7月31日

「インドネシアには『ジャム・カレット(ゴムの時間)』という言葉があり、時間というものは伸びたり縮んだりするものだから、多少の遅刻は仕方がない」というのは、ジャカルタに来る前からインドネシア人の特徴として聞いていたことだった。インドネシアに6年近く暮らしていた先輩主婦からも、「インドネシアではイライラしないことが大切」とのアドバイスをもらっていたので、私は少しくらいのことは笑ってやり過ごす心構えでジャカルタに来たつもりだった。
 だから、最初に仮暮らしとして滞在していたホテルでは、朝ごはんのブッフェが途中から注文制のルームサービスに切り替わり、それが設定した時間に届かなくても、私たちはそれほど気にしなかった。毎日、我が家は同じ朝ごはんを注文していたはずだが、オレンジジュースがマンゴージュースになったり、クロワッサンが1つになる日や3つになる日があるという不思議にも「まあ、インドネシアだから仕方がない」と考えることで、笑って受け入れることができたのである。
 ホテルのイベントで、先日行われたサッカーワールドカップのパブリックビューイングを観に行った時などは、試合開始の時間が過ぎても大スクリーンにボロブドゥール寺院しか映し出されていなかったが、私も息子も文句一つ言わなかった。あまりにも長い間ボロブドゥールを観せられていたので、「いつかボロブドゥールに行ってみたい」とすら思い始めていた頃、スタッフが慌ただしくチャンネルを切り替えて、すでに始まっているワールドカップの試合にやっと辿り着いたくらいだった。
 
 だけど、一体「ゴムの時間」とはなんだろうか?時間が伸びたり縮んだりするから人を待たせても平気というのは、なんの話なのだろうか?
 
 私がそう思い始めたのは、ホテルでの滞在が終わり、新しいアパートに引っ越してすぐ、洗濯物用の乾燥機が故障したときのことだった。
 朝からスイッチを押してもうんともすんとも言わない乾燥機のために、私はすぐさまエージェントに連絡を入れ、テクニシと呼ばれる技術者の人を呼ぶことになったのだが、テクニシが来れるのは「明日の午後1時」とのことだった。手元には洗濯機から仕上がったばかりの濡れたままの衣類がある。今すぐにでも修理して乾燥にかけたかったのだが、私は文句を言いたいところをグッと堪え、エージェントに言われた「明日の午後1時」を待つことになった。
  
 そして次の日、午後1時。エージェントから「テクニシが遅れている。2時までには到着する。」との連絡が入る。「ゴムの時間を生きている彼らならありそうなことである」などと思いながら、1時間の遅れは想定内だった私は「オーケー!」と余裕の返答を心がけた。
 午後2時半。1時間半の遅れに流石に痺れを切らして、エージェントに電話をかけると、「テクニシは向かっているところだ」とエージェントは言う。「そりゃあ向かっているだろう」と思いながら、「イライラしないことが大切」という先輩主婦の言葉を頭の中で反芻しつつ、しかし私は早く乾燥機を使いたい気持ちから、つい「テクニシはなぜ遅れているのか?」「今どの辺りにいるのか?」とメールでエージェントに問いかけるようになった。
「プリーズ、ウェイト、セイコサン」
エージェントは何度も私にそう言った。
 
 午後3時。約束の時間を2時間過ぎた頃、私の中のイライラが頭の中でケチャダンスを踊り始めたので、我慢できずにエージェントに電話をすると、テクニシはバイクがパンクしたのだと彼女は言った。にわかに受け入れ難い事実だったが、それでもテクニシはバイクを直した後、必死に私のところに向かっているのだという。「もうほとんどアパートの近くに居る」ともエージェントは言った。
 「3時半には彼は必ず来ますから。プリーズ、ウェイト、セイコサン」
 
 午後3時半。やっとテクニシが私の部屋に到着したのだが、私の頭の中ではもうイライラのケチャダンスがクライマックスを迎えようとしていた。
 ドアを開けるとひょろっとしたおじさんが、お疲れ気味な表情をして突っ立っていた。
 外が暑かったのか、はたまたそのバイクのパンクとやらが本当に大変だったのかわからないが、2時間半の大遅刻である。約束した1時と3時半では、太陽の向きがだいぶ違う。おじさんから見た私の顔も相当疲れた顔をしていたことだろう。
 だけど、兎にも角にも、「修理」である。昨日の朝に発生した乾燥機問題は、次の日の1日が終わりそうな時間になってやっと「修理屋さんに見てもらう」という、偉大だが小さすぎる第一歩を踏み出しただけに過ぎないのである。

 すぐにおじさんを乾燥機のある部屋に通すと、彼はテクニシらしくドリルビットを取り出して、乾燥機の裏側の板を手際よく取り外した。
 ドゥルル...ドゥルル...
 板が外れ、乾燥機の裏側にあるモーターが剥き出しになる。
「コンコンッ」
 おじさんは持っていたドリルでそのモーターを神妙に叩いた。そしておもむろにそのモーターの写真を取り、どこかにメールを送った。
 あとは手際よく、今しがた外したばかりの乾燥機の裏板を丁寧にドリルビットで元に戻す...。
「明日12時にまた来ます」
 私に向き直ると、なんてことないように彼はそう言った。なんでも新しい部品を持って明日再び来る、とのことである。モーターを叩いただけで他の原因も調べずに、彼がそう言い切ったのは、私の家に到着してたった15分後のことだった。

「イライラしないことが大切」という言葉が、もう一度、落雷のように私の体を貫いていくのを感じた。その時にわかったのは、インドネシアの「ルーズさ」や「おおらかさ」というものが日本の想定を大幅に超えているということを、私は想定していなかった、ということだった。ここでは多くの「なぜ?」が生じても、そこに十分な説明や回答を見出せないことの方が多い。だからこそ、「ゴムの時間」という矛盾が唯一の魔法の言葉になり得るのである。
 話が繋がらなかったり、いろんなことが巻き戻ったり進展しなかったりする中で、せっかちな私のメイドインジャパンな心は、この日やっとインドネシアを流れる「時間」の本当の意味を知ったような気がしたのだった。

 発展途上国とはいえ、ジャカルタは大都市である。メガシティであるジャカルタには多くの日系企業も進出しているので、ここではおよそ2万人以上の日本人が在住していると聞く。これは、アメリカ最大の都市シカゴに住む日本人(1万人)をゆうに超える数であり、つまりはそれだけ、日本からの先人たちによる開拓の歴史があるということとも言える。
 だから5年ぶりの海外での生活を前に、私たちが日本であれこれと準備をした以上に、どちらかというと今回はジャカルタ側が私たちのような日本人を受け入れる準備が万全だった、というのが、引っ越してすぐの私の嘘偽りない感想だった。

 食生活に関していうと「イスラム教国だから、豚肉はもう食べられない」と言うのは、もはや時代遅れな話であり、開けてみるとジャカルタにはしゃぶしゃぶのお店は星の数ほどあるし、日系スーパーでは豚肉は薄切りからミンチまで目玉商品のように鎮座していた。トンカツの「まい泉」はこの4年でジャカルタ内に2店舗でき、一風堂で豚骨ラーメンを啜ることはもちろん、なんなら豚骨ベースとほとんど変わらない「鳥骨ラーメン(ハラル対応ラーメン)」なんかを楽しめるお店もある。
 「パパイヤフレッシュギャラリー」(通称パパイヤ)という1995年から始まった大手の日系スーパーは、豊富な日本食材の輸入品や惣菜コーナーの提供にとどまらず、現地の企業と開発に開発を重ねた驚きの自社ブランド製品で安価に日本製品を提供することに成功した素晴らしい企業でもある。海外では食べることが叶わない生卵も、パパイヤでは「開発卵」としてサルモネラ菌フリーを現地で実現させ、納豆や豆腐、「ウコンの恵み」まで、現地での厳しい開発と改良を重ねて作られた日本と変わらぬクオリティの製品の数々は、インドネシア在住の日本人たちの支えとして大きな役割を担っているのである。

 また、交通の面では、2019年に日本の技術によって誕生したMRTという地下鉄が、ジャカルタの交通環境を飛躍的に改善させたことも刮目すべきことだった。世界トップクラスの交通渋滞を誇るジャカルタは、大量のバイクや車がルールを守らずに縦横無尽に走り回っており、その交通渋滞が深刻な社会問題の一つだったが、オールジャパンで誕生したMRTよってこれはだいぶ緩和されたのではないかと想像する。もちろん、今も口を開けば多くの人が渋滞についてブツクサと文句を言うし、タクシーでどこかに行こうとすれば渋滞に遭遇しないことはない。だけど今の私たちには自動車以外の交通手段の選択があり、カリフォルニアやニューヨークの地下鉄に比べるとジャカルタのMRTはピカピカに美しくて安全だった。
 街を歩けばファミリーマートでおにぎりを目にし、モールを歩けば日本と変わらぬレストランが立ち並び、日々の食材はパパイヤで何不自由なく、しかも安価で手に入り、地下鉄が走る。となれば、アメリカはウィスコンシン州の田舎町(マディソンには電車はない)で暮らしていた私達にとって、ジャカルタでの暮らしは想像していた何百倍も住みやすく、こうしてジャカルタ移住の日本先駆者たちが築きあげてきた努力の中に、今そのまますんなりと安住することそのものに、日々、感謝の念を抱かずにはいられなかったのである。
 
 だけどそんな滑り出し順調の私たちにとって、一つだけ、先人たちが教えを残してくれなかったがために、大変な思いをした経験があった。それは、現在仮暮らしをしているホテルで、白井くんが朝ごはんのビュッフェ会場のトイレから出ようとしたところ、ドアが全く開かなくなり、そのままトイレに閉じ込められてしまった、という体験である。インドネシア滞在3日目の出来事だった。

 その日、鍵を回しても開かないトイレのドアを、白井くんは力の限り叩き続けた。アメリカ生活6年間で一度も使用することのなかった「ヘルプミー」という単語を大声で連呼する白井くん。心なしか、トイレの中の空調が上昇してきているようにも感じたという。もちろんしばらくして物音に気づいたホテルのスタッフが駆けつけ、怯えきった白井くんを救助してくれたが、何も知らないで朝ごはんのビュッフェを頬張っていた私たちの元に戻ってきた白井くんの顔面は蒼白だった。

 ことの真相はこうである。インドネシアでは、トイレによっては、なぜかドアの鍵が二重に施錠するタイプのものがあるのであって、そういうタイプのドアだと、一回施錠した後、もう一回鍵が施錠する方向に移動して二重に鍵がかかってしまうということである。だから、そういうタイプのドアでは、鍵を開けるときは二度、開ける方向に鍵を動かす必要があった。しかしそれを知らずに鍵をかけてしまうと、開くはずなのにドアは施錠されたまま、と言うことが発生するので、いつまで経ってもトイレから出られないという、インドネシア人もびっくりのハプニングに見舞われるというわけである。
 よく考えれば、もう一回解錠の方向に鍵を回せば良いだけの話であるが、初めての異国でパニックの中そんな発想の転換もできず、白井くんの頭にはこのまま誰も助けに来ないのではないかという考えまでよぎり、その日以降、白井くんはすっかり自称閉所恐怖症、「外でしばらくトイレの鍵をかけるのが怖い」という何ともいえない後遺症を発症するようになったのだった。

 だから、と言うわけではないけれど、今、私はジャカルタを将来訪れるであろう後人の方々に、「トイレの鍵が開かなくてもパニックにならないでほしい」ということをお伝えしたいと切に思うのだった。インドネシアでは、施錠して開かなくなったと思う鍵でも、もう一度、落ち着いて同じ方向に回せば必ず開く。これはどんなガイドブックにも書いていない、インドネシアの改善すべき(かもしれない)トイレ事情ではないかと思うのである。

 夜明け前、イスラム教徒が8割を占めるジャカルタの朝は4時頃のアザーンから始まる。と言っても、モスクに近いホテルに滞在している訳ではないので、日に5回あるというアザーンは今のところ私たちの耳には微かにしか届かない。それよりもむしろ、国土の真ん中を赤道が貫く熱帯の国にありながら、外を歩く敬虔なイスラム教徒達がこぞって長袖やヒジャブで肌を覆っていることに毎度大きな驚きと畏敬の念を抱かずにはいられない。群島の国であるインドネシアの首都ジャカルタに来て1週間...、「バリ島」と「デヴィ夫人」程度の知識しか持たなかった私の心は、街行く人々の気配や立ち居振る舞いによって日々、この未知の世界へ開かれて行くようだった。
 
 というわけで、ウィスコンシン州マディソンから本帰国して4年、白井君の仕事の関係で今度は何の因果か、私はインドネシアのジャカルタで暮らすことになった。ウィスコンシン州の州都である田舎町マディソンでの極寒生活から一転、アジア最大のメガシティでの熱帯生活である。
 だけど今回は、色々と自力で開拓しなければならなかったマディソン時代の貧乏生活の幕開けとは天と地ほど違うように感じられる始まりだった。大都会であるジャカルタは田舎町マディソンとは違い、モールに行けばすぐにスシロー、牛角、大戸屋、丸亀製麺などにありつけるし、点在する巨大な高級モールには世界中の一級品が揃い、高級ホテルも高級アパートも、私たちのような外国人やインドネシアの富裕層を歓迎するために作られたもののように思えたからだ。
駅や建物のエントランスにある荷物チェックのゲートはどこも、日本人というだけでほとんど顔パスだったし、どこに行っても現地の門番がにこやかにドアを開けてくれる。駐在員の家庭では、メイドやナニー、専属の運転手を雇うことも珍しくなく、平均年収が4万円であるインドネシアにおいて、アメリカでは極貧の生活を経験した私たちが、翻ってここでは「お金持ちの外国人」というわけである。

だけどそんな風にお金持ち気分で浮かれていたのもつかの間、そのうちに私は、「もしかするとこれは未来の日本なのではないだろうか」という考えを抱くようになった。
というのも、アメリカから本帰国して東京で過ごしたこの4年間、日常生活は日を追うごとに厳しくなる物価上昇にだいぶ苦しめられていたからだ。そして加速する円安とインバウンドの高まりとともに、日本に遊びにきたアメリカ人の友人達は「日本は何もかも安くて最高だ」と言って、東京や京都の高級店で寿司やらすき焼きやらを食べる写真をSNSによく載せていた。私たちが年に一度お祝いで食べにいく都内の特別な寿司屋も、今年からは外人向けにネタを一つ一つ画像をスライドさせながら英語で丁寧に説明するサービスを導入し、年に一度だけ来る私たちなど、もはや主要なターゲットではなさそうだった。
都内のタワーマンションは中国人が買い漁って価格は高騰しているというまことしやかな噂もあったし、教育の中心として知られる文京区では、小学校に日本語を母語としない学生が増加しているとの報道もあった。日本が誇る抹茶は世界的な抹茶ブームによって世界への輸出が急増し、逆に日本では入手困難という状態にあるという話もどこかで聞いたが、そうした日本の貧しい現状が、皮肉にも私の目には長いオランダや日本による植民地支配時代を経験したインドネシアの今の姿と重なって見えたのである。

 とはいえ、ジャカルタ生活は始まったばかりである。もちろん、渡航前はあれこれ悩み、駐在員の妻が経験するであろう一通りの感情の波は経験した。だけどアメリカで6年間生き抜いたのだから、きっともうどこでもやっていけるはずである。そう願いながら、私はまた白井くんと、この何も知らない大きな熱帯の島国へと飛び込んだのである。