「そうか、9月になったんだな」
そう思ったのは、アパートの窓から見える家々の、屋根と屋根を結ぶように取り付けられていた国旗の装飾が外され、一気に街全体が色を失ったような気がしていた時だった。
8月17日が独立記念日であるインドネシアでは、8月1日からの1ヶ月の間、建物という建物が「メラ・プティ」と呼ばれるインドネシアの赤白旗でピラピラと装飾され、お祭りのような賑わいを見せる。駅やコンビニ、モールの入り口、道という道に赤と白のリボンや旗の装飾が取り付けられると、普段は見かけない出店なども立ち並び、あっという間に街全体が非日常のお祭りムードになるのだ。
さらに8月の第2週目に入ると、私のアパートでは、従業員が仕事そっちのけで、真っ昼間から赤いTシャツを着て熱心に踊りの練習に取り組み始め、街の上空では毎日、戦闘機が空中パフォーマンスのために練習飛行を繰り返す騒音が聞こえてくるようになった。
だから私は、「よっぽどインドネシアの人は独立記念日が嬉しいんだな」と思っていた。こんなにもインドネシア中の建物が国旗で埋め尽くされ、人々が一丸となって8月17日に向けて準備をするなんて、どれだけこの国は愛されているのだろうか。
「大人も子供もいろんなレースをします。綱引きをしたりしてとても楽しいです」
我が家に来てくれているメイドさんであるアプリナさんに独立記念日のことを尋ねると、アプリナさんも楽しそうに、17日の独立記念日の日に、自分の地域で行われる催しについて教えてくれた。地域ごとで様々な催しがあるようだが、当日、独立記念塔(モナス)では朝からパレードが行われ、毎日のように上空を飛び交っていた戦闘機は、81周年にちなんで81機用意されると、練習通り朝から方々で空中パフォーマンスを繰り広げていたのである。
空中で81と文字を描く戦闘機もあり、極め付けは、17日にちなんでインドネシア陸軍精鋭部隊17名によるパラシュートのパフォーマンスなんかもあった。上空3000メートルから次々とスカイダイビングをした先鋭部隊はその手に各々、独立記念日を祝う幕を広げて完璧なランディングを披露し、国中の話題をさらったのである。
だけどそんなお祭り騒ぎの一方で、この8月というのは年間を通じて、インドネシアで最もデモが発生しやすく、大規模化しやすい時期でもあった。
昨年には独立記念日が終わった翌週、8月25日から1週間近くにわたって歴史的な規模のデモが起こり、死者十数名、全国で7000人規模の逮捕者を出す大惨事となったが、その前の2024年にも8月22日に国会側が全面降伏をし、「民衆の勝利」とも言われる歴史的なデモが起きていた。
今年も17日の独立記念日のお祝いムードも冷めやらぬまま、翌日の18日には、再び学生による熱いデモが起こり、街中にゴタゴタした雰囲気が続いていた。8月末ごろには、いよいよ最大級のデモに向けて注意喚起や在宅勤務推奨のメールがあちこちから届くようになって、月末には大量の「デモ遠征バス」がジャカルタに向かって出発したという報道が入ると、案の定、デモ当日は6000人規模のデモと18000人規模の治安部隊が衝突し、交通機関が一時ストップするなどの混乱が起こった。
だから、そんな血の気の多いデモやらお祭りやらで、とにかく8月というのはずっと狂騒的だったというのが、私の印象だった。その上、前回書いたように、こちらでは毎日のように火事が起こる。外では戦闘機が飛び回り、出店で賑わい、どこもかしこも燃えるような赤白旗がひらめき、挙げ句の果てにデモと火事、である。最初こそ、街の熱気に心躍らせていた私だったが、なんだかだんだん落ち着かなくなってきたのだった。
加えて、8月11日、ジャカルタ中心地から2時間ほど離れた郊外のボゴールという所で、国旗を掲げなかった床屋の店主が区長に叱責されるという事件が起きたとき、私は高まっていた独立記念日への期待が、一瞬でもなんとなく鼻白らむような感覚を覚えたこともあった。
この事件で、国旗を掲揚しなかった床屋のアブイ氏は、「インドネシアは独立していない」と区長に言い返したのだが、それは国民の生活苦や物価高の皮肉として「経済的に、本当の意味でインドネシアは独立していない(豊かになっていない)」ということを意味していたのだという。そしてこれがSNS上で大きな議論を呼び、結局アブイ氏は次の日、「インドネシアはもう独立していました。すみません」と言って国旗を持った姿で公開謝罪をすることになったのだった。
まあまあ大きな事件だったので、私はこれによって初めて、8月1日から31日までの1ヶ月間、インドネシアでは自宅やオフィスで国旗を掲げることが「憲法で義務付けられていた」のだということを知った。「人々の喜びの象徴」だと思っていた赤白旗は、実は自主的なものではなくて、「義務」だったのである。
それから、人々がお祭りどころではないほど、生活に苦しんでいるということも、アプリナさんや他の報道からも分かって来た。独立記念日のお祝いは大きな祝日なので、たくさんの催し物にお金がかかる。人々はお揃いの赤いTシャツを来てお祝いをするし、地域ごとのレースの景品もたくさん用意しなければならない。だけど仕事を失った人、お祝いどころではない人々もいるのである。7月に発生した山火事だってまだ鎮火されていなかった。独立の喜びも、不満も、あらゆる感情が、一気に熱を帯びて燃え上がって、ジャカルタの8月というのはとにかく色々と忙しない月だったのである。
もちろん、9月に入ったからと言って、何かが劇的に変わるということではなかった。8月27日から28日に起こったデモは380人程の拘束者を出す程に過激化した後、一旦は収束したが、その後、9月に入ってからも、小さな残留デモのようなものが散発的には起こっていた。火事ももちろんしょっちゅう起こっていて、隣のアパートが燃えているのを、自分のアパートの窓から見たのは昨日のことだ。今朝になると、スンダ海峡にある火山も噴火した。
だけど、なんとなく気持ちが先月よりも穏やかなのは、外をピラピラと舞うあの赤と白の旗が取り外されたからではないかと、私はふと思うのだった。
国旗を青色に変えるわけにはいかないだろうが、赤というのはどうも、静けさを求めたい人の心には、似つかわしくなかった。床屋の店主が拒絶した国旗掲揚だったが、少しくらい旗の数が減ったって、バチは当たらないのではないだろうか...。街中を舞っていた赤と白の装飾が取り外された街を歩きながら、私はどこか8月が終わったことを、ホッとしている自分がいるのを感じていたのだった。
ジャカルタに来てすぐ、これから2年間住むことになるアパートの部屋探しをしていた頃、私たちは日本では住んだことのないようなタワーマンションの高層階をたくさん内見した。中でも、内見に付き添ってくれたエージェントの人たちが最後まで強く勧めた部屋は、53階にある明るい部屋で、部屋の窓からは遮る物が何一つない、ジャカルタの街を一望できる圧巻の景色が広がっていた。
華僑文化の影響もあり、都会のビルや高層アパートでは「死」を連想する「4」を避けることが多く、たいてい40階から49階のフロアや14階など「4」の付くのフロアは存在しないようになっていたが、それを差し引いても、53階というのはびっくりするくらい高いところにあった。下を見下ろしてゾッとしている私に対して、エージェントたちはニコニコしながら「ディスカウントする」と申し出る。だけど私は高所恐怖症なので、そんな高いところに住めるはずがなかったのである。
では32階はどうか?27階ならどうか?
一つ一つエージェントが用意したリストの部屋を見て回った結果、私たちは最終的に、この高層アパートの15階の部屋を借りることに決めた。あまり低層階に住んで、今度は虫が出るのも怖かったので、15階と言うのはギリギリの選択だったが、それでも私にとってはまだ色々と怖いくらいだった。
例えば、大規模な火災が起こったらどうしたら良いのだろうか?そういう万が一のことを考えると、心配性の私は夜も眠れなくなってしまうのである。しかも、そんな私の不安な気持ちを煽るかのように、7月末にアパートに越して来てからずっと、ここインドネシアではほぼ毎日、常にどこかで火災が起こっていたのである。
そう、実を言うとインドネシアは、火災大国だった。この8月にカリマンタン島やスマトラ島を中心に大規模な森林・泥炭火災が発生し、東京の約半分の面積が焼失したのは記憶に新しいが、過去には2020年に国際的な環境NGOである「気候リアリティ・プロジェクト(The Climate Reality Project)」で、地球上で最も深刻かつ大規模な森林火災が発生する5大地域の一つとして、アメリカやロシア、オーストラリアと並んでインドネシアが挙げられたこともあり、CO2排出量、年間焼失面積、森林火災による経済損失など、様々な統計で常に世界のトップクラスにランクインしているのが、インドネシアだった。
加えて、こうした地方で頻繁に発生する大規模な山火事などの自然火災とは別に、都市部で起こる建物などの火災の発生件数も、ジャカルタだけで年間1200件以上にのぼっていて、これはまさに、ジャカルタのどこかで毎日数件は火災が発生しているという統計になった。
実際、私が知っているだけでも、8月に入ってすぐ「プルマン」というジャカルタ中心部にある五つ星ホテルで漏電による火災が起こり、その6日後に、今度はジャカルタ地方政府が所有する総合庁舎のジャカルタ地域収入庁が、11階から16階まで激しく燃える大きな事件があった。この事件でジャカルタ知事は、「燃えた市民の納税データや土地の資産データは全てすでにデジタル化されていたので、サーバーも保管されていて無事である」という声明を発表したが、結局約1000人の職員が職場を失って、在宅勤務するという大惨事となった。
五つ星ホテル「プルマン」も地域収入庁も、電気系統の漏電やショートのトラブルが暫定的な原因とされているが、インドネシアの都市部や住宅街での火災の原因は、古い配線や違法な電気接続による電気ショート、タコ足配線だったり、粗悪なケーブル使用によるもの、LPGガスボンベの漏れなどが多くを占めた。もちろん他にもタバコの不始末、建物の老朽化、「乾季」という気候などの要因もあり、とにかくインドネシアでは、都市部も地方も、今日も昨日も一昨日も、そこらじゅうで火の手が上がっていたのである。
私がそういうニュースにばかり手を止めるせいもあるのかもしれないが、そのうち、こちらでは朝起きるとまっさきに私の携帯電話には火災発生の映像が流れてくるようになった。しかも、追い討ちをかけるかのように8月半ばには、パプア州プンチャック県で住民の暴徒化により政府庁舎が焼かれ、その次の日にはランプン県のパーム油・砂糖キビ関連企業で地域住民と企業の衝突による焼き討ち事件なども、続け様に起こった。山火事でも建物の漏電による火災でもなく、今度は一般市民による「焼き討ち」である。もちろんそんな衝撃の「焼き討ち」事件の合間に、引き続き自然火災やら住宅火災などもちょこちょこ起こるのである。
というわけで、私は今日も、火災が起きたら逃げられるのだろうか...という不安を抱えながら、タワーマンションの15階で暮らしている。アパートのエレベータホールには「火災などの非常時の際は階段を使用してください」と書かれた金色の板が、よく見えるところに貼られているが、今朝もまた、2週間ほど前に消し止められた地域収入庁のビルが、再び燃えたというニュースが飛び込んできた。加えて西ジャカルタのタンボラというところの密集住宅街でも、住宅火災が発生したそうである。私はエレベータを待ちながら、この頃いつも、この非常階段について考えるようになった。そして15階から1階までの道のりを想像しては、人知れず心細い気持ちになるのだった。
生まれて初めて、メイドさんと言うものを雇ってみることになった。
「メイドさんを雇う」と言うと、何だかすごくお金持ちになったような響きだが、インドネシアでは家にメイドさんが居ることは割と一般的なことで、ちょっとしたアパートだったらたいていどの部屋にも「メイド部屋」と言うものが存在していた。
だから、私たちが新居として住みはじめたマンションにもランドリー部屋とその奥に物置のような小さなメイド部屋があり、メイドさん用のトイレと裏玄関が、なんてことない顔で完備されていた。
アパートの造りで面白いことには、普段、メイドさんやテクニシ(技術者)などはこのメイド部屋に通じる裏口から靴と靴下を脱いで部屋に入るようになっており、アパート内にはメインエントランスとは別に、彼ら専用のエレベータもあって、家主と鉢合わせしないような構造になっていた。
だけど一歩マンションの共用スペースに出れば、連日そこらじゅうで多くのメイドさんがナニーとして子守をしているのを見かけたし、朝プールでのんびり泳ぐ家主をただぼんやりと木陰で見守っているだけのメイドさんなんかも居て、このマンションに住む人のほとんどが、メイドさんと共に生活をしているのだということがよく分かる光景だった。
マンションを紹介してくれたエージェントも、当たり前のように「メイドが決まったらすぐに知らせて欲しい」と言ってくるので、私たちもさっそく、このインドネシア社会に根付く「メイドさん」と言うものを雇ってみることになったのである。
まず、何をどのくらいの頻度でお願いするか、またメイドさんのランクなどでいろいろと変わってくるが、だいたいこちらで通いのメイドさんを雇う相場は日本円にすると「月2万円弱から」というところである。それからメイドさんというのは、基本的にツテを頼って、自分で探さなくてはいけなかった。生身の人間なので、家主との相性が絶対条件ではあるが、本帰国が決まった日本人家庭などからの「紹介」がトラブルが少ないというし、ちゃんと紹介された人であっても、借金の申し出などの金銭トラブルは往々にしてあるとの話も聞く。
もっとひどいところだと、家主の留守中にメイドさんたちがパーティを開いていただの、仕事をサボってNetflixを観ていただの、運転手が勝手に車を持ち出して週末にタクシーの副業をしていただの、家に帰っていると思ったら地下に住んでいただの...極め付けは車と共にどこかへ消えただの、この手の嘘のような笑い話は枚挙にいとまがなかった。
だから、ジャカルタでの暮らしをよく知っている先輩からは、雇うときは少なくとも2週間の試用期間を置いたほうがいい、との忠告を受けていた。ピンからキリまでいるメイドさんを見極める期間として最低でも2週間は必要、というわけである。そして絶対に一人目では決めずに、トライアルの期間には何人かと比較したほうが良い。少しでも気になるところがあったら変えるべきで、家に入るメイドさん選びは妥協してはいけない。また、メイドさんのスキルはこちらが育てるものだから、大切なのはフィーリングであり、相性であり、素直さや従順さであって、語学力や学歴はメイドさんのスキルには必要ない、と彼女は教えてくれた。
それから買い出し時の多少のちょろまかしは目を瞑るように。残業をさせてはいけない。高圧的な態度を取ってはいけない。ラマダン月にはボーナスを与えること。家族の一員として温かく迎え入れること。ただし、一緒に食事をとってはいけない......などなど。
だけど結局、私はそんなありがたいアドバイスのいくつかを無視して、試用期間のたった2日目で、一番最初に面接をしたアプリナさんという五十代のメイドさんを雇うことに決めた。
シンガポールで14年ほど働いていたというアプリナさんは、英語が堪能で、その分1時間の単価も高めだった。面接に来たときには、真っ先に退職金と交通費の有無について質問するほど金銭感覚がしっかりしている印象だったが、その分、賢そうでもあった。
もちろん、他のメイドさんを誰一人知らないで、一番最初のアプリナさんに決めることに少なからず不安はあったが、こんなにも早くにアプリナさんを採用すると決断したのには、「彼女の作った料理が美味しかった」という単純な理由が大きかった。
ひとたび彼女が台所に立つと立ち込めてくる美味しそうな匂いに、私はワクワクが止まらなかったのである。もちろん料理は全て美味しく、特に初っ端、彼女が作ったオクラのサラダは絶品すぎるほど絶品で、冷蔵庫にある調味料をどう混ぜたらこれができるのか不思議だった。後から考えると、アプリナさんは長いメイドキャリアの中でプライベートシェフなんかもしていたのだから、オクラのサラダ一つで骨抜きにされた私たちは、あまりにもちょろい雇い主だったかもしれない。だけどあの時は、こんな美味しい料理を作ることのできる人を逃してはいけないと思ったのである。
こうして、オクラのサラダに胃袋を掴まれた私たちの元には、生まれて初めて、料理上手なアプリナさんというメイドさんが来てくれるようになったのだった。
ところで、「インドネシアのメイドさん文化」に話を戻すと、インドネシアにはアプリナさんのようなメイドさんを生業としている人たちが500万人近く居て、その9割近くが女性だという。つまり、インドネシアで働く女性の13人に1人がメイドさんという統計になる。
またインドネシアでは、アプリナさんのようにシンガポールやマレーシアなど、海外へ出稼ぎに行く政府による正式な派遣システムが存在し、毎年7万〜8万人ほどが海外に出ては、国にいる家族へ送金したり、自身が勉強する資金にするなどしており、国は彼らの重要なセカンドキャリアのステップアップを全面的にバックアップしていたりするのである。
だからそういった国の海外派遣のシステムを使えば、短期ではあるが、渡航前に英語習得のプログラムに参加でき、アプリナさんのように英語を話せるようにもなる。
近年では、シンガポールでメイドさんとして出稼ぎをしていたシティ・ムジアティさんという人が、家事業の傍らコツコツとお金を貯め、オンラインで大学講義を受けて英文学の学士号を取得したというシンデレラストーリーなんかもあり、メイド業がいかにインドネシアにおける一大産業になっているかということも伺える話だった。
一方で、メイドさんや運転手さんのような非公式な採用の家事労働者たちを守る法案(家事労働者保護法(UU PPRT))が可決し、インドネシアにおける家事労働者の福祉や人権保護が成立したのは、2026年4月、つまり、つい4ヶ月ほど前のことだということも、忘れてはいけない事実だった。
この法案が発案されたのが2004年にも関わらず、成立まで22年もかかったというのは、あまりにも長い戦いだったということがわかる。そしてそれは言い換えると、つい4ヶ月前までは、インドネシア国内におけるメイドさんなどの労働条件が「法律で守られていなかった」ということを意味しており、彼らが万が一、悪質な雇用主に雇われた場合には、賃金未払い、果ては虐待なども発生し得たということになるのだった。
インドネシアに住んでいると、メイドさんを雇うというのはとても一般的なことのように思えた。アパートですれ違う人の誰もがメイドさんを雇っているからである。だけどそんなアパートの窓からは、高いビルや高級マンションの間を縫うようにバラックのような家々がすぐそこに所狭しと立ち並んでいるのも、当たり前のようによく見る光景だった。
ビルが所有するピカピカのテニスコートやプールでメイドさんに子守をさせながら楽しむ人々の、その壁を隔てたすぐ横を、貧しい物売りたちが行き交う姿は、インドネシア社会の圧倒的な貧富の差を如実に表しているようにも見えた。
流暢な英語も魔法のような美味しい料理もシンガポールで勉強した、というアプリナさんを我が家で迎えながら、私は彼女が歩んできたメイドキャリアについて思いを馳せるとともに、インドネシアという社会が歩んできた歴史について、漠然とした複雑な思いを巡らせたのだった。
「インドネシアには『ジャム・カレット(ゴムの時間)』という言葉があり、時間というものは伸びたり縮んだりするものだから、多少の遅刻は仕方がない」というのは、ジャカルタに来る前からインドネシア人の特徴として聞いていたことだった。インドネシアに6年近く暮らしていた先輩主婦からも、「インドネシアではイライラしないことが大切」とのアドバイスをもらっていたので、私は少しくらいのことは笑ってやり過ごす心構えでジャカルタに来たつもりだった。
だから、最初に仮暮らしとして滞在していたホテルでは、朝ごはんのブッフェが途中から注文制のルームサービスに切り替わり、それが設定した時間に届かなくても、私たちはそれほど気にしなかった。毎日、我が家は同じ朝ごはんを注文していたはずだが、オレンジジュースがマンゴージュースになったり、クロワッサンが1つになる日や3つになる日があるという不思議にも「まあ、インドネシアだから仕方がない」と考えることで、笑って受け入れることができたのである。
ホテルのイベントで、先日行われたサッカーワールドカップのパブリックビューイングを観に行った時などは、試合開始の時間が過ぎても大スクリーンにボロブドゥール寺院しか映し出されていなかったが、私も息子も文句一つ言わなかった。あまりにも長い間ボロブドゥールを観せられていたので、「いつかボロブドゥールに行ってみたい」とすら思い始めていた頃、スタッフが慌ただしくチャンネルを切り替えて、すでに始まっているワールドカップの試合にやっと辿り着いたくらいだった。
だけど、一体「ゴムの時間」とはなんだろうか?時間が伸びたり縮んだりするから人を待たせても平気というのは、なんの話なのだろうか?
私がそう思い始めたのは、ホテルでの滞在が終わり、新しいアパートに引っ越してすぐ、洗濯物用の乾燥機が故障したときのことだった。
朝からスイッチを押してもうんともすんとも言わない乾燥機のために、私はすぐさまエージェントに連絡を入れ、テクニシと呼ばれる技術者の人を呼ぶことになったのだが、テクニシが来れるのは「明日の午後1時」とのことだった。手元には洗濯機から仕上がったばかりの濡れたままの衣類がある。今すぐにでも修理して乾燥にかけたかったのだが、私は文句を言いたいところをグッと堪え、エージェントに言われた「明日の午後1時」を待つことになった。
そして次の日、午後1時。エージェントから「テクニシが遅れている。2時までには到着する。」との連絡が入る。「ゴムの時間を生きている彼らならありそうなことである」などと思いながら、1時間の遅れは想定内だった私は「オーケー!」と余裕の返答を心がけた。
午後2時半。1時間半の遅れに流石に痺れを切らして、エージェントに電話をかけると、「テクニシは向かっているところだ」とエージェントは言う。「そりゃあ向かっているだろう」と思いながら、「イライラしないことが大切」という先輩主婦の言葉を頭の中で反芻しつつ、しかし私は早く乾燥機を使いたい気持ちから、つい「テクニシはなぜ遅れているのか?」「今どの辺りにいるのか?」とメールでエージェントに問いかけるようになった。
「プリーズ、ウェイト、セイコサン」
エージェントは何度も私にそう言った。
午後3時。約束の時間を2時間過ぎた頃、私の中のイライラが頭の中でケチャダンスを踊り始めたので、我慢できずにエージェントに電話をすると、テクニシはバイクがパンクしたのだと彼女は言った。にわかに受け入れ難い事実だったが、それでもテクニシはバイクを直した後、必死に私のところに向かっているのだという。「もうほとんどアパートの近くに居る」ともエージェントは言った。
「3時半には彼は必ず来ますから。プリーズ、ウェイト、セイコサン」
午後3時半。やっとテクニシが私の部屋に到着したのだが、私の頭の中ではもうイライラのケチャダンスがクライマックスを迎えようとしていた。
ドアを開けるとひょろっとしたおじさんが、お疲れ気味な表情をして突っ立っていた。
外が暑かったのか、はたまたそのバイクのパンクとやらが本当に大変だったのかわからないが、2時間半の大遅刻である。約束した1時と3時半では、太陽の向きがだいぶ違う。おじさんから見た私の顔も相当疲れた顔をしていたことだろう。
だけど、兎にも角にも、「修理」である。昨日の朝に発生した乾燥機問題は、次の日の1日が終わりそうな時間になってやっと「修理屋さんに見てもらう」という、偉大だが小さすぎる第一歩を踏み出しただけに過ぎないのである。
すぐにおじさんを乾燥機のある部屋に通すと、彼はテクニシらしくドリルビットを取り出して、乾燥機の裏側の板を手際よく取り外した。
ドゥルル...ドゥルル...
板が外れ、乾燥機の裏側にあるモーターが剥き出しになる。
「コンコンッ」
おじさんは持っていたドリルでそのモーターを神妙に叩いた。そしておもむろにそのモーターの写真を取り、どこかにメールを送った。
あとは手際よく、今しがた外したばかりの乾燥機の裏板を丁寧にドリルビットで元に戻す...。
「明日12時にまた来ます」
私に向き直ると、なんてことないように彼はそう言った。なんでも新しい部品を持って明日再び来る、とのことである。モーターを叩いただけで他の原因も調べずに、彼がそう言い切ったのは、私の家に到着してたった15分後のことだった。
「イライラしないことが大切」という言葉が、もう一度、落雷のように私の体を貫いていくのを感じた。その時にわかったのは、インドネシアの「ルーズさ」や「おおらかさ」というものが日本の想定を大幅に超えているということを、私は想定していなかった、ということだった。ここでは多くの「なぜ?」が生じても、そこに十分な説明や回答を見出せないことの方が多い。だからこそ、「ゴムの時間」という矛盾が唯一の魔法の言葉になり得るのである。
話が繋がらなかったり、いろんなことが巻き戻ったり進展しなかったりする中で、せっかちな私のメイドインジャパンな心は、この日やっとインドネシアを流れる「時間」の本当の意味を知ったような気がしたのだった。
発展途上国とはいえ、ジャカルタは大都市である。メガシティであるジャカルタには多くの日系企業も進出しているので、ここではおよそ2万人以上の日本人が在住していると聞く。これは、アメリカ最大の都市シカゴに住む日本人(1万人)をゆうに超える数であり、つまりはそれだけ、日本からの先人たちによる開拓の歴史があるということとも言える。
だから5年ぶりの海外での生活を前に、私たちが日本であれこれと準備をした以上に、どちらかというと今回はジャカルタ側が私たちのような日本人を受け入れる準備が万全だった、というのが、引っ越してすぐの私の嘘偽りない感想だった。
食生活に関していうと「イスラム教国だから、豚肉はもう食べられない」と言うのは、もはや時代遅れな話であり、開けてみるとジャカルタにはしゃぶしゃぶのお店は星の数ほどあるし、日系スーパーでは豚肉は薄切りからミンチまで目玉商品のように鎮座していた。トンカツの「まい泉」はこの4年でジャカルタ内に2店舗でき、一風堂で豚骨ラーメンを啜ることはもちろん、なんなら豚骨ベースとほとんど変わらない「鳥骨ラーメン(ハラル対応ラーメン)」なんかを楽しめるお店もある。
「パパイヤフレッシュギャラリー」(通称パパイヤ)という1995年から始まった大手の日系スーパーは、豊富な日本食材の輸入品や惣菜コーナーの提供にとどまらず、現地の企業と開発に開発を重ねた驚きの自社ブランド製品で安価に日本製品を提供することに成功した素晴らしい企業でもある。海外では食べることが叶わない生卵も、パパイヤでは「開発卵」としてサルモネラ菌フリーを現地で実現させ、納豆や豆腐、「ウコンの恵み」まで、現地での厳しい開発と改良を重ねて作られた日本と変わらぬクオリティの製品の数々は、インドネシア在住の日本人たちの支えとして大きな役割を担っているのである。
また、交通の面では、2019年に日本の技術によって誕生したMRTという地下鉄が、ジャカルタの交通環境を飛躍的に改善させたことも刮目すべきことだった。世界トップクラスの交通渋滞を誇るジャカルタは、大量のバイクや車がルールを守らずに縦横無尽に走り回っており、その交通渋滞が深刻な社会問題の一つだったが、オールジャパンで誕生したMRTよってこれはだいぶ緩和されたのではないかと想像する。もちろん、今も口を開けば多くの人が渋滞についてブツクサと文句を言うし、タクシーでどこかに行こうとすれば渋滞に遭遇しないことはない。だけど今の私たちには自動車以外の交通手段の選択があり、カリフォルニアやニューヨークの地下鉄に比べるとジャカルタのMRTはピカピカに美しくて安全だった。
街を歩けばファミリーマートでおにぎりを目にし、モールを歩けば日本と変わらぬレストランが立ち並び、日々の食材はパパイヤで何不自由なく、しかも安価で手に入り、地下鉄が走る。となれば、アメリカはウィスコンシン州の田舎町(マディソンには電車はない)で暮らしていた私達にとって、ジャカルタでの暮らしは想像していた何百倍も住みやすく、こうしてジャカルタ移住の日本先駆者たちが築きあげてきた努力の中に、今そのまますんなりと安住することそのものに、日々、感謝の念を抱かずにはいられなかったのである。
だけどそんな滑り出し順調の私たちにとって、一つだけ、先人たちが教えを残してくれなかったがために、大変な思いをした経験があった。それは、現在仮暮らしをしているホテルで、白井くんが朝ごはんのビュッフェ会場のトイレから出ようとしたところ、ドアが全く開かなくなり、そのままトイレに閉じ込められてしまった、という体験である。インドネシア滞在3日目の出来事だった。
その日、鍵を回しても開かないトイレのドアを、白井くんは力の限り叩き続けた。アメリカ生活6年間で一度も使用することのなかった「ヘルプミー」という単語を大声で連呼する白井くん。心なしか、トイレの中の空調が上昇してきているようにも感じたという。もちろんしばらくして物音に気づいたホテルのスタッフが駆けつけ、怯えきった白井くんを救助してくれたが、何も知らないで朝ごはんのビュッフェを頬張っていた私たちの元に戻ってきた白井くんの顔面は蒼白だった。
ことの真相はこうである。インドネシアでは、トイレによっては、なぜかドアの鍵が二重に施錠するタイプのものがあるのであって、そういうタイプのドアだと、一回施錠した後、もう一回鍵が施錠する方向に移動して二重に鍵がかかってしまうということである。だから、そういうタイプのドアでは、鍵を開けるときは二度、開ける方向に鍵を動かす必要があった。しかしそれを知らずに鍵をかけてしまうと、開くはずなのにドアは施錠されたまま、と言うことが発生するので、いつまで経ってもトイレから出られないという、インドネシア人もびっくりのハプニングに見舞われるというわけである。
よく考えれば、もう一回解錠の方向に鍵を回せば良いだけの話であるが、初めての異国でパニックの中そんな発想の転換もできず、白井くんの頭にはこのまま誰も助けに来ないのではないかという考えまでよぎり、その日以降、白井くんはすっかり自称閉所恐怖症、「外でしばらくトイレの鍵をかけるのが怖い」という何ともいえない後遺症を発症するようになったのだった。
だから、と言うわけではないけれど、今、私はジャカルタを将来訪れるであろう後人の方々に、「トイレの鍵が開かなくてもパニックにならないでほしい」ということをお伝えしたいと切に思うのだった。インドネシアでは、施錠して開かなくなったと思う鍵でも、もう一度、落ち着いて同じ方向に回せば必ず開く。これはどんなガイドブックにも書いていない、インドネシアの改善すべき(かもしれない)トイレ事情ではないかと思うのである。
夜明け前、イスラム教徒が8割を占めるジャカルタの朝は4時頃のアザーンから始まる。と言っても、モスクに近いホテルに滞在している訳ではないので、日に5回あるというアザーンは今のところ私たちの耳には微かにしか届かない。それよりもむしろ、国土の真ん中を赤道が貫く熱帯の国にありながら、外を歩く敬虔なイスラム教徒達がこぞって長袖やヒジャブで肌を覆っていることに毎度大きな驚きと畏敬の念を抱かずにはいられない。群島の国であるインドネシアの首都ジャカルタに来て1週間...、「バリ島」と「デヴィ夫人」程度の知識しか持たなかった私の心は、街行く人々の気配や立ち居振る舞いによって日々、この未知の世界へ開かれて行くようだった。
というわけで、ウィスコンシン州マディソンから本帰国して4年、白井君の仕事の関係で今度は何の因果か、私はインドネシアのジャカルタで暮らすことになった。ウィスコンシン州の州都である田舎町マディソンでの極寒生活から一転、アジア最大のメガシティでの熱帯生活である。
だけど今回は、色々と自力で開拓しなければならなかったマディソン時代の貧乏生活の幕開けとは天と地ほど違うように感じられる始まりだった。大都会であるジャカルタは田舎町マディソンとは違い、モールに行けばすぐにスシロー、牛角、大戸屋、丸亀製麺などにありつけるし、点在する巨大な高級モールには世界中の一級品が揃い、高級ホテルも高級アパートも、私たちのような外国人やインドネシアの富裕層を歓迎するために作られたもののように思えたからだ。
駅や建物のエントランスにある荷物チェックのゲートはどこも、日本人というだけでほとんど顔パスだったし、どこに行っても現地の門番がにこやかにドアを開けてくれる。駐在員の家庭では、メイドやナニー、専属の運転手を雇うことも珍しくなく、平均年収が4万円であるインドネシアにおいて、アメリカでは極貧の生活を経験した私たちが、翻ってここでは「お金持ちの外国人」というわけである。
だけどそんな風にお金持ち気分で浮かれていたのもつかの間、そのうちに私は、「もしかするとこれは未来の日本なのではないだろうか」という考えを抱くようになった。
というのも、アメリカから本帰国して東京で過ごしたこの4年間、日常生活は日を追うごとに厳しくなる物価上昇にだいぶ苦しめられていたからだ。そして加速する円安とインバウンドの高まりとともに、日本に遊びにきたアメリカ人の友人達は「日本は何もかも安くて最高だ」と言って、東京や京都の高級店で寿司やらすき焼きやらを食べる写真をSNSによく載せていた。私たちが年に一度お祝いで食べにいく都内の特別な寿司屋も、今年からは外人向けにネタを一つ一つ画像をスライドさせながら英語で丁寧に説明するサービスを導入し、年に一度だけ来る私たちなど、もはや主要なターゲットではなさそうだった。
都内のタワーマンションは中国人が買い漁って価格は高騰しているというまことしやかな噂もあったし、教育の中心として知られる文京区では、小学校に日本語を母語としない学生が増加しているとの報道もあった。日本が誇る抹茶は世界的な抹茶ブームによって世界への輸出が急増し、逆に日本では入手困難という状態にあるという話もどこかで聞いたが、そうした日本の貧しい現状が、皮肉にも私の目には長いオランダや日本による植民地支配時代を経験したインドネシアの今の姿と重なって見えたのである。
とはいえ、ジャカルタ生活は始まったばかりである。もちろん、渡航前はあれこれ悩み、駐在員の妻が経験するであろう一通りの感情の波は経験した。だけどアメリカで6年間生き抜いたのだから、きっともうどこでもやっていけるはずである。そう願いながら、私はまた白井くんと、この何も知らない大きな熱帯の島国へと飛び込んだのである。