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第五回だんじりフォーラム

3月19日(日)

フォーラム「泉州とだんじり」の第5回目が終わって、それを書こうとして家に戻って長屋に帰ったら、いきなり「アオヤマの乱れ髪鉄火場勝負」というたいへん大げさな表札のかかった店子が増えていた。
読むとミーツ元副編集長・青山ゆみこではないか。
なるほどそういうことになっていて、この内田長屋に入ってきたのだということがわかる。
これは歓迎である。けど火事だけは出さんといてくれよ

さて今日のだんじりフォーラムは、祭衣装とだんじり本体の装飾についてで、創業100余年の法被染織の「紺善」の若きご主人・川崎勝さん、纏・幟・旗制作「千野屋」三代目の千野高司さん、バッチ・腹掛け・地下足袋の祭衣装の「大阪屋」の竹谷和雄さん、そしてわたしの「だんじり日記」しばしば登場するだんじり博士の泉田祐志くん、それをまとめるコーディネーターは岸和田だんじり会館初代館長の松山勉さんという顔ぶれ。

300年以上の歴史を誇るだんじり祭だが、祭衣装についての文献・資料はほとんどない。
松山さんは1796年頃の刊行とされる「摂津名所図会」の天神祭の車楽(だんじり、とルビが振ってある)をひもときながらその姿を考証する。
戦時中の出征兵士をだんじりに乗せて駅まで運んだ話とかがからみ、なかなか聴くものを飽きさせない。

続いてマイクが泉田氏にまわり、Q&A形式で「紺善」の若主人・川崎さんの法被の染めと生地取りの説明。
岸和田だんじりの法被は、黒または紺をベースに、赤や朱を差し色に使われるところが、めでたい祭衣装らしいところだ。
一枚の生地で、背中、前身頃、袖、襟が取られ、染めは赤、紺または黒の順で染めていく。
それまでは、型紙を切って図柄や意匠の版をつくっていた、だから職人技だったし型が経年変化で縮んでしまうことがあり、以前のものを使う時、背中の「印」が小さくなって「3年前のものと違うやないか」となった。
これは祭を長年やっているものには、記憶がある。
しかし、このところコンピューターからダイレクトに版をこしらえるからその心配はないとのこと。

大阪屋の竹谷さんは、だんじり地下足袋の衝撃吸収材を研究開発した方で、この発明によって膝、腰の故障が激減した。
その苦労話やこの発明によって過去のアイテムになりつつあり、倒産しかけの地下足袋メーカーを救ったエピソードなどで大いに笑いを取った。
この地下足袋は今やエアソールを導入し、毎年バージョンがアップされている。
全国の同じ系統の祭参加者や観光地の人力車の車夫におなじみのハイテク地下足袋である。
その話は旺盛かつ快活、これぞ岸和田商人である。

千野屋さん特製の纏は頭部がグラスファイバー製で、走りながら纏を踊らせなければならない纏持ちの重労働を軽減。
さらに金糸の縫い取りが施され高価な幟や町旗の流行素材と、衣装同様に時代と祭禮が一番リンクされているのが装飾物と判明。
こういう祭関連の職人さん、商売人さんの話は、とてもレアで興味深い。

わたしは印半纏においての火消し半纏、仕着せ半纏、祭半纏の分化説、そして五軒屋町の場合の化粧つまり装飾の段取りと仕方を青年団の幹事長から貰ってきたファイルを見ながら説明。
「こんなのは私たちの時代は、マニュアル化されてなくて、若頭から怒られながら、だんじりや赤幕や金綱、旗・幟を直にさわって、体で刻み込まれるように覚えたもんです」
というコメントも忘れなかった。

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2006年03月20日 21:47に投稿されたエントリーのページです。

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