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2005年1月 アーカイブ

2005年1月 7日

年末年始所感

1月6日(木)

 千枚漬けを食べ、数の子を食べ、みかんを食べ、チョコレートをほうばるなどしつつも、正月三が日の気配をそこかしこに漂わせながらも、餅はやめてせめてご飯にして、現実に戻そうと必死になるいちにち。

1月5日(水)

 届いた年賀状の返事をひたすら書く。年が明けてから年賀状を書くのは申し訳ない気もするが、思わぬ人から届いたり、年が明けたから思い出したりするのだから、こればかりは仕方ない。などと思いながら、とにかくがしがしと書く。

 夜は新春特番の『夏目家の食卓』をだらだらと明治を想像しながら、すこし見る。
夏目鏡子には宮沢りえ、夏目漱石には本木雅弘といった、あのCMでもおなじみの顔合わせ。演出が久世光彦のせいか、どことなく全体がコメディタッチで、漂うの雰囲気はどことなく「寺内貫太郎一家」。しかしあんな神経衰弱で神経症で胃が弱くて癇癪持ちでそれでいて大食漢の人と暮らすというのは、いったいぜんたいどういう神経の持ち主ならばやっていけるのだろう。神経衰弱になる側ならば、そんな気苦労などどこにもなかろうが。

1月4日(火)

 昼過ぎに渋谷で、ゆりさま@自由が丘道場と待ち合わせして、明治神宮を参拝。
 神宮では、それぞれ気になるお守りを手に入れ、お賽銭を入れ、拍手を打つ。初詣に行きそびれたわたしは、これが新年最初に参る神社となったので、おみくじをひく。(どこか別の神社ですでにおみくじをひき、めでたく「大吉」をあてたらしいゆりちゃんは、にっこり後ろで待ってくれている「いいひと」である)。
ところが、ここのおみくじは吉凶を占うものではなく、「○△しましょう」といった助言的なものであった。期待していたのとは大分違っていたので、思わず拍子抜けしながら、神社に括りつけてくる。おそらく、またどこかでひいてしまうだろう。

神宮を出て歩いていると、表参道から青山通りに突き当たるまで通りにあった、「古い長屋のようなアンティークなものばかりを売っているような芸術家を目指す人たちが住んでいるような通りに面した建物」は消えてなくなり、近々違うものになるようだと知った。全面改築中の鉄板が建てられていてなかの様子は伺えなかったが、これまでの建ち並んでいた建物の姿はどこにもみえなかった。よく知りはしない通りでも、古きよきモノが消えていくようで寂しく感じる。

青山通りまで来たので、せっかくなので、かの有名な「われらが」青学の前まで行ってみる。さらにかの有名な銀杏並木が見えてくる。

1月3日(月)

 昨晩に見た夢が初夢と言うのなら、夕べは非常にどぎまぎする夢をみた。よく眠れなかったのも確かで何度も時計をみた記憶がある。

年末にひいた風邪をこじらせるほどのことはないものの、治る気配もないまま、東京に向かう。多田先生宅へお年賀にうかがう。気錬会のみなさまにもお会いする。

1月2日(日)

 正月二日目は、年始の挨拶がてら来た父方の実家で迎えた。諸般の事情で十数年ぶり(だと思うがそれ以上かもしれない)に泊まらされたのである。
風邪をひいている身には、田舎の寒さはこたえる。寒さは、表の水道の蛇口が凍っているくらいで、息は当然のように白く、廊下は寒い。もう二度と泊まりたくないとは、新年の決意。

1月1日(祝)元旦

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

12月31日(金)大晦日
 「えらい雪ですねえ」

 誰かに話しかけている実家の母の声で目が覚めた。地面が凍るくらいの雪が降る。あまりに寒いので、夜に着物を着て出かける予定のお参りに行くことを迷った。

テレビの紅白は、ことしも相変わらずおもしろくない。そろそろこれを見るのもやめようと思う。ことしは民放2チャンネルで格闘技があったが、試合そのものはあっという間で、知らない間に流される前の試合は、これまでどれも観てしていないし、わからないので、ついていけず、結局殴り合いにしかみえない。レコード大賞も、これと言ってパッとしない。ことし売れた歌というのが思い出せない。見ていても、司会者の人たちのバランスの悪い背丈の差が気の毒になるだけだ。画的によくない。こんな単純なことが、どうしてわからないのだろう。「暮れのスケジュールが空くひと」ということがネックになるのか。とにかく明らかな人選ミスだ。これなら大晦日恒例の『ドラえもん』の特別番組のほうがまだマシだ。けれど、たいしてこれもおもしろくない。原作者がいなくなって以来、番組は勝手におもしろくなくなっていく『ドラえもん』である。それにしても細木数子は、いつまでテレビに出るつもりなのだろう。本人は本人の占いをしないのだろうか。六占星術そのものはおもしろそうでも、ここぞとばかりに前のめりになって出てきたがる芸能人が画面に溢れていると多少どころか随分哀れにみえてくる。

 年越しそばをずるずるとすするうち、年が明けた。寒さはやむことなく、風邪はひいたままなので、結局お参りはやめた。

12月30日(木)

 『ハウルの動く城』を観てから年越しをしたかったので、昨日実家に帰省する前にこっそり映画館へ足を運んだ。

 感想を箇条書き。ネタバレするといけないので読み飛ばしてください。
・ おもしろかった。おもしろかったが、物語がどことなく閉じていた。男女間の話し最終的にまとめているのがよくない。
・ 原因は、キャラクターの対象年齢がこれまでよりも明らかに高く設定されているからのようにみえる。(と勝手に解釈)。
・ 雰囲気はよかったが、さまざまなほかの話を思い出させる。
・ 思い出したのは、『銀河鉄道の夜』、『オズの魔法使い』、『マトリックス』、『天空の城ラピュタ』、『魔女の宅急便』、『もののけ姫』である。
・ 最後のほうのは、同じ作者のだから混ざることはあったとしても。
・ 宮崎アニメのテーマには、「掃除」があるのだろうか。何かで深く関わっているのだろうか。「掃除」する人が多い。それを職としているのだ。
・ そして引っ越しも。空を飛ぶ以上に。

掃除。たしかに掃除や片づけをしてから出ないと物事が始まらないのはよくわかる。部屋がすっきりしないと先には進めないのである。新しいことに取り掛かるときなどは、とくにそうで(わたしもその口だ)、部屋が散らかしっぱなしだと何もできない。ときには自暴自棄になる。ぎゃーっと悲鳴でもあげたくなる。そこいら中を散漫している埃とか塵とかいうだけの問題でもない。そんなことは場合による。それよりも、本やらモノが、ごちゃっとして落ち着かないバランスの悪さというのがある。きっとある。誰にでもあるだろう。一定の水準を越えると感じるような線があるのだろう。
 年の瀬だけに余計にそう感じる。

2005年1月16日

同性愛について考える

1月14日(金)
 不思議な朝だった。不思議な昼だった。不思議な夜だった。それはまた結構素敵な日だった。

1月13日(木)
 お昼に頂いたぜんざいがほんのりと暖かく、うまかった。
以前は、小豆なんて食べにくいものだなあと思っていたものだ。
「つぶはいやだぜ、こしあんしか食べない」とか「丁稚羊羹は好き」と言っていたものである。最近は、打って変わってぜんざいが好きになった。まだ正月のうちに、あんこを買っておこうかと初めて思う。

1月12日(水)
 昨日からが新年みたいで、ひとり勝手に活気づいている。だから、きょうは、「気持ちは新年」みたいでうれしかった。

 なんだか素敵ね。いかんいかん。こんなところで練習しては。

1月11日(火)
 新年初回の大学院ゼミは、「アメリカの同性愛事情」というテーマでの演習。
 演習についての内田先生の見解は、先生の日記に詳しい。

顔を出しているもののひとりとして感じたのは、やはり同性愛が息苦しいものにみえることがある。それは、ことばの縛りを受けているという意味において。

「誤解を恐れずに言えば」という表現を借りれば、(わたしはこの表現を公的に使うのは初めてなので、これから書くことは、ほんとうに「誤解を恐れずに言う」のであって、他意はない。)これまでもたびたび同性愛に興味を持ち、たびたび考えることがあった。

「興味」を持つとは「そうなりたい」のとは違う。同性愛というものが、単純に「どういうものであって、どういった仕組みで同性愛とみなされるのか?」ということを思う。しかししばしば、こと同性愛に限らず言えることだが、そういうふうな思考をすること自体、あるいは疑問の抱き方自体、かなり暴力的な発想から組み立てられたものであると言えそうである。そして結局は目に見えない痛みを、そういうふうに考えてみてしまったわたしの側もまた、どこか伴うことを知るときがある。

それでも同性愛というものがあり、それが必要とされる時代や背景があるには違いない。
もっとも初期の段階での個人的関心は、どこまでがそうで、どこからがちがうのか、その線引きは難しいということであった。たとえもし仮に、人間のうちのいくらかのひとが自らを「同性愛者だ」と感じても、公にする/しないといったことを、すべてのひとが公言するかといったら、そうでもないだろう。また、公にしたところで、全部が全部ざっくりそのままおなじ同性愛のジャンルに入るとも限らない。さらには、ここにジェンダーの問題も絡んでくる。ジャンルとかジェンダーについては、異性愛の場合であっても、同じことかもしれないけれど。

文献をみても先人に聞いても教えを請うても、同性愛と異性愛の区切り目となる明らかな線引きを教えてくれる答えは、どこにもなかったように感じる。途端にジェンダーやらセックスやらががんがん飛び出してきて、精緻に微細にそれらを語り分ける語法が散乱していくばかりにみえたからだ。

そしてそれらは、どこかで、「私は隣の人とは違う」ということを言わんとするがために性的な語法や場面を引き出してきて、微妙な差異を語り歩いているのかのようだった。それはとてもしんどそうだ。違うのは当然だ。どのように違うのかを言い募ることは、疲れる。

どのような性的志向であるかをわかっておくことも必要かもしれないけれど、何もそんなに、ひとと違う、違うって大声で言わなくてもいいのではないか、というふうに感じるようになった。なんでそんなに違うことを強調するのかとも思えてきたのである。

というのも、かくも細かく細かく分けていくと、当たり前だが、分けると分けるぶんだけ対象が小さくなる。よって一個人としては、自分以外に人との差は激しくなる。そうしてそれだけ「私は隣とひととは違う」ということがことばのうえでも強調される。「性的マイノリティ」という語の意味を汲み取るまでもなく、少ないからこそ困難で少ないからこそ目立つのだ。だからこそ細かくなればなるほど、「それぞれ」がきちんと小さくなる。しかし生まれたときから、ひとって、みんな違うんでないの?違うから仲良くしたり、喧嘩したり、関心があったりなかったり・・・と単純に違う水準に話をもっていきたくなるあたり、ノンキなんだろうか。

とはいえ同性愛であることを声で挙げて語れる人のほうが、圧倒的に少ない世の中である、というのはおそらく事実である。語れる人は、それなりに語ることを知っていて、語り方を持っていて、語る場を見つけた人たちなのだろう。そうでない人はただただ静かにどこかに生きている(はずである)。

いまこの世界で、「わたしはヘテロセクシュアルです」なんて自己紹介をする人は、あまり聞いたことがない。性的なマイノリティが集まるような集会や会合といった、予め集まる人物を選定しているような場でない限り、おそらくそういう発言は避けられるものである。「避けられるものである」というよりもむしろ「せずにすむ」、あるいは、異性愛が当然の世界であれば、「しなくてよい」というほうが、よりことの事実に正確だろうか。ということは、どちらの、どこの、なに愛であれ、そんなことを「せずにすむ」社会をつくることのほうが、よほど重要ではないのだろうか。それが語りあい、声を挙げることに加えて、キリのない細分化することでしかできないのなら、それはやっぱり疲れるので、何か別の方法がいいのだけれど。

性よりも何よりも人間同士が関わっていくことなのだから、結局人間がどういうふうに関係していくのがいいのかを考える必要がある。その場にいなけりゃわからないこともあるし、第三者でなければならないこともある。身体に聴かねばわからないこともあれば、ことばでなければ届かないこともある。問題は語り口や人の多さや数の多少で決めたことだけが、幅を利かせるものでもなかろうて、てなことだ。そして生まれ持った性なり性的志向なりだけで人間ができてるんじゃないんだあ!てなことだ。

 などとまあ、いろいろぶつぶつ思ううちに疲れてきたので、うちに帰ってすぐさま忘れることにした。

『しあわせな孤独』といかいう、よく知りもしないで適当に借りてきた最近のフランス映画を観る。
冒頭、父親に誕生日のプレゼントをねだるこども(男の子)の会話が目に留まる。

  こども「誕生日に馬が欲しいな」
  父親 「馬はダメだよ 女の子向きだ 男ならゲーム機だ」
  こども「僕 ゲイかな?」
  父親 「違うよ 8歳じゃまだ分からない」
  こども「ゲイなら?」
  父親 「カミングアウトするのは12歳になってからだ いいな?」
  こども「うん」

 そのあと父親は、こどもがいつもかけているメガネがないことに気づき、椅子の上に置きっぱなしだと言うそれを取りに行くように促し、こどもはメガネを取りに行く。
こどもを寝かしつける父親を真ん中に、もう一方の隣にはメガネを取りに行った弟である男の子が座っている。今度は弟のほうに向かって、「おまえも馬が欲しいのか?」と笑いながら尋ねる父親。弟は要らないと答えるが、父親は「本当にそうか?」と聞き返し、「くすぐってやる」と言って、こどもをくすぐる。じゃれあうような感じで、笑い合う親子がいる。そうしてじゃれあいながら、父親は「手術で手を切ってやる」と冗談交じりに、こども手を斬る仕草をするのである。

 たとえ、財政的に父親がこどもに馬を買うことが困難だったとしても(しかし最後まで観ればそうではないということは容易に想像されるが)、このようなやり取りが日常的に繰り返されているのだろうか。フランスの親子事情も同性愛事情についてはこれまた詳しくはないが、それが日常語として形成され、普段使いのことばの中に何の衒いもためらいもなく、ふらっと出てくるようなことになっているんだろうか。

うううむ。
せっかく考えるのを忘れようとした途端にこれだ。しかしよく見れば見るほど、何とも怖い例えではある。

1月10日(月)
 祝日のはずの営業日。

1月9日(日)
 三軸自在修正法の講習会に参加させていただく。(三宅先生ありがとうございます)。

正月はじめの連休半ばの朝は街の風もまたすこし冷たい。けれど、これから始まる話を楽しみに歩く日は、どんなに天候が悪かろうと、わくわくして格別なものがある。

 ところでわたしは、幼い頃から、ひとよりピンと来るのが遅い。
ひとと比べてどうこうなるものでもするものでもないが、「早い記憶」をもってしてできたことなどほとんどない。のぼり棒も逆上がりも着替えも食事も走るのも。嘘だろうと思われるかもしれないが、おそらくそうだと思われる。合気道もまた然り。

かろうじて「早生まれ」の時期に属するけれど、これだって結局はあとまわしの部類のことだ。少々早口かもしれぬが、これもどうだろう。最近はよくわからない。理解も技量も達成も遅いのだから何ともいえない。わからない。わからない。

つまり何事も身体であれ、頭であれ、腑に落ちるのが遅いのである。それがナンなのかなあと思っても、思ったままどこかにぼんやり保留されたまま(それも怪しいもんだが、まあとりあえず)、勢いでパッと瞬時に返事をしたり考えたりできない。そういうことができる人はいいなあと思う。

しかし何をやっても遅いばかりで優秀でないことにはひとつだけ利点がある。それは「ああいうふうになりたいなあ」と感じ、思い、あこがれる人が、いつでもまわりに大勢いるということである。これだけは、誰にも負けないくらい豊富である。だから、生きていくうえでの楽しみには事欠かないのかもしれない。

三軸というのが、いまだわたしのなかでは、何であるのかはっきりとはよくわからない。
わかったからどうというわけでもないし、わかったからといって先に進めるとはかぎらない。それもまたわからない。かろうじて、わからぬこととどこか興味があることだけはたしかなので、とりあえず何かをわかりたい身体と頭があって聞いていた。

どなたかの質問に、「わたしは患者のことなんて、考えたことがありません」と言われた池上先生がおられる。それをお聞きしたとき、わたしは眠たくなりそうな身体の全身からピンと来た。「来てよかった!」と心の底から思えた。(あら、失礼なはなしだこと!)

「ああこれだ」と、ぐっときた。
さらに先生が続けられたことばに、ぐぐぐっときた。

たいへんおこがましい話しだが、わたしもそう思って、これまでずっと生きてきたのである。大それた話だが、ああいうひとにわたしはなりたい、とまた思ったのである。

1月8日(土)初稽古と鏡開き。
 風邪ひいて身体が重いぞ初稽古

年末風邪をひきっぱなしなので、まだ身体が幾分いうことをきかない。風邪は身体によくないね。
正月にすこし食べ過ぎたのと、単純にまた身体がいうことをきかなくなったということもあって、身体がいうことをきかない。食べすぎはよくないね。

身体と、バランスよく折り合いをつけなければ。

♪カラダよ~   ことしもよろしくねええっ~。

 稽古後は鏡開きで内田先生宅へ。

誰かが「あのときはこうだったね」とか、「そのときはどうだったね」という。だがわたしには、あまり記憶にないことばかり。でも、そうだったんだろう、と思って笑う。

また、誰かが、「きょうは寂しそうだね」と言ってくる。そう言われると、そんな気がしてきた。寂しいはずもないのに寂しくならなければならないみたいで、寂しくなんかないはずなのに言われてみると無性に寂しくなってしまう。そしたら、そんな姿をみつけた誰かが、さらに「きょうは寂しそうだね」と言ってくる。だからまた余計に寂しくなる。うう、寂しいぜい。

きょうなどは、納会のときと比べれば、異常な食糧難に見舞われ、そのうえ大量の日本酒やワインだけがそこいらをしていく闊歩していくものだから、自ずといつもよりも寂しくなったのかもしれないね。

新年の鏡開きは、ときどきついてないな。

1月7日(金)
 授業で『ニュー・シネマ・パラダイス』を扱うというので、慌てて完全版を観た。

 いまの自分といくらか重なるところがあって、すこし寂しくなりながらも、ぐっときた。でも、とてもいい映画だった。さすがに有名な監督だけあって、画面もちゃんとイタリアの社会がきれいにひろがっている。

2005年1月23日

髪切り歴程

1月21日(金)
 本日は、カットモデル第三弾。というわけで、ミツヤスさんのさらなるご厚意により、年末にかけたパーマの髪を短くカットしてもらいに出かける。ほんとうに、いつもお心遣い、ありがとうございます。

 知るひとぞ知るわたしの後ろ髪は、極端に勢いよく跳ね上がっている。つまり地上から上向きに、逆立って生えているのである。それを如何に手ごろに扱いやすくするかというのが、きょうもまた問題になった。

 これまで、どの美容室のどの美容師さんでも、この同じ問題で頭を捻ってもらっている(はずだと思いたい)。

 ミツヤスさんもまた言われるように、この後ろ髪をばっさり切るとか、あっさり刈る、という行為に走れば、いま目の前に見える髪は落ち着く。しかし髪は伸びるものである。伸びるということはつまり、形が変わるということであり、切ったその日のそのままの形で形状記憶することはありえない。しかも髪の伸び方は均一ではなく、たとえば前髪の右側が十日で3ミリ伸びたとしても左側が3ミリ伸びるとは限らない。3ミリ伸びるかもしれないし、2ミリかもしれない。2.5ミリかもしれない。おそらくは、そういうことを想定した上で、ハサミを入れていただくのである。(と思う)。

ハサミを入れていただきながら、美容師という職業にとって、現在は既に過去であり、未来こそが現在の時間となるような仕方で時間もまた同時にまさしく刈っているのではないか、とそんなふうに思った。そのスパンがほかの物事に比べれば、1ヶ月とか2週間というふうに、わりと短い単位で起こることなので、そうは感じないのかもしれないけれど。

 さて、件の後ろ髪を最善のかたちに留めるべく、いろいろと悩んでくださっていたおかげで、これまでにないよい納まりをみた。いや、ほんとうに。アシスタントの方もいろいろとお気遣いいただき、ありがたかった。

こまめに刈り取られていく鏡のなかのパーマ髪をみているうち、束の間のミニョンさんこと「ヨン様」と呼ばれた自分を思い出した。(嘘ではない。ほんとうに呼ばれたのだ)。それが切られる途中には、「ヨン様」とライバルの役を演じた「サンヒョク」のようにみえた。(あくまで途中段階のこと)。最終的には、一部で集中的に話題となったよく知らないが、トゥーンティッキ(@ムーミン)と呼ばれたその髪に別れを告げる。

こうして、新生うっきーは、すっきりした髪になった。そうなるとこんどは、「君に言い訳したね」と回想している「いちご白書をもう一度」の青年が、長い髪をすっきり切り落としたときの気持ちってこんなのかなあといった疑似体験へと挑んでしまったのである。

1月20日(木)
 ロシアといえば、わたしにはピロシキほどの知識しかなく、テトリスほどの情報しか持たない。それでもテトリスはうまいほうだ。いつだったか、いわゆる「家庭用ゲーム機」なるもののソフトに異様なほどはまった。ゲームなんて目をつぶっていてもできた、とまでは言わないが(だってそれじゃあできないじゃん)、歌を歌い、ときには口笛を吹きながらやってたものだ。最近じゃあ、チェブラーシカがかわいい。でも、それよりもいいのは、やっぱりコサックダンスだろう。これも一時練習したことがある。もちろん袖を両腕に通して、えいさほいさと。

そういや実家にもまた       があった。こどもの頃から大好きだったそれを、あるとき、ええかっこしいの父は、遊びに着た父親の知人のこどもさんか誰かにひょっこりあげてしまった。あとから事実だけを聞かされたそのうちのこどもは、たいそう恨んだという。恨みは、いまでもはっきり覚えているということである。もちろん、それは誰の物だというものでもなかったので、恨むことも怒ることもないのかもしれないが、誰のものでもないからこそそんなことをしてはいけないのだと、こどもごころに思ったのである。それ以来、気が向くと代わりのものを探す習慣がついているが、なかなかもって、あのとき、うちにあったあの顔に似たのは見つからない。そう、あれは世界にひとつだったんだ。それぞれの顔にはそれぞれの味があるのだろう。けれど、あれほど素敵な顔はなかったなあと、幼い頃の記憶がまた蘇る。

そんなことをいろいろと思いながら、生まれて初めてロシア料理を食べた。

1月19日(水)
 時間があったので、思い切って掃除と洗濯なんかを一気にしていたら、すぐさま雲行きが怪しくなった。ほんと、困るなあ。こういう性格。

 

1月18日(火)
 きょうは門戸厄神のお祭りがある。厄神さんと駅から続く道は結構な人だかりで、屋台もたくさん出ている。

 偶然だが、震災の日のあとに厄神さんのお祭りがあるので、(というか厄神祭は毎年決まった時期になされていて、たまたまその前日に地震が起きたのである。順序が逆)いまでは毎年、立ち並ぶ屋台を目にするたび感慨深くなる、といった仕掛けになっている。

 カスタードクリームの入りのたいやきを食べていたら、「そりゃ邪道ですよ。たいやきはやっぱアンコですよ。しかし食べるの早いですね」と言われた。

別にいいじゃない、カスタードクリーム入りを食べたってさー。好きなんだからさー。捜してたんだからさー。ぶーぶー。あ、もしかして、欲しかったの?

しかし言ったその人は、きっと知らないのだろう。わたしが邪道だってこと。

1月17日(月)
 きょうは、地震が起きた日から十年目の朝になる。

午前中は、震災の日のことを祈念するセレモニーに出た。

 その後、昼食には、震災当時を思い出されるものを口にした。
それは、その名も「レスキュー隊」と呼ばれた、この大学に在職される教職員の方々が自然発生的に集まってできた活動隊に提供された食事を模したものであるそうだ。

初めてのそれを、本学のチャプレンと一緒にいただいた。
なんともまあ、神に見守られているような気分だった。不謹慎な言い方だが、このような流れのなかに自らがあるとき、改めて日々の営みに感謝できるものなのではなかろうか、と感じた。

 しかしこれでようやく十年である。

1月16日(日)
 滞っていた所用をいくつか済ませると、すこしすっきりする日。

1月15日(土)
 きょうは雨が降ったり止んだり寒かったり冷えたりの一日だった。受験生はたいへんだろうなあと思う。

2005年1月27日

眠れない

1月26日(水)
 目覚めのいい朝。『先生はえらい』と言われる「先生はえらい」と深く思った。

1月25日(火)
 昨日の朝に目が覚めたときから、都合40時間、目が覚めっぱなしである。眠いはずの時間にまったく眠たくならず、どうしても眠ることができない。唯一眠ったのは、夕方、電車の移動時間に30分だけ。人生初めての出来事。

 興奮している身体をなんとか落ち着けなければならないとは思うのだが、そう思えば思うほどに眠れなくなってくる。

1月24日(月)
 甲野善紀先生、名越康文先生、内田樹先生の三者鼎談を拝聴させていただく。かの呉服屋の守さんや筑波大学の高橋さんもおられて、非常に濃いお話しだった。

 この日の午後に内田先生宅に到着し、鼎談が開始されて以来ずっと目が覚めている。まったく眠くなることなく過ごしている。疲れることなく過ごしている。

1月23日(日)
 本部道場での多田塾講習会に参加。
東京日帰りもできるものなのだと実感し、帰路、車中で夜ご飯の弁当を食べ終え、ほっこりしていたところで、なんと甲野先生とお会いする。単に同じ車中だったとか、すれ違ったとかいうのなら驚きも考えようもあるが、同じ車両の同じ列の並びなのだ。びっくり。

 それは、以前、わたしが歌舞伎好きな友人に連れられて初めて歌舞伎座に行ったとき、席に着いてふと右側に首を向けると、そこにはM先生とそのお母様が座られていたのと同じくらいに驚く、すごく不思議な偶然だった。

1月22日(土)
 桜は咲く。

2005年1月30日

教王護国寺で仏様に遭う

1月28日(金)

現在の京都府南区にある東寺は、空海(弘法大師)が真言密教の根本道場と定め、教王護国寺と称したところである。その正式名称は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院という。

その東寺では、毎月の空海の命日に「弘法さん」の名で親しまれる縁日がある。きょうはその日ではないけれど。

東寺には、木造建築としては日本で最も古い五重塔がある。(現在は期間限定で一般公開中)

五重塔のなかには、ど真ん中に「心柱」と呼ばれる柱がある。心柱は、そのまま一本のものが55メートルの上空まであるのではなく、三本に柱を継ぎ足したものである。この空高く太く伸びた心柱を大日如来と見立て、周囲の須弥壇上に阿_剛仏薩

仏様は背中を合わせるようにして座っている。

仏様の両はじにはまた別の柱が四本建てられ、塔そのものを支える。四天柱と呼ばれるそれには、金剛界曼荼羅諸尊が描かれているのだが、明治の頃の廃仏毀釈により剥落され、現在はそれが示す元の姿を留めていない。

周囲の壁には、真言密教を日本に伝えた真言八祖像が描かれている。

五重塔に足を一歩踏み入れると、このような世界が広がっている。

目頭が熱くなる。理由のほどはよくわからない。けれど、理由を思うより先に手を合わせている。

金堂にある薬師三尊と十二神将の大きさには圧倒された。とても大きい。写真や図版などで見るのとは桁違いの迫力がある。

ふとした瞬間、金堂には、仏様とわたしだけになっていた。

ゆるゆると拝んでいたのもあって、ほかの見学者が見終わって移動されただけのことかもしれない。壮大な仏を前に、ただひとりそれを前にしているというのは、とても心地よいことである。そして仏様もまたこちらを見ているような気がしてうれしいものである。

するとまた、目頭が熱くなる。幸せなときであるはずなのに、今度は頬を伝うものがあった。

流れる液体を拭うハンカチは持っていた。だが、拭い方をよく知らなかった。なぜそうなってしまうのか、理由がよくわからなかった。そしてまた手を合わせた。


講堂には立体曼荼羅があった。二十一_仏豊仏顔

「仏の顔も三度まで」。このときの「仏の顔」というのは、きっと穏やかな仏の顔のことをいうのだろう。

大師堂など庭を散策し、天気のよい空を見上げて寺を出る。


蓮華王院とは、三十三間堂のことである。天台宗の寺である。

本堂には、すらりとした長身の千手観音立像は金色に輝き、整然と並んでいる。

場へと足を踏み入れた途端、口が空いてしまう。「ぽかん」とした表情はあまり見せられたものじゃない。

あまりの数の仏像の多さに圧倒される。あまりの数の仏像のまっすぐさに驚かされる。見ると聞くとは大違いである。

本堂の真ん中には千手観音坐像があり、その左右に10段5列で500体ずつの立像が並んでいる。(正式名称「十一面千手千眼観世音菩薩像」)

よって、本堂のなかには、1001体の観音像があることになる。だが、きょうは3体が博物館に出張中らしく、実際には997体がある。

それでも、さすがに表情の違いは、はっきりとうかがえる。

いったいどれが仏の顔なのだろう。とまたしても同じ思いをはせてしまう。

「すべての顔が違う」というのがまた千手観音立像においていわれることである。また「千人のなかには必ず知人の顔がある」と聞く。そうであるなら余計に、「仏の顔」は、どこにあるのだろうか。

これは、「仏の顔」は誰にでも共通して一般化できるものではないのだということ、同時に「仏の顔」は誰の周囲にでもあるということなのだろうか。

考えてもわからない。考えるべきことではないのかもしれない。

なにぶん頭が悪いのだ。だから頭がよくなるように、北野天満宮へと方向転換してみるのは、どうだろう。


1月27日(木)

たしかにわかることは、目覚める朝があり、寝静まる夜があるということだ。そして、いつの日か、目覚める朝が来なくなるということだ。

究極を言えば、その日を迎えるためにいる。しかし、その日の朝を迎えた実感は誰にもわからない。誰ひとりとして知ることができない。

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