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地車や、ちゅうねん

5月20日(日)

南上町の入魂式が来週27日にある。
わが五軒屋町はその入魂式に正装にて出迎えるのであるが、オレは今年から世話人である。
だから祭衣装が新たに替わる。
こういうことに関してはM人はうるさい。
今年世話人に上がったメンバーすべては、テーラータカクラのM人の見立てにより薄手の最高の生地で新しい法被を発注した。
祭衣装は法被つまり半纏と腹掛け(大工や人力車の車夫が着ている、ランニングのような下着で、後ろで襷紐がクロスしているアレ)、バッチ(股引)、地下足袋と鉢巻きだ。
腹掛けは浅草中屋のもので、紗綾柄を別注した。
あちらの「江戸腹」つまり江戸製の腹掛けは、首廻りと襷紐の部分のデザインがどこか洒落ている。
しかし岸和田地車の半纏は胸紐で締める軽快なもので、三社祭や深川祭の御輿祭に着られる帯締め半纏と比べて丈が幾分短い。
なので腹掛けの丈も短くないとバランスが悪い。
その微妙なところをM人は知っていて、中屋にあれこれと注文をつけてくれる。
ついでに同じ紗綾柄の生地をあらかじめ浅草中屋から入手して、新調する半纏の裏袖と裏生地に使うように、岸和田随一の法被製造「紺善」に指示してくれている。
半纏Vゾーンから覗く腹掛けの柄、および袖口からちらっと見える裏生地、そして半纏の背中の「五」マークの縁くくり部分と枠額縁と肩にある白染め抜きのわずかな部分が汗で濡れるとその紗綾柄がかすかに透けて見えるようにと凝りまくりである。
また去年までの若頭の頃と違って、世話人の祭衣装は白バッチ(若頭は前梃子、大工方を以外は黒バッチ)なので、白のバッチつまり股引と白の地下足袋を新たに購入する。
その度にこうして岸和田に帰ってテーラータカクラで、試着したりでわいわいと喧しくやっているわけだ。

南上町は岸和田旧市地区であるが、だんじりは史上初参加だ。
これで岸和田旧市のだんじり祭は22台になった。
只今わたしは320ページもの「岸和田だんじり讀本」を執筆編集中なので、その南上町についての草稿を記念すべきお披露目式に際し特別に披露させていただくことにする。

22、南上町地車

 南上町は岸和田市上町の南に位置する元岸和田村の一部である。町の成立は岸和田町時代の大正二年(1913)一月一日に遡る。当時は一面が田畑で数戸を有するほどの町であった。
 だんじりの所有は町成立以来一度もなく、子供たちが車輪をつけた木箱を引っ張ったりしてきただけであった。
 その当町が昭和五十八年(1983)十一月一日、子供たちに自分たちの町の本物のだんじりを曳かせてあげたいと若者数人が中心となって青年団を結成したのである。そして廃品回収や草刈りなどで資金を集めた。さらに平成五年(1993)七月には子供たちのためにも是非とも南上町の地車曳行を実現したいとの思いから、旧市祭礼参入を目標に若頭が発足し、祭礼組織の基盤が出来上がる。そして同年、町内の植山工務店の好意により子供地車を曳行出来る運びとなる。
 平成七年七月には廃品回収などで集めた資金をもとに、有志にて高石市より地車を購入し二代目地車となる。その際、初代地車は地車祭り発祥の三の丸神社へ奉納されている。
 悲願である旧市参加の大きなステップとなるべく、そして21世紀への飛躍としたい思いから、三代目となる地車を有志にて岸和田市尾生町から購入する。この地車は平成十二年七月十六日に入魂式を行い、平成十三年七月には正式に町の所有となった。さらに平成十四年十二月、旧市祭礼町会連合会に対して、旧市参入願出書を提出し、正式に旧市参入を表明する。平成十六年四月、旧市祭礼年番において南上町の平成十九年からの旧市参入の協議がなされ、条件付にて了承される。そして、明くる平成十七年からは旧市祭礼組織に加盟し研修と警備にあたる。
 こうしたステップを経て南上町は平成十八年八月六日、岸和田市中北町の地車新調に伴い旧地車を譲り受け入魂式を行う。そして平成十九年五月二十七日、その地車を化粧直しして旧市各町に参入の挨拶と地車のお披露目曳行を行い、二十数年来の悲願であった岸和田旧市地区参入の夢が叶ったのである。
 この地車の特徴を見ると、番付標には韋駄天が取り付けられている。これには当町が岸和田城の南に広がる土地から南方を守護する増長天の八大将軍神の一つであることと、「韋駄天走り」の言葉の如く地車が疾走できるようにとの願いが込められている。纏は屋久杉材に町紋が彫られ下に馬簾をつけたものである。(泉田祐志)

テーラータカクラで白バッチのサイズを合わせて、今度はスポーツショップ・ロブにて白足袋を購入。
この店の地下足袋はエアソール内蔵のもので、このハイテク採用によって、長年苦しめられた膝にくる「だんじり腱鞘炎」は激減した。
そこからこの「だんじり讀本」のデザインをしてくれている「あなたの籔内」宅へ、書き手の泉田、萬屋両氏と打ち合わせに行く。
籔内氏の弟は奇しくも今年初参加、南上町の若頭筆頭をしている
この本はすべて岸和田旧市のだんじり関係者でつくっている。こういう仕事はやりやすい。やりやすいけど内容に玄人好みに過ぎる嫌いがあり、岸和田の一般読者には何のことかわからない専門用語や固有名詞が頻出している。岸和田の一般読者がそうであるなら、それ以外のその他大勢大多数はどうであろうか。
けれどもわたしを含めて書き手の三人は、旧市の祭礼関係者が出すのだから「出して恥なものは出せない」という意識の方が強い。
その匙加減が非常に難儀なのである。

ぶっ通しの打ち合わせ5時間あまり。南海岸和田駅まで泉田氏にクルマで送ってもらい、気がつくと昼飯も立ち食いうどんのみで腹が減ったので「喜平」に寄る。
がらりと扉を開けると、平成15年度に一緒に若頭筆頭をやった中町のOさんグループと、大手町の今年の若頭筆頭の山本紀博くんがいた。
大手町若頭は今年は若頭責任者協議会の副会長に当たっていて、浜七町のまとめ役であるから山本くんは去年の引継から今年の祭礼が終わるまでのこの1年間は、想像を絶する多忙な日常であることだろう。
山本くんとは平成11年12年と2年間、若頭連絡協議会で一緒になった、いわば他町同士で同じ釜のメシを食った仲だ。
そういう昵懇の関係だからオレのことを「ひろきちゃん」と呼ぶ。
上がってきている校正が、喜平のご主人・Nさん始めみんなに回る。
山本くんは「今、うちのだんじり、彫りもん洗いにかけてる最中やし。金網も梯子もはずしてるよってビカビカやで。写真撮ってるよって、せっかくやし、それ載せてよ」と言ってくれる。
このオープンソース極まりない親切さが岸和田だんじり野郎の真骨頂である。
こちらもせっかくだから「だんじり讀本」での大手町のくだりをここにご紹介することにする。

大手町地車
 岸和田城大手門の浜手にあることから名づけられたのが大手町である。
 かつての町の風景には、江戸末期の外敵の来襲や、風向、潮の干満などを調べていたという潮見櫓があった。
 大手町地車は、太平洋戦争が始まる一年前の暗い世相の時代に新調されている。昭和十五年(1940)の新調で、大工棟梁「大宗」こと植山宗一郎師により作事され、彫物責任者は美木彫家・木下舜次郎師である。舜次郎師が岸和田旧市地区で初めて請け負ったもので、その名が知れ渡って行く足がかりとなった地車でもある。助は弟弟子・松田正幸師、そして不運の名匠・川島暁星師である。
 土呂幕三方は「太閤記」の図柄で構成されており、特に正面土呂幕の「秀吉本陣佐久間の乱入」は見る者を唸らせる迫力と魅力がある。正面に馬乗り武者二体を彫り込んで合戦する姿には躍動感があり、特に佐久間玄蕃の秀吉目がけてまっしぐらに突っ込んで来る顔の迫力には圧倒される。また奥行きも大変深く、一層重厚感を引き立たせている。木下舜次郎師の腕の冴えを感じる作品である。
 昭和五十八年大修理に取り替えられるまでの松良は、構図よく繊細に彫られており、素晴らしい作品であった。これを見本として彫られている松良も多い。現地車の松良は舜次郎師の実子で次男の木下頼定師の作品である。
この地車は並松町の大型地車を見本として作事されたもので、新調された時には今少し大きかったといわれている。何とも美しい格好に絶賛を浴びたという。また、金綱の吊り下げの玉は珍しく、当町だけのものである。
 現在の纏は「大」図案に「手」の字を配した町紋の三方正面に白毛と馬簾をつけたものである。かつては千成瓢箪に五色の馬簾付きのものであった。面白く洒落っ気のある纏としては、大きくくり抜いた手形に大の字を書いて町名の「大手」に掛けたものがあったことを思い出す。
 先代地車は大正十一、二年(1922、23)ごろ新調の櫻井義國門下で甥であった藤川宗太郎師が作事したものである。彫物責任者は三代目黒田正勝師であり、その下絵は義國師の図柄であった。義國師は見送りの馬乗りと墨引きを引き受けたという。現在の貝塚市馬場地車である。先々代地車は、現和泉市尾井町地車で明治二、三十年代に「大駒」こと大崎吉造師により作事され、彫物責任者は宮地弥津計師である。


5月21日(月)

終日だんじりな日曜を終え月曜日になると、テレビで「三社祭 乗った男を逮捕」というニュースをやっていた。
その話題は、神が乗る御輿の上に人が乗るのはあってはならないことであるのにかかわらず、去年御輿に乗った者がいて、それが原因で御輿を破損して宮側は困惑した。
今年は乗るようなことがあれば「宮出」を中止するかも知れないと通達していた。しかし無視して乗った者がいて、警察は迷惑防止条例で3人を逮捕した。そういう趣旨だった。

アナウンサーは冒頭、「山車と御輿の違いをご存じですか」と言って、「祭に出る山車(地車や!)は乗ってもかまわないもので、代表的なものに岸和田のだんじり祭があります。一方御輿は神さまが乗るから乗ってはいけないもの。あくまでも担ぐもので人が乗ることは神への冒涜になります」と説明していた。

映像では「岸和田の山車」(地車や、ちゅうねん)と「浅草の御輿」を同画面に並べて再生していた。
岸和田だんじりの映像では、大工方や前板に乗る町会長や曳行責任者、そして腰廻りにたかる若頭が映されていたが、やっぱり下野町がカンカン場の遣り回しで電柱をへし折る危機一髪のシーンと、紀州街道の難所「内町門の枡形」通称S字で大北町が取りすぎて、民家に派手に激突するシーンがまた登場していた。
後者の映像は激突はともかく、前梃子の熟練の技のキレが完璧に捉えられている。
このシーンは今から15年くらい前の「スーパーテレビ」で放送されたもので、何年前の映像やねん、と言いたくなるものだ。

その後のメインである今年の三社祭の映像では、御輿に乗る者に対し警察が「これ以上、日本の伝統を汚すのはすぐにやめなさい。速やかに御輿から下りなさい」と拡声器で警告しているシーン、担い棒の上に人が乗っているところ、そこから落ちて怪我をしたのか救急車で運ばれるシーンとつながれていく。
御輿に乗った者は入れ墨者で、墨を誇示するように褌一丁の裸体で乗っていた。

近代に出来た警察から「日本の伝統うんぬん」といわれるのも恥ずかしいが、御輿の担い棒の上に脚を開いてへっぴり腰で乗る姿は、同じ祭を愛する者としては見る方が恥ずかしい、見ていて情けなかったのである。
古来、地車を先導する御輿に乗るのはもってのほかだ。
だから御輿は人が乗るような場所はどこにもない。
またよしんばそれが中学生の運動会の騎馬戦でもいいが、あの身のこなしからわかる運動神経と精神状態では、大工方として疾走するだんじりの屋根の上で立つことすらできない。だから遣り回しができないから祭にならない。
なんだか田舎の子どもだんじりを見ているようで、おまえらは祭衣装だけかと浅草にがっかりした。

岸和田では江戸中期からその伝統を引き継ぐ「祭礼年番」制度が、この荒っぽい祭を仕切っている。
江戸時代からの古文書には、祭礼に関しての幕府つまり藩からの再三のお触れが残っている。
享和二年(1802)の祭礼中の風紀が乱れ、口論等があったことに対してのお触れはじめ、天保三年(1832)には、大北ノ浜が祭の前日にだんじりを曳いたため祭当日は出すことすら差し止められた。
だからこそ町民や漁師たちは「自主規制、自主警備」をうち立て、現代では各町選出の年番さんの元、警察がその手伝いを行ってくれている。

今、手元にわたしが若頭筆頭時の平成十五年度祭礼年番から渡された冊子「岸和田地車祭礼実施要領」がある。
それには40級くらいのどでかい教科書体でかかれた「主要行事」「地車曳行上の遵守事項」や「地車のすれ違い・追越し」「纏の位置」という項目に並行して「総括責任者並びに地車曳行責任者および各部署担当者の遵守事項」というところがある。
そこにある「一、乗車人員の制限」の後には、「一、地車曳行に参加させてはならない者」とあり「(ア)各町で定められた装束を着用していない者。(イ)酒に酔った者。(ウ)裸体者。(半裸体者も含む)。(エ)暴力団名等を表示する者。(オ)暴走等事故につながる行為をあおり、そそのかす者。」という五つの項目が明記されている。
「以上の各事項に該当する時は、期間中又は一時地車の曳行を禁止する。」
これが岸和田祭礼の「自主規制」のほんの一部である。

規制事項があるということは、昔からそういうことがあり祭が紛糾し、それが原困で祭礼が出来なかったほかならない。
(ウ)は、祭だからと全裸になる者に対しては「やめんかい!見てて恥ずかしいわい」であり、それは墨の入った肌を誇示する「半裸体」も同様だ。
祭に際して、特攻服や暴走族やタケノコ族の衣装を着てくるようなヤツ(ア)には「お前ら、なんちゅう格好してるんや! 早よ帰れ」だし、(エ)組の紋が入った法被は大売り出しの法被と一緒で「祭用の法被着てこい!」である。
しかし「(イ)酒に酔った者。」は、「酒を飲んだ者。」さらに「今、酒を飲んでいる者。」ではないので「一、地車曳行に参加させてはならない者」に該当しない。
そこが道路交通法とは違う。酔っぱらい運転はアカンけど、酒気帯び運転はかまわない、ということになる。
いずれにしろ祭礼で死人や怪我人が出るとそれは終わる。
最後にある「一,曳行停止規定」には、はっきりそれが明記してある。
「(ア)町相互間における暴力行為。(イ)人身事故。(ウ)警備に携わっている者に対する暴力行為。(エ)自主規制に故意又は重大な違反行為。(オ)重大な物損事故。」

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だんじり讀本楽しみにしてます。

若頭日記は嫁はんの教育テキストとして使わせていただきました。

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2007年05月25日 18:40に投稿されたエントリーのページです。

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