「大宴会@豊岡」

 2025年の年の瀬も押し迫った12月16日、僕はいつもの9時20分梅田発全但バスに乗り、豊岡へと向かった。これで10月から数えてもう3回目の豊岡である。目的は、宮垣さんが計画してくれた地元の方との懇親会に参加するためだ。僕を含めて総勢8人の大宴会で、7人もの方たちが、僕と一緒にお酒を飲んでもいいとい思ったことには、正直驚いている。
 いつものとおり12時半過ぎに豊岡に到着し、町をぶらぶらしながら、ランチをとる店を探す。なにかあると、すぐにスマホを取り出すということを、食に関しては、僕はまったく採用しない。勘だけを頼りに町中を歩くのである。これは長いサラリーマン生活で獲得したスキルと言ってもいいだろう。あてもなくぶらぶら歩いていると豊岡市役所の裏手のあたりに自宅の一部分を改装したグリルと喫茶店を足して二で割ったようなお店を見つけた。店内に入り日替わり定食を注文する。僕の勘は、またしても当たった。手作りハンバーグとコーンポタージュスープ、ごはんとお味噌汁で780円という内容は大阪ではありえない。嬉しくなった僕は、思わず食後のコーヒーを注文する。食後に週刊誌のどうでもいい記事を読むという、喫茶店ならではの至福なひとときを過ごす。
 少し早めに常宿になりそうな「豊岡グリーンホテルモーリス」にチェックインし、ホテル内の温泉に入ったあと、宴会の始まるのを部屋で待つ。宴会の始まる18時に合わせて、ホテルを出発し、会場の晩酌居酒屋「九」で皆さんの到着を待つ。どんなメンバーなんだろうかと勝手にイメージを膨らます。僕より少し年上の町の顔役の人たちばかりなんだろうなと思っているとこところに、宮垣さんがいつものようにニコニコしながら現れる。その後、次々とメンバーが集まり始めるが、僕の予想は大きく外れ、年齢の構成は、30代前半から40代後半といったところだろうか。職業は、フリースクール代表、コンサル会社を辞め農業関係の仕事に就く方、市会議員2名、実家の民宿経営を考えている方、地元金融機関の方と大変ユニークなものとなった。
 乾杯のあと、各メンバーの自己紹介と、僕の起業イメージを伝える。おおむね好意的に話を聞いてもらえたような気がする。
 大人数の宴会のため、話はあちこちに散らばったものの、僕のなかで印象に残ったことについて書き記しておく。
 一般社団法人トコサ代表の遠藤さんは、大学を卒業後コンサル会社に就職し、現在農業を通じて地元の活性化を図っている。豊岡で起業するに至ったのは、お父さまが豊岡出身でお母さまが旧温泉町出身ということもあり、なじみのある但馬に決めたそうだ。さらに、出身は池田市だそうで、僕の生まれ育った川西市の隣になる。僕とほぼ同じようなルーツといっても過言ではない。
 さらにさらに遠藤さんのお父さまは、神戸女学院大学の教師をされていたそうで、内田先生とその時期がかぶっているとのこと。この社長日記で時折触れているが、どういうわけか、但馬をハブとしていろいろな人とつながっていく。縁と言えばそれまでのことだが、本当に不思議だ。
 遠藤さんは現在、農業を通して地方の抱える様々な問題を改善するために、いろいろな角度から新しい試みをされている。彼を掻き立てているのは、日本の農業に対する大きな危機感である。移住して農業をしてみたいというのは、よく聞く定型ではあるが、遠藤さんの考えは、もっともっとスケールの大きな根源的な「問い」であるように僕には思えた。そのようなことを考えている(僕からすると)若者(遠藤さんは32才)が、豊岡にいることに、僕は少し希望を見出した。僕の起業と遠藤さんの仕事とが上手くかみ合えば、面白いことになりそうな気がする。改めて、話をじっくり聞きに行きたい。
 もうひとつ、気になることについて聞いてみた。それは、「UFOフェス」のことである。
 きっかけは奥さんから聞いた話からだった。それは、凱風館恒例の合気道秋合宿での出来事で、いつものように合宿最終日に、2026年度の予約をしようとしたところ、「ときわ野」から、そのあたりは日程が難しいとのこと。その理由を聞いてみると、ちょうどそのタイミングで「UFOフェス」が予定されているらしい。
 このことについて、話題を提供すると、参加メンバーの一人から、「待ってました!」といわんばかりに、開催されるに至った経緯、フェスの内容、成果について細かく聞かせていただいた。なんでも神鍋山は、知る人ぞ知るUFOの聖地らしく、3日間の間に延べ10,000人の来場者があったそうだ。2026年の概要は明らかにされていないが、是非、僕も参加してみたいものである。
 宴会の終盤は、UFOの話から、幽霊話に発展し、よく分からない展開になったものの、
こうして地元の方たちと交流できたことは、僕にとっては大きな収穫だった。なにより生の声を聞けるのは貴重な体験である。
 豊岡との距離が一気に縮まった。
 
参考
豊岡グリーンホテルモーリス
【一般社団法人トコサ】
https://mamori.notion.sit/top
神鍋高原フェス"まんまる"

12月7日(日)少し暖かい

 「内田先生合気道入門50周年祝賀会」(@神戸ベイシェラトン&タワーズ)に出席した。
 合気道とは無関係な僕を、内田先生は招待してくれた。本当にありがたいことである。
 その日の午後、僕は大竹まことのラジオ番組「大竹メインディッシュ」を聞きながら、何を着ていこうかあれこれと悩んでいた。「大竹メインディッシュ」の「きたろう」の回が、僕は大好きで、老人の落ちのない何の役にも立たない話を聞いていると、本当に幸せな気持ちになる。
 少し「きたろう」の話に飽きてきたので、別のゲストの回を探していたところ、三砂ちづるの回を見つけたので、聞いてみることにした。三砂ちづるの代表作「オニババ化する女たち―女性の身体性を取り戻す」は、家の本棚にあるが、まだ読んでいない。ごめんなさい。少し聞いているうちに、その内容に引き込まれて、僕は着ていく服を選ぶのをやめて、ソファに座り聞き入ってしまった。内容は、近著「心の鎧の下ろし方」の紹介だった。三砂ちづるは、大学を退官された後、いろいろなご縁があり、竹富島に移住したそうで、そこでの暮らしぶりについて語っていた。僕が一番惹かれたのは、その思い切りのよさと、収入が減ったにも関わらず、「今、現在が一番幸せです。」と言い切る、その発言にあった。「心の鎧の下ろし方」は、まだ読んでいないが、まわりの定年を迎えた会社の先輩を見ていると、本当に情けなくなる。「肩書」を失った彼らは、まるで幽霊のようで、話すことと言えば、現在の自分の置かれているポジション、会社への不満と、昔の少し、いや大きく脚色された武勇伝ばかりである。聞いている方が、気が滅入ってくる。それに比べて、三砂ちづるのそのあまりの「男前」な態度に、男である僕は恥ずかしくなった。
 18時半の受付より30分ほど前に会場の神戸ベイシェラトン&タワーズに到着した僕は、ロビーのソファに背もたれながら、携帯で「三砂ちづる」とググッてみた。すると、「心の鎧の下ろし方」は、ミシマ社から刊行されており、ミシマ社のホームページには、三砂ちづるのインタビューが掲載されていた。
 「そうか、三島くんか~」と、少し面識のあるミシマ社三島社長の顔を思い浮かべ、携帯でそのインタビューを読みながら、受付が始まるのを待っていた。すると、知らない間にメイとユイのいつものコンビが隣に座っていた。彼女たちは、携帯を見ながら、ケラケラとずっと笑っていた。
 パーティーが始まり、播州バンドの面々、懐かしい人たちと談笑し、釈先生にご挨拶。
 「起業の方は、順調ですか?」
 「今度、12月16日、豊岡の地元の方との宴席を設けていただきました。7人もの人たちが僕と一緒にお酒を飲んでもいいということに、僕はすごくびっくりしています。」
 「そうですかぁ、それはよかった。起業の件、興味津々なので、また、いろいろとお話を聞かせてくださいね。」
「ありがとうございます。」
 釈先生と少しだけお話をしたあと、テーブルでワインを飲みながら食事を楽しんでいると、右後方に、三島くんを発見した。日焼けした精悍な顔つきは、以前の三島くんとは少し印象が違っていた。あとで知ったのだが、土、日は少年野球の指導に励んでいるそうだ。
 「久しぶり。」
 「ご無沙汰しています。」
 「さっきまで、ミシマ社のホームページで三砂ちづるのインタビューを読んでたとこやねん。すごい偶然でびっくりしたわ。」
 「え~!本当ですか。すごくうれしいです。ところで、英作さん、起業するんですって?」
 「そうやねん」
 そのあと、僕の起業イメージを三島くんに伝えると、三島くんは大いに賛同してくれた。
 現在、ミシマ社では、地方で小さな書店を作ることの支援を考えていることを、三島くんから聞かされた。例えば、平日は他の仕事をし、土日だけ書店を営業するようなしくみを作っているらしい。以前、中貝前豊岡市長にお話を伺った際に、地方移住を促進させようと思えば、育児手当とか、そういう小手先の対策だけでは効果は薄く、「文化の力」がどうしても必要だと力説されていたのを思いだした。
 「三島くん、今度京都に行くから、その話、もう少し詳しく聞かせてくれるかな。」
 「もちろんですよ、是非、いらしてください。」
 僕たちの会話を横で聞いていた大松くんも
 「僕も、一緒に行っていいですか。」となり、年明けの1月28日、大松くんと一緒にミシマ社へ行くことになったのである。
 とりあえず起業するといったものの、どうすればいいのか皆目見当もつかず、とにかくまずは、中貝前豊岡市長に会いに行き、そのときにいただいたアドバイスを思い出す。
 「とにかく、仲間を見つけなさい。同じような考えを持つている人は必ずいるから。」
 少しづつではあるが、「仲間」が増えてきているような実感を持ち始めている。
 さぁ、次は、12月16日の晩に豊岡の地元の方との宴席が待っている。だんだんと楽しくなってきた。

 「パスカルズ」というバンドのライブを観るために、12月2日、3日と東京に行った。
 「パスカルズ」は、14人編成と大所帯で、メンバーも高齢のため、いつまで見れるかどうかわからないので、東京まで観に行くことにした。また、せっかく東京に行くので、内田先生のお友達で、いくつもの会社を起業されてきた平川克美さんに会って、お話を伺うことにした。

12月3日(水)くもり
 前日、「パスカルズ」のライブを「スターパインズカフェ」(@吉祥寺)で観終えたあと「立ち飲みおでん屋 つかだ」で「ちくわぶ」デビュー後、ムサコの「セカンドハウス」に宿泊。翌朝10時に「セカンドハウス」を出発し、平川さんが経営する「隣町珈琲」に向かう。「パルム商店街」を突き抜けると、時折、ぽつぽつと雨が降り出す。寒い。少し早めに到着し、周辺をぶらっと歩く。こういう場所が東京にまだ残っていることに少し驚く。そういえば、移転前の「隣町珈琲」でも「このあたりは東京でも知らない人が多いんですよね」と言われたことを思い出す。
 約束した11時にお店に入る。広い店内の壁にはぎっしりと本が並んでいて、前方にあの橋本治の「東大駒場祭」のポスターが飾られてあった。それだけでも、来た甲斐があった。
ほどなくして、平川さんが現れ、挨拶を交わす。
 「今日は、何のご用件でしたかねぇ~」と言われ、一瞬戸惑うが、「内田先生からお聞きいただいていると思いますが、今回起業することになりまして、いろいろとお話を伺いたいと思いまして」と言うと、平川さんはにっこりと微笑み、「あっ、そうでしたねぇ、年を取ると物忘れがひどくて...。ビジネスからは、もうずいぶん遠ざかってしまったので、期待にお応えできるかわかりませんが、思いつきでお話してもいいですか」と言われ、僕は、
 「いえ、僕は、思いつきの方がありがたいです。平川さんのお考えは、ご著書のなかで、すでに拝見していますので」と、2004年にお書きになった「反戦略的ビジネスのすすめ」を鞄から取り出し、机の上に置いた。平川さんは、本を取りながら「懐かしいねぇ~、実はこれが僕の処女作なんですよ。そう、この間、上智大学の小川公代さんと対談して、この本に話題が及んだところだったんです。ところで、どんなビジネスを考えているんですか?」と聞かれ、僕は、概略を説明した。 すると、少しの間沈黙の時間があり、「これはねぇ、平田オリザの受け売りなんだけど、地方を活性化させる起爆剤は、そこにおいしいイタリアンレストランがあるかにかかっているっていうのが彼の持論なんだ。」そうおっしゃりながら、菅原文太の事例を教えてくれた。菅原文太がお金を出資して、生まれ故郷の東北で、イタリアンレストランをオープンさせた。そのレストランは、食材を各地の名産に限定したもので、いわばローカル同士を繋ぎ合わせたものを食で表現しようという試みだそうだ。平川さんは、そのレストランのお披露目パーティーに呼ばれ、お土産のバームクーヘンがいかに美味しかったかを、嬉しそうにお話された。なんでも、使っている卵が、普段我々が食べているものと全然違うらしい。
 そのあと、「一度、この人に連絡してみたらいいですよ。あなたが考えていることによく似ているから。平川から聞いたって言えばいいから」とある建築家とのメールのやり取りを印刷し、僕に渡してくれた。
 平川さんは、とても親切な方で、その場で思いついたことは、惜しげもなく何でも差し出すそんな姿に、僕は、ビジネスの本質をみた。かつて上司から、「こちらから情報を差し出すことなくできるだけ相手の情報を引き出せ」といわれ、「こいつ、バカだなぁ」と思ったことがある。それはまったく逆だからである。もし、情報を取ろうと思うなら、こちらから先に情報を提供することの方が先だ。人には親切にするものである。
 約1時間の間に、いろいろな話をしたが、今、「大田区ラブ」について語り合うプロジェクトがあるそうで、そのメンバーに大田区出身のミュージシャン、ムーンライダーズの鈴木慶一がいることを知り、僕は驚いた。あまりの僕のリアクションのよさに、平川さんも面食らった様子で、僕が、鈴木慶一と高橋幸宏のユニット「ビートニクス」の大フアンだと告げた。なぜなら、お店のエントランス脇に、高橋幸宏の本「ヒトデの休日」が飾られていたからだ。
 前にも書いたことだが、今回、起業するにあたり、僕は自分の勘だけを頼りに行動しているようなものだが、その先々で、いろいろな「縁」を感じている。この「社長日記」も、内田先生とおしゃべりをしているときに、ふと閃いたものだ。平川さんは、「反戦略的ビジネスのすすめ」のなかで、「かつての会社設立にはひとつの物語がありました。そしてこの物語性といったところから見ると、会社というもの、あるいはビジネスというものが案外面白い、深みのある人間の本源的な営みであることが見えてくるのです。」(「反戦略的ビジネスのすすめ」P57)と書いてある。僕が、この社長日記を書いているのは、サラリーマン経験しかない僕が、真っ白な紙に向かって、起業という「物語」を紡ぎ出していくその過程を自分自身が面白がっているためでもある。このことは、今勤めている大きな組織では味わえないダイナミズムを味わっているともいえる。
 「あなたの起業がもう少し具体的になれば、豊岡に行ってみたいなぁ。あっ、そうそう、よかったら、帰りの新幹線で、これ読んでみて」と、帰り際に平川さんから最新作「三歩あるけば、旅の空」をいただき、僕は「隣町珈琲」をあとにした。

10月22日(水)
 その日は、まるで初冬のようで、時折時雨るこの秋で一番寒い日だった。僕は、前回と同様に9時20分梅田発の全但バスに乗り、豊岡へと向かった。豊岡市役所の宮垣さんに会うためである。途中、中国自動車道での渋滞で予定より少し遅れ13時過ぎに豊岡市役所に到着。2階の「コウノトリ共生課」のカウンターで宮垣さんを待っていると、奥の方からニコニコしながら大柄な宮垣さんが現れた。カウンターの脇にあるテーブルで、名刺をいただき、僕は簡単な自己紹介をすませた。僕はなにより、宮垣さんを紹介してくれたAさんとの関係を知りたく、まず、そのことを尋ねた。その出会いもまた、偶然が重なったようないきさつで、さらにAさんのお友達Bさんも現在進行形で、豊岡と関わっているそうで、運命論者の僕としては、たまらない話を伺った。
「Aさんからは、話の概略は聞いています。何か面白いことをしましょう。」と、宮垣さんから話を切り出された。
「民間として何かお手伝いできるようなことがないか、そのヒントを探しに来ました。意見を聞かせてください。」と、僕は答えた。
 いろいろと話をしていくなかで、話題が日高町に及んだ。
「凱風館では、合宿で最低でも年4回は、日高町に行っています。「ときわ野」さんというところでお世話になっています。」
 宮垣さんは驚いた様子で、「「ときわ野」さん、よく知っています。いま、息子さんの代になって、がんばられていますよ。」
 しかし、「ときわ野」周辺の民宿、旅館では、後継者問題が一番の問題であることを、宮垣さんから教えてもらった。温暖化による雪不足に加えて、経営者の高齢化、後継者不在のため、半分以上の民宿、旅館が廃業を視野に入れているそうだ。前回、中貝さんに教えていただいた観光業の人手不足問題、そのものである。その問題も含めての解決策として、現在、豊岡市が取り組もうとしているのが、「豊岡市大交流ビジョン」だと教えていただいた。この取り組みに、宮垣さんが熱く語る一言、「そういうコミュニティをつくりたいんです。」に僕も熱く反応した。
 「コミュニティ」は、僕の起業イメージを表現するのに、ぴったりの言葉だった。
 少し大仰な言い方になるが、この「金まみれの世界」からこぼれ落ちていく人たちに何とか寄り添っていきたい、僕はそんなふうに思っている。そして、そのことは、子供たちにも同様である。今の教育システムに適合しない子供たちをなんとかできないのだろうか。
 僕の知り合いの子供にこういう子がいる。その子は小さなときから、異常なまでに象のことが好きで、寝ても覚めても象のことばかり考えていたそうだ。その象好きが高じて、将来は、「象使い」になることを決めた。「象使い」になるためには、タイに行く必要があることを知った彼は、今ほどインターネットが発達していない時代に、独学でタイ語を習得し、「象使い」の学校を卒業後、見事に「象使い」になったそうだ。僕は、この話が大好きで、現在の教育システムでは、この子は単なる変人に映るだろう。また、いくら稼いでいるかも知らない。しかし、彼は、自分の持っている才能を自分の力で見事に開花させたと言えるだろう。今さら、僕などが言うまでもないが、子供の持っている可能性は、想像を絶するものがある。野球の大谷選手も、野球がしたいという理由だけで、修学旅行に行かなかったそうだ。天才とは、そういう人たちのことを言うのだろう。僕は、天才を見てみたい。
 子供に対する、そんな僕の思いを、宮垣さんに伝えたところ、宮垣さんも同意された様子で、「井上さん、豊岡では、こういう取り組みもしているんです」と、「森のようちえん つむぐり」の話も聞かせていただいた。まだまだ小さな活動だが、その「つむぐり」の卒業した子供たちは、明らかにほかの子供とは全然違うそうだ。遠方から通わせている方もいるそうだ。
 今回の豊岡行きは、日帰りで体力的には少しきつかったが、実りの多いものになった。
 別れ際、中貝さん同様「紹介したい人がたくさんいます。」と言ってくれたので、僕は、「では、よかったら宴席を設けてください。」と言うと、「人選に苦労しそうです。」と笑いながら答えてくれた。母親の口癖は、「但馬は、人がええから」というのは、本当だった。
 最後に、余談になるが、今、神鍋は「UFO」の町になりつつある。この秋に、奥さんが合気道合宿で「ときわ野」を訪れた際、来年の予約をお願いしようとすると、その時期は、空いていないと言われ、理由を聞くと「UFOフェス」があるからと。そのことを、宮垣さんに伝えたところ、「そうなんですよ~」と笑っていた。UFOが見れるか否かわからないが、来年の「神鍋高原フェス まんまる」には行ってみようと思う。

【参考】
「ときわ野」
https://tokiwano.com/
「豊岡市大交流ビジョン」
https://www.city.toyooka.lg.jp/shisei/keikaku/1019147/1009343/index.html
「森のようちえん つむぐり」
https://nextgreen-tajima.amebaownd.com/pages/5005737/page_202106080716
「神鍋高原フェス まんまる」
https://fes-manmaru.com/

 大仰なタイトルにしたが、本当に「そう」なので、よければご一読ください。

 9月30日
 9月22日の中貝さんとの面談結果を紹介いただいた内田先生に報告するため、寺小屋ゼミが始まる前の15時半からお時間をいただいた。9月30日というと、会社では、上期の締め日で夜は打ち上げという日である。そんな日にわざわざ会社を休むなど、まわりの人間からは、大変奇異な目で見られたが、そんなことは今の僕には、たいして重要ではなかった。
 冒頭に、「大駱駝艦」の話をすると、内田先生もびっくりされて、麿赤児がかつて在籍していた劇団「状況劇場」の芝居を花園神社で観たときの話を嬉しそうにされていた。唐十郎、大久保鷹、麿赤児、そして音楽は山下洋輔という何とも贅沢なメンバーが同じ空間に存在していたなんて信じられない。とても羨ましい。そんな時代も過去の日本にはあったのだ。
 話が一気に横にそれそうだったので、本題に入った。
 「空き家問題について、中貝さんに意見を伺いました。仏壇問題が最大のネックとのことです。僕も不動産業界に長く携わってきましたが、恥ずかしながら全然知りませんでした。」 
すると、「えっ、知らなかった!」と内田先生にびっくりされてしまった。
 内田先生によると、仏壇問題の件は、以前お仕事相手から聞いたことがあるそうで、その解決策として、「留守番」を仕事にしている人もいるとのこと。「留守番人」は、ただひたすら「留守番」だけを専らおこなうだけで、大した報酬は得られないものの、接客や営業をまったくする必要がなく、人と接することが苦手な人にとってはうってつけの仕事
といえる。「空き家問題」解決策の一つになるかもしれない。
 次に「そうそう、サライネスって漫画家の「誰も知らんがな」って知ってる?」と、内田先生は、何かに気づかれた様子で、僕に尋ねた。
 僕が、「知りません」と答えると、「誰も知らんがな」の舞台となっている旅館について、内田先生がサライネスさんに「何となく「香住あたり」に思えてきました。」と直接Xで聞いたところ、「だいたいそのあたりです」との返事があったそうです。起業に向けてジグソーパズルのピースが少しずつ埋まってきているようで、なんだか不思議だ。漫画は全然読まないが、今度読んでみようと思う。また、地方の抱える問題の一つ、観光業の人手不足問題については、二冊の本「新・観光立国論」(@デービッド アトキンソン)、「芸術立国論」(@平田オリザ)を教えてもらった。
 

10月17日
 僕は、どうも原理主義者たちが苦手だ。僕にとっての原理主義者とは、卑近な例で申し訳ないが、「「カレーライスにはウスターソースをかけるのが普通」のように「AはBであるべき。」ということに固執している人たちのことを指す。このようなことを熱く語られても、僕は困惑するばかりだ。そして、往々にしてそういう人たちは、熱く語りたがる傾向が強い。面倒くさい。僕は、特に何かに強くこだわるという性向がほとんどない。大概のことはどちらでもいいのだ。雑な人間だ。
 そう言いながらも、僕は「運命論」原理主義者である。出会いたい人、コト、モノには必ず出会えると固く信じて疑わない。これまでに出会った、数々の人、コト、モノは、どれもちょっとしたことがきっかけとなっている。2002年、JR東西線の社内で雑誌「ミーツ」のページをぱらぱらとめくりながら、初めて内田先生のエッセイを読み、いまではこうやってお話ができるようになったこと。19才のときに観た、当時大人気のバンド「A Decade In Fake」のリーダーに今ではギターを教わるようになり、時々差しでお酒を飲んだりすること。それらのことは、あらかじめそうなることが、最初から決まっていたかのようなふうに僕には思えて仕方がない。自分から能動的に、その出会いを探したことなど一度もない。なにを、僕はグダグダと書いているのかというと、先日「そのような」ことが起きたからだ。
 僕の「社長日記」を内田先生がXで投稿され、その投稿を通じて「社長日記」を読まれたAさんから、奥さんを経由してメールが届いた。メールを読みながら、僕は鳥肌が立った。内容は、Aさんはここ数年、仕事で「豊岡」と関わりを持つようになったそうだ。僕のことをその仕事先の「豊岡」の方に話をしたら、大変興味をも持たれたらしい。Aさんからは、「私で役に立てることがあったら何でもいってください」と、大変うれしいプレゼントもいただいた。僕はすぐにAさんに連絡をし、その方の連絡先を教えてもらうことにした。
 Aさんの仕事、出身地などから「豊岡」とはおよそ接点などないように思えたが、本当に不思議なものだ。なにか大きな力が僕の背中を後押ししているように思えて、僕はワクワクした。
 早速、僕は、その「豊岡」の方に連絡をし、5日後の10月22日に会うこととなった。
 続きは次回に。

 内田先生からこのシリーズのタイトルについて「井上英作の社長日記」と名付けていただいた。往年の東宝の喜劇映画「社長」シリーズのようなタイトルで、まるで森繫久彌になったような気分だ。
 さて、前回の続きとなるが、まずは、中貝元豊岡市長に会ってお話を伺うことにした。そこで、せっかく豊岡に行くのに何か別の用事がないか思案していたところ、「そうだ、この時期は豊岡演劇祭をやっているのでは?」という、いつもの勘が働き、すぐに調べてみるとやはり的中していた。さらに、豊岡に行く9月23日の演目を見て、僕は腰を抜かしそうになった。大袈裟ではなく本当に。なんとその日は「大駱駝艦」の公演があったのである。「大駱駝艦」というのは、麿赤児(大森南朋の父といったほうが、今の若い人たちには分かりやすいかも知れない...)が主宰する「暗黒舞踏」集団である。僕のなかでは、「大駱駝艦」と「但馬」との接点を、まったく想像することができなかった。「但馬」というのは、どちらかといえば保守的な街で、自分の両親からも、まったく文化的な香りを感じたことがなかったからだ。なにせ、父親は、7才の僕に、映画「女囚さそり」を見せるような人だった。
 9月23日9時20分「城崎温泉」行きの全但バスに乗り12時半に豊岡に到着。
 開演まで時間があるので、「コウノトリの郷公園」で時間を潰す。そういえば、毎年恒例の凱風館「海の家」に向かう丹後鉄道の列車の車窓から、田んぼに佇むコウノトリを今年も見かけた。中貝元豊岡市長の大きな成果は、隣町の京丹後市にまで及んでいた。
 その後、ホテルに戻りテレビで相撲中継を途中まで見て、18時開演に合わせて、会場の「豊岡市民プラザ」に向かった。会場に入って僕は驚いた。なんと300人弱の客席は満席だった。
 翌日9月24日朝、僕がホテルのロビーで中貝さんに会うための準備をしていると、眉毛のない丸坊主のお兄さんたちがぞろぞろと現れた。「大駱駝艦」のメンバーである。彼らの会話を盗み聞きしていると、「麿さん」とう言葉が飛び交う。すると、そこに全身黒づくめでサングラスをかけ、ハットをかぶった男が現れた。麿赤児だった。
 興奮冷めやらぬまま、僕は中貝さんに会うために、「とゞ兵」へと向かった。玄関で、
「すみませ~ん」と言うと、奥のほうから足早に中貝さんが現れた。僕は少し緊張した。どちらかといえばあまり緊張しない方だが、20年もの間、豊岡市長として数々の功績を残されてきた方を前に緊張しない方がおかしいかもしれない。
 事務室に通され、僕は簡単な自己紹介をすませ、僕が起業するに至ったいきさつ、「女性」をターゲットにした起業イメージ、「但馬」への思いなど、ド素人の僕の妄想とも覚束ない質問や考えに、中貝さんは、ニコニコしながら、ひとつひとつ丁寧に答えてくれた。
 おおむね僕の考えていることには賛同いただけたが、いくつか助言をいただいた。

その一
 自分ひとりでがんばってはダメ。同じような考えをもった人をまずは探すこと。
 「そのためには、十分なリサーチが必要です。」
 「その期間として約1年間現地に足を運び現場の声を聴いてみようと思っています。」と僕は答えた。中貝さんは、ニコニコしながら頷いてくれた。
「必ず同じ考えをもった人がいます。探せば必ずいます。仲間を増やしましょう。」

その二
 中貝さんは、今、地方で困っていることの一つに観光業界の人手不足問題を挙げられた。たとえば、かつては、「部屋食」というお部屋で晩御飯をいただくということがあったが、どうしても人手が足りないので、大部屋で宿泊者全員に食事を提供せざるを得ない。かつてのようなきめ細かなサービスができないことで、客離れに繋がらないか経営者は非常に危惧しているそうだ。そのための解決策として、旅館業と並行しながら、介護施設の運営を行っているところがあるらしい。親の介護を理由に社員が辞めないようにするために経営者が考案したそうだ。

その三
 「空き家問題」について質問したところ意外な答が返ってきた。
 「それは、実は仏壇問題なのです。」
 つまり、一年の内、お盆の数日だけ、お墓参りに帰省した親族が集まる「場」を確保するためだけに、一年間の殆どを空き家にしているということらしい。恥ずかしながら、不動産業界に37年も携わっていながら、全然知らなかった。想像している以上に「空き家問題」の根深さを思いしらされた。
 気が付いたら2時間近く、中貝さんがいうところの「おしゃべり」をしていた。やはり、現場の方のお話を伺うのは、とても楽しく大変参考になった。
 別れ際に、「何か見ておいた方がいいところがあれば教えてください。」と尋ねたところ、
 「カバンストリート、豊劇ぐらいかなぁ。」
 「見るところより会わせたい人がたくさんいるので、また、いつでもいらしてください。」

 「仲間」は、目の前にいた。起業への光が少し見えた。

【参考】
「豊岡演劇祭」
https://toyooka-theaterfestival.jp/
「大駱駝艦」
http://www.dairakudakan.com/rakudakan/top.html
「コウノトリの郷公園」
https://satokouen.jp/
「とゞ兵」
https://todohyo.com/
「カバンストリート」
https://toyooka-tourism.com/spot/kaban-street/
「豊岡劇場」
https://toyogeki.jp/
「なぜ豊岡は世界から注目されるのか」(@中貝宗治)
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721270-9&mode=1

2年前の夏、毎年「極楽ハイキング部」が主催している「中村壮でたらふく魚を食す」ため、男鹿島に向かうフェリーのなかで、僕の隣に座っていらした内田先生から突然こう言われた。

「あと何年で定年なの?」
「2年です。」
「定年後は何をするの?」。
「...。特に、何も考えていないです。」

内田先生は、3秒ほど何かを考えている様子で、「起業しない?」とおっしゃった。
まったく自分のなかで思い及ばなかった「起業」という言葉に僕は困惑したが、なんとなくそれもありかなと、なぜか、その時にそう思った。それから、自分のなかで具体的な「起業」についてのイメージを膨らませていった。なにせ、40年近く同じ業種でサラリーマンだけをやってきた僕が起業なんて可能なのだろうか?そもそも何をしよう、そんな、葛藤を繰り返しながら、僕は「但馬」と関わりたいと思った。直感だけで、これまで生きてきたような人間なので、今回も自分の直感を信じることにした。

僕の両親は、「湯村温泉」、ドラマ「夢千代日記」で知られている、兵庫県美方郡温泉町というところで生まれ育った。その後、結婚を機に親戚を頼って兵庫県川西市に居を構え、60年前の1965年8月に僕が生まれた。僕が小学生の頃、毎年お盆になると、お墓参りのために温泉町の双方の実家に帰省した。それは、国鉄宝塚駅から特急「まつかぜ」に乗り、浜坂駅で降りて、そこからバスに乗るという4時間弱の子供にとっては少々ハードな旅だった。お盆の間は、毎朝6時に起床したあと、親族総出でお墓参りに行き、昼間は諸寄海岸で海水浴をし、夕方にもう一度お墓参りをしたあと、夜は楽しそうな大人たちの宴会を眺めるというのが、僕の夏休みのルーティンだった。そんな子供のころの楽しい記憶からか、いつしか僕は自分のことを但馬の人間だというふうに自覚するようになった。

子供のころ、「但馬」は冬になると雪深く、冬の日本海の暗いイメージと重なり「裏日本」などと揶揄されていた。確かに、当時母の実家には、玄関の脇に20㎡ほどの空間に牛がいて、お風呂は、所謂「五右衛門風呂」で、鉄製の釜の底に木製の底板を踏みながら入浴するもので、外からおばさんがかまどに薪をくべてお湯をわかしてくれた。僕は、そんな母の実家を「牛の家」と呼んでいた。そして、今でも高速道路が幾分整備されたとはいえ、大阪から車で約3時間半ほどかかる辺境なところであることに変わりはない。現在、「温泉町」は2005年に「浜坂町」と合併し「新温泉町」となり、人口約11,000人、高齢(65才以上)化率約41%と典型的な日本の過疎化した町の典型と言えるだろう。

 そんな「但馬」に人を送り込もうというのが、僕の起業イメージである。現在、僕の働いている不動産業界では、長い間活況が続いている。そんな状況下、独立をしたり、さらにいい条件で転職する若い社員が後を絶たない。平成バブル、リーマンショックを経験した僕からすると、今回の活況は、単なるバブルと思えなくもないが、そう思いながらこの状況が長く続いているのも事実である。そんな若い社員を見ていると、話題の殆どが、「金」の話ばかりである。

 一方、シングルマザー(世帯数:約120万世帯、平均年収:約236万円)、引きこもり約146万人(15才から64才)、増え続ける不登校児童約34万人など、彼らの存在を、いったいどう考えればいいのか。彼らの居場所はないのだろうか。そう思ったときに、この二つを結び付けることはできないだろうかと思い至った。

 なぜなら、所謂転職サイトでは、彼らは、最初から除外されているからである。一方、但馬も日本全体からみれば、切り捨てられようとしているといっても過言ではないだろう。二つとも、「金」の世界から見放された存在だと言えば言い過ぎだろうか。そうであるなら、「金」の世界とは別の世界で生きていくことはできないのか。

 僕の考えていることを具現化するために、これから約1年かけてリサーチを行おうと思っている。実際に但馬に足を運び、いろいろな現場の方の声を聴くことにした。この起業に関して「ひと山当ててやろう」などの野望はないが、だからといって、40年近くビジネスの世界に生きてきた人間の矜持として損は出したくない。

 リサーチの第一弾として、僕は、内田先生から紹介いただいた中貝前豊岡市長に会って話を伺うことにした。僕が言うまでもなく、中貝前豊岡市長は、豊岡市長時代に、コウノトリの野生復帰、「城崎国際アートセンター」オープン、「芸術文化観光専門職大学」開学と数々の功績を残された方である。あの豊岡でそんなことができたのかと、但馬を知っている僕としては、ただただ驚くしかない。そんな中貝前豊岡市長に、まずはお会いしたいと思ったのである。そのときのことは次回で詳しく話をしたいと思う。

 内田先生の一言から始まった今回の「起業」だが、僕は、なにより亡くなった両親への「親孝行」になればいいなと思っている。