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宇宙人になって、びっくり


■Sちゃんはこう云った:
「子供ってこんなにかわいいものなのか、って思うやろ。」

Sちゃんはともに20歳のときに東京で知り合った同郷の女子で、初めて会った夜に彼女おすすめの『ウルトラQ』を見て以来、汗と酒臭い青春後期の日々をゆるゆるつきあってきた金襴の友、だ。
当時は私の麻雀仲間に過ぎなかった現ツレアイを、「ユカワクンは神様ばい、ぜったい良かって、つきあわんね」となぜか空前絶後の賛辞をもち強くすすめたのが彼女だった。
この年代(73年生まれ)でジュリーのサイン入りTシャツを着て吉田拓郎の『結婚しようよ』をさらさら歌う彼女の言うことだからきっと間違いないんだろう。
直感した私は、とくに恋したわけでもないユカワクンとつきあうようになり(彼の名誉のため付け加えると、向こうもとくに私に惚れていたわけではない)、やがて気がつけば湯川カナになり、いまけっこうハッピーだ。
ひとには添うてみよ、ってやつですね。
麻雀やりゃ人柄がわかる、ともいうけれど。
そして昨年長女を出産したとき、すでに4歳と1歳の男の子に恵まれていた彼女が、祝福のメールに書いていたことばがこれだった。
「子供ってこんなにかわいいものなのか、って思うやろ。」

なるほど。で、これがどうスペイン史につながるの?
えっと、つながりません。
『今夜も夜霧』、勝手にこれから2本立てでまいる所存です。(いいでしょうか? 大家さん)
スペイン史と、あと、……哺乳類メスの恍惚レポート、かな?

33歳で子どもを産んだら、友人の多くがママ・パパになっていた。
彼女や彼らから出産した私に届けられたメールには、「どう? HAPPYでしょウフフ」「最高やろー?」「至福の気分、味わってますか?」などと、メロメロに幸せなことばが乱舞していた。
どれも、程度の差はあれ「仲良し」には違いなかった彼女や彼らから、それまで一度も耳にしたことがないことばだった。
とても新鮮だった。
と同時に、「ああ、いままでみんな、子どものいない私に遠慮していたんだなあ」と感じた。

24歳で結婚したので、結婚10年目に子どもができたことになる。
個人の自立を讃え過去の因習を軽侮する20世紀末ハポンに育った女子の私は、21歳で同棲しはじめたユカワクンと、互いをパートナーとして最大限に尊重しつつもお上の都合で設けられた籍なんぞは入れずに生きていく、つもりだった。
結局はスペイン移住の際の居住許可申請のため、同棲3年目に「とりあえず・かたちだけ」籍を入れた。だってスペイン政府は「家族同居ビザ」は発行しても、「恋人同居ビザ」なんて認めてなかったからだ。
かくして単なる「形式」ではじまったものの、名字が変わり、左手薬指にリングをはめ、「夫」とか「妻」が日常の言葉遣いに入り、ツレアイの家族を私の家族と変わらぬ呼び方で呼ぶようになってみると、やっぱり結婚は結婚だった。
そして、それは事前にトンカチ頭で想像していたよりもはるかにハッピーだった。
このハッピーを近い日本語でいうなら、「自由」だ、たぶん。ちっちゃくていびつな自分だけで生きていかなくてよくなったという。
あるいは「始原の歓び」かもしれない。身体を組成する60兆の真核細胞の中でうごめく無数のミトコンドリアやべん毛による、「そうそう、生物たるもの『他』を受け容れてなんぼよ! 俺らだって外から来たんさ!」という雄叫び。

で、結婚とくれば子どもだ。とは、いまは言っちゃいけないんだった。
実際に母たちは、結婚してもいっこうに妊娠する気配のない私に、ほとんどそんなことを言わなかったように思う。それはそれは、腫れ物に触れるがごとき気の遣いようだった。
一方で父たちは、わりと呑気を装ってそれをぽろっと口にする。
しかしたとえば義父からそれを言われると、そのことで私はツレアイに貸しを作った気になり、ツレアイもまた「ごめんな」と私に借りを作った気になっていた。
なぜならそれは現代日本社会のコード違反であり、私は違法行為の被害者としてすでに承認されていたからだ。
そして、あなたに行使する権利があると与えられたものをンなもんいらねえと放棄するのは資本主義的マインドでは考えられないことだったのです。
子どものいる友人たちもまた私に対して、「私も旅行とかしたいんだけど子どもがいるから」とか「その年で大学行くなんて楽しそうだね、私はもう本読む時間もないもん」とか、いま振り返るとすごくこちらを気遣うことばばかりを選んで送ってくれていた。これもそう、まるで腫れ物に触れるかのように。
もちろんそれはコード遵守であったと同時に、間違いなく、個々人の心からの優しい気配りでもあったのだけど。

話は飛んで。
昨年通った大学のクラスメートに、柔らかな知性をもつ20歳のスウェーデン人カリンちゃんがいた。
世界有数の先進国である北欧の国からやってきた色白の彼女は(こともあろうに)スペインのなかでもとりわけ田舎気質の強いアンダルシアはコルドバにひと夏ホームステイしていた。(しかも、こともあろうに知らずにバリバリにカトリックなセクト、オプス・デイ系の学校に通っていた。)
かつてはセネカやキケロやアベロエスを輩出した哲学の町コルドバも、いまはオリーブと観光でもっている、南スペインのいち田舎町だ。
彼女はステイ先のファミリーに毎朝「ちょっとあなた顔が青白いわよ、病気じゃない?」としつこく訊かれるのにも閉口していたが、それと同じくらい彼らやご近所さん、いや初対面のひとにすら、「独身? じゃあ彼氏は? いないの? 早くつくりなさいよ、なんなら誰か紹介するから、いつなら空いてる?」と言われまくることに憤慨していた。
「そうそう!」 私も強く同意した。「私もマドリードでしょっちゅう訊かれるんだよ、『そう、結婚してるの。子どもは? いない? なんで? 早く作りなさいよ』って!」
カリンちゃんと私は、「結局スペインってど田舎よねえ!」と、ナイーヴな先進国の若者同士で熱く盛り上がった。

20歳スウェーデン人と32歳日本人には、こうして共通するコードがあった。
思うに先進国特有の個人主義。「私はひとりで立派な単位の個人なんだから、放っといて!」ってやつ。車だって家族でじゃなくて個々人がそれぞれ好きなのを勝手に買わなきゃマーケットがたちゆかないわ。
だけどスペインの、少なくとも田舎や50代以上のご近所さんにそのコードは通用しない。いや実際にはもっと根深く、ぱっと見には個人主義に見える青年壮年のあいだでも、そのコードは通用しないように思う。
たとえばタクシーで運転手さんと子どもの話になると、たいてい走行中でも財布やダッシュボードからいそいそと子どもの写真を出しては後部座席の私を振り返り身を乗り出すというアクロバティックな走行をしながら見せびらかしてくれる。どちらかというと若い世代ほどその傾向が強い。なかにはこっちが急いでいると言っているのにわざわざ車を路肩に停めて後部座席からアルバムを下ろしてきた迷惑タクシスタもいたくらいだ。
オフィスの机の上には子どもの写真。携帯の待ち受け画面にも子どもの写真。全身ピアスにタトゥーの若者だって、甥っ子姪っ子の話をとろけるような笑顔でする。
そしてそれを聞いたからといって、私はとくに傷つきはしなかった。10代終わりに「将来妊娠する確率は五分五分」と言われ妊娠を半ば諦めていた、いわば軽度の身体的ハンディキャップがあったのにもかかわらず。
むしろそれらのことばは、心地良いものだった。
あまりに楽しいので、こちらから「子どもとの暮らしって、どんなもんなんですか? 私想像もできないんで、ぜひ聞かせてください」としょっちゅう訊ねたほどだった。

昨年子どもが生まれて、しまった! と思った。
実際にもってみると子どもというのはすごく、なんか、たとえばその死を思うことは自分自身の死よりもはるかにいたたまれず、その生については私自身のものよりもはるかに多くの祝福あれと心から願えるような、そんな途方もないものだった。
しまった、これほどいいものだとは、想像もせんやったよ!
もちろん「子供ってこんなにかわいいものなのか、って思うやろ。」というSちゃんのメールに私は、「うん! ほんと!!」と返信した。
まだ4ヶ月しか一緒にいないけれど、ニーニャ(娘)は毎日、こちらが「今日が人生でいちばんうれしい日なんじゃないだろうか」と思ってしまうほど多くのよろこびを、どこぞから運んできて手渡してくれる。
お腹のぽっこり大きなその姿はちょうどくまのプーさんのよう、ボールひとつに他愛なく身も世もなく歓喜するさまは子犬のよう、両手をちょこんとあげてくぅと寝入る格好は猫のよう。
ちいさなもみじの汗ばんだ手で私の節くれだった人差し指を力いっぱいぎゅうと握りそれをまだミルクしか吸ったことのない甘い香りを漂わせる小さな口に押し当てムニュムニュと一心に舐められたりすると、そりゃもうとろとろにハッピーな気分になる。
このハッピーもやはり、「自由」、なのかもしれない。まだどんなコードにも侵されていない存在に触れることによる……いやいやそんな陳腐な理由づけのすべてを吹き飛ばすほどの圧倒的な存在こそが赤ちゃん、だったぜベイベー!

しかしこの「子どもって可愛いぞ!」という通貨は、いまどうもアンダーグラウンドのみで通用するものらしく、それを知っているひとたちの間でだけひっそりと交換されている。
その外側にいる子どもがいない女性に届けられるメッセージといえば、「子どもができると自由な時間がもてなくなる」とか「母性愛なんてウソで子どもが可愛くないという現実に直面して追い込まれる母親が多い」とかだ。
まあそれは100%間違いではないし、「子を作る/作らないは自己決定に属するうえ、身体的条件によって子どもを持てないひとにも慮らねばならない」というのも、そりゃそうだ。
しかしだからといってネガティブな面ばかり強調するのは、喩えは悪いと思うが目の不自由なひとに「いえ、この世に見るべきものはありません」としか伝えないことに似ていやしないか。
いいことばかりじゃないけど、わるいことばかりでもない。ブルーハーツ『TRAIN-TRAIN』の歌詞をもじるとそれが世の中だ。
それに私自身の経験からすると、目の不自由なひとがそのような答えを望んでいるほど僻んでいるとはとても思えない。
それはどちらかといえば健常者の、むしろ侮りにも似た、根底のところで相手に対する敬意や信頼を欠く行為なんじゃないだろうか。自粛という名の画一的な仲間外しというか、いじめというか。
「まあ見たくないものもありますけどこの花なんかけっこうきれいですよ、ほら花びらを触ったらふわふわと優しいでしょう、そういう春の気配そのものみたいな色してます。ところでそこからなにが聞こえるのか、私にも教えてもらえませんか」で、いいじゃん。

もちろん、子がいなくてもかまわない。
お金やテレビや、より正確には親がいなくてもぜんぜんかまわないように。
だけど、もし縁があったら、おすすめします。たぶんそれは、それを体験したことがないときに想像してみるよりも、もっとずっといいもんです。ハワイやラーメンや和服や恋や長距離走など、ほかのあらゆることと同じで。
言語について美とはなにか、とか、元文学少女の苦悩を眉頭あたりに漂わせて格好よく考えようとしても腹減ったよカアチャン腹減ったようわああん! と泣かれればノータイムで乳を丸出しにして駆け寄りパン食い競争さながら唇で必死に目の前の乳首を探す子に「娘よここだ、さあ飲め! どんと飲め!」とくわえさせる毎日は、愉快痛快爽快そのもの。
子どもって、いいもんだ。
いや、知っているひとはとっくに知っていて、実はそういうひとはたっくさんいるのだけど。
出産して、子どものいるひとたちに「仲間」として迎えられてはじめてそのことを知ったときの驚きは、なんだか、「実は日本の住人の2/3はすでに宇宙人なんだよ」と告げられたような気分でした。

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Abril 14, 2007 9:27 AMに投稿されたエントリーのページです。

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