8月9日
マディソンからおよそ20キロ、ヴェローナという町にエピックと呼ばれる電子医療記録のソフトウェアを扱う企業が存在する。日本ではあまり知られてないが、1979年に女性のCEOによって誕生したこのエピック社は、現在は9000人の従業員を持ち、年間27億ドルの収益を出すというウィスコンシンが世界に誇る大規模な優良企業である。また、その企業成績もさることながら、会社がヴェローナに保有する広大なキャンパスは、もはやヴェローナの町全体を覆い尽くす存在感で異彩を放っており、その建物群は、かのディズニーランドと同じデザイナーによってデザインされた巨大なテーマ―パークのような様相を呈しているのである。
だから、タイ人のパニカはよく自己紹介をするときに「夫はエピックで働いています」と言うことを忘れなかった。もちろん彼女はその言葉がどのような効果をもたらすか知っていたし、実際「エピックに勤めている」と聞けば、私だって今では身を乗り出して「あのエピック?」と聞き返すだろうと思うのである。そしてもちろん、エピックは誰もが羨む素晴らしい会社だった。パニカの夫のトニはいつも、会えばエピックの福利厚生の充実ぶりを語ってくれたし、彼の案内で初めてヴェローナにある会社見学に訪れた時は、これが会社なのか?と目を疑うほど、様々な仕掛けのある遊び心満載の建物に時間を忘れてカメラのシャッターを切ったものだった。広すぎて一日では周りきれないエピックの建物には、不思議の国のアリスやハリーポッター、インディージョーンズにオズの魔法使いをコンセプトとして作られたものがあり、アリスの落ちたラビットホールや逆さまに置かれたテーブル、ドラゴンの居る会議室など、数えきれないほどのエンターテイメントに溢れていた。メリーゴーランドや天国の滑り台のあるオフィスで働くなんて、なんて楽しい毎日なんだろう。私がそう言うと、トニは「いろいろ煮詰まったら気分転換になるよね」と言って笑った。
そんな超有名なエピック社だが、実はもう一つ面白いことに、現在ある一人の日本人画家に会社のスタジオを提供していたのである。それは、日本でもその名を聞けば繊細で緻密かつスケールの大きなその画風を目に浮かべる人も少なくない有名画家、池田学さんだった。彼は2011年に文化庁芸術家在外研修員としてバンクーバーに滞在していたが、その後巡り巡ってウィスコンシン大学マディソン校にあるチェーゼン美術館でスタジオを借りて創作活動を続けていた。だけど昨年、そのチェーゼン美術館での契約期間満了ののちに、このエピック社に声をかけられ、引き続き彼はウィスコンシン州で絵を描き続けていたのである。彼のそのミクロからマクロへ、そしてまたミクロへと豊かに表情を変える独特の画法は世界的にも高く評価されており、医療記録ソフトウェアという一見堅そうに思える会社でありながら、エピックはエンターテイメントや芸術へのサポートの一環としてこの日本人画家、池田学さんと新規の契約を結んでいたのである。
そんな池田さんに、私が初めて会う機会を得たのは、先月、7月中旬のことだった。内田樹先生の門下生である囲碁棋士・中野康宏九段がウィスコンシン大学を訪れるので、どこか観光にお連れしようと思った際、ウィスコンシンにせっかく来たのだからエピックを楽しんでもらうのが面白いのではないかと思ったことがきっかけだった。私はこれまで直接的に画家・池田学さんとの面識はなかったが、彼の奥さまとは会う機会があったのでさっそくスタジオ見学したい旨をお伝えした。すると忙しいさなかだったにもかかわらず、池田氏はスタジオ見学の時間外での申し出に快く応じてくれるとのこと、さらにはエピックで昼食を共にするという贅沢な提案までしてくれたのだった。
7月17日。初めてお会いする池田学さんは、意外にも想像していたような気難しい芸術家ではなく、もっと気さくで温厚で、それでいて職人のようなどっしりとした佇まいと謙虚さに溢れるなんとも言えない好人物だった。事前に池田さんの作品を美術館に観に行き、NHKのドキュメンタリーをチェックするなどしてすっかりファンになっていた私は、その気さくさをいいことに、中野九段の付き添いという立場も忘れ、やれ「文化庁の面接の時はスーツを着て行きましたか?」だの「細いペンで描く手法を選んで後悔したことありますか?」だのと矢継ぎ早に池田氏を質問攻めにしてしまい、これまた温厚な中野九段から「池田さんがご飯食べられないじゃないですか」と軽く注意を受ける始末だった。
だけど、池田さんはそんな私の質問のひとつひとつに信じられないほど丁寧に答えてくれた。私が「何年もかけて一つの作品に関わるとき、辞めたくなることはないですか?」と聞くと、池田氏は「いやあ、思いませんね。描くのは昔から好きですから」と真面目に、そして何でもないように答えた。
「スーツ?文化庁の面接の時、着たっけな?忘れたなあ...」
「影響を受けた画家?...居ませんねぇ...」
そんなやりとりをしながら、私は自分がインタビュアーには向いていないことを自覚せずにはいられなかった。結局ここぞとばかりに池田氏の作風の特徴である気の遠くなるような緻密な作業のこと、あるいは画家としての人生論のようなものを暴こうと次から次へと質問をしたが、そんなことよりもなによりも、池田氏は中野九段と男親としての子育ての話や、マディソンで食べるべき美味しいものといったありふれた話題に一番嬉々として語っていたからである。
だけどそんなこともありながら、この訪問は本当に素晴らしいひと時となった。この日、昼食を終えると、中野九段が日本から持参した津軽三味線を披露することになり、私は再び、贅沢な時間を迎えたからである。
その午後、囲碁プレーヤー中野九段の手さばきによって、津軽三味線の音がなんとも言えない躍動感を持って、エピック傘下の町ヴェローナで響き渡った。ウィスコンシン州では珍しく湿気の多い、ねっとりとした暑い午後だった。だけど池田氏も奥さまも、興味深そうにじっと、食い入るように演奏に耳を傾けていた。考えてみたら、私達は不思議な因果で時を同じくしてウィスコンシン州に集まった日本人達だった。そしてそんな私達の血肉に、あるいはDNAに、この日、中野九段の演奏する津軽三味線の音色は熱く、私たちの心を奥の奥まで震えさせたような気がしたのである。
8月5日
考えるだけで心の奥が凍りついてしまうような、その名を口にすることが憚られるほどの「世にも恐ろしい心配事」というものがあるとするならば、マディソンに住むある人々にとって、それは間違いなく「プレリム」という名前を持つのではないだろうかと私は思う。
プレリミナリー・イグザム。
通称プレリムと呼ばれるこのテストは、アメリカの大学の博士課程で広く行われる知力査定テストのことであり、この試験の目指すところは基本的に、「生徒たちの学力レベル維持」というポジティブな姿勢に違いなかった。だけどこの進級試験に落ちた者たちはすべからく退学を余儀なくされるのだから、この「プレリム」という言葉がどれほど恐ろしく、ある人々にとってネガティブな意味を持つかは想像に難くなかった。
ウィスコンシン大学に戻り、博士課程一年目を終えたわが夫、白井君にもまた例外なくこのプレリムの洗礼の日が迫っていた。試験のやり方は学部によって異なっていたが、白井君の所属する学部の試験では、合格するチャンスが二度設けられていた(つまり、一度このプレリムに落ちても、もう一度再試験を受けることができた)。また、仮に二度目の試験に落ちたとしても、翌年にもう一度受けるという三度目の「本当のラストチャンス」がないこともなかった。だけど、翌年まで持ち越しにするとなれば、学費免除やTA(ティーチング・アシスタント)としての給与受給が一時的に解除されることになるので、私達家族にとって(あるいは多くの貧困学生にとって)、この翌年持ち越しのラストチャンスは、ほとんど無いに等しかった。試験科目は二科目。チャンスは二回。毎年博士課程に在籍する何人かの学生たちがこの試験に落第し、学部を去った。あるいはアメリカを去った。そしてその後の消息は不明だった...。
だからと言ってはなんだけれど、マディソンでともに生きる白井君はがむしゃらだった。もし試験に落ちれば、この一年が全て水の泡になるのである。退学し、日本に帰り、少なくなってしまった貯金通帳を眺めてため息をつくしかない人生が待っているのである。36歳、志半ば、胸に抱いたその夢がここで潰えるのかどうかが、このプレリムの合否にかかっていたのである。
セメスターが終わり、夏休みが始まってからも、白井君はもちろん一日も休まず図書館にこもりきりだった。毎日、私にパソコンを隠すように指示を出し、外部との接触を避け、集中力を高めていた。KindleもiPhoneも隠した。土曜日も、日曜日もなかったし、私たちは時差を使ってほんの少しでもお互いの時間を確保できるように、ずいぶん前から夕食を共にすることを辞めた(そうすることで、白井君が子供とご飯を食べている三十分、私は一日のうちで唯一のリフレッシュタイムを持つことが出来たのである)。この一年間、家族で出かける日は数えるほどしかなかった。もちろん、白井君が「勉強以外で出かける」ということもほとんどなかった。
だけど悲しいかな、そんな努力もむなしく、六月末に実施された第一回目のプレリムに白井君は落第した。試験の数週間前から彼は眠れなくなり、二科目ある試験のうち、一科目を落としてしまったのである。二十五人いる同級生のうち、十人がこの一度目のプレリムの落第者となった。白井君はどうにか採点ミスを探して教授に連絡を取るなどの粘りを見せたが、落第の判定は覆らなかった。再試験は一か月後の七月末である。
いよいよ家庭内にも不穏な空気が立ち込み、私の心もなまりのように重い日が増えていった。近所に住むローラから「秋にはパンプキン狩りに行こう」と誘われ、パントリーで働くクリスに「冬になったら孫のおさがりの服をまたあげるわよ」と言われる度に、私は自分がまだ秋以降もマディソンに居るのか分からないのだという不安から、うまく返事をすることが出来なかった。スーパーで塩を買おうとしても、「来月に帰国することになれば、無駄になるのではないか?」と思うと悲しくなることがあった。だけどそれ以上に、誰にも「来月帰国するかもしれない」と明るく打ち明けることが出来ないことも辛いことの一つだった。そんな不安すら、口にすることで現実になってしまうかもしれないと思うと、私はただただ怖かったのである。
だけど泣いても笑っても運命は迫っていた。白井君はまた、二度目の試験に向けがむしゃらに毎日勉強し、さらには水泳を始めるようになった。食後、自宅のプールで十五分ほど泳ぐことで、驚くほど快眠を得られることを発見したのだと、あるとき彼は嬉しそうに言った(そもそも白井君は金づちだった)。だけどこのまま水泳を続ければ、試験前日に眠れないというあの失態を二度と繰り返さないだろうというわけである。病院で睡眠薬まで処方してもらいながら、白井君は来たる日のために毎晩、勉強したあと自宅のプールでせっせと泳いだ。
試験前日ももちろん、祈るように白井君は泳いだ。夜が更け始めると処方された睡眠薬を服用したが、それだけでは足りず、市販の液体睡眠薬まで飲んだ。神経質に歩き回って、寝る場所を変えた。私にも「早く寝ろ」と指示を出した。そして結局、白井君はまた一睡もしなかった。決戦の朝、白井君は憔悴しきった顔で「不思議と疲れていない」という謎の言葉を言い残すと、私を不安にしたまま二度目の試験へと赴いていった。驚くべきことに、プールも睡眠薬多種服用も、この恐ろしいプレリムのプレッシャーに打ち勝つことが出来なかったのである。
だけど今、私がこうして「プレリム」について言及し、その気ちがいじみた試験前夜について語ることが出来るのは、今朝がた、見事、白井君がその合格通知を授受したからに他ならなかった。
張り詰めていた緊張が解けるのを感じながら、私達は再び、この地に留まることが出来る喜びに沸いた。辛かった。だけど報われたのである。そしてふと、毎晩海パンで家の外に飛び出していった白井君の姿を、私はきっと一生忘れないだろうと思うのだった。
6月24日
6月に入り、マディソンはここのところすっかり9月までの長い夏休みを迎えていた。今月からマディソン中の学校が学期の終わりを迎え、ありとあらゆるプログラムがいったん終了していたので、この頃勉学から解き放たれた子供たちの周りでは、夏休みの予定に母親たちが頭を悩ます光景を見ることが少なくなかった。
ウィスコンシン大学もまた、例にもれずキャンパス内は閑散とした雰囲気が漂っていたし、隣りに住む中国人学生のユーティンもさっそく国に帰省してしまったので、今月に入ってからは近所で顔を合わせることもなくなっていた。もちろん、私が通っていたイタリア映画の授業もずいぶん前に感動的なフィナーレを迎えて幕を閉じており、毎週通わせていた息子のPlay and Learnという学習プログラムやダンスのプログラム、託児所利用のプログラムも軒並み終了して、私自身もまた、最近では日の長くなったこの美しいマディソンでの日中の過ごし方に少なからずヤキモキする日々を送っていた。
そんな夏休みの始まりのある日のことである。私はメンディという中国人の主婦友達とピクニックポイントという湖の見えるハイキングコースを散策することになった。
メンディは中国から来た私よりいくらか若い、子供の居ない主婦ではあったけれど、彼女の旦那さんがウィスコンシン大学の学生をしているということ、またそのために低所得であるという境遇、そして何より彼女自身が文学や映画をこよなく愛する点など、驚くほど共通点が多かったので、私たちはよく出かけてはいろんなことを語り合ういわゆる"ベストフレンド"だった。
そんなメンディは普段、子育て中の私とは違ってコミュニティカレッジに通う学生だったが、今月から夏休みを迎えた彼女もまた、今やこの長い美しい余暇の過ごし方に苦労する同志でもあった。だから、この日もまた、私達は「じゃ、午後にハイキングしよう」と数日前にメールで取り決めると、いつものようにとりとめのないおしゃべりに興じながら、ピクニックポイントの湖の見える岬を目指し、安上がりで贅沢な午後を過ごすことになった。
ピクニックポイントを散策するのは私にとってこれが三度目だった。
だけどメンディはピクニックポイントの近くに住んでいたので、「最近はほとんど毎日ここに来てるかも...」と私に言うと、道端に咲いている花を手際よく摘んで私に手渡してくれた。それから彼女は漢方薬に使える薬草を探し出し、道にカメが現れるとその甲羅をつつき、カエルに驚き、鳥を追いかけては無邪気に笑った。そうして自然豊かなハイキングコースを楽しく15分ほど歩きながら、私達はすぐにマディソンに点在する湖の一つであるメンドータ湖の見える開けた岬へとたどり着いたのだった。
ピクニックポイントはこの湖の見える岬を終着点として折り返すだけの簡単なコースだった。だから岬の先端に入ると、同じように午後のハイキングを楽しんだ人々が足を止め、入れ代わり立ち代わり思い思いに過ごしているのが見えた。もちろん私とメンディもまたこの湖畔にたどり着くと、眼下に広がる湖の静寂の中で言葉少なに腰をかけ、しばらく水面を流れる雲を見つめたり風の音を聴いたりして涼むことになった。
終着点から湖を挟んだ対岸に、遠く州議事堂やダウンタウンの街並みが浮かんでいるのが見える。ボートが横切り、水面はゆっくりと光り輝いていた。もうずっと知っているつもりの当たり前の絶景ではあったけれど、私は結局いつものようにこの美しさの前にため息を漏らすと、隣に居るメンディに声を潜めて「綺麗だね」と言わずにはいられなかった。メンディはうなずき、そして私達はポツリポツリと会話をしながら、そこにいる大勢と同様に、ただひたすらメンドータ湖の静かな午後を体中で感じる喜びに浸っていたのだった。
「夏休みに入って、結局自分が毎日何もしていないことに驚いた...」
突然、湖を見ながら、メンディがポツリと言った。少しだけ、自分自身を恥じているような語り方だった。
というのも、普段はコミュニティカレッジに通っていて課題やテストに忙殺されていたメンディだったが、こうして学校が終わってぽっかりと時間が出来てしまうと、彼女は結局、休みに入ってからの数週間を何もせずに過ごしていたことに気付いてしまったからだと言う。
そもそもメンディが普段、コミュニティカレッジに通っていた目的はただ一つだった。いつ卒業して就職するか分からない旦那さんを支えるため、自分自身が将来的にアメリカで仕事を見つけ、お金を稼ぎたいという願望があったからである。
私と同様に旦那さんが学生をしていて先行きが不安定な彼女は、なんとかして自分も少しでも働けるようになりたいと考えていたので、彼女がコミュニティカレッジで勉強しているのは、大好きな文学でも映画学でもなく、就職に使える統計学だった。
だけどそのハードな勉学の期間が一旦終わり、こうして夏休みという時間の中でストップしてしまうと、彼女の中に突如、普段は考えないようにしていた漠然とした将来への不安感と焦燥感が現れ、結局毎日何もできなくなってしまったのだと彼女は言った。
お金もない、働くこともできない。そして学ぶことの出来ない今、家族は遠く、友人は少なく、それでいて美しく平穏な日々だけが身動きもできずにゆっくりと過ぎ去っていくというのは、ある意味では残酷なことだった。
「ノー・ホープ...」
メンディは笑いながら、だけど悲しそうに言った。時間が出来てしまうと、つい先のことを考えて不安になって、動けなくなってしまったのだ、と。
だけどそんなメンディの悩みを聞きながら、私もまた、この頃自分もメンディと同じようなことを考えていたと告白せずにはいられなかった。
イタリア映画の授業が終わり、様々なプログラムが終了した今、停滞する時間の中で、私もまたメンディ同様に限られた条件の中でしか行動出来ない場所を心もとなく生きている人間だったからである。
大きな運命に導かれるようにしてやって来たこの美しいマディソンではあったけれど、その実ここは私達にとってどこまでも異国であり、自分自身の意思とは裏腹にたどり着いた世界でもあった。もちろんマディソンは非の打ち所がないほど美しく平穏だったけれど、それでも私達の生活は、先の見えない不安の中で、いつ来るか分からない舟を待っているようなものでもあった。
「私達は似てるね」
メンディと私はそう言って笑った。
考え方も、好きなものも、境遇も。そして肌の色も髪の色も...、私達はいつまでも、どこまでも似た者同士のようだった。おまけに身長や体形までよく似ていたので、きっとアメリカ人からすると、私達の区別なんてつかないだろう。
そんなことを考えながら、私はこの日、メンディと何とか日々のモチベーションを上げるための瞑想方法などを語り、笑い、励まし合っていた。停滞する夏の午後の終わりの中、来し方行く末に思いを馳せながら、私達は二人、メンドータ湖のほとりでそうやっていつまでも座っていたのだった。
5月21日。
フィミンさんは、中国人でありながら同時に朝鮮人という不思議な中国人だった。私と同じように去年の秋から夫の都合でマディソンに暮らすことになった彼女は、中国の吉林省にある延吉市という朝鮮族が大半を占める土地に生まれ育ったため、そのアイデンティティは中国よりも朝鮮にあるのだと、出会ってすぐに彼女は語った。
「英語はじぇんじぇん出来ないと言うと、中国人は不思議な顔しますよ」
そう流暢な日本語で話すフィミンさんは、幼いころから朝鮮学校に通っていたため、日常会話は韓国語、学校では"外国語として"中国語を習得し、高校を卒業ののちは日本の大学へ進学したそうで、これまでの人生で一度も英語を習得する機会がなかったのだと言った。
「どうしたら英語が話せるようになりますか?」
ある日、日本語も韓国語も中国語も話せるトリリンガルでありながら、アメリカで言葉の壁に苦しむ彼女から語学学校の相談をもちかけられたのが、私たちが仲良くなるきっかけだった。
日本が大好きだから住むなら日本が良かったと言って、アメリカに来てからは「毎日ノイローゼになりそうだった」と嘆くこの不思議なフィミンさんの相談に乗りながら、しかし私はいつの間にかすっかり彼女のことが大好きになってしまい、日本語で会話をしながらいつも、中国のこと、韓国のこと、日本のことを面白おかしく聞くことがあった。
とりわけ彼女の出身地である延吉市の話は面白く、北朝鮮に近く位置している故郷で、フィミンさんの親戚は遠い昔に脱北者をかくまったこともあるというなんとも衝撃的な話をしてくれたこともあり、「私達は中国人ではない。朝鮮族だから、彼らを応援してるんです」とフィミンさんは力強く語った。それから延吉市は満州国の一部でもあったため、フィミンさんはクスクスと笑いながら、「おじいさんに聞いた話なんですけど」と前置くと、「鼻歌も日本語じゃないとだめだったらしいですよ!」と言って、ぷーっと笑い転げることもあった。嘘か本当か分からないけれど、フィミンさんに言わせると、『韓国人にクリスチャンが多いのは、浮気っぽい韓国人の男が浮気をして反省して神に祈り、許されて"また浮気を繰り返すため"』だそうで、中国人の女性があまり化粧をしないのは『それだけ自信があるから』だった。フィミンさんがいつもそんなことばかり言っていたので、私達は会うとただひたすらケラケラと笑い合っていたし、私はいつもこのアジアの複雑な歴史的背景中にある、あっけらかんとした明るさを彼女からたくさん学ぶことがあった。
だけど時々、フィミンさんは、私がコミュニティセンターのボランティアやウィスコンシン大学の授業に聴講に行くと言うと寂しそうにすることがあった。『英語が出来ない』というコンプレックスをどうしても拭えずにいたフィミンさんは、付き合いを続ける中で、私の話を聞きながらしょんぼりとして「いいですね」と力なく笑うことが良くあった。そして「私も働きたい」と言っては悲しそうにすることが少なくなかったので、いつしか私は自分のボランティアの話や大学での聴講の話をフィミンさんにあまり話さないようになった。なぜなら英語が話せなくても、私にとってフィミンさんは十分賢くて魅力的な女性だったし、なるべく彼女にコンプレックスを感じて欲しくないと思ったからだった。そしてそれほどまでに、フィミンさんはいつの間にか私にとって、マディソンで出会ったかけがいのない稀有な友達の一人になっていたのだった。
そんな大好きなフィミンさんから突然、「離婚することになったから帰国する」と打ち明けられたのは、まだ肌寒い日が続く五月下旬のある日のことだった。昼寝をし始めた子供を車の後部座席に寝かせたまま近所の大型スーパーの駐車場に車を停めると、私はこの日、フィミンさんの突然の帰国話を泣きながら聞くことになった。
「アメリカで終わると思って居なかったけれど、アメリカに来なかったら気付かなかったかもしれない...」
フィミンさんはそう言うと私と同じように涙を流し、せわしない祖国を離れ、マディソンで生活をする中でこれまで見えなかったものが見えてきた結末だったのだと私に語った。帰国は二日後だという。
私はすぐにその夜、フィミンさんを思いながら手紙をしたため、ウィスコンシン州の形をしたオーナメントを奮発して購入すると、次の日に餞別としてフィミンさんにプレゼントした。それから残された二日間の時間、私達は可能な限り一緒に過ごすことになった。
フィミンさんは「中国に戻ったら近所の目もあるのでこれで変装する」と言って、ウィスコンシン大学のご当地キャラであるバッキー君の帽子を買い、それから親戚にお土産用に配るシャツも何枚か買った。時々「アメリカでの生活は辛かったけれど、中国に帰ったらまた戻りたくなるかもしれない...」と寂しそうに言ったが、中国で離婚が成立した暁には、韓国でエステをするのだと、また本気か冗談か分からないことを明るく言うこともあった。そして日本に戻ったらまた勉強したいと今後の展望を語り、もう結婚はこりごりだけど、これから恋愛を楽しみたい、とも言った。
そしていよいよ別れの時となると、フィミンさんは「泣かないで別れましょう」と言いながら、また車の中で涙を流した。私も寂しくてやるせなかった。同じ時期にアメリカに来た私達だったけれど、マディソンの七か月でフィミンさんが見つけたものが「離婚」という形だったことも、なんだかとても悲しかった。だけどフィミンさんは韓国語も中国語も日本語も話せるのだから、きっと大丈夫。ずっと仲良しで居よう。韓国か中国か日本で必ず再会しよう。私達はそう約束し、最後にハグをして泣きながらフィミンさんのアパートで別れた...。
「セイコさん、やっぱり夫を許すことにしました」
そんなメールをフィミンさんから受け取ったのは、この忘れがたい最後の別れの挨拶をした、数時間後のことだった。
「ごめんなさい。ありがとうございました」
メールで平謝りするフィミンさんに、「え?帰国しないの?した方がいいんじゃない?」と、私は返信していた。
帰国しないのであれば、もちろんこれは朗報に違いなかった。今後もフィミンさんと過ごせることは喜ばしいことだったし、二人が離婚しないと決めたのであれば、これほど建設的なことはなかった。だけど一方で、あれほど感傷的に二人で泣いたり笑ったり思い出を作ったことを思うと、なんとなく記憶のバランスが悪いような、どこか狐につままれたような気持ちがして、戸惑わずにはいられなかった。
だけど、思えばフィミンさんは自分たち朝鮮族の特徴として、「すごく怒るけど、根は優しいんです」と言ったことがあった。「とても怒るけど、それが終われば私達はすごくあっさりしてるんです」と。
そういうわけでフィミンさんは、帰国のために取った飛行機のチケットを9月に帰国する日へ変更し、シカゴ行きのバスの変更手続きや、親戚のためにデパートで買ったシャツを返品する作業に追われているようだった。韓国でのエステや日本での進学の夢の話は、ひとまずは無しとのことである。
飛行機のチケット変更代が100ドル、バッキー君の変装用帽子が20ドル、私からフィミンさんへの餞別のオーナメントが10ドルと、それから二人で流した涙が何リットルか...。果たしてこれが、この不思議な朝鮮族フィミンさんの「マディソン離婚騒動」の顛末だった。
4月24日。
ランブル教授がイタリア人の若手映画監督レンゾ・カルボネッラ氏に私を紹介したのは、ウィスコンシン大学で開催されたイタリア映画祭でのことだった。
この週、2017年に公開された『Resina』という映画の監督であるレンゾ・カルボネッラ氏はこの映画祭のためにウィスコンシン大学を訪れていた。だから"イタリア映画"の講義を受け持つランブル教授はこの映画祭のことを何日も前からアナウンスしており、生徒たちに向かって「映画監督と話せるまたとないチャンス」だと言い、「映画祭に来るように」と授業中熱心に語った。「映画を観に来れば必然的に成績を加点する」とまで教授は言ったが、映画祭に嬉々として訪れた私が確認したところ、結局、イタリア映画のクラスメイト達は三分の一も来ていないようだった。
だけど映画館にはマディソン在住の気鋭の映画マニアたちが集結しており、この美しいアートフィルムの上映とその後のトークイベントは思った以上の盛り上がりを見せた。白熱したイベントの空気に感化され、私も一度だけ監督に質問を投げかけるという大胆な行動に出たが、どうやら発音が悪かったらしく、きょとんとする監督の隣でランブル教授が素早くイタリア語で通訳をするという対応があった。
そんなランブル教授が私のことをカルボネッラ氏に紹介したのは、このトークイベントがすべて終わった後の出来事だった。席を立つついでにたまたま一つ前の席に知り合いを見つけて話し込んでいた私の横を通りかかったランブル教授が、ふと、足を止めたのである。
「ハイ!」
ランブル教授はにこやかに私に手をふると、「彼女は日本から来た私のクラスの生徒だ」と前を歩いていた監督に向かって紹介した。
「彼女はミケランジェロ・アントニオーニにとても興味を持っているんだよ」
先のトークイベントで"影響を受けた映画監督"の一人としてミケランジェロ・アントニオーニの名前をあげていたカルボネッラ監督は、ランブル教授の発言に振り返り、まじまじと私を見た。私はもちろんこの予期せぬ出来事にひどく動揺し、とりあえず「監督の次回作を探しています」というお決まりの言い間違い(本当は「楽しみにしています」と言うつもりだった)を犯した後、監督に握手を求め、ランブル教授に向けて「先週の授業、休講でしたね」と言わなくてもいいようなことを言い放ったのだった。
そんなとんちんかんな返答をしながらペコペコと頭を下げる謎のアジア人を面白そうに見ながら、ランブル教授は「また授業で」と言って、カルボネッラ氏とにこやかに映画館を去っていき、残された私は恥ずかしさと先ほどのやりとりをやり直したい気持ちでいっぱいだった。だけど同時に、この恥ずかしいながらも嬉しいハプニングは、二年前にソヴィエト映画学の授業の教授であったカプレイ教授が批評家のデイビッド・ボードウェルに私を紹介してくれたシーンの焼き直しであるかのような、どことなく懐かしい既視感を覚えてもいた。
実際、ランブル教授の"イタリア映画"の授業は、カプレイ教授の"ソヴィエト映画"の授業と様々な点で類似点があった。ソヴィエトにスターリンのもとで花開いたプロパガンダ映画があれば、イタリアにはムッソリーニ政権下のファシスト映画があったし、前者には映画史における最大の発明"ソヴィエト・モンタージュ"が存在する一方、後者には他に類を見ない"イタリアン・ネオレアリズモ"があった。ソヴィエトもイタリアも、それぞれ秀逸な映画界の巨匠たちを数えきれないほど排出していたし、何よりカプレイ教授もランブル教授も、ウィスコンシン大学と何の関係もない私の突然の「聴講のお願い」を快く、無償で受け入れてくれたのだった。
ただ、前回のカプレイ教授の時と決定的に違っていたのは、私がこのイタリア映画の授業に出るために、子供の預け先を探さなければならないことと、子育ての合間に映画の予習をする時間を捻出することのとてつもない大変さだった。忙しい白井君はほとんど家に居なかったので、授業の時間には誰か他の人を頼るしかなかった。授業開始とともに、セオンという韓国人の友人から「子供を預かることが出来ない」と断られたのでボミを紹介してもらったが、週に二回ある授業のうち、残りの一日の預け先を探すこともなかなか困難なことだった。
先のセメスターでは快く週二日預かってくれていた近所に住むパニカは、今学期に限って「預かるけどお金を払って欲しい」と言い出したことがあり、私は「お金を払える余裕がない」と言って、代わりにいつでも彼女の娘を預かるから、と必死に懇願したことがあった。結局パニカはしぶしぶ承諾してくれたが、ある意味でこんな風に友人に頭を下げなければならないというのは、心折れる屈辱的な行為でもあった。だけど他に手立てはなかったし、何よりもこのイタリア映画の授業は学べば学ぶほどに深く、遠く、奥行きを増し、私はすっかりその楽しい忙しさに夢中だったのである。
あるときも、どうしてもランブル教授に尋ねたいことがあり、パニカに15分ほど早く子供を預けて教授のオフィスアワーを訪ねたことがあった。パニカはそんな私の企てにいち早く気付き、「来るのがちょっと早いんじゃないの?」と目を吊り上げたが、それでも息を切らせて私が教授のオフィスに飛び込んだ時には、既にオフィスアワーの時間帯を大幅に過ぎてしまっていた。だけど、申し訳なさそうに入り口で立っている私に、ランブル教授は笑顔で「待っていたよ」と言うと、それから丁寧に、用意していた質問の全てに答えてくれたのだった。
ところで、この映画祭での恥ずかしいやりとりの後、バスを待ちながら私はふと、「なぜランブル教授が今日私にだけ声をかけてくれたのか?」という問いについて考えを巡らせていた。二年前にも、カプレイ教授の恩恵にあずかったとき、そのことを不思議に感じていたのだが、今ならその答えが分かるような気がしていたのである。
もちろん、何の脈略もなく突然聴講したいと言ってやってきた厚かましいアジア人が、珍しかったというのが正解なのだろう。だけどそれ以上に思うことは、ただ一つだけ、私には誰よりも「映画を学びたい」という強い情熱があったということだった。情熱と言うと聞こえはいいが、それは言いかえれば、お金も時間もないのに自分の喜びを最優先させるエゴとも呼べるものだった。
イタリア映画のためなら、パニカにいくら怒られようがなじられようが頑張ることが出来たし、バス代を節約するため、授業に出るときに使うバスカードは隣に住む中国人学生のユーティンに借りることがあった。恥も外聞もなく、その上学生でもないのに授業中も授業後も積極的に質問し発言することも最近では少なくなかった。それほど講義は面白かったし、目の前には多くの学ぶべきものがあった。掴んでおきたいチャンスがあった。そしてそれは二年前の恵まれた環境でははっきりと姿を現すことのなかった私の中にある貪欲な本性でもあり、韓国人のセオンに頼み、ボミの機嫌を取り、パニカに頭を下げたときに見つけた、愚直で、身勝手で、それでいて何物にも代えがたい渇望だったのである。
4月11日。
「これはとてもユニークね」
カンバセーションパートナーのニコールが、手のひらサイズのカードをしげしげと眺めながら言った。カードの表には白髪の優しげな老人の顔写真がプリントされており、『私の人生をあなたの手の中に』という聖書から引用された言葉が添えられている。裏にはこの老人の経歴とこれまでの人生がコンパクトにまとめられて印字されていた。一見、ちょっと手の込んだ大きめの名刺のようにも思えるが、名刺と決定的に違うのはこの老人がすでに亡くなっており、このカードをその奥さんから受け取ったという点だった。
それはニコールに会う数時間前の出来事だった。私はこの日、中国人の友人フィミンさんに誘われ、ダウンタウンにある教会のインターナショナルランチに参加していた。
マディソンに限らないのだろうが、あらゆる教会では定期的に様々な無料のイベントが開催され、無料でご飯を食べるついでに英会話が出来たり、友達を見つけたりする機会があった。季節ごとのイベントだけではなく教会主催で毎週英語を勉強できる無料のクラスもあるので、マディソンのアジア系の駐在妻たちの多くがこうした教会の無料クラスに通うことがあり、友人のフィミンさんもまたこの教会のボランティアによるESLクラスの生徒だったので、ある日私をこのランチに誘ってくれたのである。
教会に着き、ほどなくしてランチが始まると、キャロルという白人の老婦人が私達のいる席についた。各テーブルには必ず一人教会関係者が座り、異国の客人達の奉仕をするのがこうしたイベントの決まりだった。
「あの人、最近旦那さんが死んだんですよ!」
フィミンさんは日本語がぺらぺらだったので、キャロルの姿をとらえるやいなやすばやく日本語で私にそう耳打ちをしたが、キャロルはそんな私たちに挨拶をするよりも前に、手に持っていた大量の例のカードを一枚ずつ手渡すと、「主人がこの教会に来た頃はここも小さかったんだけど、彼が来て大きくなったのよ」と、物憂げに口を開いた。手渡されたカードの表で朗らかに微笑んでいる白髪の老人こそ、彼女の亡くなった夫であり、この教会の司祭であった人物だったのである。
「アイムソーリーと言えばいいんですよね?」
英語の苦手なフィミンさんは私に日本語で確認をしてから「アイムソーリー」と恐る恐る言い、それはインターナショナルランチと言うにはなんともしめやかな幕開けとなった。
私はキャロルも初対面なら、こういうカード(メモリアルカードと言うらしい)を遺族から貰うのも初めての体験だった。知り合いではないからと捨て置くのも気が咎めるので、このカードは大切に鞄にしまい込んで持ち帰ったが、カンバセーションパートナーのニコール曰く「こういうサイズのカードはブックマークに便利」とのことだった。
ところで、この湿っぽくてユニークなランチタイムの経験を入れると、私がこうした教会の主催する無料食事イベントに参加したのは前回の滞在期間を含めても、五回にも満たなかった。というのも、私はこうしたイベントの最後にある宗教的な儀式(讃美歌を歌ったり聖書の勉強をしたり)が何よりも苦手だったからである。信仰心のかけらもない私にとって、「無料ご飯」や「無料学習」の背後にちらつく「宗教」という圧倒的未知の存在に、どことなく気おくれしてしまうところがあった。
最近時々参加するようになったESLの無料クラスにも、やはり一週間のうちに何度かバイブルのクラスがあった。もちろん、参加は自由である。必ずそのクラスに出席しなければいけないということではなかった。ただ一度、「これだけ無料ESLのクラスにお世話になっているのだから...」と思い、バイブルのクラスに参加してみたことがあったが、この日のテーマは「科学とキリスト教信仰はどう折り合いを付けるか?」という難しいものだった。そして「この世の全ては神が作ったものなのです」と、普段英語を教えてくれる先生から涼しい顔で教えられるのは、やはり私にとってある種ショックなものでもあった。
同じ教会のESLクラスに通っているメンディという中国人の友人もまた、こうしたバイブルスタディが苦手な女の子だった。だから彼女は「自分の考えをまだ整理できていないのだけど...」と言った上で、「神という概念は古いんじゃないかな...」と終わってから私にメールを送ってくれたことがあった。今はやっぱり神ではなくて科学の時代なのではないか、と。
だから、私はこの日のインターナショナルランチの後、このユニークなメモリアルカードを見せるついでに、私が難しいと感じている信仰という概念について率直にニコールに話をしてみた。ニコールは普段、私にほとんどそうした宗教的な話題をすることはないが、実生活では教会で聖書を教える仕事に就いている宗教家である。
「そうね...」
ニコールは私の話を聞いて少し考えると、「キリスト教信者の多くは科学が嫌いだよね」と言って軽く笑った。だけど彼女の見解では、神と言う存在が私達に"脳を与え"、そこで私達人間は科学というものを通じて世界を理解する方法を得たのだという。
「神の存在を信じてるの?」
失礼とは思いながらも私がそう尋ねると、ニコールは「信じてるし、キリストの存在も信じてるわよ」と当たり前のように答えた。
だけど、目に見えない存在を信じるというのは、いったいどういうことなのだろうか?私は疑問だった。
日本ではキリスト教系の大学に入り、大学時代にはクリスマス礼拝をし、教会で神に愛を誓って結婚した私であったが、結局そうした一連の出来事は信仰心とは無関係に、私にとってはどこまでも「イベント」の域を出ることはなかった。そしてそれは今、マディソンの教会でランチを食べ、讃美歌を歌ったとしても同じことだったのである。
この日、インターナショナルランチのタダ飯にありついたアジア人達は、親切な信者に導かれてぞろぞろと食後の讃美歌を歌うべく別部屋へと収容されていった。こうしたイベントの最後に必ず目にする光景である。きちんと讃美歌を歌える人などほとんどいなかった。そんな信仰と無信仰の交流の間で、しかし私つい、そのすべてをシュールだと感じてしまうのだった。
3月14日。
ある夜、いつものように子供の寝かしつけをしていた時だった。突如、私の携帯電話がいつもとは違う不気味な振動をし始め、大音量の耳障りな音が鳴り響いた。慌てて画面を抑えると、"アンバー・アラート"の文字。それから "Milwaukee, WI, LIC/HVCZ95 2014 Black Cadillac"との表示が見える。鳴り響く音で寝かかっていた子供が起きることはなかったが、暗闇の中で急いでアラームと止めながら、私は一人、一気に不穏な空気に包まれるのを感じていた。
アンバー・アラート。
これは未成年者の誘拐事件や行方不明が起きた時に管轄の警察から発せられる緊急事態宣言のことである。広くアメリカやカナダで導入されているこの緊急アラームは、メディアや携帯電話などに流される犯人や被害者の情報によって事件の早期解決を目指しており、今回、私の携帯に表示された"Milwaukee, WI, LIC/HVCZ95 2014 Black Cadillac"とは、『ウィスコンシン州のミルウォーキーで事件が起こり、犯人はLIC/HVCZ95というナンバープレートを付けた2014年の黒のキャデラックに乗っている』ということを意味していたのである。
そしてこの大規模自然災害と同レベルで扱われる緊急の注意喚起は、児童誘拐事件そのものが最終的には高確率で殺害に終わるということを踏まえて構築され、短時間で多くの情報を周辺住民から集めることが狙いだった。ちなみにアンバー・アラートの名前の由来である"アンバ―"とは、1996年にテキサス州で起きた少女誘拐事件の被害者であるアンバー・ハガーマン(当時六歳)から取ったもので、他にもジョージア州では"リーバイス・コール"、アーカンソー州では"モーガン・ニック・アンバー・アラート"と、それぞれの州で起きた凄惨な事件の被害者の名前から付けられていた。
ところで、このアンバー・アラートの数か月ほど前のことである。私は語学学校の責任者であるジェニファーから「あなたの国では子供を一人きりにする文化があるの?」と尋ねられたことがあった。それは、日本人の友人の一人が語学学校に興味を持ち、私がその仲介をしたのがきっかけだった。私と同じように旦那さんの仕事の関係でマディソンに駐在している彼女には5歳になる娘がおり、授業の時間帯にその娘を預けられる場所が無かった。だから、今期だけ語学学校のどこかの部屋で一人で遊ばせられないか?との彼女からの相談を取り次いだ際、ジェニファーから「13歳以下の子供を一人にするのはアメリカでは違法なのだ」と言われ、「日本では子供を一人にするのが普通なのか?」と逆に質問を受けたのだった。
だけど、厳密に言うと、子供を一人にしておくこと自体はウィスコンシン州でも"違法"というわけではなかった。週に一度行くコミュニティセンターの児童館のデボラ先生は、自分はシングルマザーなので周りの人に頼みつつ、7歳の子供を家に残して出かけたこともあったと話していたし、法律関係の仕事についているアメリカ人のママ友も、「子供を何歳まで一人にしてはいけないという決まった法律はない」と教えてくれたことがあった。だから、もし誰かが通報すれば警察が動くことは間違いないが、子供を一人にしておくことそれ自体はそれぞれの状況によるものであり、ジェニファーも後になってそれが"違法ではなかった"ことを認めていた。
ただ、違法ではなかったとしても、『5歳の子供を一人にするか?』という問題に対して、アメリカ人は誰もがシリアスだった。
法律関係のママ友も「法律での決まりはないけど、私は絶対に一人にしないわよ」と言い添えたし、日本で育ったカンバセーションパートナーのニコールだって「日本育ちだから私も割と子供から目を離してしまうけど、5歳だったらまだ一人きりにはしないかな」と控えめに異見を唱え、アメリカが日本に比べると安全な国ではないからなのだと言った。「アメリカには日本のように"地域で子育てをする"という概念がないから」と。
そしてそう言われると、三年前にも、語学学校の授業で日本の"初めてのお使い"について、担当のキャシー先生に「日本はなんて安全な国なの!」と驚かれたことがあった。他の生徒だって「それは日本だから出来ることよね」と盛り上がって日本を褒めたたえていた。日本は安全な国だから、ある程度の子供を四六時中見ている必要はないのだろう。日本は何て素晴らしいのだろう...。
だけど、本当にそうなのだろうか?
私はふと、日本とアメリカにおいて"子供を守る"という意識の圧倒的な違いについて考えていた。なぜならマディソンに暮らしていると、誰もが私の子供に"無関心ではなかった"からである。
スーパーで子供から2メートルほど離れて歩いていても、通りかかった誰かが「親はどこだ?」とばかりに私を探すことは日常茶飯事だったし、子供から少しの間離れていたアジア系の親が警察に逮捕されたという記事を読んだこともあった。息子がアパートの廊下を一人で歩いていると、近所に住むローラという婦人に「危険だ」と注意されたこともあった。それから、とりわけアメリカにおけるチャイルド・シートの着用は厳しく、違反すれば高額の反則金が課せられていた。だから出産時には病院で事前にチャイルド・シートのチェックも行われ、規定内のものでなければ、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて帰ることは出来なかった。他の交通ルールにおいても、アメリカのスクールバスは生徒たちの乗降時、後続車の追い抜きは厳禁とされており、対向車もまたスクールバスが動き出すまで停止を義務付けられていたのである(違反すればスクールバスの運転手から警察へ通報されることもある)。
もちろん、日本でも子供の安全のための試行錯誤はあるだろう。だけど私は今、アンバー・アラートの音が耳に残る暗闇の中で、もしかすると自分は子供の安全性に対して意識が低かったのではないか?と反省せずにはいられなかった。確かに、日本はアメリカに比べると安全と言えるのかもしれない。だけど日本とアメリカの子供を取り巻く環境の違いは、それだけに起因するものではなかった。子供を守るために社会が課すルールの違いが、そのまま人々の意識の違いにつながることもあったからである。
子供の寝息が聞こえる中静かに携帯電話を握りしめながら、私はこの日改めて"子供を守る"とはどういうことか?と、考えていたのだった。
3月10日。
一緒にフードパントリーで働くアメリカ人のアレックスは、コミュニティセンターでインターンとして働いている23歳の学生だった。もともと私のトレーナーとしてパントリーに入っただけの彼は、二、三度私の様子を見た後には本来の通常業務に戻る予定だった。パントリーの仕事はとても単純だったので、スタッフはボランティアとしてずっと働いている老婦人のバーブと私の二人がいれば十分だったのである。だからある日アレックスは「もう僕は手伝わないからね」と言うと、寂しそうにパントリーの業務を離れ、私はいよいよ「さあ、独り立ちだ」とばかりに気持ちを引き締めてパントリーに出向いたが、だけどその次の週から、なぜかパートナーのバーブはボランティアにぱったりと姿を見せなくなった。すると新人の私一人では回せないだろうということで、アレックスはまたパントリーの業務に立つようになったのだった。
毎週木曜日、アレックスは「バーブが来れば僕はあっちに行くから」と言って私を手伝っていたが、バーブが来なくなってからついにふた月が経過しようとしていた。"バーブはもしかすると私のことが気に入らなかったのかもしれない"という考えがうっすら意識に上ることもあったが、結局、彼女に何が起こったのか誰も知り得ることはなかった。バーブはただ来なかったし、代わりにアレックスがパントリーに入るようになっただけだった。いつも私達は「今日はバーブ来るかな?」と言って彼女の登場を待ったが、いつしかアレックスは業務の前に「バーブは死んだ」とぽつりブラックジョークを飛ばすようになった。
だけどアレックスはミシガン州の大学からインターンで来ているだけの学生だったので、3月いっぱいでインターンの終わりと共にコミュニティセンターを去る運命だった。とすると、その後は私一人でパントリーに立つのだろうか?バーブ不在のパントリーに改めて不安を感じた私は、ある日、「今日は一人でやってみる」とアレックスに提案したことがあった。アレックスも、「じゃあ、今日はセイコがメインでやって」と言い、なるべくパントリー利用者と会話する機会を与えるように立ち回ると、ヒスパニック系の人向けといってスペイン語の単語をいくつか私に教えてくれた。そうでなくても、アレックスは空き時間によく英語を教えてくれたものだったが、この日は特に熱を込めてスペイン語を教えてくれたあと、今度は英語の「バーガー(Burger)」と「鼻くそ(Booger)」の発音の違いも教えてくれる献身ぶりだった。
そんな風にしてアレックスから英語やらスペイン語やら教わりつつ雑談をしていた時だった。突然、コミュニティセンターの責任者の男性がパントリーに入ってくると、アレックスに向かってこう言った。
「アレックス!来週からパントリーの時間が変わるとアナウンスしておいてくれよ!」
ん?時間が変わる?
アレックスは男性に対して何やらぼそぼそと答えていたが、寝耳に水の私はつい、口を挟んだ。すると男性は初めて私の方を向き、木曜日のパントリーはもうすこし遅い時間帯で短時間の営業になるのだと説明したが、そう言って教えられた時間帯には、私は大学のイタリア映画の授業に出なくてはならなかった。
「その時間だと来られないです」
私がそう言うと、男性は「そうか...」と頷いた。そして彼はアレックスの方へ向き直り、他にボランティアを探すよう指示を出すと、あっさりとパントリーを去っていったのだった。
取り残された私達は呆然とした。想像もしていなかった幕切れだったのである。
「つまり...今日がボランティア、最後ってこと?」
複雑そうな顔でこちらを見つめているアレックスを振り返りながら、私はおそるおそるそう尋ねた。アレックスは気まずそうに眼をそらしたが、だけどはっきりと「そうだね」と答えた。
「...怒ってる?」
戸惑っている私に向かって、彼は心配そうにそう尋ねた。
「いや...全然...」
もちろん怒りは無かった。むしろ、今日が最後になるとは知らずにスペイン語を勉強していたことに笑いが込み上げてきて、私は笑ったくらいだった。
「僕は怒ってる」
だけどそんな私とは対照的に、アレックスはそう言った。
「だって、全部勝手に、急に決まるから...」
彼は怒りながらも、少ししょげているように見えた。
確かに来週からバーブも私も居なくなり一人取り残されるのだから、あと一か月のインターンとはいえアレックスが不憫に思えなくもなかった。二人だとパントリーは楽な仕事だったが、一人となると自由な老人たちを相手に忙しい時間帯には大変なことも多そうである。だけどすでに時計は12時を回っていて、私がパントリーを去る時間まであと45分を切っていた。あと45分もすれば、顔見知りになったシニアの利用者の人たちと、そしてアレックスともお別れで、私はもとの"ただのパントリー利用者"に戻るのである。
ふと、私の中を走馬燈のように短いボランティアでの思い出が駆け巡るのを感じた。思えばこの仕事に従事したのは十回にも満たなかった。役に立ったかと聞かれると、アレックスの陰に隠れて荷物を袋に詰めるのを手伝ったり、冷蔵庫を閉めようとしてちょこちょこ部屋を横切っていただけのようにも思われた。だけど、パントリーに来る老人の何人かとは仲良くなったこともあり、彼らは時に「年なんて取るもんじゃないよ」と声をかけてくれたり、私の名前を覚えようとしてくれたこともあった。必要以上に物資を取るおばさんも居たし、謙虚なおじさんも居た。アレックスはよく私のことをわざとセイコではなく「サイコ」と言ってからかい、「セイコと言う名前ならSeikoではなくSaycoという綴りの方が近い」と言って、イングリッシュネームにスーザンはどうか?と提案してくれたこともあった。そして月並みだけど、誰かから「有り難う」と言われると嬉しかった。
そんな楽しかったパントリーでの日々を振り返りながら、私は黙々と最後の仕事をした。別れ時、アレックスは寂しそうに「君はとてもナイスでハッピーでビューティフル!」とおべんちゃらを言ったので私は少々恥ずかしかった。だけどこの日、そんな風にして私のとても短いフードパントリーでのボランティア業は人知れず幕を閉じたのだった。
さて、シンシアというコミュニティセンターで働くスタッフの女性から「火曜日の朝にパントリーの荷物搬入やってるから来れば?」との誘いを受けたのは、この突然のボランティア卒業から二日後のことだった。もともとパントリーのボランティアの登録の折にお世話になったので、私からシンシアにボランティアを終えたことを伝えると、彼女は「え?そうなの?また手伝いに来たら?」と声をかけてくれたのである。さらに「朝の搬入だし、どうせ誰も居ないから子供も連れてきていいわよ」との好条件である。
もちろんたいした仕事ではなかった。パントリーに月に一度か二度運ばれて来る食品の数々を棚に置いていくだけの仕事である。どちらかというと肉体労働のような仕事だった。すごくやりたいか?と聞かれると、すぐには返答出来なかったが、かといって特に断る理由も見当たらなかった。乗りかかった船である。
「やらせてください」
私は後日、シンシアにそう返答をし、こうして私の"子供連れ・早朝・荷物搬入"という良く分からない二度目のボランティア業が、ひっそりと幕を開けたのだった。
2月24日。
「あなたはLGBTについてどう思う?」
初めてボミに出会った時、ボミは私にそう尋ねた。マディソンに戻ってすぐの夏の出来事だった。
図書館で私と同じように息子を遊ばせていたボミは、ロザリオを首から下げたアジア人のママだった。私はその頃、韓国人にクリスチャンが多いという事実に興味を持っていたので、彼女の胸元に光るロザリオを指しながら「クリスチャン?韓国人?」と声をかけたのがきっかけだった。
もちろんボミは韓国人で、とりわけ敬虔なクリスチャンだった。その上、後から分かったことだが、彼女は大変な"社会派"で、アジアを中心とした世界の政治情勢や歴史をとめどなく、(やや左気味に)語る癖があった。だから、何気なく話しかけたロザリオから一転、いつしかボミとの話題はLGBTへとすり替わり、彼女はそれが"聖書に認められていない"にも関わらず『ここマディソンが寛容な姿勢を取っていること』、『学校教育の中で子供たちにLGBTを受け入れるように教えること』などの不満を漏らし始めたのだった。
ボミは私が相槌を打っても打たなくてもお構いなしで、ひたすら「LGBTを否定するわけではないが、国が子供に教育すべきではない」「LGBTは聖書に書かれていない」という際どい話を繰り返したのち、ついに「あなたはどう思ってるの?日本はどうなの?」と言って、私を凍りつかせた。そうでなくてもボミは滔々と「LGBTというのはもともとその人自身の内面にある罪によって背負わされたものなのだ」などと16世紀の宗教裁判か何かかと思うような発言をして、私をびっくり仰天させたばかりだった。だから話が一区切りついた彼女から「あなたの意見を率直に教えて」と真っすぐに問われると、私はもちろん自分の率直な意見を言う勇気など無く、ただ必死に"英語がうまく話せなくてもどかしい人の演技"をするしか思いつかなかったのだった。
そんな苦い夏の思い出から半年、しかしボミと私のつながりは不思議と切れることはなく、今年に入ってからは、私たちは頻繁にお互いの家を行き来する間柄になっていた。
というのも、私は一月から始まったウィスコンシン大学の春学期で、『イタリア映画』の授業に聴講に行くことに決め、授業の間、息子をどこかに預ける必要があったからである。託児所を利用するほどのお金のない私は、近所に住む韓国人のママ友のセオンと相談し、彼女の娘をうちで預かる代わりに、イタリア映画の授業の日にはセオンの家で私の息子を預かってもらうという相互扶助の取り組みを始めた。だけどこの試みはセオンの子供がまだ小さかったこともあり、最初の数回であっけなく破たんすると、その代わりと言ってセオンから紹介されたのが、近所に住むこの社会派のボミだったのである。
「ごめんね、セイコ。でもボミが子供を預け合うことに興味を持っている」とセオンに言われながら、しかし、私は一抹の不安を覚えないわけではなかった。"ボミ"と聞くとどうしても図書館で凍りついたあの夏の日を思い出してしまうからである。
だけど背に腹はかえられなかった。すでに聴講の許可を得た『イタリア映画』の授業は始まっていたし、何よりこの授業はすごく面白かった。ムッソリーニのファシスト政権下で花開いた"ファシスト映画"から戦後の黄金期"イタリアン・ネオレアリズモ"、そして後のピンク・ネオレアリズモ...、他に類を見ないイタリアの映画史について学ぶことは、いつしか私の一番の楽しみとなっていて、どうしても授業に出続けたかったのである。
そういうわけで、私は思いがけず今年に入ってからボミと週に何度もお互いの家を行き来するようになったのだが、意外なことに、ボミとのこの関係は思っていた以上にうまくいった。私の息子はすぐにボミに懐いたし、彼女の家にはたくさんのオモチャがあって、息子同士は喧嘩こそすれ、別れ際には名残惜しそうに手を振り合う仲になり、二人でいつも走り回っていたからである。
ただひとつ、ボミはやっぱり社会派で、時折見せるその一面だけが難点と言えば難点だった。例えばあるとき、息子を迎えに行くと、ボミから「"マンマ"って韓国語でご飯って意味なのよ」と言われた私が、マンマは日本語でもご飯という意味だと応えると、ボミは「ああ」と言って、「colonization(植民地)」と呟くのだった。つまり、それはきっと日本の植民地化時代の名残だろうと言うのである。かと思うと、彼女は突如「韓国人は"中国派"か"日本派"に二分されることがあるんだけど、私は"日本派"なの。前までは"中国派"だったんだけど、それはそう学校で教育されたからなのよ」と言って、私が帰り支度をしている隣りで、今の中国のあり方を批判することもあった。
またある時はこうだった。それはボミが韓国人にキムという苗字が多いのはキムという苗字がもともと身分の高い苗字だったからなのだと教えてくれた時のことだった。なんでも韓国併合以前、朝鮮には厳しい階級社会がはびこっていたのだそうだ。だけど日本による植民地化によりそれが崩壊すると、それまで苗字を持たない下級身分の人々が苗字を持つようになり、そうした彼らの多くが身分の高い苗字であるキムを名乗るようになったので、キム姓は多くなったのだと言う。
「だから、笑い話なんだけど、キム姓はもともとすごく身分が高いか、すごく低いかのどちらかなのよ」
そう言いながらボミは笑うと、ついでに彼女は「だけど、植民地化が悪いとは私は思っていないのよ」と言って、また私をドキリとさせるのだった。
ボミの意見では、日本による植民地化があったからこそ、階級社会は崩壊したのだから、結果的には日本がしたことは悪くないのだと言う。
「韓国併合以前の朝鮮が良い国だったかどうかって考えると、私は決してそのままで良かったとは思ってないのよ...」
ボミはそう言い、そして私はその後30分ほどいとまを告げる機会を逃し、ボミによるアジアを中心とした世界の政治談義について聞くことになるのだった。
2月4日。
マディソンで過ごす三度目の冬は、穏やかに、異例の暖冬から始まったように思われた。この冬、マディソンの町はクリスマスを過ぎてもほとんど気温が下がることがなく、記憶に残っていた極寒の、凍てつくような白銀の世界はなかなか姿を見せることはなかった。大晦日の夜に一度雪が降り始め、新年の始まりと共に町中を白く染めた日はあったものの、年が明けてからは再び気温は上向きになったので、今年は誰もが「暖かすぎる」と首を傾げたものだった。
点在する湖は人々がスケートを楽しむほどにはなかなか凍らず、語学学校では放課後のアクティビティとして予定されていた「湖でのスケート遊び」が先延ばしにされて、引率のトム先生を毎週のようにヤキモキさせていた。マイケル先生は人一倍地球温暖化を懸念する心配性だったので、私が遊びに行くといつも緊迫した表情で「こんなに暖かいのはあり得ない...」とため息をついては、いよいよ地球温暖化は深刻化しているのだと語っていた。そしてそんなマイケル先生にいつも「心配しすぎじゃないですか?」と言いつつも、私もまた、この冬の湖が凍らないマディソンというのがなんだか冬らしくなく、物足りなさを感じていたのだった。
だけど1月も終わりに近づいていた頃だった。ようやく、人々の期待を一身に背負ったかのように雪が降り始め、するとその日を境にあっという間にマディソンに本格的な冬が到来した。気温はぐんぐんと下がり、すぐに道路という道路に除雪車がせわしなく走り回るようになった。外にあるものは例外なく真っ白な雪に覆われ、家々の屋根やアパートの窓からは大小さまざまなつららがそこここにピカピカと肩を並べるようになった。もちろん湖という湖は完璧なまでに凍りついたし、町中が厳しい極寒の表情を見せるようになると、マディソンはついに、"例年の気温"を通り越して、マイナス三十度を下回るという私が今までの人生で経験したこともないような超極寒へと到達したのだった。
それは一月があと数日で終わろうとしている水曜日だった。南極や北極をしのぐ寒さにまで達すると、マディソン中の学校が前日から休校を発表し、公共機関も休むという異例の事態が起こった。道行くバスは何故か無料運賃での運行をしていたが、マディソン警察は「悪いことをするには寒すぎる」と言って「犯罪者たちよ、今日は家に居て、Netflixを見るなりマディソン地域犯罪防止サイトを読むなりしてください」という茶目っ気たっぷりのアナウンスをして話題になった。SNSでは「命の危険のある寒さ」に対して、責任感の強い面々が次々と役に立ちそうなリンクを引っ張ってきてはシェアしていたが、タイ人のパニカはなぜかトニと半袖で極寒の中に出る様子を撮影すると、「悪くないぜ!」と浮かれた投稿をしていた。
またこの寒さを利用して、屋外で瞬時にアイスクリーム作りをする強者も居た。材料を入れたものを外で軽くシェイクするだけで、あっという間に自家製アイスクリームが出来るのである。屋外でお湯を撒いて「お湯花火」を作る遊びもこの短期間で大流行し、マディソンのいたるところでお湯を撒いて嬉しそうに叫んでいる人々を見かけることがあった。私も試しに撒いてみたところ、コップから飛び出したお湯は一瞬にして氷の粒となって空気中に拡散され、キラキラと光りながら見る人の目を楽しませてくれた。
そうして数日間、突然の超極寒にまつわるイレギュラーなことがいっぺんにマディソン中に沸き起こってしまうと、再び、気温は上昇を見せはじめ、降り積もった雪を溶かし、また何事もなかったかのように穏やかな冬が舞い戻ってきたように思われた。苦労して道のわきに積み上げた雪もあっという間に低くなり、真っ白だった雪は車の排気ガスで汚く煤けると、あちこちで雨上がりのような水たまりを作りながら隠れていた地面を露わにした。学校は再開し、外に出ても寒さで頬が痛むということが無くなった。誰もが戦々恐々とした非常時が過ぎ去って、街は静かにいつもの日常が戻ってきたようだった。
だけど一方で、あの爆発的な寒さで水道管が破裂したというケースもいくつかあった。私が利用している近所のスーパーも水道管の破裂のために二日ほど閉店していたし、iPhoneが寒さでシャットダウンしてしまった人もいた。車が壊れたという話もよく聞いた。私の乗っている車もあの寒波の日からどうも調子がおかしくなってしまい、修理に行くと「悪い所がありすぎるから来週に来い」と言われる始末だった。大流行していた「雪花火」はBoiling water challengeと称してネット上でも話題になったが、そうしたチャレンジのせいでうまく蒸発しなかったお湯を浴びて火傷を負いそうになった人が続出したというニュースもあり、寒波が及ぼした影響は楽しいことばかりではなかった。
この寒波を誰よりも喜んだだろうと思われたマイケル先生だって、喜ぶどころか、『温暖化によって極端に寒かったり極端に暑かったりする異常現象が起こっている』という記事をSNS上でわざわざシェアしては、「あの寒さは温暖化によるものだから、皆この記事をよく読むように」とますます地球温暖化への危機感を募らせたようだった(結局、暖かくても寒くてもマイケル先生はいつも温暖化を心配するのである)。
私はというと、一度だけ、超極寒の折にアパートの裏にあるゲレンデのようになった公園を一人で歩いてみたことがあったが、結局降り積もった雪に足を取られ、数分で引き返すという情けない結果に終わった。すねの少し下まで積もった雪をかき分けて行くと、真っ白な雪に囲まれて、聞こえてくるのはザクザクという自分の足音と息遣いだけだった。足をうまく抜くことが出来ずに一度だけ転び、時々むき出しになった皮膚がひどく痛んだ。だけど不思議と「寒い」とは感じなかった。ただそれは、立っているだけで自分の生命力がそがれていくような、そんな厳しい世界だった。