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2006年04月 アーカイブ

2006年04月01日

だんじりフォーラム最終回

3月26日(日)

1月から6回にわたって泉大津市の池上曽根弥生学習館で開かれた、フォーラム「泉州とだんじり」の最終回。
テーマは「祭の1年」。
「だんじり若頭日記」著者のわたしがコーディネーターで、パネラーは一筆佳和さん(平成17年度岸和田市流木町曳行責任者)、岸本博さん(平成17年度和泉市池上町若頭会会長)、大谷忠さん(平成15・16年度泉大津田中町曳行責任者)、中森安彦さん(17泉大津十二町地車連合会会長)である。

快晴の日曜日、開始2時間前の11時に現地に到着する。
駐車場前から入ろうとすると、ちょうど岸本さんと中森さんが来られたところで、事務局長の吉房さんに紹介される。
「岸和田五軒屋町の江です。今日は頼んどきます」とご挨拶すると、おふた方ともにっこり笑って「あれ、ええ本でしたね」と誉められる。
先輩格からの言葉にちょっとテレるが、地区は違うが泉州だんじり人間、それもエキスパートからそういうふうに言われるのがとてもうれしい。
吉房さんからは「今日は最終回で、しめくくりですから、それにふさわしいような内容でお願いしますよ」と言われる。
この日、用意した資料は、平成14年度の若頭筆頭の1年間の各祭礼関係者会議、寄り合い、段取りを記したB4版の日程表だ。
わたしは平成15年度に筆頭をしたが、こういう書き物はだいたい次年度筆頭予定者か会計責任者が作成する。
だからこれはわたしがまとめ、作成したものだ。
前年の10月第1日曜から始まり、平成14年の祭礼の後片づけ・落策の9月16日で終わるオフィシャルのそれら行事だけで70回。
1日にだんじり本体の段取り、町内会議、他町との祝儀交換会とダブル・トリプルヘッダーの日もある。
町内の寄り合いのあれやこれやを含めると、1年のうち100日はなんだかんだで祭の準備に取られている勘定だ。

わいわいとだんじり話をしながらみなさんと昼食の後、いよいよシンポジウムが始まる。

年に1度、祭礼に目の当たりにする躍動するだんじりとそれに熱狂する参加者。
けれども祭当日以外の日々は、関係者以外見ることは出来ません。
その隠れた1年のさまざまなストーリーが、祭を支えているといっても過言ではありません。
本日は、祭礼の大役に当たり、祭がすべての1年を経験されたパネラーのみなさまばかりですが、
仕事や家族を放ったらかしにし、時には会社を辞めたり家庭崩壊の危機にさらされるというのもままあるようです。
そんなお話しをぶっちゃけて、包み隠さず大いに語ってもらいます。

そんな前口上で一発、笑いを取った。
そして、わたしの基調講演は以下だ。

「祭こそ人生そのもの」「祭の2日は人の1年や」といわれる岸和田だんじり祭。
その、岸和田だんじり祭を若頭筆頭という内側から、実際の「祭の1年」を通じて感じ、考察したこと、それを「若頭日記」として1年あまりブログに書き、出版することになった。
ここでは、実際にその祭までの日々を経験し、執筆体験したことに基づいて、この時代にあっての「だんじり祭」の1年を通じてその社会性としての可能性を語りあいたい。

『アエラ』(朝日新聞社刊)05年10/10号の小特集「40代哲学 岸和田だんじり祭で見つけた」でも取り上げられたが、 会社、家庭、それ以外に「第3の社交場」が、だんじり祭の「社会性」の一面である。
岸和田には、祭だけでつながっているある種の「社会」がある。社会というのは例えば、家族、会社、地域、スポーツクラブやホビー愛好会、極端に言えば喫茶店や酒場などの店…と個人にとって重層的に重なっているはずだし、そこでのさまざまな活動や人と人とのコミュニケーションがあるはずだ。
けれども都会型の現代社会には、ほとんど経済社会と消費しかない。
それがコンフリクト(軋轢)として人をストレスフルに締め付けている。

「だんじり祭」という、たぐいまれな祭礼において、その祭礼運営団体(寄り合いを中心とする場)およびそこでのコミュニケーション(顔をつきあわせての話し合いで物事を決めていくこと)は、「会社」「家族」という2つの共同体のありようと、また違った意味での社会性を帯びた共同体だと思う。

日本においての近代化のプロセスの中で、地縁(含血縁)共同体から家族共同体、そして個人主義へのシフトの大きな流れがある。
けれども岸和田だんじり祭にある、だんじり祭を運営している町単位の「新しい地縁共同体」というベースはますます求心的で、そこへの回帰が行われている。
それは、だんじりを軸として、単なるかつての地縁血縁的関係以外の「人と繋がる何か」を人は欲しているからだ。
中学生の時に、たまたま仲がよくなった同級生を自町の祭礼に誘ったのがきっかけで、その町になんの縁もない人が、祭礼団体に入り、青年団、組、若頭、世話人と30年以上もその町に関わり、ともに祭人生を送る。
その人は、祭礼以外の町行事、例えば大掃除、運動会、年末夜警といったものにも関わる。
良かれ悪しかれ、だんじり祭運営組織の「縦社会」、「来るものは拒まず去る者は追わず」の精神は「新しい地縁的共同体」を育んでいる。

今の日本の都市型生活において、崩れてきているものの、会社と家族、この二つの「共同体」以外のものは稀だ。
それだけ実際の社会生活では、経済軸消費軸の欲望と活動のみが突出した価値になってきている。
「お金儲けと消費」のみの過酷さの現実にあって、実際「わたしらしい幸せの実現」を隣組、町内会といった地域共同体に求めるのはかなり難しいが、だんじり祭の社会には祭礼に参加して何の見返りもないのにも関わらず、「共-身体」に支えられた「共-欲望」的な求心力がある。
共同体の求心力は、成員の人間関係が全面的であり濃密であればあるほど強力なのだが、それゆえその深い人間関係性は、何かやろうとする際に、うまく合意する場合とそうではない場合の激しい落差をつくってしまう。
「効率的でより多くのお金儲け」のような単純自明なテーマではない、「何か」つまり祭礼を「誰かとともにやる」ことは、すなわちトラブルがつきまとうことであるからだ。
共同体のその構成員の属性やパーソナリティや欲望が、出来るだけバラけている方がいい、というのは真だが、だからこそ地域共同体においては、そういう成員の利害や価値観がぶつかり合い、対立し紛糾する。
その際には個人であれ複数であれ、必ず内部にあってその原因となる成員当事者の倫理観や人間性が問われることになるのだが、共同体はそれを内部で共有し解決しなければ存続しない。
そこから我々が感覚的に知ることは、同じ地域つまり祭礼の場にいるかぎり、人は人に迷惑を掛けあって「日常」を生きていくものであるという理解である。
たぐいまれな地域共同体のモデルケースとして知られる岸和田だんじり祭においては、その「場」は祭礼である当日の祭そのものと、町会館ほかの施設で普段行われる「寄り合い」つまり「話し合いの場」である。
だから永続的である。

ということをレジュメに沿って話す。

パネラーの方々が、自己紹介の後、ひとりひとり自地区・自町の祭に引きつけて、うまく話をつないでくれる。

一筆さんは、岸和田修斉地区にあって未だだんじりを従えて渡御行事を行う矢代寸(やしろぎ)神社の神輿について。
その輪番制の当番年にあたった苦労や、前年の他町からの引き継ぎ、来年度の申し送りなどからのお話、そして青年団の寄り合いがここ数年、より回数が多くなり、時間も長くなったことからの考察を話された。
高校生が夜遅くまで家に帰らず、会館で溜まっているのはいかがなものか(きっと酒盛りをしている)、との意見もあるが、上下関係の厳しい祭社会では高校生にお酒を飲ますということはない、われわれもそういうふうにやってきたからどうかご理解のほどを、という話には大いに沸く。

遣り回し主体の岸和田型下だんじり全盛の現在にあって、上だんじりの伝統をかたくなに守る、大津神社浜八町地区田中町の大谷さんは、曳行責任者をされた年の行事表を持参されていて、その祭の一年(寄り合いは岸和田より多いのではないか)を話す。
また数町が一台のだんじりを共同で曳行していることからの、その運営と調整のご苦労が伝わる。
かちあい(この地区ならではの特徴で、停車中の前のだんじりに後ろからぶつける)時の安全確保、そして喧嘩防止についてのお話は、われわれ岸和田だんじり祭とはまた違ったものであり、とても面白くぐいぐいと引き込まれる。

池上町の岸本さんは、行政区画が和泉市にありながら、変則的に泉大津市の曽根神社に宮入しているということの特異性を話された。
池上町は泉大津十二町地区だが、行政区画である和泉市の大連合の曳行に参加したことがあって、ウェブ上で大バッシングをされた逸話、自町民が少なく、他町参加者がカシラつまり団体の長になる際に紛糾した経験談、上だんじりから下だんじりへの新調時、前梃子操作を岸和田旧市のとある町に習った話、若い者が足回り新装置導入を主張した際の折衝…と、興味深いネタは盛りだくさんだ。

最年長の中森さんは、どの町・どの地区も少子化で10代20代の曳き手が少なくなり、他町・他地域からの曳き手を受け入れていることが共通し、事故や万一の際の保障や団体の役付きが課題になっていることなど、こと細かにお話しされた。

休憩に入ると、この池上曽根弥生学習館開館以来10万人入場者が本日記録されたとのことで、くじ引きで記念品が贈呈されるアトラクションで、泉大津市市長が当選者に泉大津特産品のシルク製毛布が贈呈され、くす玉が割られた。

後半はお客さんからの熱心な質問。
上だんじりから下だんじりへの趨勢は、伝統を壊すことではないかと思うがどうだろう、という質問。
10月祭礼を見物する、岸和田旧市(9月祭礼)の見物者のマナーが悪く、迷惑をかけていることなど、手厳しい意見もあって、大汗をかいた。

パネラーそして参加者のみなさま、そしてこのような「濃い」だんじりフォーラムを主催された実行委員会みなさま、ありがとうございました。

2006年04月15日

ディープ大阪なガイズ&レイディ

4月13日(木)

「大西ユカリと新世界」のショー「懐かしの昭和」を見にロイヤルホテルに行く。
京都のバッキー井上&キヨちゃんとエスカレータ前で待ち合わせて会場に入る。
10人かけのテーブルが30あまりの大ディナーショー状態。舞台の金ぴかのどデカイ絵は、西桐玉樹兄貴の絵だ。

実はその2時間くらい前に、開業したて新オフィスにデスクがある週刊誌事件記者(そういわれると本人はいやがる)の松本創くんを訪ねて、バンド「新世界」のオルガンのマンボ松本さんと、サックスの小松竜吉さんがご挨拶にいらっしゃってたのだ(一升瓶のお祝いありがとうございました)。
開演前にビールをちょびちょび飲り、バイキングのいろんなアテを集め始めていると、赤井英和軍団がどやどやとやってきた。
ビールを一人5本ずつくらい抱えて、ゴぉーとうなり声とも聞こえる大ヤカラ状態で、それまで井上、キヨちゃんとオレだけだったテーブルに陣取った。
おお、大阪一の男前・赤井と同席やんけ。新世界の串カツ「だるま」の上山会長もいてはる。
「赤井さん。今晩は」とご挨拶すると、にっこり。
西成のナイスガイである。
早速、上山会長と赤井さんに「エルマガ2月末に辞めて、4月に会社立ち上げたばっかりですねん」とピカピカの名詞を配る。
赤井さんには10年ほど前、一度だけインタビューをしたことがある。上山会長ところの串カツ屋には、五軒屋町の青年団の子がいるとのこと。今日の軍団は、浪高のボクシング部OBの面々だそうだ。
「どうぞ」とビールを注いでくれるので、こっちも負けずにビール5本を取りにいって、空いたグラスにどんどん注ぎ返す。
しかしもの凄くええ男である。話もおもろく、芸能人ぽっさが全く感じられない。
だんじり祭の宴会もかくやの一気にがぶ飲み状態になり、赤井軍団は「タバコ吸いたいのお。がまんでけへん。行こかぁ」と行ってしまう。
赤井さんはショートホープがほんまによく似合っている。
オレらもちょっと遅れて吸いに行く。そのコーナーはまるで高校の部室で悪達が集まって、タバコを吸っているようだった。
「そろそろ開演です」とアナウンスがあり、テーブル席に戻ると、ライブ前にスタイリスティックスのハッスルが流れる。
いきなり赤井さん「ドゥザハッソー」と叫ぶと、みんなも真似して29番テーブルだけ全員で「ドゥザハッソー」大会となり、立ち上がり踊りまくる。
京都・錦市場のバッキー井上は、こういう大阪人が感覚的に大好きだ。
開演前から、もう完全に出来上がっている状態である。

ユカリちゃんは昔からの友だちであり、わが五軒屋町の祭礼献灯台に、毎年「大西ユカリと新世界」名での御神燈も頂いている。
硬軟取り混ぜたええ感じの昭和歌謡ばかりで、あっというまにビールから水割りにチェンジ。
赤井さんがまた、オレと井上のために水割りの追加を取ってきてくれ、恐縮する。
それから何杯飲んだか忘れるほど飲んで、気がつけばアンコールの「ヨイトマケ」に聞き惚れて、終演後はリーチバーでギムレットで仕上げをしたのだった。
明くる日朝、ユカリちゃんからメールが入っていて、
「昨日来たはったんですよね?赤井さんが江さんの名刺持ったはって、だんじりの話しててん。私や新世界のマンボの友だちの松本創君が江さんに世話になんねやと聞きました。嬉しいです」
とのこと、うれしいのはこちらである。

2006年04月24日

祭りの準備

4月22日(土)

編集・出版チームの新会社「140B」を大阪・中之島3丁目のダイビルに立ち上げました。
社長には、長い間、京阪神エルマガジン社でさまざまな出版事業に関わってきました中島淳が就任。
そして講談社、ぴあ、角川書店、マガジンハウス…の在関西の情報誌系雑誌を幅広く手掛けるクエストルーム(株)代表取締役社長の石原卓と、わたくしの3人が役員として就任いたしました。
とりわけ発起人・株主のみなさまには、絶大なるご支援を頂き、ほんとうに身が引き締まる思いです。
すでにこの長屋の主であります内田先生がそのブログでお書きになっているように、昨夜の設立パーティーには各界幅広く200人を超える方々にお出でいただき、本当にありがとうございました。
今後、必ずみなさまがたのご期待に添えるよう頑張ります。
どうかよろしくお願いいたします。

というわけで、パーティーが終わり、後かたづけをする。
とても疲れてしまって、これからいよいよ始まりなのに何かが終わったみたいな気がする。
今日、土曜日。4月半ばとは思えない寒い一日。オフィスでこのキーボードを叩いている。
そして岸和田では若頭の寄り合いだが、仕事だということで欠席させてもらった。


4月20日(木)

新会社140B(いちよんまるびー)に家具が入った。
これでやっとオフィスにて仕事を開始することが出来る。
内装は間宮吉彦氏。何回もその部屋に見に来て頂いて、丁寧に図面を引いてもらった。
「小学校の職員室みたいな内装がいい」とのことで、壁一面に幅4メートル×高さ120センチの黒板ならぬホワイトボードの白板を設置。
向かいの壁一面の本棚は、幅5メートル×高さ235センチ。
個人用にはグレーのスチール机が10台と同色のビニールの椅子。
打ち合わせ用のテーブルは4人がけ×2で、長さ150センチ×幅80センチ。
それにローボードとカップボードが主な什器である。
本棚とテーブルと2つの家具は作りつけで、濃いグレーで統一した。
部屋は大阪・中之島のダイビルの1階。ダイビルは大正14年完成の大阪が誇る名建築だ。渡邊節が設計したモダン建築で、とても天井が高い。
高さ2メートル35の本棚から目測すると4メートルはあるのではないだろうか。圧迫感が皆無だ。
設置されたばかりの机に中島社長と事件記者(というと「やめてください」といつも言う)松本くん座っていると、あんたら見てるとまるで警察署の取調室やないか、と悪口をたたく輩もいるが、こういう環境はIDカードをぶら下げ暗証番号をピッピと押してオフィスに入るようなハイテクビルでは味わえない、コミュニカティブな気分を醸しだしてくれる。
ああいうオフィスはなんか「これをビジネスモデルに」とか「ミッションとして」とか言ってそうで、みんなカリカリしていそうで怖い。
これは仕事が好きになりそうなオフィスである。
そしてすでに業務の方は始まっている。
横浜市のフィード(株)さんからご依頼を受けた入院患者向けフリーマガジン編集がそれで、これは記念すべきまたとない初仕事であり、この新会社の運命的な何かを感じている。
この有難すぎるお仕事ほか、あれこれと進行中だが、まだオフィスが整っていないので、140B室の向かいの137号室のクエストルーム(株)に間借りをしてその編集制作にあたらせて頂いていた。
社長の石原さんそしてスタッフのみなさん。約1カ月もの間「140B設立準備室」などとわざわざ一角を割いて頂き、本当にありがとうございました。
やっと本日から、新オフィスで業務開始です。
また、発起人・株主のみなさまはじめ、関係者さまにこの場をお借りして、ご報告する次第です。
加えて、心より御礼申し上げます。

回線工事さんそしてオフィス機器業者の方が来て、早速パソコンを設置する。
おお、インターネットに繋がった。
メールの初期設定も終わった(アドレス ko@140b.jp)。
早速段ボール箱を開け、書籍・雑誌は本棚に、紙資料や筆記用具などを袖机に入れる。
しかしながら、オレは何て収納下手なのだろう。
子どもの頃から、要らないものを捨てられない性格で、使わない古い手帳やカレンダー、どこのどなたかいつ頂いたのかも分別不可能な名刺の山(こういうことではイカン)、インクの出ないマジックやボールペンさらにノベルティや写真等々、ナンデこんなにいらんものが多いんだろうと思う。
昔、竹村健一が言っていたが「だいたいやねえ、書類の持ちすぎは仕事のできん奴やね。わたしなんかこれ一冊です」みたいにはいかない。
あー、これはいかん。

会社設立に際して、「感謝状」をファックスにて頂いている。
あまりに感激したので、ご紹介したい。

   感 謝 状
 株式会社140B
 代表取締役 中島淳殿

あなたは多年にわたり京阪神エルマガジン社で活躍され
このたび新会社を設立し出版界の荒波の中へ船出されました
郵便配達員に喜ばれるでありましょうそのユニークな名前や
常任幹事が3名も名前を連ねる突飛なご挨拶状は
硬直した出版界に「こんなんありか?」と爆笑をもたらしました
今後の出版文化の昂揚発展につくされる功績は
ホンマに顕著なものがあるはずと確信します
よってここにあらかじめ深く感謝の意を表します

 平成一八年四月十二日
 財団法人日本出版クラブ 
    専務理事 小此木孝夫

長い祭の本番はこれからである。

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