学びたい

4月24日。
 
 ランブル教授がイタリア人の若手映画監督レンゾ・カルボネッラ氏に私を紹介したのは、ウィスコンシン大学で開催されたイタリア映画祭でのことだった。
 この週、2017年に公開された『Resina』という映画の監督であるレンゾ・カルボネッラ氏はこの映画祭のためにウィスコンシン大学を訪れていた。だから"イタリア映画"の講義を受け持つランブル教授はこの映画祭のことを何日も前からアナウンスしており、生徒たちに向かって「映画監督と話せるまたとないチャンス」だと言い、「映画祭に来るように」と授業中熱心に語った。「映画を観に来れば必然的に成績を加点する」とまで教授は言ったが、映画祭に嬉々として訪れた私が確認したところ、結局、イタリア映画のクラスメイト達は三分の一も来ていないようだった。

 だけど映画館にはマディソン在住の気鋭の映画マニアたちが集結しており、この美しいアートフィルムの上映とその後のトークイベントは思った以上の盛り上がりを見せた。白熱したイベントの空気に感化され、私も一度だけ監督に質問を投げかけるという大胆な行動に出たが、どうやら発音が悪かったらしく、きょとんとする監督の隣でランブル教授が素早くイタリア語で通訳をするという対応があった。
 そんなランブル教授が私のことをカルボネッラ氏に紹介したのは、このトークイベントがすべて終わった後の出来事だった。席を立つついでにたまたま一つ前の席に知り合いを見つけて話し込んでいた私の横を通りかかったランブル教授が、ふと、足を止めたのである。

「ハイ!」
 ランブル教授はにこやかに私に手をふると、「彼女は日本から来た私のクラスの生徒だ」と前を歩いていた監督に向かって紹介した。
「彼女はミケランジェロ・アントニオーニにとても興味を持っているんだよ」
 先のトークイベントで"影響を受けた映画監督"の一人としてミケランジェロ・アントニオーニの名前をあげていたカルボネッラ監督は、ランブル教授の発言に振り返り、まじまじと私を見た。私はもちろんこの予期せぬ出来事にひどく動揺し、とりあえず「監督の次回作を探しています」というお決まりの言い間違い(本当は「楽しみにしています」と言うつもりだった)を犯した後、監督に握手を求め、ランブル教授に向けて「先週の授業、休講でしたね」と言わなくてもいいようなことを言い放ったのだった。

 そんなとんちんかんな返答をしながらペコペコと頭を下げる謎のアジア人を面白そうに見ながら、ランブル教授は「また授業で」と言って、カルボネッラ氏とにこやかに映画館を去っていき、残された私は恥ずかしさと先ほどのやりとりをやり直したい気持ちでいっぱいだった。だけど同時に、この恥ずかしいながらも嬉しいハプニングは、二年前にソヴィエト映画学の授業の教授であったカプレイ教授が批評家のデイビッド・ボードウェルに私を紹介してくれたシーンの焼き直しであるかのような、どことなく懐かしい既視感を覚えてもいた。

 実際、ランブル教授の"イタリア映画"の授業は、カプレイ教授の"ソヴィエト映画"の授業と様々な点で類似点があった。ソヴィエトにスターリンのもとで花開いたプロパガンダ映画があれば、イタリアにはムッソリーニ政権下のファシスト映画があったし、前者には映画史における最大の発明"ソヴィエト・モンタージュ"が存在する一方、後者には他に類を見ない"イタリアン・ネオレアリズモ"があった。ソヴィエトもイタリアも、それぞれ秀逸な映画界の巨匠たちを数えきれないほど排出していたし、何よりカプレイ教授もランブル教授も、ウィスコンシン大学と何の関係もない私の突然の「聴講のお願い」を快く、無償で受け入れてくれたのだった。

 ただ、前回のカプレイ教授の時と決定的に違っていたのは、私がこのイタリア映画の授業に出るために、子供の預け先を探さなければならないことと、子育ての合間に映画の予習をする時間を捻出することのとてつもない大変さだった。忙しい白井君はほとんど家に居なかったので、授業の時間には誰か他の人を頼るしかなかった。授業開始とともに、セオンという韓国人の友人から「子供を預かることが出来ない」と断られたのでボミを紹介してもらったが、週に二回ある授業のうち、残りの一日の預け先を探すこともなかなか困難なことだった。
 先のセメスターでは快く週二日預かってくれていた近所に住むパニカは、今学期に限って「預かるけどお金を払って欲しい」と言い出したことがあり、私は「お金を払える余裕がない」と言って、代わりにいつでも彼女の娘を預かるから、と必死に懇願したことがあった。結局パニカはしぶしぶ承諾してくれたが、ある意味でこんな風に友人に頭を下げなければならないというのは、心折れる屈辱的な行為でもあった。だけど他に手立てはなかったし、何よりもこのイタリア映画の授業は学べば学ぶほどに深く、遠く、奥行きを増し、私はすっかりその楽しい忙しさに夢中だったのである。
 あるときも、どうしてもランブル教授に尋ねたいことがあり、パニカに15分ほど早く子供を預けて教授のオフィスアワーを訪ねたことがあった。パニカはそんな私の企てにいち早く気付き、「来るのがちょっと早いんじゃないの?」と目を吊り上げたが、それでも息を切らせて私が教授のオフィスに飛び込んだ時には、既にオフィスアワーの時間帯を大幅に過ぎてしまっていた。だけど、申し訳なさそうに入り口で立っている私に、ランブル教授は笑顔で「待っていたよ」と言うと、それから丁寧に、用意していた質問の全てに答えてくれたのだった。

 ところで、この映画祭での恥ずかしいやりとりの後、バスを待ちながら私はふと、「なぜランブル教授が今日私にだけ声をかけてくれたのか?」という問いについて考えを巡らせていた。二年前にも、カプレイ教授の恩恵にあずかったとき、そのことを不思議に感じていたのだが、今ならその答えが分かるような気がしていたのである。

 もちろん、何の脈略もなく突然聴講したいと言ってやってきた厚かましいアジア人が、珍しかったというのが正解なのだろう。だけどそれ以上に思うことは、ただ一つだけ、私には誰よりも「映画を学びたい」という強い情熱があったということだった。情熱と言うと聞こえはいいが、それは言いかえれば、お金も時間もないのに自分の喜びを最優先させるエゴとも呼べるものだった。
 イタリア映画のためなら、パニカにいくら怒られようがなじられようが頑張ることが出来たし、バス代を節約するため、授業に出るときに使うバスカードは隣に住む中国人学生のユーティンに借りることがあった。恥も外聞もなく、その上学生でもないのに授業中も授業後も積極的に質問し発言することも最近では少なくなかった。それほど講義は面白かったし、目の前には多くの学ぶべきものがあった。掴んでおきたいチャンスがあった。そしてそれは二年前の恵まれた環境でははっきりと姿を現すことのなかった私の中にある貪欲な本性でもあり、韓国人のセオンに頼み、ボミの機嫌を取り、パニカに頭を下げたときに見つけた、愚直で、身勝手で、それでいて何物にも代えがたい渇望だったのである。