元気はつらつ!
ま!どこかのドリンク剤でもあるまいし。
ともあれ、「週の真ん中、あーそうなんだ」という感覚だけがある。ほへへ。
それにしても思うのは、このところ、まるで頭を使っていないことである。
え?じゃあ、今までは使ってたのかって?
うーん、うーん、これは問題だ。大問題だ。
答えは・・・じゃーん、使ってたんだよ、これが。
え?あれで?って?
仕方ないよ。頭悪いんだから。
悪い頭を使うのって難しいのよ。悪いんだから。ねーお客さん。
その分、身体は使ってましたよね、実際。
あ、そっか、それは今もそうなのだった。
え?頭も身体だって?
そうですね、おっしゃるとおり。
たしかに。あい、すいやせん。
じゃあさ、こういうのはどう?
言うなれば、わたしはなんとなく身体派。(筆者注:肉体派ではない)。
どうかしら、こういうネーミング。
え?やだって?
いや、あんたじゃないよ、わたしの話し。
ま、いいよ。
それでかどうか、(→どういうつながりだよっ!)なんとはなく、良くも悪くも身体の感覚が変わってきている。
良い方では、身体はこれまでになく細かな感じや印象を受ける。
歩いていて、誰かに手を振って、電車に乗って、本を読んで、眠って、音楽聴いて、お稽古して、御飯を食べて・・・。
ときどきのなんでもないしぐさの中で、これまでにない微妙な感覚がある。
ときに、とても細かな流れの中にいるように思えて、心地よい。
悪い方はでは、悪いので書きたくないし、悪いことはすぐに忘れてしまう。
よって書くことが出来ない。ああ、残念残念。
さあ、きょうも邪悪度炸裂だ。
4月12日(火)
火曜日の雨だ。
天気予報大はずれ。それを信じたわたしもバカだ。
にっこりと営業スマイルで難を逃れる。
4月11日(月)
幼い頃からの刷り込みのせいか、忘れたくても忘れられず、覚えていたいわけじゃないのに毎年思い出してしまう加山雄三の誕生日。
4月10日(日)
ちょっと部屋を春っぽくした。
4月9日(土)
それは平成何年の?さくら舞い散る春の頃。
花を芽でたしひとびとの、一部はやうやう勇み足。
よりてシリウス探求目的地、そこはただただ、ただひとり。
ひとりなれども桜色、静かな心地ぞ運ばせる。
ひとはみな、小腹を空かせし体躯なり。
一同の声はいつしか笑ひとなりて、しばしほうばり、ほうばれ、喜ばれ。
果ては西洋蹴鞠の真似事となり。
蹴鞠相手に「おふ」ひとと、「ながむ」ひととのたがひとは、いかにも大なりなどとは申さむ。重ねて感じるところなり。