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2009年1月 アーカイブ

2009年1月 7日

新春のご挨拶

1月6日(火)

 身体がなまってきたので、ばしばし稽古する。溜まった洗濯物もほいほいと片付ける。部屋の中もリフレッシュさせる。
のんびりしすぎた感じもする正月も疲れが溜まることなく、じつにのんびり、ゆっくり過ごせて、明日からようやく新年の仕事始めである。

1月5日(月)

 またひたすらだらだらする。正月の名残である。

1月4日(日)

初詣に東京大神宮に行く。
参拝客が大声を上げることなく、理路整然と静かに並んでいるから、とてもよい。静かに列に加わって、参拝する。
昨年も来たので、お礼参りを兼ねる。
おみくじをひくと、なんと、高校三年生の冬以来の「大吉」を引いた。
用心して、気をつけて、楽しんで、拡大して、ことしも健康に過ごしていきたいと思う。
 すばらしい年にしたい。


2009年1月1日(木)、2日(金)、3日(土)

新年あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願い申し上げます

新年がやって来た。
お餅を食べる。お節を食べる。ひたすらだらだらする。眠る。テレビを見る。年賀状を書く。お年賀にいく。することはただそれだけ。でも、それだけでも許される日々。ああ、うれし。餅、おいし。

12月29日(月)、30日(火)、31日(水)

師走の最後の三日というのは、慌ただしいと同時に、ことしのうちに、し忘れたこと、やり残したはないかと、ばたばたと思い出す時期でもある。
 しかし実際、それまでの360日くらいのうちにしてこなかったことを、この時期になって急に思い出し、駆け込み寺のようにやろうとしても、なかなか何かできるわけでもない。それでも、そういう「し忘れた」心境に陥るのは、師走特有の、あるいは年末ゆえのことであろうとも思う。まるで、どこかゆく年を惜しんでいるかのようだ。
あるいは、どれほど社会が進歩し、どれほど豊かになり、どれほど年中行事が簡素化されようとも、わたしの身体のどこかにも、師走特有の慌ただしい感覚がふいに蘇り、それが身体の奥底から意識しないうちに出てきて、「し忘れた」心境になるのだろうかとも思う。
 ともあれ、静かに時が過ぎ、師走の最後の三日は、深深とすぐゆく。ゴーン。


12月28日(日)

一週間後は新年なんて信じられないね。

2009年1月22日

冬の別れ

1月20日(火)

 今日で講義も打ち上げ。やんややんや。

 この一年間、何のご縁に導かれてか、一緒に講義を受けてきたひとたちと、駅で「さよなら~」と手を振る。これまで何度も経験してきたことなのに、そして、近々また会えるのに、今宵もまた、どこかさびしい気持ちになった。

1月19日(月)

 『20世紀少年』の映画化のため、あの太陽の塔が、今日だけ、「こんなこと」になっているらしい。ちょっと実感がこもりすぎて、こわ~い。


1月18日(日)
 
 今日は、東京バレエ団の<ベジャール・ガラ>モーリス・ベジャール追悼特別公演を観に、兵庫県立芸術文化センターに行く。
 演題は「ギリシャの踊り」「中国の不思議な役人」「ボレロ」の三つ。
「ボレロ」には、あのシルヴィ・ギエムが舞台に立つ。もう二度と彼女の踊りを観ることができないと見聞きしていただけに、こんな近くの会場で見られるのなら、行かない訳はない。というわけで即チケット入手。とはいえ、一番高価なA席なんて15000円もする。できるなら舞台は、前の方で大きく見たいほうだが、一事が万事そういうわけにもいかない(それにチケット予約の電話がつながった頃には、いい席は、ほとんど売り切れてもいた…)。
まあいい。このセンターの大ホールには、何度か出かけたことがあるので、客席と舞台との、だいたいの見当はつく。A席でも場所によっては、実はとても見にくいことがあるし、それはS席でも同じことが言える。また、どんな感じの人が前に座るのか、当日になってみるまでわからない。運悪く、背が高かったり、座高が高かったりするひとが前に座ると、まったくよく見えないのである。それは悲しい。ということで、一番安いE席を取る。

当日の「E席はいい席」のとおり!前には、誰も座るひとがおらず、見通しも、見晴らしはとてもよかった。またホール全体が小ぶり(だと思う)なので、舞台がわりに近いのもいい。地上四階建ての四階の高さから、舞台を見下ろす。ちょっと高いところは怖くもあったけれど、「あの動きを一度でいいから観てみたい!」という思いにはかえられなかった。

 最初に東京バレエ団のバレエが二つ。
 まだかまだかと待ちながら、東京バレエ団の踊りを拝見。席が席なので、舞台での展開をまさに真上から見ることができた。バレエ団の団員は、右に左にひとりで踊るというよりも、全体がほぼ同じに、そして、全体的に対照的に動いていた。ベジャールというひとの成せる技なのか、実に左右対照な構図を取っている。素人なので、それ以上はわからないが、どこかに安定を求めているのだろうか?とも思えた。

さて、シルヴィ・ギエムである。感想はすごかった。すごすぎた。に尽きる。
素人目に感じた、どうすごいのかをあげると、動き自体は、おそらくただ単純なものであるだろう。腕を上げたり伸ばしたり、膝を曲げたり伸ばしたり、少し飛んでみたり、手を大きく開いてみたり、リズムをとって足を曲げてみたり。もしかしたら、日常生活のなかでも、私たちが見たことのないような奇抜な動きは、なかったかもしれない。だが、その何でもない動きを、ただ何でもないように動かしている。いや、わざわざ動かそうとしているわけでもない。「動いている」という実体そのものがない感じだ。動き始めにも終わりにも「おこり」がない。かといって「居着き」もない。動き自体が「動き」として孤立しているのではなく、あまりに自然に、舞台や空間と見事なまでに溶け合っている。

 そこで何が起こっているのか、一瞬目を疑うほどにすごかった。この動きを強く目に焼き付けておこうと、更に前のめりになる。舞台へとかぶりつく。
ホールの舞台中央に置かれた、赤くて丸い舞台上でのしなやかさは、人間がつくったものによる、人間の何でもない動きによって見出された美しさであった。

 ああ、できるなら、全幕シルヴィ・ギエムの舞台を観てみたい。そんなことはあるだろうか?いや、強く念じればあるかもしれない。願ってみよう。

1月17日(土)

 地震が起きた日からことしで14年が経つ。

1月16日(金)

 今日は、『太王四神記-チュシンの星のもとに-』を観に、宝塚大劇場に行く。(http://kageki.hankyu.co.jp/revue/103/index.shtml)
 同じ合気会のヤマダさん(仮名ではない)がチケットを譲ってくださったからである(ありがとうございます)。それも二枚も譲ってくださったので、これまた合気会のヒロスエさんとお誘いしてみると、「行ってみたい」との旨。ということで、一緒に観劇させてもらう。

 この舞台は、ご存知ヨン様こと、ペ・ヨンジュン主演の韓国ドラマが原作だ。宝塚歌劇95周年記念の舞台らしく、韓国歴史ドラマを宝塚版にうつしたところが、妙味なのだろう。
これまでTVで少し見た程度で、原作のドラマはちゃんと最初から最後まで見ていない。よって、前もって、だいたいの流れと登場人物を抑えた程度で観劇したが、それでもわかる仕掛けになっていた。脚本家の力はすごい。そしてさらには、おもしろいと思えた。ああいうドラマは好きなのである。
これを機に、韓国ドラマのほうをちゃんと見たいと思う。物語のつくりとしては、おもしろそうだからだ。誰かDVDをお持ちじゃないかしら~?貸してください。それも字幕版で。

1月15日(木)旧正月

 ちょっとだけ正月気分から開放された感じ。

1月14日(水)

 今日の稽古は少数精鋭でしたが、愉快でした。さくさくこなす感じがまたいいですね。

1月13日(火)

 ぼんやりしてもいられないのだ。もう始まっているのだ。

1月12日(月・祝)

 吹きすさぶ風が冷たい。いや、冷たすぎる。年が明けてからというもの、身体に伝わる風の冷たさ、痛さが一気に変わったように感じる。急に冬を思わせる気候に、ダウンコートが手放せない。
 今日は、合気道の特別稽古に行く。今日が成人の日であることとは何の関係もない。
祝日なので場所が確保でき、それで稽古していただけたというわけである。
祝日とはいえ、通常の稽古とは時間も曜日も違うので、人数がだいぶ少なくてよかった。怪我もなく、たっぷりと身体を動かせた。柔道場の外は朝から5度くらいだっただろうから、稽古中も汗なんてかかないと思っていたが、たっぷりと汗をかいた。冬の汗は風邪もまた導く。危険だ。

1月11日(日)

 下川先生の舞台を拝見しに長田の上田能楽堂へ。
阪急電車からの接続が悪く、移動に思わぬ時間がかかってしまう。その間に外は白いものがちらつき、完全に冬。寒い。寒い。寒い。朝から、くしゃみがとまらないので、出かけるのが少々億劫ではあったが、仕舞を拝見してよかった(「通小町」)
見所も寒いので、風邪をひかないように、それだけを重視して静かに、お暇する。

1月10日(土)

 甲南合気会稽古始めと鏡開き。
昨年の12月20日の稽古納めから、三週間も日が経っているので、稽古開始前から、道場にはたくさんの方々が待っている。互いに「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」と新年の挨拶を交わし、ことしも無事に迎えられたことにまずは感謝。
 稽古が始まる。
身体の伸びは、まあまあというところ、か。
実際、お正月は、ほぼ食べて眠っての繰り返しだったので、あまり動いていない。以降もその間も、できるだけ動くようにはしているが、明らかに運動量が減っているだろう。多分に体重増加が想像される(恐ろしいので、年末から計っていない)。
 のびのび動いて、いつもよりたっぷりと呼吸してみる。

 稽古のあとは鏡開き。内田先生のご自宅に移動し、恒例のお神酒とおぜんざいをいただく。これをいただけなければ、結局新年が明けた気がしない。何はなくとも、この行事だけは参加し続けている。かれこれ何回目になるだろうか。これまた継続は力なり?か。

 ことしも健康に気をつけて、元気に稽古したい。目標を持って精進したいと思う。
本年もよろしくお願い申し上げます。


1月9日(金)

 そろそろ新年お正月ボケボケモードから開放されるべきだと思う。

1月8日(木)

 大学もまた稽古始め。講義始め。稽古始め尽くしである。

1月7日(水)

 本日は芦屋合気会稽古始め。
この日から、わたしの仕事始めが始まるというわけだ。ただ考えようによっては、新年明けて7日もたったころから始まるというのは、遅いといえば遅い。ゆったりしているといえばゆったりしている(実際に見えないところで始まってはいるが)ありがたいことに、この年末年始はとてもゆっくりすることができたので、このペースには感謝している。

 今日はまた稽古始めであると同時に、ひっさしぶりの稽古なのだが、さほど大きなブランクも変な感触もなく、のびのびと動けたことがよかった。もちろん、道場のみなさんと互いに、新年の挨拶が交わせたこともよかったことのひとつだ。

稽古後は会場を移して、開設以来三回目の鏡開き。移動した和室や利用した料理室のどこに何があって、どの場所に何を運ぶのか、場所に行ってみなければわからないし、想像もつかない(配置場所や物自体が増えたり、減ったりして、毎年どんどん変わっている)。
また、その日、誰が何を担当するのかも決まっていない。会場を設営するのか、湯を沸かすのか、包丁を取りに行くのか、鍵を開けるのか、団子をこねるのか。わかっているのは、そのとき、そのときのやってきたメンバーで、場所とかたちを作るということだけである。そもそも、その日の稽古にはどの会員が来られるのかわからない。だから、みなさまの担当も何も決めずに、一気におぜんざいを作成する。それでも、誰もがきちんと動いてくださる。それどころか、年に一度のこととはいえ、だんだんと段取りがよくなってきているからすごい。これまた稽古の賜物なのだろうと新春早々、自画自賛的なことを思う。ありがたいことに。

来春四月からは道場も四年目を迎える。
とはいえ、まだまだ月日の浅い道場である。人間で言えば、三歳くらい。ぼちぼちと、ゆっくりではあるが、なんとか自分自身で行きたい方向に、歩けるくらいの頃だろうか。幼稚園に入るくらいまでの年頃には、もう少し前に向かって歩けるように、自分で考えて、ものの名前がわかって、自分自身をなんとなくでも感じられるように、進んでいきたいと思う。
本年もよろしくお願い申し上げます。

 そして本日、稽古始めをもうひとつ。仕舞と謡の稽古である。
 鏡開きのあと、てくてくと下川先生のところまで歩く。
久しぶりだったが、この日ばかりは新年なので稽古に行っておきたいと思い、稽古に向かった。合気道のあとゆえ、いろいろなことがらが連続すると想像できたが(おぜんざいをいただくなど)が、それを考慮しても今日を「稽古始め」としたかったのは、できるだけ正月のうちに、それも松の内に出かけたかったという、ただそれだけの思いである。

 新年早々に舞、謡う。
どちらかというと、わたしは仕舞いが苦手だ。でも、ことしは、それも避けることなく、一生懸命に、場所を覚え、かたちを習得し、動きに馴染みがでるようにしてきたい。腹から声を出し、発声する。澄み切った気分になる。ことしもがんばろうと思う。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

2009年1月30日

冬のおわりの日々

1月29日(木)

 後期が終わっても、まだまだ続く。追試験ってたいへんですね。受けるほうも作るほうも。

1月28日(水)

 先週からの喜びや感触がすこしですが、残っている感じ。でも、それこそ「ナマモノ」であるので、ずべて同じとはいかず。

1月27日(火)

 こつこつといろんなことをしながら過ごす日。
部屋があまりに寒いので、夕方、決算セールをしている近所の家電量販店に暖房器具を見に行く。最近、といっても昨年末、そのまた近所に、敵対する?家電量販店ができたからなのか、思い切った値下げはもちろんのこと、あらゆる電気器具やその陳列棚周辺に、「対抗価格」「他店より高ければ~」など、購買意欲をそそるような仕掛けがしてある。そして、なんと言っても、揃いも揃って、店員の愛想がとてもいい。次また行こうと思える店になっている。
ゆっくりじろじろと物色してから、手軽でコンパクトな温風ヒーターをひとつ買う。
暖房器具の話をしているとき、知り会の方からも緩やかに薦められたのもあって、ほんとうはデロンギのオイルヒーターが欲しかったのだが、いくら決算セール中とはいえ、そうそう手は出せませんでした。でも欲しい!あれはあったかい。


1月26日(月)

 後期講義終了。これでようやく成績がつけられる~。
 登録してくれた学生さんたちは、これほどまでに寒い体育館で、今日は、よく耐えてくれたものだなあと思う。登録した頃には誰が想像しただろう!こんなに寒くなるなんて(誰も想像しなかったはずだから、結果的に講義が成り立ったのだが)。
 これほどまでに、寒い冬がやってくるとは予測も想像もしなかった。とくに後半は、とても寒さが厳しかった。凍てつく感満載で、常に動いていないと身体のどこかが、かじかむ。寒いから常に動いているが、その動くための最初の一歩自体からして、かじかんでうまく動けないし、働かないこともある。
ことしが特別に寒いことに加えて、今回は新築された体育館を利用したので、このことも寒さをさらに引き立たせていると思われる。体育館自体に、使い込んだ校舎独特の暖かさのようなものがまだ充分に備わっていないので、どことなく「つめたーい」感触がただよっているのだ。たかが体育館、されど体育館。建物もイキモノであるように思う。どことなくまだ建物がその場所に馴染んでいないあたり、それが寒さをさらに倍増させた要因のひとつとなったのではないだろうか。
つめた~い。ああ、つめた~い。それを通り越して、ほんとはきんきんと痛い。

 今日はまた、大学で久しぶりの方々に会う。久しぶりの先生、久しぶりの職員の方…。ああ、たしか、この先生もたしかこの時間におられたなあとか、そういえば、この時間に教えていただいたなあと思いながら、挨拶を交わす。
 今日お会いした先生のひとりは、韓国語を教えていただいた先生。急いでいたのもあって、少ししかことばを交わせなかったが、覚えていてくださったのは、えらくうれしかった。ネイティヴスピーカーなので、当然発音がきれいだ。たまには、その声を聞きにいかせてもらってもいいだろうか。その音を聴いただけで、わかったような気になるから、不思議な講義であったことを思い出す。春休みは、もう一度勉強をしようかしら。

今日は新月だというので、朝から思いつくまま、たくさんの願い事をした。それも思い出す時間のある限り、何度も何度も繰り返した。なぞるくらいに繰り返した。
願い事は、かなったら、ここに書きますね。

1月25日(日)

 炬燵に入りながら、ごそごそと作業する。ごそごそごそごそ。

1月24日(土)

 体調悪くされて、内田先生がお稽古を休まれる。こんなことは、めったにない。先生の人気が全国区になって以来、お忙しい日々が続いている。おそらく休む時間さえ取れないほどに忙しく、知らず知らずのうちに、疲れが溜まっておられたのだろうか。お大事にしてください。

 稽古日は基本的に土曜日である。そのうち、予め内田先生のご都合が悪いとわかっているときは、代稽古を立てることになっている。甲南合気会では、会員のなかから「助教」がそれを勤める決まりだ。助教は数人いるのだが、最近はみなさん忙しいのか、全員が稽古の最初から揃うことが少ない。今日はまた突然だったこともあり、誰も初めから稽古に来ることができなかった。わたしひとりを除いては。
 というわけで今日は、必然的にわたしが代稽古をすることになる。前もって担当することがわかっていたなら、「今日は何をしようかな」「どんなふうに稽古の目標を立ててみようかな」「稽古のやり方はいつもと変えてみようか」などと思い巡らすこともあるが、今日はそんな時間の余裕もほとんどない。まあ実際(これまでもそうだったが)、思い巡らせたところで、道場に一歩足を踏み入れるなり、それまで考えてきたことは全部吹っ飛んでしまう。あるいは様子や状況次第で、すぐさま全部放り出して、変更してしまうこともある。そして、まったく思いもよらなかったことをすることがある。それは、道場というところが「ナマモノ」だからだと、わたしは理解している。

 「ナマモノ」というのは、変化するのが常である。極論を言えば、最終的にそれは「腐敗」し「死(枯渇)」となる。だが、そこに行き着く前に、ただただ「生きている」。生物界のイキモノがなぞる過程がそうであるように、「ナマモノ」である道場もまた、常に「生きている」のだ。それは、「学び」「成長し」「大きく」「小さく」「情報を得」「取捨選択し」「考え」「立ち止まり」「進み」「振り返り」「休み」「留まり」「出かけ」など、多くの変化を思わせる事柄によって、また、これら出来事を繰り返すものとしても現すことができると思う。「道場」ということばは、それ自体、無生物的なことばである。だが、そこにはひとが集う。そのとき、「道場」は、単なる場所を意味することばであるというふうにも言い切れないのではないだろうか。

その「ひと」が「生きる」には、少しの温度(太陽)と水(水分)と食物(栄養)が必要だ。温度は日によってさまざまだ。もちろん水の量もいつも適切だとは限らない。食物だって、あればいいというものではない。多すぎず少なすぎずのまさに適量が難しい。これらの三つのバランスがあってこそ、そこに集まる「ひと」たちによって、「道場」は「道場」たりうるのだろう。うまくバランスが取れるときもあれば、そうでないときもある。同じ日であっても、時間によってまちまちに変化もする。良くも悪くも。

 いつもいるはずの誰かが欠けても、新しく誰かが増えても、それだけでも感触は変わる。また、その日の立ち位置、それぞれの身体状況や気分、睡眠時間などでも、感触は大きく変わるものだろう。
 それだけに-それはいつからだろうか-わたしは稽古で「道場」に来たとき、その日の温度を見るようになった。その日の水分も、その日の栄養も、そして、変化し続けているその場所にいる「道場」をつくっている「ひと」も、その中に含まれる「ひと」のひとりである自分自身の中身さえも。

 話が大きくずれたが、「道場」は「ナママノ」である。ということを、とくに身をもって体験しているときがある。わたしにとってそれは、代稽古をさせていただくときだ。代稽古のときはいつも、何をしようかと決める(たとえそれが短時間であっても)。けれど、いつも道場の中央に立ったとき、わたしは何も決めていない。決めていると同時に決めていないのである。
それは、わたしが、わたしの師匠から学びえていることのひとつだと、いまでは、なんとなくそう思っている。

1月23日(金)

 寒いですね。やっぱり冬ですね。

1月22日(木)

 寒いですね。冬ですね。

1月21日(水)

 今日の稽古はとても愉快でした。いつもが愉快でないというわけではりませんが、たまたまにせよ、偶然にせよ、全体的なバランスが良かったということでしょうか。ほんのりと暖かな感触がありました。

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