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2006年03月 アーカイブ

2006年03月01日

退社のことば

2月27日(月)

ご報告。

本日2月27日、株式会社京阪神エルマガジン社を退社いたしました。
みなさん長い間、ありがとうございました。

今、こうして自宅のデスクの上で何を思い出しても、とてもおもろく愉快だったです。
とりわけ創刊準備から、17年間にわたって担当させていただいた、月刊誌『ミーツ・リージョナル』でのあれやこれやは、忘れない思い出となることだと思います。

読者のみなさま、クライアントさま、取材先のみなさま。
取り次ぎ、書店、印刷会社、広告代理店、その他の関係者の方々に、あらためて御礼申し上げます。

また、『ミーツ』はじめ出版物づくりに一緒にかかわっていただいたみなさま。
編集と街そして、だんじりしか能がないわたしと付き合っていただいて、ありがとうございました。
おかげさまで気持ちよい日々をふくよかに過ごせました。
本当に感謝しております。
ありがとうございました。心より。

2006年03月13日

うれしはずかし、二十歳の笛

3月5日(日)

フォーラム「泉州とだんじり」第4回目。
今日のテーマは「だんじり囃子~これまでの鳴物とこれからの鳴物~」。
コーディネーターは「民の謡」代表の篠笛奏者・森田玲氏である。
わたしは岸和田市青年団協議会会長の塚本浩治くんとゲストで出演。

森田さんの基調講演は、だんじりを語る時に、例えば本体の各部位は土呂幕、見送り、枡合…のように名称が付けられており、「○×町の土呂幕の川中島の合戦は△×の彫り師で~」とか「□×町のだんじりは大工×○の大正○年作で」とかで会話が成立するが、鳴物に関しては鉦太鼓の拍子の種類や旋律、笛の運指などを示す共通言語が存在しない。
青年団が受け持つ鳴物係は、曳き手のかけ声やスピード、ひいてはだんじり全体の動きを左右する重要なパートだが、実際には楽譜もない各町伝承のもので、「チキチン・ドコドン」といった口唱歌とも言い難いその場しのぎの一時的な伝達手段を用いることで精一杯である。
このような状況であるから、旺盛なだんじり話のなかでもあまり正確な議論になりにくく、上手/下手の単純な判断で話題が完結してしまう。
だからまず「鳴物を語る」ための基本用語をつくらなければならない。
加えて最近の拍子においての「均等打ち」化、極細管の流行による笛の旋律の単純化と音量の減少についての問題。
これも鳴物に関する議論が少なく、鳴物担当者のみにそれを任せていたことが一因で、観客も含めてだんじり関係者において、鳴物の議論ができる空気を早急につくらなくてはならない。
岸和田型だんじりの普及に伴う岸和田だんじり囃子のさらなる発展と、伝統の継承を望む。

というものである。
だんじり囃子が年に1回聞こえる、泉州~河内地方以外の人には、何のことか解らないだろうが、われわれには解りすぎるくらい解るテーマである。
この日は、前回にも増して大入り満員。 すごい数の立ち見客だ。
年齢層も小学生高学年からお年寄りまで。女性も2割程度いる。

まず和服姿の森田氏が登場して、丁寧なレジュメに沿って、拍子の分類つまり、練りあし・並あし・半きざみ・きざみといったテンポの違いについて説明。
八木地区のだんじり囃子と岸和田旧市のそれとの分類比較など、実際に青年団の鳴物係に取材したり、長年祭礼の実況を収録し続けた結果、めまぐるしく変わるその拍子をこの4つの分類名称に収斂させた。
実際、うちの五軒屋町の場合、「練りあし」が「宮入の時のゆっくりのトンコトン」、「並あし」を「(普通の)トンコトン」、「半きざみ」を「曳き出し」と称している。

岸和田のだんじり囃子は、完全に大阪・天神祭のだんじり囃子からの影響を受けているとされる。
その天神祭の囃子拍子はテンポに関わらず「均等打ち」である。
ところがいつ頃からそうなった、というのはわからないが、練りあし・並あし・半きざみの拍子を叩く際、岸和田囃子は1拍目と2拍目を開ける拍子になり、それが固定される。
だから「トン・コトン」である。
そして安永九年(1781)には71台のだんじりが宮入をして盛んだった「均等打ち」の天神祭のだんじりは廃れ、文化文政期から「トン・コトン」の岸和田だんじり祭が興隆する。

和泉国一宮の堺・大鳥大社にもだんじり祭がある。
現在、宮入するだんじりは8台。
その中でも北王子のだんじりは、宮入時に独特の囃子を演奏する。
それが大鳥囃子で、この日、北王子青年団の鳴物の実演があった。
全員法被姿にねじり鉢巻。本番さながらである。
題して「大鳥囃子」。
拍子は完全に「均等打ち」だ。そして大太鼓の枠打ちもあり、拍子はそのままスローからだんだん早くなったり、アップテンポから遅くなったり自由自在だ。
岸和田の場合は(沼町は例外)、拍子(テンポ)を変える際には一旦、鳴物を止め、切り替える。つまり叩きなおす。
だからそれが、リズムとしてゆっくり練る(歩く)、走りだす(曳き出す)、走る、の合図とその動作を強い、持続させる。
つまり並あし・半きざみ(曳き出し)・きざみの切り替えが、だんじりのスピードとその動きを統御するのだ。
とくに「遣り回し」がそのシンボルである岸和田だんじりの場合、その際の鳴物の演奏いかんによりその遣り回しを左右するといっても言いすぎでない。
そしてこの大鳥囃子は、宮入の際だけに演奏される奉納囃子のような位置づけで、曳行の際は岸和田と同じ「トン・コトン」だそうだ。
むべなるかなである。

泉大津・出屋敷青年団の「七段返し」の鳴物実演もある。
こちらは、どんなテンポでも大太鼓の奏法は一定で、聴く者を非常に安心させるという森田氏の解説があった。

第二部に入り、岸和田を中心に鳴物の聴き所紹介だ。
CDを駆使して各町の特徴あるだんじり囃子が、ボリュームを上げて順に紹介されるが、年に1度しかない祭の瞬間をこのように収録して発表する森田氏の「好きこその執念」でこれは独壇場だ。
堺町、北町、南町、並松町、大工町。
40年以上祭をやっているわたしにはどの町の演奏も聴いてそれ、とわかるもので、説明を求められる。
「堺町のきざみは、ワンセンテンスごとしっかり開ける特徴があります」
「並松町の曳き出し時の際の太鼓は、遣り回し時にも決してきざまない。そこが粋です」
「これは大工町の宮入の際の太鼓で、年に一回だけのコナカラ坂を遣り回す際の特徴ある大太鼓に注目してください」
などと鳴物を中心に、本番さながらの録音にコメントをつける。

上町の宮入囃子である七五三、南町の鳴き笛、中北町の仕舞太鼓、沼町のオシャシャン(1月27日の日記参照)などなど、とてもコアなだんじり囃子の特殊旋律の紹介もあった。
これはおまけ、というかわたしとへのサービスだろう、約30年前の鳴物をやっていた頃、縁あってコロンビアレコードに収録したことがあったのだが、その時の五軒屋町の鳴物の録音紹介があった。
笛を担当しているのは20才頃のわたしである。
実際に流され拍手を受けるが、ちょっと恥ずかしい。
昔のことは昔のことである。

質疑応答になり鳴物伝承と町内組織、90年代以降の若者の洋楽傾倒によるだんじり囃子の影響…こちらが顔負けするほどのものすごく熱心な質問に、塚本くんと丁寧にお答えする。
最後に事務局長の吉房さんが、ノートにびっしりメモを取る小学生の男の子が紹介される。

気が付けば4時間。
次回第5回目3月19日は「だんじり衣装と装飾」、最終回6回目は「だんじりの1年」。
最終回はわたしのコーディネートである。
「祭の2日は人の1年や」の岸和田だんじり的地縁共同体の社会学~現象学と、祭の全てを構築するだんじりコミュニケーション、語法などなどについて言語学的にアプローチしたい。

2006年03月16日

だんじり学会

3月16日(木)

平成11年の若頭連絡協議会に一緒に出ていた、下野町の奥さんから「だんじり学会」というものを創ろうとしているのでぜひ研究成果を発表してほしい、というオッファーが年明けに入っていて、「だんじり学会」てすごいなあ、そしたら我が町のM人M雄のコンビは前梃子部会の講師やなあ、などと笑っていた。
奥さんは京都嵯峨芸術大学の非常勤講師をされている。
そうしているうちに、本当に案内状が届いて、「ところ:岸和田だんじり会館 報告者:江 弘毅 テーマ:だんじりとコミュニティー」というのがあった。
仮称ではあるが「だんじり学会準備委員会」の第2回目だそうだ。

時間の30分前に行くと、奥さんがいて、続々とメンバーがいらっしゃった。
羽衣国際大の山田学長と小川専任講師、同志社大の石田教授、奈良県立大の坂西助教授、神戸大大学院の竹内さん、龍谷大の高倉さん…といった学識者の方々、岸和田市産業部の原課長、熊取町政策推進部アドバイザーの井上さん、「だん吉友の会」代表の〆野久寿喜さん、「だんじり研究会」代表の永谷さん…がメンバーである。

あらかじめレジュメを用意するように言われていたので、寄り合いをベースとした「新しい地縁的だんじり共同体」と「家族」「会社」とは違う「第3の社会」の求心力およびその倫理観、加えてだんじり祭を支え、統御するエクリチュールつまり語法と言葉遣いについて、と少々根性の入った文面を作成している。
これは双方「本気」である。

それに沿って10数名の方々に、この長屋での考察をはじめ、あれやこれやと約40分話す。
神戸大の竹内さんは、明石から遠路はるばるいらっしゃているのだが、この内田先生のHPのファンで、「よく江さん、麻雀とかの話で登場しますね」とちょっと怖いコメント。
甲南麻雀連盟が本年度に入っての「江帝国の凋落」もご存じなのか。
熱心にこの長屋ブログを覗いていただいている人は、各界問わず多く、岸和田市立女性センターからも昨年の10月5日にアップした「だんじり現象学」を資料として使いたいとのお申し出などがあり、「日本一だんじりなエディター(@内田樹)」としては、うれしい限りである。
そして、わたしもこの長屋の大家さんの作法通り、ここで書いたものは全てコピーフリー、剽窃フリーそしてリンクフリーであることを再アナウンスしておく。
そのお手紙には 「紹介は出典を明記した上で」とありますが、そのようなことは「お気遣い無用」です。

わたしと奥さん以外の面々は、だんじり会館の見学である。
わたしも奥さんも実際に生まれてこのかた実際にだんじりをやっているので、体験コーナーで鳴物を体験しても、27面マルチスクリーンで映像を見学しても仕方がない。
だから2人で、エスカレーターに乗られて展示室に入られるみなさんをお送りし、見学されたみなさんのお帰りを待つ。

土砂降りの中、帰りの南海電車で奥さんと「京都検定」ならぬ「岸和田だんじり検定」というものができないか、というとんでもなくおもろい検定&出版企画の話になり、「それは、岸和田観光を大いに盛り上がること、まちがいなしですなあ。岸和田市の商業観光課あたりが、予算取れまへんかねえ」とか「試験問題で、筋海町の彫り物のうち、西本五葉師が彫刻したのは土呂幕に一面だけあるが、正面・右・左のうち、どこか答えよ。とか超マニアな問題、つくったらおもろいですやろ」などとガハガハ笑いながら、ついにはペーパーテストのみならず、「鳴物、綱元、前梃子とかの実技試験もあったら最高ですなあ。クルマの免許でも原付はペーパーだけでっしゃろ、上級免許は実技いりますやん」とかいった話で盛り上がる。
せやけど、実技は誰が検定の試験官しますんや、これは揉めまっせー。

19日のシンポジウムのことを思い出して、同じゲストの泉田祐志氏に電話を入れる。
テーマは「だんじり衣装と装飾」であり、大工や彫刻師についてのお題と違って、今まであまり触れたことのないテーマで資料も少ない。

岸和田だんじり祭は、だんじり本体の構造や彫刻や大工仕事について語られることや、その歴史をひもとく研究に終始されがちだったが、社会学、言語学、音楽や服飾などなど、違う分野、観点からのアプローチがようやく始められようとしている。

2006年03月20日

第五回だんじりフォーラム

3月19日(日)

フォーラム「泉州とだんじり」の第5回目が終わって、それを書こうとして家に戻って長屋に帰ったら、いきなり「アオヤマの乱れ髪鉄火場勝負」というたいへん大げさな表札のかかった店子が増えていた。
読むとミーツ元副編集長・青山ゆみこではないか。
なるほどそういうことになっていて、この内田長屋に入ってきたのだということがわかる。
これは歓迎である。けど火事だけは出さんといてくれよ

さて今日のだんじりフォーラムは、祭衣装とだんじり本体の装飾についてで、創業100余年の法被染織の「紺善」の若きご主人・川崎勝さん、纏・幟・旗制作「千野屋」三代目の千野高司さん、バッチ・腹掛け・地下足袋の祭衣装の「大阪屋」の竹谷和雄さん、そしてわたしの「だんじり日記」しばしば登場するだんじり博士の泉田祐志くん、それをまとめるコーディネーターは岸和田だんじり会館初代館長の松山勉さんという顔ぶれ。

300年以上の歴史を誇るだんじり祭だが、祭衣装についての文献・資料はほとんどない。
松山さんは1796年頃の刊行とされる「摂津名所図会」の天神祭の車楽(だんじり、とルビが振ってある)をひもときながらその姿を考証する。
戦時中の出征兵士をだんじりに乗せて駅まで運んだ話とかがからみ、なかなか聴くものを飽きさせない。

続いてマイクが泉田氏にまわり、Q&A形式で「紺善」の若主人・川崎さんの法被の染めと生地取りの説明。
岸和田だんじりの法被は、黒または紺をベースに、赤や朱を差し色に使われるところが、めでたい祭衣装らしいところだ。
一枚の生地で、背中、前身頃、袖、襟が取られ、染めは赤、紺または黒の順で染めていく。
それまでは、型紙を切って図柄や意匠の版をつくっていた、だから職人技だったし型が経年変化で縮んでしまうことがあり、以前のものを使う時、背中の「印」が小さくなって「3年前のものと違うやないか」となった。
これは祭を長年やっているものには、記憶がある。
しかし、このところコンピューターからダイレクトに版をこしらえるからその心配はないとのこと。

大阪屋の竹谷さんは、だんじり地下足袋の衝撃吸収材を研究開発した方で、この発明によって膝、腰の故障が激減した。
その苦労話やこの発明によって過去のアイテムになりつつあり、倒産しかけの地下足袋メーカーを救ったエピソードなどで大いに笑いを取った。
この地下足袋は今やエアソールを導入し、毎年バージョンがアップされている。
全国の同じ系統の祭参加者や観光地の人力車の車夫におなじみのハイテク地下足袋である。
その話は旺盛かつ快活、これぞ岸和田商人である。

千野屋さん特製の纏は頭部がグラスファイバー製で、走りながら纏を踊らせなければならない纏持ちの重労働を軽減。
さらに金糸の縫い取りが施され高価な幟や町旗の流行素材と、衣装同様に時代と祭禮が一番リンクされているのが装飾物と判明。
こういう祭関連の職人さん、商売人さんの話は、とてもレアで興味深い。

わたしは印半纏においての火消し半纏、仕着せ半纏、祭半纏の分化説、そして五軒屋町の場合の化粧つまり装飾の段取りと仕方を青年団の幹事長から貰ってきたファイルを見ながら説明。
「こんなのは私たちの時代は、マニュアル化されてなくて、若頭から怒られながら、だんじりや赤幕や金綱、旗・幟を直にさわって、体で刻み込まれるように覚えたもんです」
というコメントも忘れなかった。

2006年03月23日

エラいごっつおやなあ

3月21日(祝)

生野の今里新地に、1軒のてっちり屋がある。
その店は「泳ぎてっちり」1人前1980円で大ブレイク、平成8年東京へ別名で進出し、今や都内22店舗の大ふぐチェーン店に成長した。
もう15年以上も前のことだが、ひょんなことからここの店のオープンに遭遇し、S社長と知り合いになったのだが、大阪の商売人とはかくやのお人柄と、ふぐにかけての愛情はすごいのひとことである。

わたしすなわち江弘毅やライターの堀埜浩二くんやフードジャーナリストの門上武司さんは、ミーツ始めいろんな雑誌にこの店とこの人のことを書きまくったが、小説新潮の「大阪学」の連載で曽束政昭が今里新地のこの店の経験を書いた実録コラムは忘れられない。

オレは実家が岸和田で、同じ町内にふぐ博士・北浜喜一さん(「ふぐの博物誌」著者)の「ふぐ博物館」を併設したふぐ料理「喜太八」があったり、だんじり祭の宴会やその他いろいろで、てっちりに親しむ楽しい人生を送ってきた。
堀埜くんは、日本有数の度胸千両系男稼業事務所とふぐ屋密集地帯であり、飛田新地を有する西成区育った。
てっちり、 鮨、焼肉を「三大ごっつぉ」と定義するする彼の説は、未だ軸足がしっかりしていて揺らぐことがない。
われわれは「日本一のてっちりなエディター&ライターの甘く危険な日々」を送ってきた、といっても過言ではないのだ。

さててっちりである。

またの名を「鉄砲」と呼ぶこの魚がこと魚介類においては「大人の味覚」の最右翼に位置することは、説明不要であろう。
人を愚弄するかのようなとぼけた表情からは想像しにくい、エレガントで淡泊な身。
独特の歯ごたえとゼラチン質特有のトロリ感にうっとりする皮。
ぼてっとプリティなルックスの中に、およそ旨みというものを凝縮したような複雑な甘みを持った白子。
そして「鉄砲」の語源たる、禁断のキモの存在。
単体の食材でありながら、多くの味わいとレトリックに彩られたフグは、常に大阪浪速的「イテマエ気分」を満たせてくれる。
さらにフグを使った料理の究極の姿が「てっちり」、すなわちタテめしにおいて最もシンプルなレシピの「鍋料理」である点も実に渋い。

確かにてっさも焼きフグも旨いが、アチアチと手で「アラ身」をわしづかむやほろりと骨から離れる白い身と、きりっと締まったポン酢のコンビネーションは、男たちを至福の境地へと運んでくれる。
…勢い余って「男たち」と書いてしまったのではなく、フグはやはり男の食べ物であることも、この際断言しておこう。

ミナミでも少し外れの、旧いゆえ場末となった萩ノ茶屋や今里あたりのてっちり屋で、少人数かつ言葉少なに鍋を囲む。
当然のようにアラ身だけをどさっとぶち込む。フタをする。
誰かが丁寧にアクをすくう。
「おう、もういけるで」の声で一斉に箸をのばす。
そして「うまいのお」と時々唸る。
女子供の介在しない、そのようなシーンにこそ、フグは相応しい。
だからこそミナミで「そんなシーンの外食」が中心であるところの、つまり「そんなジャンルの人々」に絶大なる支持を得ているわけだ。
逆に「フグってアタるンでしょ、コワ~イ。でも食べてみた~い。」なんてネエちゃんが集まって、てっちりを囲んでいる風景を想像して見給え。
それで我が国の将来が憂いてこないとしたら、こら相当にヤバイ。
このの典型的な「ごっつぉ」感覚は、てっちりが最右翼であり、下町それも大阪でしかないものだ。

ときおりネオ文壇グルメな書き手が、東京方面の雑誌などでしきりに高級料理の粋(すい)として「ふぐちり」や「ふくさし」のことを、ボルドーの銘醸ワインをぐるぐる回して飲んでいるかのように記述するのを見るにつけ「違うねんなあ」と思うのは、大人の味覚をプレステージやステイタスとして認識している浅さ、つまり「グルメの水準」でそれを語ろうとする「非」街的感覚が鼻につくからだ。
「てっちり」や「てっさ」は、粋(いき)がりでちょっとヤクザなところが「味」なのであって、「高くて旨い」のではなく「旨いけど高い」という大阪弁でいうところの「旨いもんの値打ち」を誤解している。
「てっちりかあ、エラいごっつぉやなあ」は高さ安さに関係ない。そこを分からんとなあ!

これは堀埜くんがちょこちょこっと書いたものを元に、わたしが大幅改稿してとある文芸誌に寄稿したものだが、曽束政昭は「大阪学」で、スバリこの店で大胆に出されるキ×について書いた。

キ×は日本国内すべてのところでは出してはいけないはずだ。
加えてキ×のことを書いている文章はほとんど見たことがない。

ところがこの店では、突き出しにも出てくるし所望とあればドカンと丼で出てくる。
白子は確か2千円ぐらいだが、キ×は出したらいかん、ということになっているので無料である。

この日はS社長の招きで、東京から来阪されていた水産関係の研究者・I成さんと一緒に今里新地を訪ねた。
東京のスタッフが2名「研修」ということで来ている。
「すごいとこですねカルチャーショック、受けました」と東京弁でいうスタッフに、社長は「ここから始まったんやで」と説明している。
「今日もそうやろ。この辺は、業界の人が食べてる横で、子供連れの家族とか若いアベックが食べてるちゅうのが普通なんや。ねえ、江さん」とオレに相づちを求めるから「大阪広しといえど、こんな風景は多分この街だけですわ」と付け加える。
キ×については「ここらへんでは出さんと、あいそないなあ言われますけど、東京はあきまへんねん」だそうだ。

東京で初めて出す店舗は歌舞伎町で、それが正解だった。
初めは客がパラパラ状態でやっていけるのかと思ったが、場所柄、関西の「業界の人」が出張で来ることが多くて「おお、なんやあんたがやってるんかいな」と口コミで広まって、見る見る一杯になり、渋谷、赤坂、銀座…と出店することになった。
なんでこんなに安いの、これってとらふぐじゃないんじゃないの、とよく訊かれたが、東京人は全くふぐに対しての舌ができていない。
ことなどを豪快に話してくれる。

皮とキ×の突き出し、てっさ、白子焼きと続く。
おお、極上の白子や。
誉めると、「昼さばいてたら、ええのんが出てきて、これ取っといたろ思てましてん」とのことで、この人は、ほんまに大阪人やと感心する。
びりりとくるこだわりの手搾りポン酢は相変わらずだし、「お好みでどうぞ」と今日は特別に薬味のひとつとしてキ×をすりつぶしたゲル状のもの(何ていうのだろう)もたっぷり出てきた。
焼きふぐ、唐揚げ、鍋へと進む。
どかんとキ×。なんちゅう量だろう。

ちょっとビビってしまったオレは、きょうは胃がもたれて脂っこいもんあきまへんねん、と遠慮するのだが、特大の白子をどんどん鍋にぶち込んで頂くのであった。

てっちりの育ちはこわい。そしてオレも大人になった。

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