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2005年02月 アーカイブ

2005年02月06日

『ビートキッズ』賛江

2月4日(金)

同級生の本町の昨年の若頭筆頭のH出から携帯が入って、昨年だんじりのシーンで協
力した青春ムービーの「ビートキッズ」の試写会に行かないかとの誘い。

ちょっと忙しくてそれどころではない状態で「おまえは本町の若頭やから、そらいか
なまずいわなあ」と言っていたが、「そんな水くさいこと言わんと、付いていってく
れ」とのことで、IMPホールに行くことにする。

6時20分の約束で入口前にいるとNHKのラジオディレクターのK林さんとばったり。
監督の塩屋俊さんが来ているので、ラジオ番組の出演依頼をするとのこと。
朝日と揉めていることや、オレが月1回だけ出させてもらっている番組で今度内田先
生が出られることなど、いろいろしゃべる。
やっとH出が15分遅れてやってきた。

ホールに入ると立ち見もいるほどの満員。この映画の主人公に抜擢されたバンドのラ
イブが始まっている。
監督の挨拶やキャストの紹介などがあっていよいよ放映。

どどどっといきなりだんじりのシーンだ。迫力がありたまらん。

この映画は講談社児童文学新人賞を取った風野潮さんの原作で、岸和田からの転校生
の主人公が、いつも心に刻み込まれているだんじり囃子をベースにドラマーとして成
長していくという話で、いたる所でだんじりのシーンが出てくる。

本町が町を上げて全面的にその撮影協力を行ったのだが、若頭筆頭のH出がそれを全
面的に仕切った。

主人公のお父さん役の豊川悦司は、大工方でだんじりの屋根に乗っているシーンはじ
め、おもろくてあほでちょいヘタレな岸和田のおっさん役で、ばりばりの岸和田弁も
いけてる。
とてもいい俳優である。オレは惚れ直した。

主人公の心象風景を描く際にしばしば「チキチンチキチン」とだんじりのビートが流
れる。
どう聞いても変なだんじり囃子に、H出は「小学生並みやのお」と苦笑するが、そん
なもんである。

いつも岸和田というと清原の「番長」とか少年愚連隊とかのイメージで、オレもH出
もそれを地元民としてはあんまり好まないのだが、この映画は多感な高校生の精神を
下支えしているのがだんじり囃子だという、すごくいい面でとらえてくれている。

「せやから、受けたんや」とH出はまんざらでもない。
本町の町会長の奥さんも来られていて、塩屋監督やプロデューサーさんから一緒にお
礼の挨拶を受ける。

塩屋監督はこの件で、うちの編集部にも来られたり本町の町会の寄り合いにも行かれ
たりしたが、いつも腰が低いというか感じがいい。
「この人なら」と本町のみなさんも納得したのだそうだ。
映画人とかテレビとかの映像関係の人に、オレはちょっと偏見を持っていたのだが、
今日から改めよう。

鰻谷の焼鳥屋に行って、焼鳥10数本とスープと焼きおにぎりと生ビール、焼酎…と
がんがん飲む。
それから北新地に繰り出す。

だんじりのポジティブな映画で、気分が良くて、その撮影の笑い話(こんな時はいつ
もそうだが、祭のシロウトぶりの話が多い)で盛り上がって、どうやって帰ったかも
覚えてないほど飲みまっくて、明くる日は今世紀最大の二日酔いである。

2005年02月08日

富岡多恵子さんのこと

2月8日(火)

筑摩書房から富岡多恵子さんの新刊「難波ともあれ ことのよし葦」が送られてくる。

帯には「切れ味冴えわたる著者ひさびさのエッセイ集」とあり、その第2章の約50ページ『大阪語あれこれ』が01年~02年にかけてのミーツでの連載分である。

オレがこの仕事をやりに「東京に行こう」と思わずに、ほとんど出版社がない関西でなんとかやっているのは、富岡さんの詩や小説や評論などの一連の作品があったからだ。
そして駆け出しの頃は、ほとんどあこがれだけで考えたこともなかったその富岡さんから、とうとう原稿を頂く身となった。

連載のオッケーがやっと出て、その頃、伊豆に住まわれてた富岡さんにお会いしたいと連絡したのだが、「大阪からやと遠いし、気の毒やから、わたしが大阪に行きますから」とおっしゃった。
それは大阪に「帰る」ではなく「行く」だった。

朝日の記者や東京の編集者ほかから富岡さんのことを聞いていたのだが、それはおおむね「気難しい」「コワイ」という感じだったが、副編集長の塩飽とミナミの日航ホテルでお会いした富岡さんは、心斎橋商店街の瀬戸物屋のおかみさんみたいな感じで、とてもお洒落な二本の眼鏡を文字を読む時とそうでない時に交互にかけておられた。

おそるおそるA4のペラ一の企画案をお渡しした。
コミュニケーション論で、タイトルは「いっぱしのコトバ」。
これは大阪弁でしか読むことの出来ない、バリバリの大阪弁タイトルである。

いきなり「あんた、うまいなあ」といわれたので「よう、考えました」と答えた。
そして横にいた塩飽に小さな声で「ほらみてみい」と言ったら、富岡さんはアハハと笑った。
このときに、富岡さんに詩もコラムも大阪弁で書いてはるのか、とお訊きして「そらそうです」と答えられて、さらに「新聞も大阪弁で読んでます」と聞いて、いっぺんに「ああ、オレはここでこの仕事をしたのが間違いではなかった」と確信した。

早口で思いっきりよく喋り、アハハと笑う富岡さんに、オレは「文学青年やなあ」と生まれて初めて言われ、「変なことあんまり言わんといてください、テレますやん」と答え、塩飽は涙を流しながら大笑いした。

オレはポール・スミスの白木綿にでかい墨のイラストが描かれてある半袖カッターシャツを着ていたのだが、「それ何、描いたあんの? ええ柄やなあ」言われた。
岸和田の生地屋の息子であり、生まれてこの方さまざまな方面から「柄が悪い」と言われ続けたオレは、9回裏に逆転のホームラン、それもバックスクリーンにはいるやつを打ったような気分だった。

原稿は一回目から「オレが読みたかったのはこれや」というようにパーフェクトで、校正の朱もほとんどなかったし、締切も遅れられたことも一回もなかった。正真正銘のプロ中のプロである。

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大阪弁、関西弁といえば、ニギヤカな言葉だとの印象を与えるらしいが、時にコワイといわれることもある。以前、テレビ・ドラマなどで、悪いお兄ィさん、あくどい中年男はなぜかたいてい大阪弁を喋ると不満をもらしたら、小さな悪事を働いてつかまったり殺されたりする方に東北弁が多いのはこれいかに、と東北出身者から反撃されたことがある。

わたし自身あまり使うことはないが、「受身」表現のコワサが大阪言葉にある。「表へ出ろ」といわれるより、「ちょっと表へ出たってえな」と低い普段の声で近よってこられる方がはるかにコワイ。表へ出たら、生きて戻ってこられぬようなーーとはちと大仰だが。

食べ物やかバーか、カウンターに並んで長時間議論か口論かで出口なしの状況に追い込まれていたコワイお兄さん風の二人男、ひとりがすっと立つと、もうひとりが「逃げるのか」といった。すると立ち上がった方が「便所ぐらい行かしたってくれや」といい、そのやりとりを離れて見ていた他国人が、その「受身」表現の「間」の見事さを何かに書いていた。張りつめた緊張のなかで「トイレへいく」では、たんなる中
断で、「間」ではない。おしっこぐらい自由にさせてやってくれ、というのは自分を第三者にして距離を取っている。大阪語、もしくは大阪的「ものいい」で特徴的なのは、こういう自分との距離、相手との距離を瞬時に計る距離感覚で、この種の洗練が大阪発祥の芸能である「漫才」にも通底しているはずである。

自分を第三者にして語りうるのは、「都市」だから可能なのだろう。第三者、つまり三人称からさらに「自分」を二人称にして使うことさえある。「あんたは?」というのを「自分は?」という。これは他国人には理解できない大阪文法で、「自分ら、どこからきたん?」といわれてはキョトンとする。

大阪語のもつ距離感覚がまったく通用せぬ土地で、通用せぬひとと喋る時の苦痛と失敗をさんざん味わってきて、距離感覚の「距離」とはハニカミなのであろうと四十年にしてやっとわかってきた。恥ずかしがり、繊細さ、といえば、おおよそマスコミでつくられた、ガチャガチャした「大阪」のイメージからは遠く見えるが、それらはほとんどハニカミの裏がえりである。

数年前、或る集まりで長年会わなかった女性にたまたま出会った。わたしを見かけたその人は「ずい分お見限りね」といったので返答ができず困ってしまった。このように、相手が返答できぬような挨拶を大阪のひとはあまりしない。「まだ生きてたの?」といわれれば、「すんません、まだ生きてました」くらいのことはいえるのだがーーー。しかし、「ずい分お見限りね」という相手に「まだ生きていたの?」は通用しない。おそらく、「なんてことを!」と怒って立ち去るだろう。

また以前に数人で外国へ行った時、わたしに叱られてばかりいたと、帰国後に訴えているひとがいて驚いたことがあった。訴えたひとは大阪人ではない。親愛をこめた「しっかりしてや」というような言葉も、笑いを誘わず、叱正だと受けとられたのである。

そのほかにも、会合のあとの約束の会食も挨拶もなしに突然帰ってしまったひともいた。わたしの大阪語的表現を誤解したからだった。何と因果な「大阪」だろう。わたしは、できるだけ大阪的冗談をつつしみ、必要なことだけを喋り、笑えぬ駄ジャレにもじっと我慢するようになった。大阪人は駄ジャレが嫌いだ。とにかく大阪を出て四十年の間に、身体は大病することもなく過ごしたが、ほとんどが大阪語、大阪的冗
談、大阪的会話による相手側の誤解によってココロは傷つき、何度もウツ病で倒れた。しかも、こういうことを訴えても、だれもホントにしない。さらにココロの傷には塩がすりこまれる。(ミーツ01年8月号)

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思わずキーボードを叩いて引用してしまったのは、書き方や手法は違うが、内田樹先生も同じようなことを書かれていたような気がするのもあるが、もう一度この富岡さんの文章を関西イントネーションで読んでほしかったからだ。

富岡さんは大阪語についての「玄人の芸」を一年あまり見せてくれた。

2005年02月17日

誰か止めて

2月14日(月)

3月1日売りの「ザ・純喫茶」特集の色校が出ているので、次は「ザ・純酒場」もあ
りか、などと書こうとしていたら、突然、富岡多恵子さんから電話があった。

実に3年くらいご無沙汰をしていて、もしやオレがこの長屋で書いた内容のことか?
 と一瞬ビビリまっくたが、富岡さんは「情報通信非順応ヒト類」(「難波ともあれ
ことのよし葦」P24 )なのである。

その短いコラム最後には、
「最近インターネットを仕事に大いに利用しているひとに、わたしのような者を情報
弱者というのですねと自嘲したら、弱者ではなく、たんに文字が読めないのと同じと
いわれてしまった。そうかーー、ついに琵琶法師になって、今様の敗者の物語の歴史
を語るしかないのかと思ったのであった。」
と書いてあるお人だから、そういうことはない。

このところ「史上最弱の主婦@青木るえか」「史上最弱のブロガー@内田樹」と「史
上最弱」の方々が我が「ミーツ」周りに多いのだが、富岡さんはさしずめ最弱横綱か。

電話に出ると
「元気でやってますか? 塩飽さん、そっちにいてへんよね」
「はい、結婚して三重県で住んでます」
「もうあんたとこの雑誌はやってないの?」
「いえ、作家さんのコラムとか担当させてます」
「そっちへ本送ったンやけど、それは編集部の分で、直接担当してもろてた彼女に送
ろと思ってるンやけど」
「あ、編集部には筑摩のM宮さんから送ってもろてます。塩飽にはつたえてます。た
ぶんあいつのことやからもう買うてるんとちゃいますか」
「ああ、そう。それで、あんたはどうやねん?」
「おかげさんで、おととしだんじり祭の若頭筆頭やらさしてもらいまして、もう今は
編集一本です」
とかだったが、はよ礼を言えあんた行儀悪いな、とまでは言わないが、本が届いたか
どうかくらい知らせてもいいんとちゃうのあんた水くさいなあ、みたいな感じで、や
はりビビってしまうのだった。
大阪の編集者はつらい。

夜は大林ビルにあるグランメゾン、“ル・ポンドシェル”のパリの3つ星レストラン
“ル・グランヴェフール”のギィ・マルタン料理週間に招かれる。
今年も料理長ピエール・ゲイが来ていて、自ら料理をつくってくれる。
このところ、どうも仏伊料理から食べることも書くことも遠ざかっていたのだが、な
ぜか毎年この時期のこのレセプションには参加していて、今年は大阪を代表するイタ
リア料理“ポンテベッキオ”の山根大助シェフと、新しくなった大阪証券取引所ビル
のリーシングを手がける水田さんと、そして副編集長の袖岡と同席だ。

同世代の山根さんとは、まだ大阪でイタリア料理がそんなにブレイクしていなかった
80年代後半からの付き合いで、オレは「イタリアンなのにフレンチみたいな料理な
のはとても大阪的だ」とか「チャーシュー麺みたいなパスタである」とか、だれも書
かないのをいいことに好き勝手にミーツに記事を書いていたし、食べに行くといつも
最後の客になり、仕事を終えた彼が席に座りワインを一緒に飲み、そんなときはたい
てい終電を乗り損ねた。

そしてその後、彼は時代を走りまくり、ガンベロロッソなどに絶賛され、押しも押さ
れもせぬ日本を代表する伊料理店になるわけだが、たまにしか行かないくせにオレは
そんなことお構いなしに、「8人で行くから、ひとりあたりン千円でお願い」とヤカ
ラを言っている。困ったものだ。

ギィ・マルタンの料理は、ほんとうにパリの料理っぽい。
パリの街人のファッションを見ていて、いつも感心し楽しくなるのは、進んだデザイ
ンのインパクトだったり、大胆に他国のエスニックな要素を取り入れたりしているこ
となどだったりするわけだが、ここの料理はそれにとても似ている。
今回は特に肉料理が圧巻で、子羊のロティはひょっとして醤油を使っているのだろう
かと思う日本の焼鳥調のもので、ちょびっと添えられていた真っ赤なペーストは、ク
ミンシードとかカルダモンのインドっぽい香りに韓国のコチュジャンの味がして、そ
のうまさにびっくりした。
3センチほどの極小の大根もそれをちょいとつけるとキムチのようで(味は全然違う
が)、なんぼでも酒が飲める。

悪ノリした山根シェフと水田さんは「骨のところのこれ、もしあったら追加お願いし
ます」とメートルさんにねだったら、ウインク1発、なんと小さな皿にそれだけ4本
持ってきてくれて、またワインのがぶ飲みが始まる。
誰か止めてくれい!

2005年02月21日

ビールな実存

2月19日(土)

今期最後のNHKラジオ第1放送『かんさい土曜ほっとタイム』の生放送。

昨夜は、JR西日本とタイアップしている季刊誌『西の旅』の20ページ以上のやり
直しがあったので、三宮に着いたのが午前1時過ぎ、そこからさっと三宮東門の「源
平寿司」でめしを食べ、バー・ゴスペルに行き、JBLのサウンドシステムでグロリア・
エステファンを聞きながら、店主の街場の哲学者・大倉カイリくんとレヴィナスの
『時間と他者』の「実存者なき〈実存すること〉」と「この孤独がいかなる点で乗り
越えられるか」についてしこたま話した後、帰ったのが午前3時過ぎ。

生放送は午後1時5分スタートで、オレのコーナーは15分からだが、あいにくJR
が遅れていて新快速の乗り継ぎがうまくいかなくて、12時半には着けませんすいま
せんと電話をかける。NHK大阪放送局に着いたのが1時ジャストくらいだった。

オレは大汗を流してスタジオに飛び込んだのだが、佐藤誠アナウンサーは「まだ15
分ありますから」と余裕の笑みで、あいかわらず美しい東京弁の周山さんは「内田先
生は4月の第一回目です、楽しみです」とにっこり。ほんとうにいい放送局である。

しかし寝不足と二日酔いがひどい。というよりはっきり言ってまだ酔っぱらっている
状態だ。
時間になって、スタジオにはいると沢松奈生子さんが「ラコステのセーターですね、
ありがとうございます」と言ってくれた。彼女はラコステと契約してるらしく、テレ
ビに出るときはいつもラコステを着ているらしい。
放送では大塚愛の「大好きだよ」がかかっている。

なんだか あなたのコト 思い出すのもったいないよ
あたしだけのものにしておきたいから
なんだか あなたのコト 思い出すのヤだよ
だって 1人でにやけて はずかしいよ

徹夜で帰ってきて疲れてるのに だっこしてくれて
夢の中にいてもわかったよ

と唄っている。曲が終わり、オレのコーナーだ。
今日の話題は神戸・長田のお好み焼き。
佐藤さんと沢松さんが話題にがんがんと乗ってきてくれて、ほとんどオレは答えるだ
けだ。関西人はみんなほんとうにお好み焼きが好きだ。
楽な放送だった。
佐藤さん沢松さん1年間お世話になりました、とても楽しかったです。
4月からは東大で「上野千鶴子に喧嘩の仕方を習ってきた」遙洋子さんがお相手だ。
オレも喧嘩はしょっちゅうしてきたが、それはおおむね岸和田のだんじりで習ってき
たものだ。

谷町4丁目の中華屋さんで餃子と麻婆丼を食べて(ビールも1本飲みましたすんませ
ん)編集部に行く。
昨日の『西の旅』のやり直しでスタッフには大変な仕事をさせている。申し訳ない。

3時45分からは「編集会議」の編集・ライター講座の講義。
「情報誌ではない雑誌の企画」について課題を出していてその講評。消費にアクセス
するための情報以外の情報には果たして値札が付くのか、という根元的な問いがひっ
かかる。

帰りに「ちょっと飲みに行きましょう」と受講生のリーダーから誘われるが、お断り
して岸和田へ。
若頭の寄り合いがあるからだ。寄り合いは午後8時からだが、議論風発で午前0時を
回り、今年の若頭筆頭のM人と平成16年度筆頭のM雄ほか幹部数人で「柴」に行く。
オレはカレー黄そば(きいそばというのは太めの中華麺である)とラガービールを飲
む。

オレM人M雄の3人で飲もうということになるが、もうどこの店も開いていない。
仕方なくM人の実家に行くが、酒がない。
オレは実家まで走って取りに帰り、日本酒一升瓶と缶ビール数本をぶら下げて行く。
祭と人生を共にしてきた46歳の同級生が三人。
M人の実家である「テーラー・タカクラ」の店で泥酔して知らん間に寝て、オレは起
きると午前11時でM雄はもういない。
奥さんが10時くらいに迎えに着て先に帰ったそうだ。

M人に礼を言ってそのまま実家にも寄らず、昼前の南海電車なんば行きの急行に乗る。
何だか泣けてくる。何がどうだとかではないのだし哀しくないのだが泣けてくる。

「私には戸口も窓もないのだが、それはまさしく〈実存すること〉によってなのであっ
て、私の内にある伝達し得ない何らかの内容によるのではない。〈実存すること〉が
伝達し得ないのは、〈実存すること〉が私の内にあってもっとも私的な(個人的な)
ものである私の存在の中に根を張っているからである」(『時間と他者』〈実存する
こと〉の孤独)

2005年02月24日

悪い兄たちの捌き方

2月23日(月)

21日(月)にミーツ4月号(3月1日売りです)校了の後、昨日今日と5月号の入稿作業を進めている。2月は小の月だから、4・5月号の日程はタイトである。

「東京ファイティングキッズ・リターン/悪い兄たち~」の2回目にかかる。
この連載はインターネットと同時連載で、もうすでにウエブ上では8回目がアップされている。

「悪い兄」のひとりである、やさしい内田先生は、すでにアップされている内田→平川第6便の原稿で、
>そろそろビジネスに話を戻して、青い顔をしている江さんを安心させてあげませんか?
と書かれているが、青い顔なんてとんでもない。血圧上がりまくりで赤い顔である。

内田先生には12月3日のヒラカワさんブログのコメント欄で、
>TFKのあのグルーヴ感は、ブログならではだと思います。うゎー(パソコンに向
かっている)、パチパチパチ(キーボード叩く音)というのが持ち味なので、まずブ
ログで「書き散らしてください」。
とお伝えして、
>江さま:うわー、ぱちぱち。
わかりやすいですね
では、そーゆーことで。

といただいて、現実にそーゆーふうにしていただいている。

もうひとりの「悪い兄」の男前江戸っ子な平川さんには12月23日
>いきなり、共同体論からのはじまりとなってしまった。江さんのリクエストとはちいとばかり、横道にそれたところからのスタートになったが、まあそれは、それ。おもしろければ何だっていいでしょ。
との伝達をいただいていて

>その通り、おもしろいのは何でもアリだと思ってます。
とお返ししている。

それにしても初めは、「2ページとります、おひとり2000字くらいで1号でお二人分掲載で」ということをお伝えしていたのだが、やはりお一人あたり4000字必要だ。というかそれも始まってからそうなった話で、初めからむちゃくちゃである。

月曜校了した3月1日売り新連載は「解題」がかっこいい文章だったのでそれも掲載ということで、編集長命令で5ページを奢った。

ちなみにミーツ連載1回分に充てるウエブ版Vol.1・2は、20字詰めに換算して、兄Aが315行、兄Bは327行。 まあ、横組みスクロールはところどころ改行1行空きがあり、それを詰めることができるが、はっきりいってムチャクチャである。
100字削るというのではなく100行削るというのは、これでも長い編集者生活でも記憶がない。

さて今回2回目、兄A 253行、兄B 356行。なんぼなんでもB兄ぃ、それは殺生というもんでそらないでっせ。
なもんで今回も4ページ。

けれどもこのとてつもない分量の削ったり改行を追い込んだりの作業は、結構たのしい。
よく切れる包丁で、ずばずば魚をさばいているようで気持ちいいのである。
編集者も料理人とおなじで、何よりもスピードである。
おばちゃんがおにぎりを握るように鮨を握る職人のそれは、まずいに決まっている。

片や2キロの神戸近海の真鯛、もう一つは1・5キロの江戸前のヒラメ。
どちらもばりばり天然物だし、それも毎回魚種も大きさも違うから、美味いの何の(だまってまあ、喰うたらわかるやろ!)。
さらにこちらはアタマをあら炊きにしたり、縁ペラの美味しいところなどなどをつまみ食いしながら料理するというような感じで、お客に出すより先に「すでに美味しい」のである。

明日から、この仕事をやめて板前になるのもいいいな、とふと考えるのであった。
いや、こんなアホな文、書いているばやいじゃないんだ、オレは。

About 2005年02月

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