9月から12月にかけて大変真面目にリーディング・リストのWuthering Heights, Moll Flanders, Frankensteinなどの小説、戯曲、詩を英語の原文で読み、この読書にかけた時間の総量はなかなかすごい量だったので、もう口頭試験などお茶の子さいさいよ。そう思って気楽に口頭試験に臨んだところ、質問に一つも答えられずあえなく文学史の科目のうち一つの試験に落第することとなった(再試のチャンスあり)。そんなー。同じ轍を踏んでいる人が他にもいそうだ。
作品の登場人物とプロットを説明しなさいと聞かれたのだが、一つも覚えていなかったのである。でも、それは別に英語が難しくてWuthering Heightsなどが読めていなかったというわけでもなく、ちゃんと話の筋は追えていたし、「面白いな〜」と思って楽しく読んでいたのだが、後になって「説明しなさい」と試験されると、自分でも驚くべきことに、なんにも思い出せなかったのだった。
「本当に読んだの?読んでないんでしょ?嘘つくんじゃないよ」という疑いの目を向けられ。いやあ。読んだんですけど、信じてもらえませんでしょうか。
実感として、『忍たま乱太郎』の「猪名寺乱太郎の両親は誰ですか?」という質問が試験で、「猪名寺...?誰...」とか考えていると「主人公の名前も覚えていないなんて何も読んでないんでしょうね。次は試験準備してから来なさい」と言って不可になった形である。『忍たま乱太郎』の乱太郎くんの苗字は猪名寺らしい(知らねえよ)。
主人公の名前なんか知らなくても『忍たま乱太郎』を「面白いな〜」と思って読むことは全然できるので、まさかそこが「文学作品への理解度」の評価基準になるとは思いもよらぬことである。
しかしまさか大学の教授が本気で、登場人物やプロットを説明したくらいで「どれだけ読めているか」を確かめられると思っているはずもあるまい。まさかね。そうだとしたら文学作品は相当舐められたものである。
でも、一冊三百ページの小説のプロットを全部暗記していたら逆に理解度は下がるのではないでしょうか。また、登場人物の性質について原文から読み取るのってすごく難しいと思うのですが。
ただ単に僕が嫌いなだけで恣意的に低く評価しているのでは、というきつめの違和感があるが、とはいえ気楽にやろうと思う。こちらはできる限りのことをやってるんだから(本当に)あとは僕の仕事ではない。
あと、試験とは(あまり)関係ないのですが、フェイスブックのマーケットからアクセスできるブダペストのアパート掲示板に、日本人のポルノが並列して掲載されていたのをFacebookに報告しても削除されませんでした。賃貸情報と日本人のポルノが合わせて載っているのが黙認されているというのはどう考えても危険だと思うのでお気をつけください。
国立で、国内では1番の大学という自負のある組織的に「かわいい仲間」とは、やはり非有色人種で、家族神話を大切にするような旧いタイプで、ことの理非が通らなくてもある程度蓋をする人間像なのではないか、と「中途半端に頭のいい人間」の僕はそう思う。
有色人種で、家族神話や結婚神話を全然信じていなくて、気持ちの悪いものが混じっていると"No thank you"です...と一歩引くような学生は、最初は物珍しがられるが、次第に「かわいくない仲間」となり、割りを食う。
ボタンのかけ違いは「『上司』に気に入られないと死ぬ」という強迫観念を心に秘めているかどうかの違いだと思う。『上司』とは現実には文字通りの上司であったり、先生であったり、先輩であったりするわけだが、問題は『上司』が気に入らない『部下』を「殺す」という行動である。
例えばハンガリーという国に住み着いたとき、住みついたのが早い順番に大きい権力を分配していき、後から来た人たちのうち目障りなものたちを「殺していく」というシステムを「いいこと」だと思っているかどうかの違いである。
僕はそれを全然いいことだと思わない。
その『上司』の脅しこそが人権侵害であり、『上司』がそんな酷いことをしなければいいのだ。僕は本当にハンガリーの話をしているのだろうか。これはアメリカの話の気がしてきた。アメリカによる介入以前はもしかすると今よりもアジア人含む移民に寛容な社会がハンガリーにも存在したのかもしれないという気がしないでもない。どちらにしろ上の立場の人間が下の人間をいじめちゃダメだろう。その脅しが自由な気風と政治の流動性を奪う。
とにかく、「えらい人はひどいことができるのだ」という考えについては僕は心底みっともないと思うからやめてほしい。
暖房もシャワーもない環境なんて酷すぎる環境だが、だからといって寒さを凌ぐことができないわけではない。お湯が必要なのであればキッチンで熱湯を作って水と混ぜれば適温のお湯ができる。
部屋の電気を付けておけば室温は少し上がる。布団を重ねれば体温は保存できる。
電気と水が止まれば流石にもう打つ手はないけれど、まだ電気と水はあるし。こういう積み重ねで病気をしないくらいの環境を作ることができないわけではないと思う。しかし環境が劣悪だということに変わりはない。さすがにこの環境の長期化は無理だ。
いいアパートに住むために高いお金を払ったり、怪しげなパートナーを見つけて二人以上で住んだりするのがいいかというと(そういう方法を取る人がいる)、それは僕は危険だと思う。そもそもパートナーがいないとまともに生活できない環境についてちゃんと警戒すべきだ。その環境は自立を否定している可能性がある。それよりは自分に強いられている劣悪さを直視し、その程度と性質を分析して、お金にも友達にも頼らないで生き延びる方法を自分で考えるのが確実だと思う。頼れる人がいたらいるに越したことはないけれど。
問題は暖房のあるなしだけではなく、移民に対して暖房すら与えないモラルの方にあるのだから、表面的な解決だけを追っても仕方がない。呆れるような攻撃は寒さだけではなく、バスが平気でアジア人を乗車拒否するとかそういうところ(こういうことをされるせいで予定が邪魔される。)にも現れているのだから、対策は慎重に考えないといけない。
人間にとって本当に必要なものはそう簡単に他人が奪うことはできない。電灯と毛布があれば本は読める。パソコンがあれば映画が見られる。紙と鉛筆があれば手紙が書ける。
中途半端な貧乏は惨めだが、貧乏を極めてしまえば知恵の宝庫である。
悪い記憶は消すことができる。それが記憶のいいところだ。
いいところだけ頭の中に残しておこう。例えばあるシェイクスピアの詩についての講義で登場したある美しい話(美しすぎてここに文字化することも憚られる)のこと。Conceitの本当の使い方についての話は、崩れ落ちるくらい面白くてかっこよかった。あの話が聞けただけでもブダペスト大学に来てよかったのではないか?
悪い記憶はどんどん消してしまおう。
いい記憶だけ残したらいい。
動物性の食品を食べないと公言している人間に対して、その人間の口に無理やり肉を押し込むということはどういうことなのだろう。
一般的にヴィーガンという生き方がいいか悪いとかいうことについて僕は話していない。それはもっと複雑な問題だ。まあ本音で言えば、相手が動物性の食物を食べるかどうかについて一度聞いておく程度の想像力は持っていてくれ、と思う。
しかし今考えることが必要なのはそれではなくて、ヴィーガンを公言している人に対して、その人がヴィーガンだと知っている人が、その人の口に無理やり肉を押し込むとはどういうことなのか。たった一つのその論題についてのみ考えたい。
12月22日に僕は無理やり肉を食わされた。それまで約一年間動物性のものは口にしていなかった。
後で、もしかしたらその人は僕がヴィーガンだと知らなかったのかもしれないという万一の可能性に賭けて「あれはやめて欲しかった」と伝えたら、「その場で拒否しなかったあなたが悪い」といきなり責められるだけだった。
しかし、僕としては、言わなくても気がついて欲しかったのだ。僕が肉を食べることについて一度もはっきりyesと言わなかったことに、気がついて欲しかった。ずっと嫌そうな顔をしていることに気づいて欲しかった。
肉を食べたくなかった。そして、相手には間違いを認めて欲しかった。
機内食でもナッツとフルーツしか食べず、ブダペストでは野菜と穀物を中心に料理した。卵を含む麺類は使わず、白砂糖を使った調味料も使わないようにした。小麦でできたパンを食べ、ジャガイモで炭水化物を摂取した。そうして料理していると人体は意外に肉も卵も牛乳も必要としていないことがわかり、動物性の食物がなかったらなかったでどうにかなるんだな、と気づくことが日々の楽しみになっていた。
だから、その楽しみを意図的に邪魔にされたことに対して真剣に腹が立った。
少なくとも、「noと言わなかったあなたが悪い」という言い分は、ただ単に尊厳を踏み躙るだけのレイプだった。レイプの肯定。食事を出したのはハンガリーの大学講師だ。僕に罪悪感だけを強いたのはその子供で、かつて僕が友達だと思おうとした人だ。どうしてyes means yesが理解できないハンガリーのみっともないレイプカルチャーを開陳せずにはいられないのだろう?
現在、外気温は0度を下回っているが、通例の如く暖房設備が停止する。特に珍しいことではない。
暖房なし、シャワーなしで年を越してくださいという脅迫である。電気と水はいつまで持つんでしょうね。
修理を呼んでも修理屋は絶対に直さない。インフラを使った脅迫はブダペストで黙認されている。
まあ僕はあと数日すればこんな場所には二度ときませんから、もういいでしょうか。
お前には水もやらない、ガスもやらない、食事もやらない、人間としての必要なものは何もやらない。
しかしながら、「人を呪わば穴二つ」という諺がありますね。無抵抗の人間にこれだけの無法行為を繰り返していて、僕は無事で済むとはどうも思いません。
まあ僕の知ったことではないのですが。
戦争などのやむをえない事情で移民となった人ではなく、学問、仕事、芸術活動などを目的に移民として国外に滞在する者はただ普通に暮らしていればいいというものではないのではないかと思えてきた。つまり自律性が必要なのではないか。
というのも、「普通に暮らしている移民」は実にたくさんおり、留学生もその一部で、彼らを敵に回すようなのだが、実にみっともないからである。お金にものを言わせてイベントに参加し、国境をこえて旅行したとしても、どうもみっともない。ちっとも楽しそうに見えない。どうしてみっともないのかなあと考えたところ、彼らが「普通に過ごしている」からだと思った。
「普通に過ごす」のどこがいけないのだろう。いや、どこもいけないわけではないのだが、なんとなくカッコ悪いと言いますか、だらしがないと言いますか、つまり「普通に過ごしている移民」は「普通に過ごしている現地の人」しか視野に入らないところがなんだか気持ちが悪いと言いましょうか。
現地の人の大半は「普通に過ごしている人」なのかもしれませんが、見えにくいところには困窮している人がおり、性・身体障害・年齢などの属性によって平等な職業機会を与えられない人がおり、そこまで極端な例でなくても、尊厳を踏み躙られる人がおり、歪んだ社会に幸せを踏み躙られた人があり、望まぬ人間関係を強いられる人がおり、実にさまざまな人がさまざまな事情で苦しんでいるにも関わらず、そんな人たちをみんな無視して「普通に過ごす」というのはどういう了見なのだろう、という考えが浮かぶ。
だからモラルの高さ。モラルの高さは必須だと思う。せめて「モラルが高いふり」をするだけでも、必要だと思う。モラルの低い人間に移民は務まらぬ。そこらじゅうにモラルの低い移民はいるし、モラルの低い現地の人々もたくさんいるが、この人たちは後でそのツケをしっかり払うのにまだ気がついていないだけである。「普通に過ごす」ができない人たちの尊厳を踏みじるような、「移民が諸悪の根源だ」というレイシストの言い分にわざわざ塩を送るような、そんなことに僕は絶対加担したくない。
記念すべき(?)留学一年目の年越しを前にして、そんなことを考えた。
早く帰りたい、と真剣に思うわけなのだが、そう思う理由は、つまり、僕が相当なマヌケ扱いをここで受けるからである。
「マヌケである」ということと「マヌケ扱いをする」ということは違う。「マヌケ」というのは「事実」だが、「マヌケ扱いをする」というのは恣意的なラベルである。「マヌケ扱いをしない」ということによって人は徐々にマヌケではなくなることもあろう。しかしながら「マヌケ扱いをする」というのはそいつがますますマヌケになるように呪いをかけるということである。
残念なミスマッチであるが、僕はここの人によほどのマヌケに見えているらしい。繰り返し言うが、これは実際に僕がマヌケであろうとマヌケでなかろうと関係なく、マヌケ扱いを受ける環境という意味であり、つまり僕はここに居ても仕方がないということである。
そういう環境はどちらにしろ存在する。僕にとっては中学・高校が「いつもマヌケ扱いされる場所」だったし、ブダペスト大学も「いつもマヌケ扱いされる場所」である。だから僕は大きく距離を取る。そんな場所には居たくないから。
やはり他人と関わる時に一番大事なのは敬意だなと思う。
兎にも角にも帰国準備である。
有意義なんだかあまり意味はなかったんだかわからない留学生活ではあったが、まあ後になって「行ってよかったなー」と思う日が来ないとも限らない。すぐには役に立たなくとも、あとで役に立つことがあるかもしれないからとりあえず今できることをやる、という姿勢でやっていきたい。
まだいくつか試験はあるが。
よくわからないビザの関係ですぐに帰国しないといけないかなと思ったが、移民法の弁護士によるとひとまず異議申し立て期間中は滞在しても合法らしい。
今できること:「試験を受ける」→「帰国(安全に)」!
留学期間中に「知り合い」になってきてくれた人たち、ありがと〜。正直、僕とブダペスト大学の人々とでは価値観が予想を遥かに超えて全然違ったため、うまく馴染めたとは言い難いですし、僕は常に「出ていけ」と言われているように感じていましたが、とはいえ局所的にはまともなコミュニケーションの瞬間がなかったわけでもないでしょう。つまり、部分的には健全なコミュニケーションも存在したことでしょう。そう思いたいです。
この局所的な健全性を基盤にして、国際交流が広がったらいいなと思います。そしてそういうふうに考えているのは僕だけじゃなくてたくさんいると思います。つまりそれが多数派の考えだと思います。
何度も何度も読んだので、ばらばらになってしまった大好きな植物図鑑を製本し直す「本のお医者さん」こと『ルリユールおじさん』という絵本を子供の頃に読み、なんと美しい話だろうと感動した覚えがある。
ほんの小さいときに読んだかすかな記憶から、それは外国の絵本を翻訳したもので舞台は日本のどこかだと、今まで思っていた。ところが、お友達のJさんとKalákaというバンドのクリスマス・コンサートに行った帰りにおうちにあがらせてもらってモフモフの猫ちゃんを撫でながら(猫成分摂取!)製本のお話になったときに、『ルリユールおじさん』を知ってるかどうかと聞こうと思ったのだが、描いたのは日本人で、舞台はパリの路地裏なのでうまく紹介できなかった。
彼女の手作りのbookbindを見せてもらったときにrelieurをなんとなく思い出したのである。ルリユールrelieurはフランス語で「製本」の意味。絵本の絵の方ばかり見ていたので言語の方にそんな意味があるとは知らなかった。ブダペストで本物のルリユールとの思いがけない邂逅。
ヨーロッパにおけるルリユールとは貴族たちのための工芸品のようだ。中身を読むというより観賞用なのかもしれない。すると、「直してまた読む」という文脈でルリユールを解釈するというのはかなり日本的な解釈の仕方かもしれない。
一生懸命読んでばらばらになった本は、また縫って、もっと一生懸命読めるようにアップデートしていくというしぶとさ。虫の魂百までって言いますよっ。
今年は、そんな早めのメリー・クリスマス。