ハンガリーに来てよかったと思うことは、あまりない。ハンガリー人はハンガリー人で、オマエになんか来て欲しくなかったと、ありったけ僕に知らせてくれるのだから、お互い様なのだろう。
適当に講義に出て、適当に試験を受けて、適当にクラスメートと話して、それだけ。講義の内容も試験が済めば忘れてしまうし、自分をいじめてきた奴の顔など、誰が記憶しておきたいだろう。ハンガリー人の顔もしばらくすれば記憶の霧の彼方。
大学入学の合格通知は「ぜひきてね」という意味ではなく、「合格ってことにしてあげるから、恥は書かずに済んだだろ。だから、これ以上ブダペスト大学に近づいてくんな」という意味だったようだ。そうならそうと、言ってくれればよかったのに。
ビザの問題があるので、とりあえず残りの試験だけは受ける必要があるが、それが済んだらブダペスト大学を去ろうと思う。これ以上、嫌悪をぶつける連中と関わりたくはない。
とりあえず外国語の本をたくさん読もう。過ぎたことと失った時間のことは忘れよう。何か残るものがあるとしたら、それが一番だろうから。他に移民に寛容な国はあるはずだ。
教員が明らかに誤っていることを言っているときや、不当な理由で考えを否定してきたとき、僕が適切な反論をすると、しばしば教員は「ハァアア??」と返事をして反応する。まるで僕の頭がおかしいかのように。まるで僕の常識を疑うかのように。なかなかのトラウマものである。
戯曲の場面設定について、情報を捕捉したとき。音韻論の基本的な定義を説明したとき。テクストの背景にあるギリシャ神話を挙げたとき。彼らの「ハァアア??」(あるいは「フゥウウン??」)は発動する。示唆するところのメッセージは一様である。
「オレがオマエを査定するんだよ」
別にこのような威圧的態度はヨーロッパ特有のものではない。日本にも似たような人はいる。ただ、「ハァアア??」みたいな言い方は滅多にしないけど。
別に僕は体制批判をしたいわけでもなければトラブルを起こしたいわけでもない。間違っているから間違っていると指摘しただけである。「オイ、こいつのいうことに賛成するやつは他にいるか?いないだろ?ほら、オマエが間違ってんだよ」と他の受講生に呼びかけ、あからさまにイジメる教員もいる。っていうか、彼らがやってることはほぼ「差別」の定義そのものって感じなんだけど。
まず公平に行って、博士号を持っている教員とついこの間英文学を専攻することに決めた僕とでは、間違いを犯す確率は僕の方が圧倒的に高い。にも関わらず、僕は教員の間違いをものすごく心配しながら講義を受けることになっている。でも、僕が一番心配しないといけないのは僕自身の間違いのはずである。これはどうしたことだろう。「ここは学べる環境なのだろうか」と心配せざるを得ないのはこういう所以である。
こちらとしては、一応「差別してくる人はいない」「教員は学生の属性に関わらず教育する」という前提で留学に来ているのである。このような無礼がある以上、そうもいかないらしいので、いそいそと、帰国の準備をしている。
本当はいい人なのかもしれないですけどね。でもあんまり社会性が見受けられないので...。
来る日も来る日も勉強している。ブダペスト大学で勉強するということがどういう感じなのかといえば、実感としてはまさに「地下にある複雑な洞窟を探検している」という感じだ。
洞窟は地下にあるので、日光はまったく当たらない。どこまでも暗く、地下水脈が流れていて、先人の遺した遺跡があり、ときどきコウモリがいたり...という洞窟の迷路の謎を、ドラキュラになったような気分で解く。何も準備せずに入れば、真っ暗で何が何だかわからない。だから、暗闇を照らすための電灯を充電するために「勉強」をする。そんな感じである。充電としての勉強。放電して暗闇を照らす機会が講義とゼミなど。
求められる英文の読書量は、およそ一ヶ月で最低1000ページ程度である。1000ページといえば、長編小説一本分、あるいはエッセイ本が三、四冊程度くらいだろうか。たいした読書量ではない。でも、それは日本語であればたいしたことがないというだけであって、外国語で1000ページを読むのはそれなりに大変。それに、より十分に理解するためには、正直この倍は読んでおきたい。
がんばる日々である。でもあまりがんばりたくない。わかることが増えると、だんだん権威ある人との衝突が生じる。それも生き馬の目を抜くような凄まじい衝突が。権威を威張るために使うのはやめて欲しいものだ。
ハンガリーで30歳以下の結婚したカップルに大学の授業料が免除されると言う法律が提案された。「はあ?え?はああ?」というのが最初の感想である、当然ながら。誰がそんな超絶キモ法案を支持するんだ。え?キモキモキモキモキモキモ×100
その免除された授業料の出資どっから来んの?大学教育をなんだと思ってるわけ?その条件で結婚したカップルが仮にいたとして、その条件で行くと大学に行く人と行かない人の間の格差はますます広がるし、同性婚・選択的夫婦別姓・LGBTQ+に対する差別はますます強化され、「階層上位」に上り詰めるための醜い競争が激化することになるよ?ていうか30以上で結婚するな、急げと言ってるわけか?ありえんわ。
さてもっとありえんのは、このような提案に対する人々の反応である。「別にいいんじゃない?」という薄ぼんやりした反応が(男性ばかりだが)結構いるのだ。おいふざけんじゃねえよ。頭働いてるか?おい、目ェ覚せ。いいわけないだろ。
いいか、このシステムから恩恵を受ける人のことはどうでもいいんだ。このシステムから除外される人のことを考えろ。力をふり絞って考えろ。つまり30以上や、大学に行けない人や、性的少数者の人たちだ。そう言う人たちを、「仲間はずれにしよう」と言ってるんだぞ?「家族から、経済支援から、ネットワークから排除しよう」と言ってるんだぞ。そんでもって排除する側の人間が、排除する人間同士で、「俺たち結婚しよう」とプロポーズしてるわけだぞ。いわば。わかるかこのキモさが。無理に決まってんだろ!!
差別反対!!!僕はシェイクスピアと結婚したいと思います。
かなりの割合のハンガリーの大学生が全然勉強をしなくなってきている。なぜ勉強しないのか。勉強よりも楽しいことがあるから?勉強のほかにやりたいことがあるから?そうであればどれだけいいであろう。しかし実際はそうではなくて、内容がわからないから勉強しないのである。
ありえないくらい極端な右翼が跳梁跋扈するこのハンガリーで、僕は自分の身を守ることで精一杯の毎日を送っている。イスラエルと手を組み、アジアを差別し、それでもなお一切の反省も改善もせずなお差別と攻撃を繰り返し弱者をいじめぬいて排除し、搾取するこの社会に僕は加担したくないと思う。ここは学べる環境なのか?
この街にいる限り、歓楽の大学生生活は僕にとって無縁のものだ。なぜなら、僕にはそれがニセモノだとわかってしまうから。そして、僕は彼らの差別に加担したくないから。ここは歓楽街ではない。
原子爆弾の投下をなぜ許してはいけないのか?それは、人間の命を奪う兵器として、あまりに巨大な破壊力をぶつけるそのむごさを許してはいけないからだ。蚊をたたくために戦車で爆撃するやつがどこにいる?人間に対して原爆を落とすと言うのはそう言うことだ。
現代の人はいまだにそのことを学んでいないように見える。だからユダヤ人や移民にあんなにひどいことができるのだ。弱者に対して、不釣り合いに巨大すぎる兵器で攻撃して大騒ぎして、何が楽しいのか。
考えてみれば、「弱者に対して不釣り合いなほど巨大で残酷な兵器を使って攻撃をする」と言うことが「おじさん」の有意な特徴の一つだと思う。中学で初めて遭遇した「おじさん」の攻撃はまさにそう言うものだった。ハンガリーで時々見かける「おじさん」もそのタイプだ。
勉強の、学びの邪魔すんな。
必修の言語学を勉強する気がさっぱり起こらず、ゴロゴロしながら、内田せんせいの『寝ながら学べる構造主義』を読む。土曜の夜に読み始めて日曜の昼に読み終わる。本当に寝ながら学んでしまった。なるほど、今僕に与えられている言語分析の手法は構造主義の手法なのだなあ。『寝な構』は中学生の時に読んだし、なんなら高校の教科書に載ってたし、言語学における構造主義的手法は「割と聞いたことある知ってる話」のはずだと思っていたけれど、今とっている講義とうまく結び付かなかったので、やっぱりあまりわかってなかったみたい。でも、再読して繋がりが見えてきた。深く読むことは大事。学生の助けになる副読本をありがとうございます先生。
そうはいっても繋がりがわかったからといって言語学を勉強する気がバリバリ起こってきたかというと必ずしもそうとは言えない。なぜかというと、有名な例としてたとえば日本語では/r/と/l/の区別をしないわけだが、ハンガリーの教育プログラム的には当然のことながら/r/と/l/の音素を区別することに母語で慣れ親しんでいると言う前提で、無意識のうちにそう言う学生を想定した講義がぐんぐん進んでいくため、なんだかぽつねんとした気分になるからだ。日本語にそんなんないもん。大学に行ってまでして(しかも国境を超えてまでして)そんな機械的な作業をするのかー?と思ってしまうと言うのもある。「日本語では/r/と/l/の区別はしないんだよね」と言う限定的な補助コメントがつくことはあるけれど、より根本的な論題として、日本語にはない言語学的な差異化、日本語にもあるけど微妙に定義が違う差異化、注目するところ・重要だと思うところが違う差異化などがどんどん出てきて「ここ試験に出るから覚えてね」と言う感じで授業はどんどん進む。分析手法を身につけることはきっと将来的に有用なのだろうと言う予感はあるものの、深いところまで手が届かないもどかしさのようなものを感じ、やはりやる気が起きず勉強机を離れてゴロゴロしてしまう。モチベーションが。モチベーションが起こりにくいのだ。
こうやって日本とは慣習の違う異国のプラグラムに沿って勉強することは海外留学の醍醐味である。アウェーな気分も全然悪くない。問題は、どうやって浅い理解にとどまらず、深く、多面的な知性を維持するのかという点にある。難しいよー。そんな議論に乗ってくれる学友求ム。
「ヨーロッパにおけるアジアのイメージ」が明らかにおかしい。その違和感が、ある閾値を超え始めている。おそらく日本人は全員感じていることであり、未だに改善されていないことが信じられないような思いで、感覚が麻痺しかけてしまうが、未だに中華人民共和国のことを「Chine(シナ)」と呼んでいることはかなり失礼だし、そのうえ"China"に性的な意味を含ませていると知ったときはただただ気持ち悪いと思うし、「Japan」だって正直言って意味不明の呼称だ。西洋人は寿司屋やラーメンを食べたがるのに、しばしば箸を嫌うのもよくわからない。俺らパスタ食べるときは箸じゃなくてフォーク使っているけど、あまりにも律儀なのかなあ。西洋の読み物をひらけば意味不明の瞑想や理想郷の場所としてアジアが描かれているが、ただひたすら異常にしか見えない。そこには本来ヨーロッパの文化にはあるはずの、普遍的な論理が意図的に捨てられているので、そこが異常に見える。
ヨーロッパにおけるアジアに対する「明らかに異常な妄想」について、はじめは笑い事で済むことだから放っておけばいいかなと思っていたが、次第に笑い事ではなく、これはそのまま差別に直結するシリアスな歪んだ認知でもあると思われるようになった。ヨーロッパは今までアジアを先入観抜きで認知することができなかったようだ。
ヨーロッパの人は「藁人形論法(議論をする中で相手の主張を歪めて引用し、本来の趣旨とは異なる主張に捻じ曲げて反論する論法)」をアジアの認知に適用して、意図的に認知を歪めてきたように見える。今まで、ヨーロッパにとって、長らく、アジアは潰しやすくて体のいい「藁人形」だったのだ。
ところが、いくらヨーロッパがアジアを「藁人形」だと思い込もうとしたところで、事実としてアジアは藁人形ではないので、必然的に無理が生じる。英語がいくら中国をシナと呼んだところで、中国はシナではないし、日本は黄金の国ジ・パングでもなんでもない。アジアの人々はそんな妄想とまったく違うところで生きている。当のヨーロッパの文化そのものが妄想の誤謬を指摘する。妄想と先入観を取り除けば、ヨーロッパの認知はただのナンセンスなステレオタイプにすぎない。さらにそれに加えて、先入観抜きでアジアについて知りたいと思うヨーロッパの人も少なくないだろうに、そういった人々の興味すら今までステレオタイプで押し潰してきたのではないか。
「藁人形論法」を当の日本人さえもが使い始め、迎合し始めたとき、それは「核爆弾」の暴力性を帯びる。その使用をヨーロッパがやめない限り、お互いの関係は浅くて味気ない無意味なものに終結するだろう。
ハンガリーにこれ以上住みたいだろうか。そう思い始めたのは、いっこうになくならないばかりか、日に日に激しくなる学校・スーパー・道路・住宅の差別攻撃にほとほと嫌気がさしてきたからだ。滞在許可証のためのアポイントは取れないし。
例えば、大学の教授は僕の名前を絶対に正しくスペリングしない。「飯田」はローマ字で「Iida」と書いているのだが、最初の「I」を「L」にして「Lida」と書いたりして、必ずミススペルする。「I」を二つ並べて「IIda」とか。「Ryusei」は「Ryusey」にミススペルする。最初は目が悪いのかと注意力がないのかと思っていたが、全ての教授が必ずミススペルするのを見て流石に変だぞと考えた結果、こうやってマイノリティの名前をマジョリティの名前に書き換えることをindexical bleachingということを知った。つまりは創氏改名。なんだこいつら、クズじゃねえか。これを教授が(つまり大人が)やるというところにどうしようもなさがある。こういう大人を見て次世代の子供が育つのである。差別主義者の再生産。
indexical bleachingのうんざりするところは、大の大人がこういうしょうもないことでしか憂さを晴らせないというくだらなさ。大人のくせに他人の名前すら尊重できないというみみっちさ。歴史から学ばない無知。ま、あんたらに僕の名前なんか呼んで欲しくないので、スルーしておく。でも、スペリングくらいちゃんとしろ。
こういうことをすると、ハンガリー人の尊厳とか評判とかがガンガン下がると思わないんだろうか。ガンガン下がってますよ。誰も差別主義者と友達になんかなりたくないからね。お互いにリスペクトして話そうとしている時に一方的な差別攻撃をしてくる人に出会うのは、雨宿りに木陰に入ったら木の洞から大量のムカデが這い出てくるようなグロテスクさがある。あーグロい。しっしっ。
他人を尊重できないハンガリー人の背景には、今まで尊重されてこなかったハンガリー人という自意識があるのだろう。しかし自らが尊重されたいのであれば、その自らこそ他人を尊重しないと。自分は他人を尊重することもできないのに、他人から尊重なんてされませんよ。今は馬糞並みの尊厳しか持っていないでしょうが、これから少しずつでも確実な尊厳を確立していかないですか、ねえ。
何度も顔を合わせるから良い関係とは限るものではなく、一度しか会わなかったけれど良い関係というものもあると思う。
大抵は、実際には出会いが繰り返されるものではあるのだが、一度会った人と再び会う保証がどこかにあるわけではない。日本の対人関係においては、相手が自分にとって大切な人であれば大切な人であるほど、その出会いの機会は一度きりのものだと思って接するように精神が動く。逆に言えば、「この出会いは一度きり。これが最後」だと思っているからこそ、相手を大切にできる。
この出会いは一回きりだと心がけて人間関係を築くことはとても日本的な接し方だと思うけれど、そう思って人と接する気持ちは、言語によらない...と思いたい。何度も会えると妄信していると、一度しか会えないと思っていたら決してしないようなひどいことを人はしてしまう。
味方を増やしたいものだが、あまりにもひどいことをしてくる人にひどいことをされるとこちらも身構える。ちなみにこのブログはハンガリーでも読まれていて、授業中に僕の書いた内容に近い内容が今までに5回くらい登場したのは偶然ではないだろう。読み物として読んでくれるのは、嬉しいと思う。しかし、僕の「日本語」や「考え方」を「分析」して「いじる」ためにこの文章を読んでる人は読まなくて良いですよちなみに。そう言う人のために書いてないので。
とにかく、ハンガリーの学生は日本の常識で言うと、「それやったら一発で絶交」なことをすごくやってくるため、警戒度が上がる。授業中に僕が何か発言しようものなら、「お前の言うことはわからない」と言って黙らせ、他のヨーロッパ人の発言だけ取り上げて授業を進める教授なんていうのも珍しくなく、普通にいる(この教授はハーケンクロイツを黒板に書いて文字の起源について説明していた。冗談のつもりなのだろうが、全く笑えない)。要するに、差別しても咎められないとわかるや否やどんな差別でもする連中が割といる。
他の場面では穏やかな人なのかもしれないが、たまに「威圧モード」にバチっとスイッチが入る人がいる。「威圧モード」になった人が相手のときは、説得も会話も不可能である。日本語で言うところの「キレる」と言う状態に近い。ハンガリーの人はわりとすぐキレる。キレてる人との建設的な会話が不可能なことは、よく知られている通りである。しかもそのキレ方が、「俺を舐めとんのか」(え?あ、はい、あなたのことは舐めてます)、「俺を崇めろ!」(嫌なこった)、「俺は偉いんだ!」(あーはいはい。)と言う種類のキレ方。いかにも「日本のおじさん」とそっくりなので、彼らによって幻想的な美しい中・東欧のイメージは無惨にも台無しに壊れてしまうので、やめてほしい。
「怒ること自体は良いけど、俺を立てないのが気に食わないとかそんな理由で、そんな浅い感情で怒るって、どういうこと?」と思うのが本音なのだが、そんなことを言おうものなら、火に油を注ぐだけだろう。
ハンガリーに戻りブダペストに再び滞在することになった。日本を離れると味噌や豆腐や梅干しなどが食べられなくなるのは名残惜しいが、それは我慢。すでに残暑とはいえ、ハンガリーでも八月・九月は暑い。エネルギー消費を抑えて温暖化対策をとった方がいいと思う。とにかく暑さはピクルスを食べて対策。ピクルスは美味しい。ピクルスを食べると暑さに強くなる。ピクルスは程よくジャンクな食べ物だというところもいい。トマト、オリーブ、きゅうりなど様々な野菜を漬けたピクルスを齧って、今年の夏を乗り切ろうと思う。
ブダペストにはリスト・フィレンツェ音楽大学という世界的に評価の高い音楽大学があり、近くを通りかかったので立ち寄ってみると、偶然にも予約の必要ないオープンのイベントが行われていた。様々な国籍の50人以上の歌手がそれぞれオペラのアリアを歌うというイベントで、せっかくなので一時間半ほど聴いてみた。聴いていると、すごい!と歌手のすごさがわかるような気もしたが、技術の巧拙は素人の僕にはそれほどよくわからない。一方で歌手の表情変化があまりにもシュールなのでツボにハマってしまったのだが、歌っている人は真面目に歌っているのだろうから必死で無礼をこらえた(どうしてあんなに面白い表情をしていたのだろう。それとも僕が旅疲れのせいで箸が転んでも面白い精神状態に陥ってしまっていたのだろうか)。アリアを聴いたら「よーし、ブダペストで学ぶぞー」という気持ちになった。今度はちゃんとした歌劇場の演奏を聴きに行ってみたい。
去年の留学では何が何だかわからない混乱のうちに留学生活を過ごしてしまったが、今回はハンガリーで暮らす人々の傾向や考えやが以前の自分よりよく見えるようになった気がする。どんな人も医学的に言えば同じ臓器を備え、同じ病気や怪我に対して弱みのある人間である。そう考えれば、表面上の違いを恐れることもないと思う。