ブダペストのホロコースト記念館というところに行ってきた。ハンガリーのユダヤの人々とロマの人々が受けた虐殺、ブダペストで実際にあった殺戮の記録を展示したところであり、ユダヤのシナゴーグを改修した所だ。ブダペストを訪れる機会があれば、必ず訪れて欲しい場所の一つだ。

 シナゴーグの広間に入った時、「ここで武道大会ができるな」と思った。空手道なら武道大会、合気道なら演武会ができるサイズ感と場の雰囲気である。

 日本の教会しか訪れたことがないと、まさかそこに繋がりがあるということには気がつかない。日本の教会はこじんまりしていて、大抵は一階建てであり、武道ができるほど広々とした空間ではない。

 ハンガリーのシナゴーグや教会は空間が広々としていて、観客席にできそうな2階がある。

 ヨーロッパの他の教会もきっと広々としているとは思うのだが、ハンガリーのシナゴーグ・教会には「神をも恐れぬ生意気さ」があってユニークだと思った。

 ドイツなどの教会は荘厳すぎて、「ここで飛び跳ねたりコロコロ転がったりするなんて畏れ多い」という気がする。ハンガリーの施設は武道でもオッケー!オッケー!という豊かな感じがある。

 ハンガリーの人々の魅力はあらゆる権威が味方ではないと思っているところだと思うのだけれど、今の政治家はクリスチアニティや聖書の重要性を強調している。これから先は一体どうなるのかなあと思う。

 ホロコースト記念館で合気道の演舞会なんかやったら入門者が殺到するだろうなー、ということを考えた。

 合気道のお稽古に行ってみよう、と思い立ち、インターネットで合気道のお稽古ができる所を探すと、小学校とギムナジウムを併設した施設でお稽古している団体があったので、ギムナジウムという所を見てみたいと思い、その団体を選んでお稽古に参加してみた。僕の稽古してきた合気道とはかなり違った。

 僕は考古学の学者なのです、と言うおじいさんと組んで、稽古の後に名刺をもらった。ブダペスト大学の人文学部学長は考古学の先生だったような、と思ってネットで名前を検索してみたら、学長ご本人だった。僕が京都出身だと知ると、私の袴は京都で作ったんだ〜、と、嬉しそうに話してくれた。

 ブダペストには日本好きの人が微妙に多く、やたら本格的な抹茶屋さんがあったりするので、「なんだこれ」と思っていたが、ハンガリーの偉い人の中に日本が趣味の人がおられたのですね。ありがたいですねー。

 胸の内では、僕はELTE(ブダペスト大学)の状況は問題だらけだなあと思っている。学長様の合気道も、残念ながら、闘争心があまりに強く湧き出ていて、その結果として極めて男性中心主義的なマチズモ、力づくの様子があった。他の門人はそういう合気道を「これが伝統的な合気道だ」と言うので意味がわからない。ハンガリーではAuthenticという言葉を軽視することによってユダヤ教を信じる人を弾圧してシナゴーグを閉鎖したという記事を読んだが、そういう暴力に繋がりかねない。つまり、ハンガリーの人々は同じ間違いを繰り返しているのだ。もし、現在のELTEの教育について「これはジャパンの合気道の教えでもあるのだ」というような話になってしまうと(ならないと思いますが)、それはものすごく困る。それは違います。もしそれが「勝敗強弱を気にする」ものであったり、「技がかかる・かからない」を気にするものであるなら、それは僕がお稽古してきた合気道とは違う。そういうことを、僕の責任にしないでください(本当にやめてー)。だってそんなことになっているとは知らなかったのです。そして僕が好きなハンガリー出身の人たちは、みんなハンガリーを離れている。ユダヤ系SF作家の人も、ELTEを離れてアメリカの大学で先生をしている。

 それにしても、何があったら合気道のファンになるのか。不思議だ。ハンガリーにおける考古学と、英米文学に相補的関係はあるのだろうか。別に全然関係ない気もする。さあわからない。

 年末年始は温かいスープを作り、ダラダラとお菓子を食べながら浦沢直樹の『モンスター』という漫画を読んで過ごした。ELTE(ブダペスト大学)の先輩にあたるSF作家の人が最近『モンスター』のレビューを書いていて、気になったので電子版を買ってみたのだ。ヨーロッパで日本人として生きていくテンマ医師に若干感情移入する。

 秋セメスターでは、何人かの教授から「英語をできるだけ練習するように」と注意を受けた。英語の本を読むのは日本語の本を読むより圧倒的に時間も体力もかかるし、グループワークでなめらかに話すことがたまにできたり全然できなかったりするので、指摘そのものはその通りかなーと思いながらも、僕はモヤモヤする。

 ユダヤ系アメリカ文学の先生に「僕の英語力、足りてないでしょうか」と聞いてみたら、"You need to practice."とのお答え。 普通に考えたら"You need to practice (English)"という意味だと思うけど、Englishまで言わずpracticeで止めてくれたことに僕は感謝する。それが子ども用の英語の絵本でも、児童文学でも、SF小説でもポッドキャストでも、みんなイングリッシュ。Practiceするのは単に「円滑に話すための英語」だけではなく、もっと広くて大きくて深い何かなのだ・・・と僕は(勝手に)解釈した。

『モンスター』のレビューを書いたユダヤ系SF作家の人は日系アメリカ人を親にもつ人の小説のレビューも書いていた。その小説を読んでいると、もちろんネイティブ英語なので、一見すると普通の現代的なアメリカ英語のようなのだが、意外に日本的で、不思議な感じがする。こういう英語を読むことは、日本語が第一言語の僕にとって新しい可能性なのかもしれない、というふうに思った。

 ヨーロッパの人が話すような英語を僕が目指す必要は、特にない。日本語が第一言語の人が話す英語は、英語やハンガリー語が第一言語の人が話す英語とは単語の選び方やリズムが違ったものになるかもしれないけれど、その違いは必ずしも修正すべき間違いとは限らず、むしろ日本語話者が英語をクリエイターとしての立場から扱うチャンスかもしれない。日本語を第一言語とする人が英語を「母語」として扱うことは、夢物語に過ぎないだろうか。実際には、日本語と英語の間には日本語を第一言語の人のために用意された「空席」があるかもしれない。

 所属しているコースの、必修科目のシラバスを見ていたら、最終授業の課題がイェイツの詩だった。

 イェイツについて、"The Conversation with Friesnds"というアイルランドの作家のデビュー作で、次のようなストーリーがあった。

 フランシスはダブリンで英文学を専攻している。フランシスがマッチングアプリで知り合った医学生と会い、店で食事をする。医学生は「英文学か。僕はイェイツが好きだな。英文学って何の努力も必要ないからいいよね。医者は大変だよ」ということを言う。そのまま二人はホテルに行く。フランシスはセックスを断りたかったが、ことを大きくしたくないと思い、抵抗しなかった。そして医学生はフランシスをレイプする。後でフランシスは友だちのニックにそのことを話す。ニックは「イェイツが好きなやつに人間の営みは一生できない」と言う。 

 僕はこのシーンをよく覚えている。そのイェイツが課題だ。指定の詩はギリシャ神話に絡めたレイプのもの。

 一体、この大学は、ハンガリーは、何がしたいのだろうか。学部一年生にこんなものを読ませて、何かいいことがあると思っているのだろうか。

 必修科目のこれを除けば、移民についてのセミナーや、アメリカのユダヤ系作家についてのセミナーなど、勉強になるし、楽しい講義があった。しかし、必修科目のこの授業は何だと言うのか。少なくとも知識の乏しい学部一年生に与える課題ではないと思う。

 どんなに気持ちの悪い課題を出されても、きっと何か意図があるのかと思ったが、もう学期末である。

12/5 (火) 全て崩れる

 テスト期間。留学生たちはレポートを平気で剽窃する。ティーチングアシスタントはナチス賛美で悪名高いイエィツを賛美する。教授は疲れ切っていて授業をしない。せっかくできた友達とは関係が破綻する。これでもか、というくらい悪いことが続く。
 それでも、わずかに残る「いいもの」を辿って勉強する。ブリティッシュにおける政治が他国からどれだけ羨望の目で見られていたかを知る。文学理論の語彙を増やし、文学がどういうゲームで解釈されているのかを知る。LiteratureとLiterarinessの違いについて。とんでもなく意味がなさそうなところに逆に真実の片鱗を感じる。
「それだけはやってはいけない」「それだけは言ってはいけない」ということを、学生も教授も街の人たちもどんどん連発する。ELTEは一体どうなってしまうんでしょう。
 できる限りは勉強する。ELTEはどんどんやばくなっているが、「ハンガリーの人が発明した弓」は面白い。だけど、さすがにしんどい。
 ハンガリーは終わっている、なんて、そんな簡単な結論を出すつもりはない。だけど僕は聖人でもないし。
 負けるな、街よ!負けるな僕。
*ELTEはエトヴェシュロラーンド大学、通称「ブダペスト大学」の略称です(飯田君に教えてもらいました)

12/3(日) 客を迎える

 ハンガリーはヨーロッパの中でもとんでもなく地味な国である。ハンガリーが地味なのか、地味なのがハンガリーなのかという域にまで達しているように思うほどその存在は他から知られていない。
僕のような外国からの留学生は基本的に学問を目的に来ているので、事前にある程度調べ物もしているし、がっかりするようなことがあってもそれはある程度想定の範囲内である。ところが、やって来る人が「お客さん」で僕がハンガリーに客を迎える側ということになると、その苦労は想像を絶するものになる。
 新しい社会のあり方から取り残された人がどんな闇を抱えているのか。闇があまりにも深いので、ハンガリーの人と世間話をしていたら、突然「子供と親とどっちが大事?(@太宰治)」なんていう質問をされて肝を潰すことがある。
 でも、簡単には答えられない質問について考えることや、何年も未解決のとんでもない難問に取り組むことは、本当のところ僕のキャパシティの範囲内にあることなので、悩みの深さなら僕だって負けてはいない。
 良い問題に巡り会えたらいいと思う。

 ハンガリーの留学生活で一日に3回ほど、繰り返し思うことがある。「ハンガリーも、もう終わりか・・・」という思いだ。
 ヨーロッパの人の張り付いたような不気味な笑顔、トランプからもらった帽子を嬉々として被るオルバン、マス・メディアの役割を根本的に否定し、「メディアに必要性などない」と言うハンガリー男子・・・。どうにもならないくらい重たい問題に頭がクラクラする。
 日本だって例外ではなく、「日本ももう終わりだ」と思うこともあったけれど。考えようによっては、世界中のどこにいても、「もう終わりだ」と思うものなのかも知れない。ロンドンに留学していても、「物価が高い。ありえない。イギリスももう終わりだ」とか?
 しかし、ハンガリーで生まれ育った人が「ハンガリーは終わってよい」と思っているわけではないと思う。ハンガリーの行く方向に対して「やばくね?」となっているハンガリーの人は同じ講義をとっている人の中にも少なくないと思う。日本からハンガリーに来て二ヶ月やそこらの僕が「もう終わりか・・・」なんて言えるのは、生まれ育ちがハンガリーの人たちの、彼ら彼女らの絶望に共鳴したからである。
 The familiar stale smell of his poor country's misery.
(az isme-ros, áporodott szag, szegény hazajanak nyomorúsága.)
 ハンガリーの良き伝統は、どこかで途切れてしまったのだろうか。どう言うわけか、僕が読んでいるハンガリーの作家の本は、ハンガリーの人もよくわかっていない本らしい。そんなとき、ハンガリーの人たちは困惑しているし、英語の留学生の人たちは、なんだか頼りない。

 日本には、「都市化された山」とでも言えそうなものがあって、山の中にさまざまなお寺や神社があり、そういった場所はかつては政治・文化の中心となり栄華を誇った。それによって数々の山水は洗練され、その美しさは街の中心からふと山の方を見るだけでその美と迫力を感じられるほどのオーラを放つようになった。
 もちろん、日本にも「ただの山」があり、それはただの田舎であり、得体の知れないものであり、人間の営みと無縁のものであり、大して美しくもないところである。そういう「幼稚な自然」はヨーロッパにもいくらでもあると思うけど、そうではなくて、「世界の中心としての自然」と言いたくなるような山水を、そういえばブダペストで一度も見かけていないな、ということに思い当たった。
 僕はヨーロッパの「幼稚な自然」に、文字通り魂を削られるような思いになる。不気味なほど子供っぽい草木。石造建築には莫大な資産を投じているのだろうが、自然の美しさに対して、どうせはした金しか使っていないことがよくわかる。自然を侮っている気がする。
 鉄橋、お城、カフェ、電灯などの装飾は本当に見事で、石造建築はそこらじゅうに文化遺産があるような感覚で、日本なんか比にならない。ところが、一方でヨーロッパの草花の気味悪さが気になるのは、日本で山水の贅沢を知ったからかもしれない。

 自分の考えを共有できる人に出会うと、嬉しい。日本では共有できなかった考えが異国で共有できると、留学に来てよかったな〜と思う。
 直接会う人とはできていないけど、ブダペスト大学図書館の本とは「考えの共有」ができ始めている。日本の図書館や本屋さんと違う時空の本が配架されている。
 ドイツ(なぜドイツランドと呼ばないのか不思議)のキリスト教世界はとても恐ろしく、非人間的なことがたくさん起こってきたことを知り、感覚的にもそうだと思う。ハムレット王子が学んだのはウィッテンベルグ大学だけれど、ここで教えたマルティン・ルターの宗教改革も色々と問題を含んでいたことを知る。ルターははじめユダヤ人に対してもプロテスタントの門を開こうとしていたが、晩年、On the Jews and Their Liesという文書によってユダヤ人迫害を呼びかけた。これがのちのホロコーストにつながっていることは明らかだ。
 僕はキリスト教というとカトリックかプロテスタントかという区分くらいしかピンときていなかったけど、それはかなり杜撰な分け方だったようだ。僕が知っている同志社のプロテスタントはどちらかというとイングランドが起源のようだし、また、僕が一番興味のある英国国教会もルター派とは系統が違うように思う。
 イングランドはイングランドで宗教改革をやったし、ドイツはドイツで宗教改革をやったので、それぞれの国の宗教改革はお互いに影響しあってはいるけれど、起源を辿ればそれぞれ結構違う、ということだと理解した。その違いは、実際にその土地に住む僕としては重要だ。
 ハンガリーは宗教的にドイツの影響が強いように見えるけれど、ドイツやハンガリーで過去に起こってきた残虐な出来事の数々を思うと、そういう世界とは違った、イングランドの宗教改革者ウィクリフのいたオックスフォードには是非一度行きたいな〜、と思う。

Discipline your mind.

9/28 警察を呼ぶ

 スペイン人の集団は夜になっても騒いでいるし、イランから来た別の集団もうるさいし、僕は風邪でしんどいし、眠れない。
 ハンガリーの法律では、夜10時を過ぎて部屋の前などで騒ぐ人がいた場合、警察を呼んでもいいらしい。そういうわけで、警察を呼んだ。
 件のワンピース好きトルコの爽やか青年からは「ふざけんな」と罵倒を浴びる。日本語を勉強している彼は日本語で「ふざけんな」と言うのである。Fuck the police. 僕も一緒にふざけんなと、そう言いたい気持ちであるが、マジで寝られないしうるさいししんどい。賃貸約契約書には、警察沙汰になった場合、賃貸主はテナントを強制的に賃貸を退去させ、ビザが取り消すことができるとある。でも、向こうが警察沙汰になるほどの「暴力」を振るっているんだから、こっちがふざけんなと言いたいところのだ。
 警察を呼ぶと、とりあえず1回目なのでスペイン人の集団に対する警告で済む。2回目は怖いぞ、と言っておしまい。僕はパスポートをパスポートをチェックされ、写真を撮られる。パスポートは入国審査でも滞在許可証申請でも何回もチェックされたけど、チェックするなら僕のパスポートじゃなくて騒いでる人たちのパスポートだよなあと思いながら、パスポートを見せる。
 イランの人が首筋を触ってくるので、あと少しで肩取り四方投げをしそうになる。
 ああ、すごく嫌な気分になる〜。