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2007年05月 アーカイブ

2007年05月11日

とってもシュールな住吉のだんじり

5月5日(祝)、神戸東灘は薄曇り。
JR住吉駅近くの本(もと)住吉神社例大祭、だんじり祭の本宮に来ている。

JR 住吉北 JR 住吉北

神社と高層ビル 神社と高層ビル

5月のゴールデンウイークに、神戸・東灘のだんじり祭がある。
神戸・東灘のだんじりは、おなじみの岸和田のだんじりのような型とは違って、神戸型といわれているものである。
記録によると天保年間、住吉には1830年頃にだんじりを新調した記録があり、そのころすでに現在のような神戸型のだんじりが出ていたことが伺える。
特徴は屋根廻りと飾り幕、そして外コマである。
まず屋根廻り。正面大屋根の真ん中には、鬼板と呼ばれる屋根をかむ大きな獅子の彫刻(獅噛)がつけられている。
また山形といって、唐破風の屋根のカーブに沿って、地区名の一字を書いた提灯が10数個とりつけられているのが特徴だ。江戸文字っぽいその墨文字は、なかなか鯔背な雰囲気がある。
飾り幕は金糸銀糸の絢爛豪華なもので、屋根の下の四方を取り囲んで飾られている。
その刺繍は金龍や源平合戦や秀吉などの合戦もの、天の岩戸などの神話ものなどがテーマに選ばれていて、これが競い合うように各地区ご自慢の作品になっているのだそうだ。
岸和田のだんじりのように構造上、走って辻を回す「遣り回し」は行わないが、四方を「担い棒」や「ちょうさい棒」といった丸太棒で囲んで、大勢がその棒の操作に関わり、それによってだんじりをシーソーのように上げ下げして練る様は、また違った面白さがある。

その祭りをやっているエリアは、御影、住吉そして本山といった、住宅情報誌やマンションの広告によくその名前が出てくる地域で、阪神間の閑静でハイライフな住宅地的なイメージからは、なかなか岸和田のような下町チックなだんじりは想像できない。

住吉地区の本住吉神社のだんじりは7台だ。
御影地区に比べて大きいといわれているのは、御影の弓弦羽(ゆずるは)神社の鳥居より、こちらの元住吉神社の鳥居の方が背が高いからだそうだ。
まただんじりは、「地車」であり「御輿」でないから岸和田でもどこでも普段は、各地域にある蔵(=だんじり小屋)に入れられていて、祭礼にだけ宮入をするのだが、住吉地区では7台のだんじりすべてが、本住吉神社の境内にある蔵で収納されているとのことだ。
多分、だんじり小屋がマンション敷地になったのだろう。

JR住吉駅のすぐ南、国道2号線沿いにある本住吉神社の宮入を訪ねると、何ものでもない祭りの熱気と音と匂いがある。
境内には、いろんな屋台が並んでいる。
たこ焼きや固焼き、今風のバナナチョコやカップ1杯入れ放題のフライドチキン。
射的の屋台もあるところが祭の屋台で、テーマパークのそれではない。
プラモデル屋はなぜだか知らないが、コルト38口径やベレッタM92などのピストルばかりが並び、これも岸和田だんじり祭の屋台と共通だ。
けれども射的は誰もやってないし、モデルガンを売ってるのテキ屋のにいちゃんに「おい、本物はないんか。あったら買うど」と言うような、岸和田だんじりのような者はいない。

だんじりはそんな屋台が並ぶ、人また人でいっぱいの本住吉神社に入ると、だんじりを大勢でよいしょとウイリーのように傾けてくるくると練り回す。
観客の拍手の後に神社を出ると、いきなり阪神間きっての執事付きの高級マンション群も近くにある住宅街に出る。
鉦と太鼓のだんじり囃子は、祭の列をだれも見下ろすものがいない高層マンションに喧しくこだまする。
揃いの法被を着たヤンキーチックな曳き手や屋根乗りと、獅噛の屋根に古い地区名の一字を書いた提灯と、絢爛豪華な金糸銀糸で刺繍された赤幕と、勇ましい武者物の彫刻が施された地車の行列はとてもいかついし、参加している若者の家族や知人たち、そして近所のお年寄りたちの見物人も多い。

けれどもそのだんじりの横をこのあたりらしい、ガンメタBMWや赤ボルボなどの欧州車が行き交い、JRの駅からは神戸大丸の紙袋を持った祝日のよそ行き姿の女性や行楽帰りの家族連れがはき出され、すぐ横のタクシー乗り場からタクシーに乗ったり、あるいはだんじりを遠巻きに足早に通り過ぎる。

それはとてもシュールな光景である。
年に一回の本住吉神社例大祭のだんじり祭礼と、快速停車駅の住宅街ゴールデンウイークの一日。
まるでNHKのローカルニュースで旧い都市の伝統行事からいきなり海外旅行に出る人の空港シーンへとトピックスが切り替わるように、両方の祝祭日がこの街に見える。

2007年05月16日

だんじり彫物論

5月12日(土)

8月刊行予定で編集が進んでいる「岸和田だんじり讀本」の打ち合わせ
に岸和田へ向かう。
難波からの南海電車に乗っていると、泉大津を過ぎた頃に書き手の一人
である萬屋誠司さんから、講談師の旭堂南海さんをお送りに貝塚駅まで
来ていると連絡が入ったので、そのまま貝塚駅まで乗る。
偶然にお会いした旭堂南海さんはこの日、もうひとりの書き手の泉田祐
志さんが若頭をやっている筋海町で講談の後、貝塚市でもう一席あるそ
うだ。
お忙しい講談師である。
ごあいさつもそこそこに(「ラジオの街で逢いましょう」6回目http://
www.radiodays.jp/ja/program/
でお世話になりました)入れ違いにクル
マに乗せてもらって、筋海町の会館へ行く。
「第4回筋海町を愛そう会」という会合が開かれていて、その第1部に
南海さんが「大坂夏の陣・後藤又兵衛の勇戦」の講談、第2部は岸和田
天神宮宮司・川原一紀さんによる「岸和田天神宮の神々について」とい
うお話で、到着すると丁度それが終わったばかりで、第3部は「筋海地
車四方山話 各種祭礼団体にてご自由に」とのこと。
20代前半の若い衆から世話人さんまで、おおよそ百人はいるだろうか、
その席に大工町の萬屋さんともどもお邪魔する。この町のだんじり大工
棟梁・田中隆治さんのお顔も見える。
「おお、江くん。ようけ集まってるとこに、今日は本売りに来たんか」
と棟梁は冗談を言う。

この町はすでに「姉川合戦」「加藤清正」「長門守木村重成」と3回、
旭堂南海師を招いての講談の会を持っている。
今回の「大坂夏の陣・後藤又兵衛の勇戦」も含め、講談はすべて昭和八
年新調のこの町の地車に彫られている作品についての演題である。
この筋海町は、それまで大正十、十一年とたて続けに地車を新調してい
る特異な町だ。特に大正10年に新調した地車は、「気に入らぬ」と一
度も曳行されずに売却されている。
だから、地車に対しては相当目が肥えているので、この昭和の新調に当
たっては極めて念入りに製作され、誠に優れた地車が出来たとの事であ
る。
その昭和八年新調の現地車は、作事には名匠「久吾」こと久納久吉・幸
三郎兄弟があたり、扇垂木入母屋の大屋根の軒唐破風(通称・二重破
風)を苦心の末に組み上げ、また彫刻師としては西本五葉、野村正が手
掛けた芸術的な彫物で、泉州屈指の名だんじりに数えられる。
とくに、彫物は作品として抜群である。
泉田さんが前に出て、第一部の講談演目であった見送りの「大坂の陣後
藤又兵衛勇戦」の彫刻は、西本五葉師が刻んだものであること。五葉師
は高村光雲の弟子・山本瑞雲の流れを汲んでいて、この作品は昨今の地
車人物彫刻にある三頭身の錦絵調と趣を異にしたリアルな八頭身の近代
彫刻で類を見ないこと。
左土呂幕に彫られている野村正の「新納武蔵野守薩州川内河に加藤清正
と戦ひて敗れたるも引き分けとなる」は、合戦の時空および「間」を風
によって表現したたぐいまれな芸術作品であることを説明する。
他の町のだんじり関係者はもちろん見物人、観光客に、「自町の彫物の
ことを訊かれて、よう説明できないのではあかん」とばかりに町の誇り
でもある彫物について、そのテーマや物語を十分知らしめておこうとい
うことである。
それには書物や印刷物で読んで知りおいてもらうよりも、聞いて面白い
講談による口伝が一番だということである。
城下町・岸和田の街場の町人は旧来、文字や絵より寺子屋や会館での話
し言葉を優先してきた。

入母屋「浪兎」の纏
筋海町地車 扇垂木入母屋の大屋根と「浪兎」の纏

後藤又兵衛sujikai
西本五葉刻 後藤又兵衛

2007年05月19日

オリジナル・あたり前田のクラッカー

5月19日(土)

抱えていた締め切りの連載原稿四本をキーボード叩きまくって終了し、
平川克美さんがやられているラジオデイズの中の番組「ラジオの街で逢
いましょう」(ラジオ関西毎週火曜24:30~25:00 http://
www.radiodays.jp/ja/program/)の収録で、京都の花街・上七軒に向か
う。

上七軒は祇園や先斗町といった中心部つまり四条河原町あたりのエリア
ではなく、すこし外れたロケーションにある花街だ。
北野天満宮に近く「西陣の奥座敷」と呼ばれているように、西陣織で知
られる和装織物産業の旦那がよく使ってきた花街である。
豊臣秀吉が北野大茶会を催した際に団子を献上、それを喜び、「七軒茶
屋」としてお茶屋開設を認めたという京都最古の花街だ。
お茶屋や料理やの軒先に吊された提灯には、その団子が意匠化されてい
る。

インタビューするゲストは、お茶屋「梅乃」の女将さんの中路良枝さん。
花街を支える「もてなし文化」とその魅力を「花街言葉」から語って頂
こうということである。
収録はその「梅乃」のご親戚である同じお茶屋の「市」で行った。

この上七軒や祇園などで話される「~どすえ」な花街の言葉は、それ以
外の京都で話されている京都弁ではない。
「廓言葉」と中路さんは言っておられたが、そういう花街だけの言葉が
すなわち上七軒の文化風俗生活そのものを創り上げている。
京都の花街といえば舞妓さんであるが、この舞妓さんも今やほとんどが
京都以外の地方出身で、おかあさんやおねえさんは一からその廓言葉を
叩き込む。
修行中の舞妓さんには、東北や沖縄出身の女の子もいるそうで、彼女た
ちに廓言葉を教えるのはほとんど外国語を教えるみたいなものだそうだ。
舞妓さんは置屋に住み込んでいる。
上七軒ではお茶屋が置屋を兼ねているので、お茶屋のおかあさんがその
生活一切の面倒を見る。
それは「仕込み」といわれるもので、そういった住み込み生活から、行
儀や芸ほかを教える。
そのベースとなるのはもちろんコミュニケーションで、だからこそ廓言
葉そのものが上七軒というところを支えてきたといえるのだ。
そういう花街の仕組みやお茶屋とはどういうところか、「一見さんお断
り」そのこころは何かなどを廓言葉で話してもらう。

収録を終え、その足で大阪の住吉区の東粉浜へ移動。
今度は「家庭料理研究家」の土井信子さんのインタビュー。
土井さんは夫の料理研究家、故土井勝さんのご夫人で、二人三脚で料理
教室をやってこられた。
NHK「きょうの料理」を長年やってこられたり、いろんな料理の書籍も
出されている。

上方とくに大阪の食べ物は、どこでもなんでもおいしい。
そのおいしさの根源は何か。
とくに「まったり」といった言葉に象徴される大阪の味その奥深さを歴
史風俗気質風土、そして日常のコミュニケーション、つくり手と食べ手
の関係性やその言葉からさぐろうというものだ。

土井さんはNHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」の料理監修を
やられていて、そこのお話から入る。
イーデス・ハンソンさんが演じていたおでん屋の話では、大阪ではおで
んは田楽であって、いわゆる今言われているおでんは大阪では本来、関
東煮(かんとだき)であることを興味深く述べていただく。

大阪生まれ、大阪育ちの土井さんの大阪弁はものすごく美しいし愛嬌が
ある。
だから大阪の味、すなわち食べ物の話は、このおばあさんおいて大阪に
はいない。

大阪弁にもいろいろある。
同じ船場でも、薬問屋で話される言葉と丼池あたりの繊維商売のそれと
は違うし、同じミナミでも木津市場の卸売市場のマグロ屋と心斎橋筋の
瀬戸物屋の言葉は違う。
また岸和田のだんじり泉州弁と「河内のおっさんの唄」(古いか?)と
北摂の新興住宅地で話される大阪弁は大いに違う。
吉本漫才の大阪弁は、それらとも大いに違って、それこそメディアに
よって「仕込まれた」大阪弁である。

さらにダウンタウンがテレビのバラエティで話すヤンキー的な言葉と、
夢路いとし喜味こいしのがっちり買いまショーの「一〇万円、七万円、
五万円、運命の分かれ道」のあの早口言葉のそれとは全然違う。
ダウンタウンが漫才の新人賞か何かの賞を獲ったとき、横山やすしは、
おまえらの漫才はヤンキーの兄ちゃんが立ち話してるのと、変わらへん
やないか、などと酷評したが、それに対して松ちゃんが「ヤンキーでも
何でも、おもろかったらそれでエエやんけ」と言った。

横山やすしは、わかる人にはわかるが、あれはベースに泉州弁がある。
かれは堺育ちで幼い頃には岸和田にも住んでいたそうだ。
妙に前のめりじみた話し方の西川きよしと、ヤッさんが「一八(「かず
や」、息子である)!。おお、第四コーナーやど。いけえ、まくらんか
い」と胸を張って派手な手振りで言葉をぶっ放すは全く違うものだった。

それはまさしく本来の「いちびり」だったと思う。
「いちびり」は標準語はじめ、ほかの言語に特に訳しにくい言葉である。
お調子者、ふざけること…といったニュアンスではあるが、それが良い
意味であるか悪い意味であるかは前後の文脈や発語のありようでかなり
変わってくる。
「いちびり」はもともと「市振り」が語源だそうで、市場でセリの商人
が身振り手振りを交えて忙しく競り合うさまが嬌態で、見ているととて
も滑稽でふざけているようにも見えるため、それを人の性格や言動を指
す言葉に転用したと推測される。
けれどもヤッさんは相手に「噛む」ことはしなかったし、素人を「いら
う」ことは絶対なかった。

今日は、NHKラジオ第一放送のレギュラー「かんさい土曜ほっと
タイム」http://www.nhk.or.jp/kansaihot/dj/index.htmの生放
送があった。
この番組は、佐藤誠エクゼクティブアナウンサーがメインとなり関西弁
でやってる全国放送で、きょうは海原さおりさんがお相手である。
さおり師匠は、海原一門のバリバリの漫才師である。
けれども吉本的ではない「~したはる」「いやあ、かなんなぁ」と京都
弁のかかった大阪弁を話される。
それをディレクターの中村さんに言うと、自分は関西人ではないのでわ
からないとのことだったが、訊けばさおりさんはなるほど京都出身だっ
た。

自分の10分あまりのコーナーが終わって、スタジオを出ると白木みの
るさんがゲストで来られていてしばし談笑。
サイン入りの手ぬぐいをいただいて感激する。
手ぬぐいは鉢巻きにもできる昔本来の長いものです、短かったら巻いた
ときウサギになりません、とおっしゃるから、「ほんまですか、それは
エエですね」と早速、熨斗包みを開こうとすると、中村さんが「江さ
ん、岸和田でだんじりをやってますから」とすかさずフォロー。
オレは鉢巻きは、ねじって2秒で結べる。
見事に2本耳のウサギができて、白木さんスタッフさんたちの注目を集
める。
気をよくされたのか、白木みのるさんからさらに「芸能生活60周年記
念アルバム」のCDを頂く。
早速ジャケットにサインして頂き、「あたり前田のクラッカー」懐かし
いですわ、とつぶやくと、「オレがこんなに強いのも、あたり前田のク
ラッカー」と小坊主珍念をやってくれたのであった。
オレは一気に、日曜日の夜6時の「てなもんや三度笠」、その後の番組
「シャボン玉ホリデー」の昭和のお茶の間に連れて行かれた。

白木さん

2007年05月25日

地車や、ちゅうねん

5月20日(日)

南上町の入魂式が来週27日にある。
わが五軒屋町はその入魂式に正装にて出迎えるのであるが、オレは今年から世話人である。
だから祭衣装が新たに替わる。
こういうことに関してはM人はうるさい。
今年世話人に上がったメンバーすべては、テーラータカクラのM人の見立てにより薄手の最高の生地で新しい法被を発注した。
祭衣装は法被つまり半纏と腹掛け(大工や人力車の車夫が着ている、ランニングのような下着で、後ろで襷紐がクロスしているアレ)、バッチ(股引)、地下足袋と鉢巻きだ。
腹掛けは浅草中屋のもので、紗綾柄を別注した。
あちらの「江戸腹」つまり江戸製の腹掛けは、首廻りと襷紐の部分のデザインがどこか洒落ている。
しかし岸和田地車の半纏は胸紐で締める軽快なもので、三社祭や深川祭の御輿祭に着られる帯締め半纏と比べて丈が幾分短い。
なので腹掛けの丈も短くないとバランスが悪い。
その微妙なところをM人は知っていて、中屋にあれこれと注文をつけてくれる。
ついでに同じ紗綾柄の生地をあらかじめ浅草中屋から入手して、新調する半纏の裏袖と裏生地に使うように、岸和田随一の法被製造「紺善」に指示してくれている。
半纏Vゾーンから覗く腹掛けの柄、および袖口からちらっと見える裏生地、そして半纏の背中の「五」マークの縁くくり部分と枠額縁と肩にある白染め抜きのわずかな部分が汗で濡れるとその紗綾柄がかすかに透けて見えるようにと凝りまくりである。
また去年までの若頭の頃と違って、世話人の祭衣装は白バッチ(若頭は前梃子、大工方を以外は黒バッチ)なので、白のバッチつまり股引と白の地下足袋を新たに購入する。
その度にこうして岸和田に帰ってテーラータカクラで、試着したりでわいわいと喧しくやっているわけだ。

南上町は岸和田旧市地区であるが、だんじりは史上初参加だ。
これで岸和田旧市のだんじり祭は22台になった。
只今わたしは320ページもの「岸和田だんじり讀本」を執筆編集中なので、その南上町についての草稿を記念すべきお披露目式に際し特別に披露させていただくことにする。

22、南上町地車

 南上町は岸和田市上町の南に位置する元岸和田村の一部である。町の成立は岸和田町時代の大正二年(1913)一月一日に遡る。当時は一面が田畑で数戸を有するほどの町であった。
 だんじりの所有は町成立以来一度もなく、子供たちが車輪をつけた木箱を引っ張ったりしてきただけであった。
 その当町が昭和五十八年(1983)十一月一日、子供たちに自分たちの町の本物のだんじりを曳かせてあげたいと若者数人が中心となって青年団を結成したのである。そして廃品回収や草刈りなどで資金を集めた。さらに平成五年(1993)七月には子供たちのためにも是非とも南上町の地車曳行を実現したいとの思いから、旧市祭礼参入を目標に若頭が発足し、祭礼組織の基盤が出来上がる。そして同年、町内の植山工務店の好意により子供地車を曳行出来る運びとなる。
 平成七年七月には廃品回収などで集めた資金をもとに、有志にて高石市より地車を購入し二代目地車となる。その際、初代地車は地車祭り発祥の三の丸神社へ奉納されている。
 悲願である旧市参加の大きなステップとなるべく、そして21世紀への飛躍としたい思いから、三代目となる地車を有志にて岸和田市尾生町から購入する。この地車は平成十二年七月十六日に入魂式を行い、平成十三年七月には正式に町の所有となった。さらに平成十四年十二月、旧市祭礼町会連合会に対して、旧市参入願出書を提出し、正式に旧市参入を表明する。平成十六年四月、旧市祭礼年番において南上町の平成十九年からの旧市参入の協議がなされ、条件付にて了承される。そして、明くる平成十七年からは旧市祭礼組織に加盟し研修と警備にあたる。
 こうしたステップを経て南上町は平成十八年八月六日、岸和田市中北町の地車新調に伴い旧地車を譲り受け入魂式を行う。そして平成十九年五月二十七日、その地車を化粧直しして旧市各町に参入の挨拶と地車のお披露目曳行を行い、二十数年来の悲願であった岸和田旧市地区参入の夢が叶ったのである。
 この地車の特徴を見ると、番付標には韋駄天が取り付けられている。これには当町が岸和田城の南に広がる土地から南方を守護する増長天の八大将軍神の一つであることと、「韋駄天走り」の言葉の如く地車が疾走できるようにとの願いが込められている。纏は屋久杉材に町紋が彫られ下に馬簾をつけたものである。(泉田祐志)

テーラータカクラで白バッチのサイズを合わせて、今度はスポーツショップ・ロブにて白足袋を購入。
この店の地下足袋はエアソール内蔵のもので、このハイテク採用によって、長年苦しめられた膝にくる「だんじり腱鞘炎」は激減した。
そこからこの「だんじり讀本」のデザインをしてくれている「あなたの籔内」宅へ、書き手の泉田、萬屋両氏と打ち合わせに行く。
籔内氏の弟は奇しくも今年初参加、南上町の若頭筆頭をしている
この本はすべて岸和田旧市のだんじり関係者でつくっている。こういう仕事はやりやすい。やりやすいけど内容に玄人好みに過ぎる嫌いがあり、岸和田の一般読者には何のことかわからない専門用語や固有名詞が頻出している。岸和田の一般読者がそうであるなら、それ以外のその他大勢大多数はどうであろうか。
けれどもわたしを含めて書き手の三人は、旧市の祭礼関係者が出すのだから「出して恥なものは出せない」という意識の方が強い。
その匙加減が非常に難儀なのである。

ぶっ通しの打ち合わせ5時間あまり。南海岸和田駅まで泉田氏にクルマで送ってもらい、気がつくと昼飯も立ち食いうどんのみで腹が減ったので「喜平」に寄る。
がらりと扉を開けると、平成15年度に一緒に若頭筆頭をやった中町のOさんグループと、大手町の今年の若頭筆頭の山本紀博くんがいた。
大手町若頭は今年は若頭責任者協議会の副会長に当たっていて、浜七町のまとめ役であるから山本くんは去年の引継から今年の祭礼が終わるまでのこの1年間は、想像を絶する多忙な日常であることだろう。
山本くんとは平成11年12年と2年間、若頭連絡協議会で一緒になった、いわば他町同士で同じ釜のメシを食った仲だ。
そういう昵懇の関係だからオレのことを「ひろきちゃん」と呼ぶ。
上がってきている校正が、喜平のご主人・Nさん始めみんなに回る。
山本くんは「今、うちのだんじり、彫りもん洗いにかけてる最中やし。金網も梯子もはずしてるよってビカビカやで。写真撮ってるよって、せっかくやし、それ載せてよ」と言ってくれる。
このオープンソース極まりない親切さが岸和田だんじり野郎の真骨頂である。
こちらもせっかくだから「だんじり讀本」での大手町のくだりをここにご紹介することにする。

大手町地車
 岸和田城大手門の浜手にあることから名づけられたのが大手町である。
 かつての町の風景には、江戸末期の外敵の来襲や、風向、潮の干満などを調べていたという潮見櫓があった。
 大手町地車は、太平洋戦争が始まる一年前の暗い世相の時代に新調されている。昭和十五年(1940)の新調で、大工棟梁「大宗」こと植山宗一郎師により作事され、彫物責任者は美木彫家・木下舜次郎師である。舜次郎師が岸和田旧市地区で初めて請け負ったもので、その名が知れ渡って行く足がかりとなった地車でもある。助は弟弟子・松田正幸師、そして不運の名匠・川島暁星師である。
 土呂幕三方は「太閤記」の図柄で構成されており、特に正面土呂幕の「秀吉本陣佐久間の乱入」は見る者を唸らせる迫力と魅力がある。正面に馬乗り武者二体を彫り込んで合戦する姿には躍動感があり、特に佐久間玄蕃の秀吉目がけてまっしぐらに突っ込んで来る顔の迫力には圧倒される。また奥行きも大変深く、一層重厚感を引き立たせている。木下舜次郎師の腕の冴えを感じる作品である。
 昭和五十八年大修理に取り替えられるまでの松良は、構図よく繊細に彫られており、素晴らしい作品であった。これを見本として彫られている松良も多い。現地車の松良は舜次郎師の実子で次男の木下頼定師の作品である。
この地車は並松町の大型地車を見本として作事されたもので、新調された時には今少し大きかったといわれている。何とも美しい格好に絶賛を浴びたという。また、金綱の吊り下げの玉は珍しく、当町だけのものである。
 現在の纏は「大」図案に「手」の字を配した町紋の三方正面に白毛と馬簾をつけたものである。かつては千成瓢箪に五色の馬簾付きのものであった。面白く洒落っ気のある纏としては、大きくくり抜いた手形に大の字を書いて町名の「大手」に掛けたものがあったことを思い出す。
 先代地車は大正十一、二年(1922、23)ごろ新調の櫻井義國門下で甥であった藤川宗太郎師が作事したものである。彫物責任者は三代目黒田正勝師であり、その下絵は義國師の図柄であった。義國師は見送りの馬乗りと墨引きを引き受けたという。現在の貝塚市馬場地車である。先々代地車は、現和泉市尾井町地車で明治二、三十年代に「大駒」こと大崎吉造師により作事され、彫物責任者は宮地弥津計師である。


5月21日(月)

終日だんじりな日曜を終え月曜日になると、テレビで「三社祭 乗った男を逮捕」というニュースをやっていた。
その話題は、神が乗る御輿の上に人が乗るのはあってはならないことであるのにかかわらず、去年御輿に乗った者がいて、それが原因で御輿を破損して宮側は困惑した。
今年は乗るようなことがあれば「宮出」を中止するかも知れないと通達していた。しかし無視して乗った者がいて、警察は迷惑防止条例で3人を逮捕した。そういう趣旨だった。

アナウンサーは冒頭、「山車と御輿の違いをご存じですか」と言って、「祭に出る山車(地車や!)は乗ってもかまわないもので、代表的なものに岸和田のだんじり祭があります。一方御輿は神さまが乗るから乗ってはいけないもの。あくまでも担ぐもので人が乗ることは神への冒涜になります」と説明していた。

映像では「岸和田の山車」(地車や、ちゅうねん)と「浅草の御輿」を同画面に並べて再生していた。
岸和田だんじりの映像では、大工方や前板に乗る町会長や曳行責任者、そして腰廻りにたかる若頭が映されていたが、やっぱり下野町がカンカン場の遣り回しで電柱をへし折る危機一髪のシーンと、紀州街道の難所「内町門の枡形」通称S字で大北町が取りすぎて、民家に派手に激突するシーンがまた登場していた。
後者の映像は激突はともかく、前梃子の熟練の技のキレが完璧に捉えられている。
このシーンは今から15年くらい前の「スーパーテレビ」で放送されたもので、何年前の映像やねん、と言いたくなるものだ。

その後のメインである今年の三社祭の映像では、御輿に乗る者に対し警察が「これ以上、日本の伝統を汚すのはすぐにやめなさい。速やかに御輿から下りなさい」と拡声器で警告しているシーン、担い棒の上に人が乗っているところ、そこから落ちて怪我をしたのか救急車で運ばれるシーンとつながれていく。
御輿に乗った者は入れ墨者で、墨を誇示するように褌一丁の裸体で乗っていた。

近代に出来た警察から「日本の伝統うんぬん」といわれるのも恥ずかしいが、御輿の担い棒の上に脚を開いてへっぴり腰で乗る姿は、同じ祭を愛する者としては見る方が恥ずかしい、見ていて情けなかったのである。
古来、地車を先導する御輿に乗るのはもってのほかだ。
だから御輿は人が乗るような場所はどこにもない。
またよしんばそれが中学生の運動会の騎馬戦でもいいが、あの身のこなしからわかる運動神経と精神状態では、大工方として疾走するだんじりの屋根の上で立つことすらできない。だから遣り回しができないから祭にならない。
なんだか田舎の子どもだんじりを見ているようで、おまえらは祭衣装だけかと浅草にがっかりした。

岸和田では江戸中期からその伝統を引き継ぐ「祭礼年番」制度が、この荒っぽい祭を仕切っている。
江戸時代からの古文書には、祭礼に関しての幕府つまり藩からの再三のお触れが残っている。
享和二年(1802)の祭礼中の風紀が乱れ、口論等があったことに対してのお触れはじめ、天保三年(1832)には、大北ノ浜が祭の前日にだんじりを曳いたため祭当日は出すことすら差し止められた。
だからこそ町民や漁師たちは「自主規制、自主警備」をうち立て、現代では各町選出の年番さんの元、警察がその手伝いを行ってくれている。

今、手元にわたしが若頭筆頭時の平成十五年度祭礼年番から渡された冊子「岸和田地車祭礼実施要領」がある。
それには40級くらいのどでかい教科書体でかかれた「主要行事」「地車曳行上の遵守事項」や「地車のすれ違い・追越し」「纏の位置」という項目に並行して「総括責任者並びに地車曳行責任者および各部署担当者の遵守事項」というところがある。
そこにある「一、乗車人員の制限」の後には、「一、地車曳行に参加させてはならない者」とあり「(ア)各町で定められた装束を着用していない者。(イ)酒に酔った者。(ウ)裸体者。(半裸体者も含む)。(エ)暴力団名等を表示する者。(オ)暴走等事故につながる行為をあおり、そそのかす者。」という五つの項目が明記されている。
「以上の各事項に該当する時は、期間中又は一時地車の曳行を禁止する。」
これが岸和田祭礼の「自主規制」のほんの一部である。

規制事項があるということは、昔からそういうことがあり祭が紛糾し、それが原困で祭礼が出来なかったほかならない。
(ウ)は、祭だからと全裸になる者に対しては「やめんかい!見てて恥ずかしいわい」であり、それは墨の入った肌を誇示する「半裸体」も同様だ。
祭に際して、特攻服や暴走族やタケノコ族の衣装を着てくるようなヤツ(ア)には「お前ら、なんちゅう格好してるんや! 早よ帰れ」だし、(エ)組の紋が入った法被は大売り出しの法被と一緒で「祭用の法被着てこい!」である。
しかし「(イ)酒に酔った者。」は、「酒を飲んだ者。」さらに「今、酒を飲んでいる者。」ではないので「一、地車曳行に参加させてはならない者」に該当しない。
そこが道路交通法とは違う。酔っぱらい運転はアカンけど、酒気帯び運転はかまわない、ということになる。
いずれにしろ祭礼で死人や怪我人が出るとそれは終わる。
最後にある「一,曳行停止規定」には、はっきりそれが明記してある。
「(ア)町相互間における暴力行為。(イ)人身事故。(ウ)警備に携わっている者に対する暴力行為。(エ)自主規制に故意又は重大な違反行為。(オ)重大な物損事故。」

2007年05月30日

だんじりブランニュー

5月27日(日)


5月27日(日)午前6時、岸和田は晴れ。
南上町のお披露目曳行。
この日、初めて岸和田旧市地区へだんじりを曳き入れる南上町が、宮入
はじめ岸和田城下のフルコースを曳行する
五軒屋町ももちろん曳行コースになっているので、そのだんじりを正装
にて迎える。
襟に「世話人」と染め抜かれている新しい法被、新しい白バッチ、白足
袋で昭和大通り花儀布団店前へ集合。
それにしても、早朝にもかかわらず、本番祭礼さながらのこの見物客の
数は何だ。
われわれが出迎える五軒屋町の昭和大通りからカンカン場まで人・人・
人である。

南上町は大正11年の岸和田市制が始まったときからの町であるが
だんじりがなかった。
もともと大きな面積の町であるが、昭和40年頃までは住居がまばらな
農村的町だった。
けれども昭和60年頃からマンションや住宅が増え、今や2000軒の
世帯数という。
この町の若者はこれまで岸和田旧市のそれぞれのだんじりを曳いていた
者が多い。
わたしの五軒屋町にも南上町に住む者が長い間曳きにきていて、今回の
ことで五軒屋町の祭礼団体をやめ自分の町に帰っていた者がいる。
よそからの参加は、何かとその町に遠慮することが多いものだ。
それが自町にだんじりを所有し、やっと念願かなってこの日を迎えた。

83年に有志が祭礼団体を結成、93年に小型だがだんじりを買った。
その後は、祭礼に自町内の範囲でだんじりを曳く「町内曳き」にとど
まっていた。
また祭礼町会連合会はじめとした祭礼団体に参入を願い出、また若頭連
絡協議会などにも参加する。
そして去年、中北町の新調にあわせてその現役のだんじりを譲り受けた。
すでに20年の月日が流れている。
その頃、青年団だった者は、後ろに回り、若頭をやって、もう祭礼最後
の世話人になっている勘定だ。

来た、来た、来た。
カンカン場方面から、南上町の纏が見えてくる。
初めて見る纏で、どこか藤井町似ている。
先頭によく知った同級生の顔が見える。法被を着た上町の世話人であ
る。上町は隣の町なので多分、初曳行を滞りなく行えるようにと手伝っ
ているのだろう。
「ご苦労さん」「おはようさん」という言葉をかわす。
以前、五軒屋町で一緒にだんじりを曳いていた先輩のSさんが、
交渉責任者のタスキをかけて走っている。
まっさらの祭装束。まっさらの飾り物や幟。
初めての昭和大通りの勾配はどうですか。旧国道26号線を渡るとアー
ケードです。
大音響は気分がいいでしょう。

鳴物がきざみに変わる。
大工方が飛び、その半纏が風にはためいている。

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