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Abril 2007 アーカイブ

Abril 14, 2007

ザビエル老師が天草四郎に伝えたこと


■英語版ウィキペディアには、こげなことが書かれとったげな:
「イエズス会が反乱勢力を支援した」

大家・内田さんの2月23日付けブログ『島原の乱異聞』は、この「誤った記述」のためにアメリカの大学で起こった騒動を伝える朝日新聞の記事で始まる。
(……って、育児しながら書いてるうち1ヶ月経っちゃった)
もちろんそれは「でも、ほんとにそんな歴史的事実が『ない』って言えるの?」という内田さんらしいツッコミ、もとい視点で検討され、例のごとくおもろい話へと膨らんでゆく。
読むうち、何の因果かザビエルの故郷スペインに住み、ついでに島原半島は有馬出身の父と「フミエ」というキリシタンな名の祖母(いやこれは関係ないか)をもつ私は、いささか興奮してきた。
なんかあんじゃないの? イエズス会と島原の乱の関係を示唆するなにかがスペインに……。
あっ、あの話! ザビエル、ひょっとしたらあの話、日本でもしたんじゃないかしら?

えー。
ザビエルの故郷はナバラ州の、その名もザビエルという村の、ザビエル城である。城主の子だったのね。
位置は、スペイン・フランス両国にまたがる緑豊かなバスク地方と、画家ゴヤに代表される偏屈者の産地であり白灰色のごろた石が転がるだけのアラゴン地方との境。
マドリードから見るとやや北寄りの北東、おおむね1時の方向になる。
そのマドリード-ザビエル村のほぼ直線上、だいぶザビエル寄りに、ヌマンシアという小さな町がある。
今回はザビエルも知っていたに違いない、そんなヌマンシアで起きた話を。

じゃじゃん。
自国とは遠く離れた土地で、ある民族によって脅かされている別の民族の権利を守るためという名目で、本来どちらの民族とも無関係なある国が、どどんと大軍を送り込んだ。しかし美しい名目に隠された本当の目的は、その土地が生みだす富だった。
えっ、そんなアメリカ批判は聞き飽きた?
いやこれは紀元前のローマ帝国のこと。
ローマ帝国は「イベリア半島でケルト人による侵略の危険にさらされているイベリア人の権利を守るため」、ギリシャ人が建設したマルセイユを征服し、そこを拠点として、今日のスペインへ大軍を送り込んだのだ。
ご存知のように版図拡大を至上命題とするローマ帝国は、こうして交易の民フェニキア-カルタゴを戦争へと引きずり込み、最終的にはポエニ戦争で息の根を止める。
もちろんそれとは異なる美しい名目でイベリア半島に送り込んでいた大軍はそのまま駐留させ、占領下において属領とした。

ちなみにひとはなかなか歴史から学ばないようで、スペインは同じ過ちを1800年代にも犯している。「ポルトガルに行くのに通るだけだから」と言って大軍をスペインに送り込みそのまま占領下に置いたのは、かの皇帝ナポレオン。
しかもうまい具合に隣国に「英雄」が現れたとき、こちとら史上最悪に愚鈍な王だったときたもんだ。
そのカルロス4世、本人以外は誰もが知っていたと言われる王妃と寵臣の仲について設定を変えた喩え話で感想を求められると、「そいつぁバカな寝取られ男もいたもんだ!」と大いに喜んで答え、ますます嘲笑されたらしい。
それでもスペイン人はその歴史と同じくらいの長きにわたり、王家のことを、そりゃもうひたむきに愛し続けている。
「嗚呼あとこれで、スペインに賢明な王さえいたならば!」と嘆いたのはアラトリステだったか。

さて話は戻る。
うまいことイベリア半島を占拠したローマは、いかにスペイン支配を進めたか。
まず「イベリア地方」と呼ばれ、フェニキア-カルタゴとの交易が盛んだった地中海地方では、ローマは主に協定締結による支配を進めた。
それまでの習慣から「協定」とは商取引だけを意味すると思っていた人々は、政治的には自らにひどく不利となる協定にもあっさり同意したという。
またローマの将校と先住民族の姫の政策的結婚も盛んに行なわれ、これが女性軽視の文化をもつこの地方でのローマ化を強力に推し進めた。
むろん、呈示される利益になびいた町もある。
ということでこの地方は、大きな紛争なくローマの支配下に入った。

一方カンタブリア海岸などイベリア半島北部、「ケルト地方」と呼ばれる地方では、ローマはまったく別の方法を採った。
ここに部族単位で住んでいたケルト人は、男女の別なく武器を手にして行なう他部族への略奪を主な生業としていた。
当然のことながら、やがて物資の豊富なローマの駐屯部隊や、ローマ支配下に入った近隣の町が、そのターゲットとなった。
そこでローマはまず、「その略奪っていうのやめてんか、食料が必要なんやったらそれ提供しますよってに」と(インチキ関西弁かどうかはしらないけど)、ともかく下手に出て安心させた。
そしてしばらく約束を履行せずにおき、飢餓が進んだところを見計らって「お待っとさんお待っとさん、ほな、いまから食料を分けまっさかい」と多くの部族を一箇所に集めた。
そこで、大虐殺を行なったのである。
ケルト地方はこれでジ・エンド。

さて、残るは半島中央部。
イベリア半島中央部は幾重もの峻険な山に囲まれ、陸の孤島といった様相を呈する。
地中海岸では盛んに交易が行なわれ高度な技術を駆使した赤色の焼き物が作られて国際的ブランドとして名を馳せていたその同じ時期に、ここにはまだ石を削って矢じりを作っている人々がいたという。
そのため大きな町ができていなかったこの地方では、ローマに対抗するために、まず先住民族が集まる必要があった。
が、もちろん聡いローマは真っ先にその禁止を通告(ああそうか、こうして権力による「集会の禁止」が出てくるんだな)。
もっともこれに先んじてケルト地方でなにがあったのかを知った大多数の人々は、巨大なローマに抵抗する気力すら失っていた。
その唯一の例外が、ヌマンシアである。

実はケルト人大虐殺の折、ひとりだけ(ほんとかなあ)逃げ延びた羊飼いがいた。
彼の名はビリアト。家族全員を殺された恨みを胸に、果敢に大軍を擁するローマへ戦いを挑む。そのいくつかのゲリラ戦が成功を収めたことから、先住民族の中に希望を抱くものが現れた。
彼らがローマの目を盗み、天然の要害であるヌマンシアの地に集合したのが紀元前153年。
むろんローマもこれに対して北アフリカからの象数十頭や騎馬兵数千を含むそこそこの部隊を派遣するも、へっぽこ将校などのせいであえなく敗退。肝心の象は豪気者の投石に驚いて逃げ出したという。……で、どこいったんだろう?
そしてそれを繰り返すこと、19年。って、埒のあかないことこのうえないぞ。
しびれを切らしたローマは、紀元前134年、ついに数年前にカルタゴを陥落させたローマ屈指のやり手指揮官を派遣した。

さすがはやり手、到着するなり彼はすかさず町の包囲を指示。
町をぐるりと囲む城壁を作り、ところどころに高さ30メートル超の塔も設けて、先住民が川を利用できないように見張った。
当然のことながらやがて町は飢餓に陥る。
そして翌年夏、ローマ軍に包囲されること15ヶ月間、戦闘の継続を断念した先住民は町に火を放つ。その紅蓮の炎のなか、母が子を手にかけ、あるいは自分で自分の胸を剣で貫いて、全員が自害して果てた。
そこに入城してきたローマ軍は、「えーいけったくそ悪い」とばかり町を完璧に破壊しつくした。さすが、負けたカルタゴの町をぶち壊し、周到に塩まで撒いてその痕跡すら完全に葬り去った奴等だ。
……というのが、スペイン史上有名な「ヌマンシア包囲」の話のてんまつ。

もしか夷狄に蹂躙されるやもしれぬ折にはスペイン人たるもの誇り高き精神にて自らの命を絶つべし。
このヌマンシアの話は後年こう解釈され、「外国または共産党にスペインが侵略された場合にスペイン人がとるべき模範的な行動」として、フランコ時代に大いに喧伝されたという。
って、似たような話がどこかの国にもあったのでは。
歴史から個人的に学ぶのは大いに結構だけど、そうやって一義的に学ばされるのはまったくノ・グラシアスだわね。

で、この有名なヌマンシアの話を、わりと近くの出身であり、かつ城主の子でインテリゲンチャンなザビエルは当然知っていたと思うのだ。
numanticoというスペイン語の単語それ自体が、いつからかはわからないけど、「たとえどんな困難な状況にあっても極限まで粘り強く抵抗すること」という意味を持つようになったりしてるくらいだし。
むろんキリスト教では自殺はタブーだけど、殉教は大いにアリなわけで、ザビエルがヌマンシアの話をうっかり美談として長崎でべしゃったことがあったんじゃないか。
そう、スペイン人であるザビエルがその歴史観から、「ええか、もしこの先、時の権力に追い詰められてもよ、易々と魂を引き渡しちゃなんね。そげなときはヌマンシアのように玉砕覚悟でも最後まで抵抗するがよか。それが神に祝福される国スペインの民のあり方なんばい」と。
どうだろう?
と日本史フェチのツレアイに話したら、「いや篭城して全滅とかって、日本でも石山本願寺とかいっぱいあるよ。別にヌマンシアの話と強引につなげなくてもいいんじゃ?」と指摘された。

あっ……。
おっぱいあげオムツを換えながら1ヶ月かかって書いてこの体たらく。ヨヨヨ。
自国の歴史を知ることも大切ですね(キッパリ)。
えーっと、次はもちっとましなものを書きます。

宇宙人になって、びっくり


■Sちゃんはこう云った:
「子供ってこんなにかわいいものなのか、って思うやろ。」

Sちゃんはともに20歳のときに東京で知り合った同郷の女子で、初めて会った夜に彼女おすすめの『ウルトラQ』を見て以来、汗と酒臭い青春後期の日々をゆるゆるつきあってきた金襴の友、だ。
当時は私の麻雀仲間に過ぎなかった現ツレアイを、「ユカワクンは神様ばい、ぜったい良かって、つきあわんね」となぜか空前絶後の賛辞をもち強くすすめたのが彼女だった。
この年代(73年生まれ)でジュリーのサイン入りTシャツを着て吉田拓郎の『結婚しようよ』をさらさら歌う彼女の言うことだからきっと間違いないんだろう。
直感した私は、とくに恋したわけでもないユカワクンとつきあうようになり(彼の名誉のため付け加えると、向こうもとくに私に惚れていたわけではない)、やがて気がつけば湯川カナになり、いまけっこうハッピーだ。
ひとには添うてみよ、ってやつですね。
麻雀やりゃ人柄がわかる、ともいうけれど。
そして昨年長女を出産したとき、すでに4歳と1歳の男の子に恵まれていた彼女が、祝福のメールに書いていたことばがこれだった。
「子供ってこんなにかわいいものなのか、って思うやろ。」

なるほど。で、これがどうスペイン史につながるの?
えっと、つながりません。
『今夜も夜霧』、勝手にこれから2本立てでまいる所存です。(いいでしょうか? 大家さん)
スペイン史と、あと、……哺乳類メスの恍惚レポート、かな?

33歳で子どもを産んだら、友人の多くがママ・パパになっていた。
彼女や彼らから出産した私に届けられたメールには、「どう? HAPPYでしょウフフ」「最高やろー?」「至福の気分、味わってますか?」などと、メロメロに幸せなことばが乱舞していた。
どれも、程度の差はあれ「仲良し」には違いなかった彼女や彼らから、それまで一度も耳にしたことがないことばだった。
とても新鮮だった。
と同時に、「ああ、いままでみんな、子どものいない私に遠慮していたんだなあ」と感じた。

24歳で結婚したので、結婚10年目に子どもができたことになる。
個人の自立を讃え過去の因習を軽侮する20世紀末ハポンに育った女子の私は、21歳で同棲しはじめたユカワクンと、互いをパートナーとして最大限に尊重しつつもお上の都合で設けられた籍なんぞは入れずに生きていく、つもりだった。
結局はスペイン移住の際の居住許可申請のため、同棲3年目に「とりあえず・かたちだけ」籍を入れた。だってスペイン政府は「家族同居ビザ」は発行しても、「恋人同居ビザ」なんて認めてなかったからだ。
かくして単なる「形式」ではじまったものの、名字が変わり、左手薬指にリングをはめ、「夫」とか「妻」が日常の言葉遣いに入り、ツレアイの家族を私の家族と変わらぬ呼び方で呼ぶようになってみると、やっぱり結婚は結婚だった。
そして、それは事前にトンカチ頭で想像していたよりもはるかにハッピーだった。
このハッピーを近い日本語でいうなら、「自由」だ、たぶん。ちっちゃくていびつな自分だけで生きていかなくてよくなったという。
あるいは「始原の歓び」かもしれない。身体を組成する60兆の真核細胞の中でうごめく無数のミトコンドリアやべん毛による、「そうそう、生物たるもの『他』を受け容れてなんぼよ! 俺らだって外から来たんさ!」という雄叫び。

で、結婚とくれば子どもだ。とは、いまは言っちゃいけないんだった。
実際に母たちは、結婚してもいっこうに妊娠する気配のない私に、ほとんどそんなことを言わなかったように思う。それはそれは、腫れ物に触れるがごとき気の遣いようだった。
一方で父たちは、わりと呑気を装ってそれをぽろっと口にする。
しかしたとえば義父からそれを言われると、そのことで私はツレアイに貸しを作った気になり、ツレアイもまた「ごめんな」と私に借りを作った気になっていた。
なぜならそれは現代日本社会のコード違反であり、私は違法行為の被害者としてすでに承認されていたからだ。
そして、あなたに行使する権利があると与えられたものをンなもんいらねえと放棄するのは資本主義的マインドでは考えられないことだったのです。
子どものいる友人たちもまた私に対して、「私も旅行とかしたいんだけど子どもがいるから」とか「その年で大学行くなんて楽しそうだね、私はもう本読む時間もないもん」とか、いま振り返るとすごくこちらを気遣うことばばかりを選んで送ってくれていた。これもそう、まるで腫れ物に触れるかのように。
もちろんそれはコード遵守であったと同時に、間違いなく、個々人の心からの優しい気配りでもあったのだけど。

話は飛んで。
昨年通った大学のクラスメートに、柔らかな知性をもつ20歳のスウェーデン人カリンちゃんがいた。
世界有数の先進国である北欧の国からやってきた色白の彼女は(こともあろうに)スペインのなかでもとりわけ田舎気質の強いアンダルシアはコルドバにひと夏ホームステイしていた。(しかも、こともあろうに知らずにバリバリにカトリックなセクト、オプス・デイ系の学校に通っていた。)
かつてはセネカやキケロやアベロエスを輩出した哲学の町コルドバも、いまはオリーブと観光でもっている、南スペインのいち田舎町だ。
彼女はステイ先のファミリーに毎朝「ちょっとあなた顔が青白いわよ、病気じゃない?」としつこく訊かれるのにも閉口していたが、それと同じくらい彼らやご近所さん、いや初対面のひとにすら、「独身? じゃあ彼氏は? いないの? 早くつくりなさいよ、なんなら誰か紹介するから、いつなら空いてる?」と言われまくることに憤慨していた。
「そうそう!」 私も強く同意した。「私もマドリードでしょっちゅう訊かれるんだよ、『そう、結婚してるの。子どもは? いない? なんで? 早く作りなさいよ』って!」
カリンちゃんと私は、「結局スペインってど田舎よねえ!」と、ナイーヴな先進国の若者同士で熱く盛り上がった。

20歳スウェーデン人と32歳日本人には、こうして共通するコードがあった。
思うに先進国特有の個人主義。「私はひとりで立派な単位の個人なんだから、放っといて!」ってやつ。車だって家族でじゃなくて個々人がそれぞれ好きなのを勝手に買わなきゃマーケットがたちゆかないわ。
だけどスペインの、少なくとも田舎や50代以上のご近所さんにそのコードは通用しない。いや実際にはもっと根深く、ぱっと見には個人主義に見える青年壮年のあいだでも、そのコードは通用しないように思う。
たとえばタクシーで運転手さんと子どもの話になると、たいてい走行中でも財布やダッシュボードからいそいそと子どもの写真を出しては後部座席の私を振り返り身を乗り出すというアクロバティックな走行をしながら見せびらかしてくれる。どちらかというと若い世代ほどその傾向が強い。なかにはこっちが急いでいると言っているのにわざわざ車を路肩に停めて後部座席からアルバムを下ろしてきた迷惑タクシスタもいたくらいだ。
オフィスの机の上には子どもの写真。携帯の待ち受け画面にも子どもの写真。全身ピアスにタトゥーの若者だって、甥っ子姪っ子の話をとろけるような笑顔でする。
そしてそれを聞いたからといって、私はとくに傷つきはしなかった。10代終わりに「将来妊娠する確率は五分五分」と言われ妊娠を半ば諦めていた、いわば軽度の身体的ハンディキャップがあったのにもかかわらず。
むしろそれらのことばは、心地良いものだった。
あまりに楽しいので、こちらから「子どもとの暮らしって、どんなもんなんですか? 私想像もできないんで、ぜひ聞かせてください」としょっちゅう訊ねたほどだった。

昨年子どもが生まれて、しまった! と思った。
実際にもってみると子どもというのはすごく、なんか、たとえばその死を思うことは自分自身の死よりもはるかにいたたまれず、その生については私自身のものよりもはるかに多くの祝福あれと心から願えるような、そんな途方もないものだった。
しまった、これほどいいものだとは、想像もせんやったよ!
もちろん「子供ってこんなにかわいいものなのか、って思うやろ。」というSちゃんのメールに私は、「うん! ほんと!!」と返信した。
まだ4ヶ月しか一緒にいないけれど、ニーニャ(娘)は毎日、こちらが「今日が人生でいちばんうれしい日なんじゃないだろうか」と思ってしまうほど多くのよろこびを、どこぞから運んできて手渡してくれる。
お腹のぽっこり大きなその姿はちょうどくまのプーさんのよう、ボールひとつに他愛なく身も世もなく歓喜するさまは子犬のよう、両手をちょこんとあげてくぅと寝入る格好は猫のよう。
ちいさなもみじの汗ばんだ手で私の節くれだった人差し指を力いっぱいぎゅうと握りそれをまだミルクしか吸ったことのない甘い香りを漂わせる小さな口に押し当てムニュムニュと一心に舐められたりすると、そりゃもうとろとろにハッピーな気分になる。
このハッピーもやはり、「自由」、なのかもしれない。まだどんなコードにも侵されていない存在に触れることによる……いやいやそんな陳腐な理由づけのすべてを吹き飛ばすほどの圧倒的な存在こそが赤ちゃん、だったぜベイベー!

しかしこの「子どもって可愛いぞ!」という通貨は、いまどうもアンダーグラウンドのみで通用するものらしく、それを知っているひとたちの間でだけひっそりと交換されている。
その外側にいる子どもがいない女性に届けられるメッセージといえば、「子どもができると自由な時間がもてなくなる」とか「母性愛なんてウソで子どもが可愛くないという現実に直面して追い込まれる母親が多い」とかだ。
まあそれは100%間違いではないし、「子を作る/作らないは自己決定に属するうえ、身体的条件によって子どもを持てないひとにも慮らねばならない」というのも、そりゃそうだ。
しかしだからといってネガティブな面ばかり強調するのは、喩えは悪いと思うが目の不自由なひとに「いえ、この世に見るべきものはありません」としか伝えないことに似ていやしないか。
いいことばかりじゃないけど、わるいことばかりでもない。ブルーハーツ『TRAIN-TRAIN』の歌詞をもじるとそれが世の中だ。
それに私自身の経験からすると、目の不自由なひとがそのような答えを望んでいるほど僻んでいるとはとても思えない。
それはどちらかといえば健常者の、むしろ侮りにも似た、根底のところで相手に対する敬意や信頼を欠く行為なんじゃないだろうか。自粛という名の画一的な仲間外しというか、いじめというか。
「まあ見たくないものもありますけどこの花なんかけっこうきれいですよ、ほら花びらを触ったらふわふわと優しいでしょう、そういう春の気配そのものみたいな色してます。ところでそこからなにが聞こえるのか、私にも教えてもらえませんか」で、いいじゃん。

もちろん、子がいなくてもかまわない。
お金やテレビや、より正確には親がいなくてもぜんぜんかまわないように。
だけど、もし縁があったら、おすすめします。たぶんそれは、それを体験したことがないときに想像してみるよりも、もっとずっといいもんです。ハワイやラーメンや和服や恋や長距離走など、ほかのあらゆることと同じで。
言語について美とはなにか、とか、元文学少女の苦悩を眉頭あたりに漂わせて格好よく考えようとしても腹減ったよカアチャン腹減ったようわああん! と泣かれればノータイムで乳を丸出しにして駆け寄りパン食い競争さながら唇で必死に目の前の乳首を探す子に「娘よここだ、さあ飲め! どんと飲め!」とくわえさせる毎日は、愉快痛快爽快そのもの。
子どもって、いいもんだ。
いや、知っているひとはとっくに知っていて、実はそういうひとはたっくさんいるのだけど。
出産して、子どものいるひとたちに「仲間」として迎えられてはじめてそのことを知ったときの驚きは、なんだか、「実は日本の住人の2/3はすでに宇宙人なんだよ」と告げられたような気分でした。

Abril 26, 2007

人間は、どうして8拍、好きなのか

■200万年前、ビクトリア湖畔でこんな音が響いていたと云う:
「カンカンカンカンカンカンカン(ウン)カンカンカンカンカン」

ニーニャ(娘)が生後2ヶ月のころ、私が舌を出すとそれを真似ていた。
4ヵ月半のいまはそれはやらないが、そのかわり、こちらの手をじっと見ては真似るような仕草をする。
足も。
先日ラッコの親子よろしく彼女と隣り合って腹を上に寝転び、足を片一方ずつ動かしていたら、同じ方の足を上げ下げしようとしていた。
様子を見ていると、意思などではなく、どうも身体が勝手に動いているようだ。
たとえば私がなにかを食べていると、それを凝視しながらしきりに口を動かしダラダラ唾液を流したりするのだが、彼女は母乳以外の味を知らないわけだし。
まだ食べるということを知らない彼女が、口をもぐもぐさせること。
これがいわゆるミラーニューロン、なのだろうか。
私もまた、彼女をげっぷさせようとしては万度自分が先にげっぷし、ほぼ同時にあくびをしたりする。
あるいは、最近出るようになった彼女の笑い声を聞きたいときには、まずこちらが本気で笑わなければならないことに気づいた。
こちらが虚心坦懐こころを空にして笑えてはじめて、それを見ている彼女の表情がゆらりとほどけて「んげーっ」と笑ってくれる。
そうすると今度はそれが正真正銘もう心底うれしくてうひゃあと笑うと、それを見て彼女が「んげんげ!」と笑い、その様子にバカ親は再び笑み崩れ、それに呼応して彼女が「んげっんげっんげっ!」……。
これを親子3人で飽きもせず繰り返していたら、最後には頬が痛くなり、いま笑っているのがニーニャだかツレアイだか自分だかよくわからなくなる。
まるで徹マンも佳境に入った夜明け前の、「あいつがまたまた緑発ポン」だけで抱腹絶倒、な状態。
これもミラーニューロンのなせるわざか。
など、大家さんのブログで知ったミラーニューロンに興味を持ち、その在り処だというブローカ野についていろいろ調べているうち、コラム「基礎道具史」(http://www.hpmix.com/home/otr/CI27.htm)にたどりついた。
作者は、某精神科作業療法士さん(名前は非公表)。
なんでも12~16ヶ月までは手の配列規則とことばの配列規則は未分化で、それらの中枢は原ブローカ野というところで共有されているという。
12ヶ月以前は? そうか、まだことばをもたないんだ。
だから4ヶ月のニーニャがうれしいとき何事か唸りながら同時に手足をバタバタさせるのは、「うれしい!」きもちをごっちゃに全身で表してしまっているんだろう。
やがて2~3歳になり、ことばで伝える内容や叙述形式が複雑になってくると、この原ブローカ野から、発話の構造(音声)を専門的に処理・統御する中枢として、ブローカ野が独立してくるらしい。
ここがミラーニューロンの在り処。
たしかにことば(音声)のアウトプット面って、すごく「誰かのを真似て学ぶほかなく、刻苦勉励して独創してもあんまりダメ」なものだ。
なるほどねえ、と頷きながら読んだ次のコラムでおもしろい記述に出会った。

石器研究の専門家である織笠昭氏が解明したという、タンザニア湖畔オーベル・アワッチ遺跡の石器の作業工程の話。
この石器は約200万年前、前期旧石器時代のものだという。
世界最古の化石人類とされるアウストラロピテクスが丸腰(ちょっと違うか)だったのに対し、次に現れたホモ・ハビリスがはじめて石器といえるようなものを作った、まさにその時期だ。
そのほぼ人類史上初の石器は、礫(小さくてわりとひらべったい石)の縁を、他の石で打ち欠いて作ったもの。
そういえば大学で歴史学のフェルミン教授がくれた石器図解リストのいちばん左上にあった。
で、このオーベル・アワッチ遺跡の礫石器がどうやって作られたかというと。

> 石器を作った人間は、便宜的な表面を、右から左に順序よく七回たたいて剥離し、次に礫を回転させてひっくり返し、今度は新たにその反対面、便宜的な裏側を剥離します。通算八回目の剥離は、表面と同様に右から始まり、だんだん左に向かって五回続けられたというのです。

カンカンカンカンカンカンカン(ウン=引っくり返す)カンカンカンカンカン。
これが200万年前の人間の、最初の「道具」を作るリズムだ。
ああなんて心地良いんだろう。もう一回。
コ・ン・ヤ・モ・ヨ・ギ・リ・ガ・エ・ス・パ・ー・ニャ。
あっ!
イロイロめきたって、過去ログの「てんごでしるて・えんのらぶえな/すぐかきすらの・はっぱふみふみ」を読み返してみる。
たしかに魔女に似たテクスト学のカルメン教授が「カステジャーノ(標準スペイン語)の基本リズムは8シラブル」と言い、マドリードの大学で教鞭をとる言語学者のナイスガイ阿部新さんが「五・七・五も、実は休符(等時拍)を入れると8シラブルになるんですよ」と言っている。
またこのとき調べて、世界に5母音とされる言語が多いこと(カステジャーノ、日本語、イタリア語、ロシア語、ラテン語、サンスクリット語、中国語?など)と、その安定感により人間が快の感情を抱きやすいという8シラブルを基本リズムとする言語が多いことを知った。
知った、が、なぜだかはさっぱりわからなかった。
そこに、ホモ・ハビリスがヒントをくれた。
うん、「タンザニや ホモ・ハビリスの 槌の音」だ。ワッハッハ。
(以下、音韻学での常識だったらごめんなさい)

まず、5母音の言語が多いことについて。
それは、人類の指が5本だからではないか。
前述のように、原ブローカ野では手の配列規則とことばの配列規則は未分化であるという。
とすると、5本の指をむにむにと別々に動かしているうち、脳の対応部分が5つに分かれ、それに伴って音も5つに分かれた、
ってなこと言ったらどうざんしょ?
たとえばいま目の前で、ニーニャがしきりに手を動かしながらウゴウゴ話している。
その「ウゴウゴ」に、たとえば親指が「ア」、人差し指が「エ」に対応する……などという関連を見い出せないだろうかと観察しているが、いまのところさっぱり。
なあに、「個体発生は系統発生を繰り返す」という有名なテーゼから考えると、ニーニャもいずれホモ・ハビリスあたりになるだろう。
まだ直立二足歩行ができないので人類以前、おそらく陸に上がったばかりの両生類あたりだが。
いや、ハイハイもできないぞ。
まあ、石器を作るに至るあたりまで、引き続きゆっくり観察してみることにしよう。

そして8シラブルについて。
ホモ・ハビリスだって、7拍+休符(引っくり返す)で8拍だ。
それほど人類は8拍が好き。
その理由も、指が5本であるからだ、ってなこと考えてみました。
ア・ベール(どれどれ)、たとえばピアノの鍵盤の上に旦那の右手を置いたと想像してみてくださいよ。
いいですか、親指をドに、人差し指をレに、中指をミに、薬指をファに、小指をソに。
そして、ドからはじまって一往復半、してみておくんなせえ。
♪ドレミファソファミレドレミファソ。
ポイントは、1往復めが「ドレミファソ・ソファミレド」ではなく、小指は折り返しの1回だけ使うので「ドレミファソファミレド」となること。
たぶんこれが自然な運指だと思う。
同じく、1回めの復路と2回めの往路は、「ソファミレド・ドレミファソ」ではなく、「ソファミレドレミファソ」。
はいよ、これに歌詞をのせますよ、よござんすか。
♪今夜も夜霧がエスパーニャ。
あらあらぴったり、まあ不思議。
上記のように小指の「ソ」、2度めの親指の「ド」を折り返しに使うと、音はぜんぶで13になる。
1往復の終わりとなる(2度めの)「レ」が、8個めの音。
そして2回めの始まりとなる(2度めの)「ド」から、ラストの「ソ」まで、5個。
見事に8+5となっているのだ。
ひょっとしたら5母音言語のイタリア語で、ドレミファソラシドのひとまとまりが8音になっているのも、音階がそれを要求したのではなく(だってミとファの間、シとドの間は半音だし)、「8」であることそれ自体が要求したのではないだろうか。
ちなみに同じ5母音言語のスペイン語をみると、ドレミは「ド・レ・ミ・ファ・ソル・ラ・シ・ド」。
「ソ」=5つめの音、が、なぜかsol(太陽)とわざわざ分厚くなっている。(母音は1つなのでシラブル数=リズムに変わりはない)
これはおそらく8に隠された5の目印として、スペイン人が置いた太陽なのだ!

しかしそうなると、5母音じゃなくシラブルという概念もあるんだかどうだか怪しい英語などの場合はどうなるのだろう?
うーむ。
さりとは辛いね、
てなことおっしゃいましたかねー。

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