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富岡多恵子さんのこと

2月8日(火)

筑摩書房から富岡多恵子さんの新刊「難波ともあれ ことのよし葦」が送られてくる。

帯には「切れ味冴えわたる著者ひさびさのエッセイ集」とあり、その第2章の約50ページ『大阪語あれこれ』が01年~02年にかけてのミーツでの連載分である。

オレがこの仕事をやりに「東京に行こう」と思わずに、ほとんど出版社がない関西でなんとかやっているのは、富岡さんの詩や小説や評論などの一連の作品があったからだ。
そして駆け出しの頃は、ほとんどあこがれだけで考えたこともなかったその富岡さんから、とうとう原稿を頂く身となった。

連載のオッケーがやっと出て、その頃、伊豆に住まわれてた富岡さんにお会いしたいと連絡したのだが、「大阪からやと遠いし、気の毒やから、わたしが大阪に行きますから」とおっしゃった。
それは大阪に「帰る」ではなく「行く」だった。

朝日の記者や東京の編集者ほかから富岡さんのことを聞いていたのだが、それはおおむね「気難しい」「コワイ」という感じだったが、副編集長の塩飽とミナミの日航ホテルでお会いした富岡さんは、心斎橋商店街の瀬戸物屋のおかみさんみたいな感じで、とてもお洒落な二本の眼鏡を文字を読む時とそうでない時に交互にかけておられた。

おそるおそるA4のペラ一の企画案をお渡しした。
コミュニケーション論で、タイトルは「いっぱしのコトバ」。
これは大阪弁でしか読むことの出来ない、バリバリの大阪弁タイトルである。

いきなり「あんた、うまいなあ」といわれたので「よう、考えました」と答えた。
そして横にいた塩飽に小さな声で「ほらみてみい」と言ったら、富岡さんはアハハと笑った。
このときに、富岡さんに詩もコラムも大阪弁で書いてはるのか、とお訊きして「そらそうです」と答えられて、さらに「新聞も大阪弁で読んでます」と聞いて、いっぺんに「ああ、オレはここでこの仕事をしたのが間違いではなかった」と確信した。

早口で思いっきりよく喋り、アハハと笑う富岡さんに、オレは「文学青年やなあ」と生まれて初めて言われ、「変なことあんまり言わんといてください、テレますやん」と答え、塩飽は涙を流しながら大笑いした。

オレはポール・スミスの白木綿にでかい墨のイラストが描かれてある半袖カッターシャツを着ていたのだが、「それ何、描いたあんの? ええ柄やなあ」言われた。
岸和田の生地屋の息子であり、生まれてこの方さまざまな方面から「柄が悪い」と言われ続けたオレは、9回裏に逆転のホームラン、それもバックスクリーンにはいるやつを打ったような気分だった。

原稿は一回目から「オレが読みたかったのはこれや」というようにパーフェクトで、校正の朱もほとんどなかったし、締切も遅れられたことも一回もなかった。正真正銘のプロ中のプロである。

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大阪弁、関西弁といえば、ニギヤカな言葉だとの印象を与えるらしいが、時にコワイといわれることもある。以前、テレビ・ドラマなどで、悪いお兄ィさん、あくどい中年男はなぜかたいてい大阪弁を喋ると不満をもらしたら、小さな悪事を働いてつかまったり殺されたりする方に東北弁が多いのはこれいかに、と東北出身者から反撃されたことがある。

わたし自身あまり使うことはないが、「受身」表現のコワサが大阪言葉にある。「表へ出ろ」といわれるより、「ちょっと表へ出たってえな」と低い普段の声で近よってこられる方がはるかにコワイ。表へ出たら、生きて戻ってこられぬようなーーとはちと大仰だが。

食べ物やかバーか、カウンターに並んで長時間議論か口論かで出口なしの状況に追い込まれていたコワイお兄さん風の二人男、ひとりがすっと立つと、もうひとりが「逃げるのか」といった。すると立ち上がった方が「便所ぐらい行かしたってくれや」といい、そのやりとりを離れて見ていた他国人が、その「受身」表現の「間」の見事さを何かに書いていた。張りつめた緊張のなかで「トイレへいく」では、たんなる中
断で、「間」ではない。おしっこぐらい自由にさせてやってくれ、というのは自分を第三者にして距離を取っている。大阪語、もしくは大阪的「ものいい」で特徴的なのは、こういう自分との距離、相手との距離を瞬時に計る距離感覚で、この種の洗練が大阪発祥の芸能である「漫才」にも通底しているはずである。

自分を第三者にして語りうるのは、「都市」だから可能なのだろう。第三者、つまり三人称からさらに「自分」を二人称にして使うことさえある。「あんたは?」というのを「自分は?」という。これは他国人には理解できない大阪文法で、「自分ら、どこからきたん?」といわれてはキョトンとする。

大阪語のもつ距離感覚がまったく通用せぬ土地で、通用せぬひとと喋る時の苦痛と失敗をさんざん味わってきて、距離感覚の「距離」とはハニカミなのであろうと四十年にしてやっとわかってきた。恥ずかしがり、繊細さ、といえば、おおよそマスコミでつくられた、ガチャガチャした「大阪」のイメージからは遠く見えるが、それらはほとんどハニカミの裏がえりである。

数年前、或る集まりで長年会わなかった女性にたまたま出会った。わたしを見かけたその人は「ずい分お見限りね」といったので返答ができず困ってしまった。このように、相手が返答できぬような挨拶を大阪のひとはあまりしない。「まだ生きてたの?」といわれれば、「すんません、まだ生きてました」くらいのことはいえるのだがーーー。しかし、「ずい分お見限りね」という相手に「まだ生きていたの?」は通用しない。おそらく、「なんてことを!」と怒って立ち去るだろう。

また以前に数人で外国へ行った時、わたしに叱られてばかりいたと、帰国後に訴えているひとがいて驚いたことがあった。訴えたひとは大阪人ではない。親愛をこめた「しっかりしてや」というような言葉も、笑いを誘わず、叱正だと受けとられたのである。

そのほかにも、会合のあとの約束の会食も挨拶もなしに突然帰ってしまったひともいた。わたしの大阪語的表現を誤解したからだった。何と因果な「大阪」だろう。わたしは、できるだけ大阪的冗談をつつしみ、必要なことだけを喋り、笑えぬ駄ジャレにもじっと我慢するようになった。大阪人は駄ジャレが嫌いだ。とにかく大阪を出て四十年の間に、身体は大病することもなく過ごしたが、ほとんどが大阪語、大阪的冗
談、大阪的会話による相手側の誤解によってココロは傷つき、何度もウツ病で倒れた。しかも、こういうことを訴えても、だれもホントにしない。さらにココロの傷には塩がすりこまれる。(ミーツ01年8月号)

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思わずキーボードを叩いて引用してしまったのは、書き方や手法は違うが、内田樹先生も同じようなことを書かれていたような気がするのもあるが、もう一度この富岡さんの文章を関西イントネーションで読んでほしかったからだ。

富岡さんは大阪語についての「玄人の芸」を一年あまり見せてくれた。

コメント (1)

門葉理:

富岡多恵子さん、いかに素敵な女性であるか、江さんの描写でわかりますね。
闊達で小気味よく、はんなりしながらも、迫力のある大人の女性。
関西弁の使い手でいらっしゃることが、同じ関西人として、とっても嬉しい。自分も同じ空気感を感じていることが誇らしい。
そんな風に感じさせてくれる方、意外と少ないんですよ。

江さんが、憧れの方にあって、ドキドキされている様子も、ほほえましい(笑)

新書、読ませていただこうと思います。

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2005年02月08日 21:06に投稿されたエントリーのページです。

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