口紅とお酢とフリオ
「その国では男はみんな口紅をさす」
フリオは砕いた氷をフリーザーに放り込みながら言った。
ゴルフギャグの課長達3人連れはいつの間にか帰っていて、お客は僕とカウンターに
座っている女の子の二人だけになった。女の子はやっぱり頬杖をつきながら、水槽と
壁に掛かった絵を交互に眺めている。絵は海沿いに建っている白壁の家々を描いたも
ので、スペインとかその辺りの風景のように見えた。
「その国って、日本じゃないの?」
「正真正銘の日本国だよ。でも、今ぼく達がいる日本とは違う日本なんだ。ぼくは1
5歳までそっちの日本にいた。そして、ある日突然こっち側に移ってきた。昼寝をし
ていて目が醒めたらもうぼくはこっち側にいたんだ。実は、最初の3日間は違う国に
来ていることに全く気がつかなかった。だって、あまりにも状況がそっくりなんだ。
昼寝をしていた部屋や、家族や、飼っている犬までほとんど一緒だった。
ただ、こっちの日本で違っていることは、男がみんな口紅をしていないことだった。
最初のうちは、そのことにも気がつかなかった。ちょうど中学を卒業した春休みで、
毎日家で昼寝ばかりしていたので、ほとんど外出をしなかったし、父親は贅沢もので
どちらかというと派手好みだったけれど、何故か口紅だけは目立たないものが好きだっ
たので、家で父、というか正確には父に良く似た別人だったわけなんだが、彼に会っ
ても口紅を差していないことに気がつかなかったんだ。
どうして、こちら側に迷いこんでしまったのかは今でもよく分からない。思い当たる
こととすれば、その日の朝に口紅をさすのを忘れたことくらいだ。でも、それまでだっ
て口紅をさし忘れたことは何度もあった。
ぼくは違う国に来ていることに気がつかなくても全く問題が無かった。まるで、非常
に良く似た世界が二つあって、ぼくという存在がその二つの世界の間で入れ替わった
みたいだった。こっちの世界ではぼくはフリオと呼ばれているらしかった。そのこと
に気がつくのに3日かかったんだ。案外、家の中にいると名前って呼ばれないものな
んだね。
最初のうちは少し心細かった。でも、すぐに慣れたよ。特に大きな問題も無いまま、
ぼくは高校に通っていた。でも、ある日突然全てが馬鹿らしくなってしまったんだ。
だって、ここでの生活は本当のぼくの人生じゃないんだ。ぼくはぼくそっくりのフリ
オってやつを演じているだけだし、家族や周囲の人達だって、みんな似ているだけで
本当はぼくとは全く関わりの無い人達なんだ。そう考えたらなんだか全てがむなしく
思えてきた。
そういう時期が3年くらい続いた。でも、そのうちそれもどうでもよくなってきた。
ぼくの人生は、ぼくがぼくみたいな誰かを演じている間に否応なく流れていくんだ。
戻りたくても、自分の力であっちの世界に戻ることはできない」
「他にはそっちの日本とこっちの日本で違うことはないの?」
「あっちの世界では、お酢をとりすぎると体が硬くなると言われている」
「それホントかよ。なんだか嘘っぽい。ひょっとして今の話、全部うそじゃないの?」
「さあ、どうかな。少ししゃべりすぎちゃったね」
フリオは寂しそうに笑った。
夜は確実に更けていった。このまま永遠に深く潜っていきそうな夜だった。