2/6(火) お金の話

 いつ何時お茶を点てる機会に恵まれるかわからないので、茶道を稽古している者の嗜みとして野点セット(茶室だけではなく屋外でお茶を点てるための道具セット)を一応スーツケースに忍ばせてハンガリーまでやってきた。ところが中途半端なことに、肝心の「棗(なつめ)」という抹茶を入れておく容器を持ってくるのを忘れてしまった。しかし、せっかくハンガリーに来たのだから日本の道具だけでなくハンガリーで棗に代用できるもの(見立て)を探してそれを使うことによりミックス道具セットを作ってみよう、と思いついたのが去年の夏。慣れない環境にしばらく右往左往していて今まで道具を探す余裕があまりなかったのだが、ヨーロッパで新しいセメスターが始まるこの時期には地元のあらゆるお店が商品を新しく入荷させ、にわかに街がどよどよと活気づき始めていた。今こそ道具を探す良い機会ではないかと思い、一軒のアンティークショップに立ち入ったことがハンガリーの有名ブランド「ヘランド」の陶器との出会いである。

 ハンガリーでは刺繍が有名だということはSNSなどで目にしていたけれど、陶磁器について僕は全く無知だった。ところがハンガリーは陶磁器で世界的に有名なブランドが三つもある。「ヘレンド」「ジョルナイ」「ホルハザ」である(お店の人がこの三つが有名なのだと高らかに唱えてくれた)。ハンガリーには閉鎖的な文化があり、それは長らくウクライナ支援に反対の立場をとっていたことにも象徴されているだろう。ところがハンガリーにおける陶磁器は今まで僕が出会った中で最も「世界的にオープンかつ常識的」という部類のもののように思った。

 ハンガリーの他に中国、香港、アラビア諸国の道具が並べられていたアンティークショップで一際輝くオーラを放っていたのがハンガリーの陶磁器だった。批判を重ねるようだが、ハンガリーの造形物に対しては僕は基本的にいつも大きな翳りがあると感じずにはいられない。裕福そうな家や街の教会の建築さえどこかバランスの崩れや神経過敏な追い込まれ方を見て取ることができた。ところが陶磁器には病的な暗さがそれほどなかった。これはハンガリーにおいて例外的なことと考えられる。

 ところで、ヘレンドの陶器を買う時の、お店のオーナーの人の値段の決め方が面白かった。客の僕に「どれくらいだと思う?」と聞いて決めようとするのだ。骨董品の値段を決めることはおそらく難しいことなのだ。本を売るときと同じように、内容の価値に照らし合わせて物の値段を決めるわけにはいかない。人生を変えるような本だからといって「人生を変えるような本なので一生かけて支払わないような値段にしないといけないからとりあえず500万円」というような値段の付け方はしない。どれだけすごい内容の本であっても古本屋ならポテトチップスと変わらない価格帯で本は買える。骨董品も似たようなもので実用性に照らした値段にするわけにもいかないだろうし、僕はたいして詳しくないけど、おそらく芸術的価値みたいなものに照らして値段をつけるのだろうけれども、そもそも芸術的価値の客観的評価など簡単にできるわけがない。

 僕が購入した陶器に僕が値段をつけるなら「15万円はくだらない」とするのだけれど、これは相場を知らない僕が陶器に感動したときの気持ちの問題としてそれくらいの値段かと思ったというだけの話であって、そもそも食器の相場は世界で最も高価なカテゴリーであっても1万円〜2万円くらいのようなので15万円なんていう値段は絶対につかない。ちなみに25ユーロで購入した。

 アンティークショップも商売でやっているわけなので、一応できるだけ高い値段でたくさん買ってもらおうと思っているはずではある。ハンガリーの通貨フォリント、EUの通貨ユーロ、僕の馴染みある日本円の換算は単純計算が難しい。日用品を買うときはフォリントが日本円の半分よりちょっと安いくらい、ユーロが3/2倍してゼロを二つつけるくらい、というかなりアバウトな計算をしていたのだが、「10000フォリント」と言わずに「25ユーロ」と言われるとユーロの方がお手軽な気がしてくる。でも実際は同じくらいの値段である。しかも初めに「30ユーロはどう?」と提案があって「学生にはちょい高いっすかねえ」と応え、「25ユーロは?」「それなら良いかも」というやり取りの結果の25ユーロだったため安くまけてもらったくらいの気でいたが後で考えるとそう安い買い物でもなかった。でも初めから僕は「これはいくらでも出す価値ある(出せるかどうかは別だが)」と思っていたので全然構わないのである。

 ところでヘレンドというのは日本でも有名なブランドらしく、古くは1826年にハンガリー西部に位置するヘレンド村でユダヤ系経営者によって始まった陶器でありハンガリーの帝室・王室御用達でありロスチャイルド家もヴィクトリア女王もハプスブルク家もウィリアム王子もキャサリン王妃も愛用したばかりか、それだけでなく1870年ごろ倒産の危機に直面するや贋造によって経営を建て直した歴史を隠そうともせず公開しているという、どの話も嘘っぽいけど全部本当の、なんだかすごく面白いブランドなのである。

 もう一つの有名ブランド「ジョルナイ」はペーチというハンガリー南部の都市に本拠を置いているらしい。「ホルハザ」はよくわからない。どのブランドも手描きで装飾の絵を描いているらしい。また目にする機会があれば調べてみたい。

 いきなりありえないレベルの貴重な物に遭遇してすっかり驚いてしまった。

1/26(金) ウィーンへ

 19世紀にハンガリー帝国を解放へと導いた皇妃エリザベートは当時ヨーロッパで最も美しい女性と讃えられたにも関わらず、絶え間ない暴力と侵略がエリザベートに向けられたせいで決してその頭脳に美しいものを理解する余裕を与えなかった。ウィーンへ小旅行に出かけてエリザベートの生涯を展示した博物館を見てまわってそう思った。
 
 博物館には皇妃が使った小物類や家具なども展示されており、皇妃が使ったとされる東洋風の扇子を見ることができた。扇には綺麗な桜の花が描かれていた。どうして桜の花を選んで描いたのだろうか。

 開花時期を過ぎた桜の木の下を歩いたことのある者は誰でも桜の木が醜い毛虫に覆われることを知っている。王家の者に贈るのであればもっと特別な花を選んでも良かったのではないか。エリザベートは桜の花に満足しただろうか?いや、エリザベートは桜の花の醜さをどこか感じて見通していながらもその扇を愛し、その扇で構えをとったのである。

 日本で生まれ育った僕はこのことについてどう考えたらいいのだろう。

 ブダペストのホロコースト記念館というところに行ってきた。ハンガリーのユダヤの人々とロマの人々が受けた虐殺、ブダペストで実際にあった殺戮の記録を展示したところであり、ユダヤのシナゴーグを改修した所だ。ブダペストを訪れる機会があれば、必ず訪れて欲しい場所の一つだ。

 シナゴーグの広間に入った時、「ここで武道大会ができるな」と思った。空手道なら武道大会、合気道なら演武会ができるサイズ感と場の雰囲気である。

 日本の教会しか訪れたことがないと、まさかそこに繋がりがあるということには気がつかない。日本の教会はこじんまりしていて、大抵は一階建てであり、武道ができるほど広々とした空間ではない。

 ハンガリーのシナゴーグや教会は空間が広々としていて、観客席にできそうな2階がある。

 ヨーロッパの他の教会もきっと広々としているとは思うのだが、ハンガリーのシナゴーグ・教会には「神をも恐れぬ生意気さ」があってユニークだと思った。

 ドイツなどの教会は荘厳すぎて、「ここで飛び跳ねたりコロコロ転がったりするなんて畏れ多い」という気がする。ハンガリーの施設は武道でもオッケー!オッケー!という豊かな感じがある。

 ハンガリーの人々の魅力はあらゆる権威が味方ではないと思っているところだと思うのだけれど、今の政治家はクリスチアニティや聖書の重要性を強調している。これから先は一体どうなるのかなあと思う。

 ホロコースト記念館で合気道の演舞会なんかやったら入門者が殺到するだろうなー、ということを考えた。

 合気道のお稽古に行ってみよう、と思い立ち、インターネットで合気道のお稽古ができる所を探すと、小学校とギムナジウムを併設した施設でお稽古している団体があったので、ギムナジウムという所を見てみたいと思い、その団体を選んでお稽古に参加してみた。僕の稽古してきた合気道とはかなり違った。

 僕は考古学の学者なのです、と言うおじいさんと組んで、稽古の後に名刺をもらった。ブダペスト大学の人文学部学長は考古学の先生だったような、と思ってネットで名前を検索してみたら、学長ご本人だった。僕が京都出身だと知ると、私の袴は京都で作ったんだ〜、と、嬉しそうに話してくれた。

 ブダペストには日本好きの人が微妙に多く、やたら本格的な抹茶屋さんがあったりするので、「なんだこれ」と思っていたが、ハンガリーの偉い人の中に日本が趣味の人がおられたのですね。ありがたいですねー。

 胸の内では、僕はELTE(ブダペスト大学)の状況は問題だらけだなあと思っている。学長様の合気道も、残念ながら、闘争心があまりに強く湧き出ていて、その結果として極めて男性中心主義的なマチズモ、力づくの様子があった。他の門人はそういう合気道を「これが伝統的な合気道だ」と言うので意味がわからない。ハンガリーではAuthenticという言葉を軽視することによってユダヤ教を信じる人を弾圧してシナゴーグを閉鎖したという記事を読んだが、そういう暴力に繋がりかねない。つまり、ハンガリーの人々は同じ間違いを繰り返しているのだ。もし、現在のELTEの教育について「これはジャパンの合気道の教えでもあるのだ」というような話になってしまうと(ならないと思いますが)、それはものすごく困る。それは違います。もしそれが「勝敗強弱を気にする」ものであったり、「技がかかる・かからない」を気にするものであるなら、それは僕がお稽古してきた合気道とは違う。そういうことを、僕の責任にしないでください(本当にやめてー)。だってそんなことになっているとは知らなかったのです。そして僕が好きなハンガリー出身の人たちは、みんなハンガリーを離れている。ユダヤ系SF作家の人も、ELTEを離れてアメリカの大学で先生をしている。

 それにしても、何があったら合気道のファンになるのか。不思議だ。ハンガリーにおける考古学と、英米文学に相補的関係はあるのだろうか。別に全然関係ない気もする。さあわからない。

 年末年始は温かいスープを作り、ダラダラとお菓子を食べながら浦沢直樹の『モンスター』という漫画を読んで過ごした。ELTE(ブダペスト大学)の先輩にあたるSF作家の人が最近『モンスター』のレビューを書いていて、気になったので電子版を買ってみたのだ。ヨーロッパで日本人として生きていくテンマ医師に若干感情移入する。

 秋セメスターでは、何人かの教授から「英語をできるだけ練習するように」と注意を受けた。英語の本を読むのは日本語の本を読むより圧倒的に時間も体力もかかるし、グループワークでなめらかに話すことがたまにできたり全然できなかったりするので、指摘そのものはその通りかなーと思いながらも、僕はモヤモヤする。

 ユダヤ系アメリカ文学の先生に「僕の英語力、足りてないでしょうか」と聞いてみたら、"You need to practice."とのお答え。 普通に考えたら"You need to practice (English)"という意味だと思うけど、Englishまで言わずpracticeで止めてくれたことに僕は感謝する。それが子ども用の英語の絵本でも、児童文学でも、SF小説でもポッドキャストでも、みんなイングリッシュ。Practiceするのは単に「円滑に話すための英語」だけではなく、もっと広くて大きくて深い何かなのだ・・・と僕は(勝手に)解釈した。

『モンスター』のレビューを書いたユダヤ系SF作家の人は日系アメリカ人を親にもつ人の小説のレビューも書いていた。その小説を読んでいると、もちろんネイティブ英語なので、一見すると普通の現代的なアメリカ英語のようなのだが、意外に日本的で、不思議な感じがする。こういう英語を読むことは、日本語が第一言語の僕にとって新しい可能性なのかもしれない、というふうに思った。

 ヨーロッパの人が話すような英語を僕が目指す必要は、特にない。日本語が第一言語の人が話す英語は、英語やハンガリー語が第一言語の人が話す英語とは単語の選び方やリズムが違ったものになるかもしれないけれど、その違いは必ずしも修正すべき間違いとは限らず、むしろ日本語話者が英語をクリエイターとしての立場から扱うチャンスかもしれない。日本語を第一言語とする人が英語を「母語」として扱うことは、夢物語に過ぎないだろうか。実際には、日本語と英語の間には日本語を第一言語の人のために用意された「空席」があるかもしれない。

 所属しているコースの、必修科目のシラバスを見ていたら、最終授業の課題がイェイツの詩だった。

 イェイツについて、"The Conversation with Friesnds"というアイルランドの作家のデビュー作で、次のようなストーリーがあった。

 フランシスはダブリンで英文学を専攻している。フランシスがマッチングアプリで知り合った医学生と会い、店で食事をする。医学生は「英文学か。僕はイェイツが好きだな。英文学って何の努力も必要ないからいいよね。医者は大変だよ」ということを言う。そのまま二人はホテルに行く。フランシスはセックスを断りたかったが、ことを大きくしたくないと思い、抵抗しなかった。そして医学生はフランシスをレイプする。後でフランシスは友だちのニックにそのことを話す。ニックは「イェイツが好きなやつに人間の営みは一生できない」と言う。 

 僕はこのシーンをよく覚えている。そのイェイツが課題だ。指定の詩はギリシャ神話に絡めたレイプのもの。

 一体、この大学は、ハンガリーは、何がしたいのだろうか。学部一年生にこんなものを読ませて、何かいいことがあると思っているのだろうか。

 必修科目のこれを除けば、移民についてのセミナーや、アメリカのユダヤ系作家についてのセミナーなど、勉強になるし、楽しい講義があった。しかし、必修科目のこの授業は何だと言うのか。少なくとも知識の乏しい学部一年生に与える課題ではないと思う。

 どんなに気持ちの悪い課題を出されても、きっと何か意図があるのかと思ったが、もう学期末である。

12/5 (火) 全て崩れる

 テスト期間。留学生たちはレポートを平気で剽窃する。ティーチングアシスタントはナチス賛美で悪名高いイエィツを賛美する。教授は疲れ切っていて授業をしない。せっかくできた友達とは関係が破綻する。これでもか、というくらい悪いことが続く。
 それでも、わずかに残る「いいもの」を辿って勉強する。ブリティッシュにおける政治が他国からどれだけ羨望の目で見られていたかを知る。文学理論の語彙を増やし、文学がどういうゲームで解釈されているのかを知る。LiteratureとLiterarinessの違いについて。とんでもなく意味がなさそうなところに逆に真実の片鱗を感じる。
「それだけはやってはいけない」「それだけは言ってはいけない」ということを、学生も教授も街の人たちもどんどん連発する。ELTEは一体どうなってしまうんでしょう。
 できる限りは勉強する。ELTEはどんどんやばくなっているが、「ハンガリーの人が発明した弓」は面白い。だけど、さすがにしんどい。
 ハンガリーは終わっている、なんて、そんな簡単な結論を出すつもりはない。だけど僕は聖人でもないし。
 負けるな、街よ!負けるな僕。
*ELTEはエトヴェシュロラーンド大学、通称「ブダペスト大学」の略称です(飯田君に教えてもらいました)

12/3(日) 客を迎える

 ハンガリーはヨーロッパの中でもとんでもなく地味な国である。ハンガリーが地味なのか、地味なのがハンガリーなのかという域にまで達しているように思うほどその存在は他から知られていない。
僕のような外国からの留学生は基本的に学問を目的に来ているので、事前にある程度調べ物もしているし、がっかりするようなことがあってもそれはある程度想定の範囲内である。ところが、やって来る人が「お客さん」で僕がハンガリーに客を迎える側ということになると、その苦労は想像を絶するものになる。
 新しい社会のあり方から取り残された人がどんな闇を抱えているのか。闇があまりにも深いので、ハンガリーの人と世間話をしていたら、突然「子供と親とどっちが大事?(@太宰治)」なんていう質問をされて肝を潰すことがある。
 でも、簡単には答えられない質問について考えることや、何年も未解決のとんでもない難問に取り組むことは、本当のところ僕のキャパシティの範囲内にあることなので、悩みの深さなら僕だって負けてはいない。
 良い問題に巡り会えたらいいと思う。

 ハンガリーの留学生活で一日に3回ほど、繰り返し思うことがある。「ハンガリーも、もう終わりか・・・」という思いだ。
 ヨーロッパの人の張り付いたような不気味な笑顔、トランプからもらった帽子を嬉々として被るオルバン、マス・メディアの役割を根本的に否定し、「メディアに必要性などない」と言うハンガリー男子・・・。どうにもならないくらい重たい問題に頭がクラクラする。
 日本だって例外ではなく、「日本ももう終わりだ」と思うこともあったけれど。考えようによっては、世界中のどこにいても、「もう終わりだ」と思うものなのかも知れない。ロンドンに留学していても、「物価が高い。ありえない。イギリスももう終わりだ」とか?
 しかし、ハンガリーで生まれ育った人が「ハンガリーは終わってよい」と思っているわけではないと思う。ハンガリーの行く方向に対して「やばくね?」となっているハンガリーの人は同じ講義をとっている人の中にも少なくないと思う。日本からハンガリーに来て二ヶ月やそこらの僕が「もう終わりか・・・」なんて言えるのは、生まれ育ちがハンガリーの人たちの、彼ら彼女らの絶望に共鳴したからである。
 The familiar stale smell of his poor country's misery.
(az isme-ros, áporodott szag, szegény hazajanak nyomorúsága.)
 ハンガリーの良き伝統は、どこかで途切れてしまったのだろうか。どう言うわけか、僕が読んでいるハンガリーの作家の本は、ハンガリーの人もよくわかっていない本らしい。そんなとき、ハンガリーの人たちは困惑しているし、英語の留学生の人たちは、なんだか頼りない。

 日本には、「都市化された山」とでも言えそうなものがあって、山の中にさまざまなお寺や神社があり、そういった場所はかつては政治・文化の中心となり栄華を誇った。それによって数々の山水は洗練され、その美しさは街の中心からふと山の方を見るだけでその美と迫力を感じられるほどのオーラを放つようになった。
 もちろん、日本にも「ただの山」があり、それはただの田舎であり、得体の知れないものであり、人間の営みと無縁のものであり、大して美しくもないところである。そういう「幼稚な自然」はヨーロッパにもいくらでもあると思うけど、そうではなくて、「世界の中心としての自然」と言いたくなるような山水を、そういえばブダペストで一度も見かけていないな、ということに思い当たった。
 僕はヨーロッパの「幼稚な自然」に、文字通り魂を削られるような思いになる。不気味なほど子供っぽい草木。石造建築には莫大な資産を投じているのだろうが、自然の美しさに対して、どうせはした金しか使っていないことがよくわかる。自然を侮っている気がする。
 鉄橋、お城、カフェ、電灯などの装飾は本当に見事で、石造建築はそこらじゅうに文化遺産があるような感覚で、日本なんか比にならない。ところが、一方でヨーロッパの草花の気味悪さが気になるのは、日本で山水の贅沢を知ったからかもしれない。