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2005年6月 アーカイブ

2005年6月18日

癌病棟にて

6月16日(木)

6月に入ってから病棟勤務の医者をしている。3年半ぶりである。3年半という時間が長いのか短いのかはわからないが、その間に病院の状況は確実に変化していた。
病棟の看護師さんの顔ぶれがほとんど代わってしまったし、投与経験のない新しい抗癌剤が標準的治療薬としてじゃぶじゃぶと使われるようになっていた。

戸惑うことも多いが、病棟で忙しく歩き回っていると、研究室で実験をしていた間に忘れていた入院患者さんを診る感覚が少しずつ蘇ってきて、ちょっとだけ懐かしい気持ちになる。

病棟は様々な病状のがん患者で埋め尽くされている。以前ここで働いていた時は、もっと重苦しい雰囲気が全体に漂っていたのだが、今度働き始めてみると、思ったよりも淡々と物事が進んでいるように感じた。それは単に僕自身のメンタリティーの変化によるものなのかもしれないが、看護師さんの年齢層が若くなっていることや、業務の効率化が進んでいることが確実に影響しているように思われる。この変化には良いところと悪いところがあるのだろうが、僕は良い面が多いような気がする。念のために申し添えておくが、看護師さんが若くなったのが良いと言っているわけではない。


話はかわるのだが、先日変なことに出くわした。あのことを思い出すだけで可笑しいような腹が立つような不思議な気持ちになる。

6月に入って一週間ほど経った頃だから、あれは今から10日前くらいのことだった。午後の外来出張が終わって、出張先の診療所から地下鉄の駅まで歩いていた。外来はあまり忙しくなかったので、空いた時間に論文を読んだり居眠りをしたりしていた。あまりにぐっすり眠っていたようで、宮沢賢治好きの看護師さんが「先生お疲れですね」といって、インスタントコーヒーを入れてくれた。念のため申し添えると、この看護師さんは50台前半の方である。

話がそれてしまったが、とにかく仕事を終えた僕は、駅までの道を歩いていた。地下鉄の駅の手前には比較的大きい交差点がある。信号が赤だったので、僕はそこで立ち止まった。すると、そこには一匹の亀がいて、僕より先に信号待ちをしていた。亀は体長30センチくらいで、ウミガメほど大きくはないが、ミドリガメほど小さくもなかった。うまく言えないが、亀は一般的な亀だった。


あ、仕事に行く時間なので、続きはまたこんど書きます。

金曜日はフライデー

6月17日(金)

大学キャンパス内のあるレストランは、毎週金曜日に「金曜日はフライデー」を合言葉にして、揚げ物の日替わりランチメニューを出す。揚げ物の内容はサーモンフライだったり、エビフライだったりチキンカツレツだったりする。季節によってはカキフライが出ることもある。以前はときどき食べに行ったものだが、ここ一年くらいはまったく足を運んでいない。

そのような話はどうでもよくて、僕は信号待ちをする亀についての続きを書かなければならないのである。別に書かなくても良いのだが、これは珍しい経験であることには間違いないし、もしこれを読んでくださっている誰かが、交差点で信号待ちをしている亀に出会ってしまったときに必要以上に驚かないように、やはり僕はここにその詳細について記しておかなくてはならないと思うのである。

それにしても、信号待ちというものはなかなかじれったいものである。だから僕はよく信号無視をする。歩行者用の信号機に赤信号がともっている交差点で、車の行き来がなくなった隙をつき、右左をささっと確認して小走りに横断歩道を渡る。小学生の頃、同級生の平沢は僕に突然聞いた。
「ゆうちゃん、一生のうちの信号待ちの時間て合計するとどのくらいだか知ってる?」
「知らない。どのくらいなの」
「半年だって」
小学生の僕はこの「一生の信号待ちの時間は半年もある」という事実にびびり、それ以来、無視できる信号は無視して生きて行こうと決意した。よく考えると、人の一生における信号待ちの時間などというものは、どうやって算出した数字なのか信憑性に欠けるものなのであるが、それを初めて聞いたときには妙な説得力を感じ、僕はまるっとその話を信じてしまった。
というわけで、その話を聞いて以来、僕は20年以上にわたって信号無視を繰り返してきた。ほとんどの場合は何の問題もないのだが、困った事態に遭遇したこともある。

車の往来が途絶えた隙を突いてタイミングよく信号無視をしようとすると、僕の横でボーっと突っ立っているおばさんが、僕が道路を渡ったのを見て、信号が青に変わったのと勘違いしてふらふらーっと交差点に歩き出し、車や自転車に轢かれそうになるのである。

これは一度ではなく何度か経験がある。信号が変わったのを確認しないおばさんが悪いのだが(なぜか、この事態に巻き込まれるのはいつもきまって50から60歳代以上のおばさんなのだ)、その一連の出来事を誘発したものとして、少しの責任を感じ、胸が痛む。幸いにして今まで事故にまで発展したことはないが、それ以来僕は、おばさんと一緒に信号待ちをしているときは、できるだけ信号無視をしないことにしている。横におばさんが立っていて、しかも僕が急いでいてどうしても信号無視をしなければならないときは、少なくともおばさんがボーっとしているか、ちゃんと信号と道路に意識をむけているかどうか確認してから信号無視をすることにしている。

ああ、今日も亀についての続きをかけませんでした。続きはまた今度。

2005年6月23日

ステイプルと郵便切手と美しい新妻について亀が教えてくれたこと

6月18日(土)

信号待ちをしているのは僕と亀だけだった。歩道のふちまで歩いていくと、亀が道路の向かい側にある歩行者用の信号機を見ていた。静かにしている亀は、本人にそういう気がなくても集中して何かを見つめているように見える。
自動車の往来はほとんどなくて、信号無視はいつでも出来そうな状況だった。しかし、亀に怒られそうな気がしたのでやめた。亀は、僕と亀の二人で形成している一過性信号待ち集団の実質的支配者だった。亀は横断歩道のまん前で信号が変わるのを待ち、僕は、歩道と交差点を区切っている白い柵の脇に立っていた。横断歩道の反対側には、40代くらいのサラリーマン二人と、会社の制服姿の若い女の子が同じように信号待ちをしていた。この辺りは港が近いので、海運会社がたくさんある。
女の子はコンビニでおつかいを終えたところのようで、手に白くて小さいビニール袋を持っていた。サラリーマンたちは、商談に向かう途中のようだった。女の子もサラリーマンも誰一人として亀に注目している人間はいない。彼らは亀に気がついていないのだろうか。それとも気がついているのに、どうしたらよいのか分からなくて、とりあえず無視しているのだろうか。あるいはこの辺りでは、信号待ちをする亀の存在は珍しいものではないのだろうか。なにせ海が近いのだから、亀の一匹や二匹が道をうろついていても不思議は無いのかもしれない。しかし、海が近いことは、亀が道路をうろついていることの理由になんかならないような気がする。でも、じゃあどうして海が近いことは亀が道路をうろつく理由として適切でないのだろう。
亀のオーラにゆっくりと侵食されながら考え事をめぐらせていると、突然「おい」と話しかけてくる声が聞こえた。亀だった。気がつかないふりをしていると「おい、聞こえてるんだろ」と、もう一度話し声が聞こえてきた。

「おい君。亀が信号待ちしてるの見てさ、変だと思わないの」
体は小さいくせに亀の声は大きかった。大きくて偉そうな声だった。

「変だとは思ったけど、この辺ではよくあることなのかなあと思ったりもして」
僕はまじめに答えた。

「よくあるわけ無いでしょ。君、頭おかしいんじゃないの」

「いえ、おかしくありません」

「いや、おかしいね。『この辺ではよくあることなのかなあと思ったりして』なんて、堂々と言うやつはさ、間違いなく頭が変になっているんだよ。まあいいや。ところでさ、なんか質問ないの?」

「質問ですか?」

「うん、質問。なんかあるだろうが。せっかく珍しい亀にあったんだからさあ、何か質問しろよ。なんでも答えてあげるから」

「うんとねー、じゃあ名前は」

「ウミガメ」

「嘘つくなよ。ウミガメってもっと大きいでしょ」

「じゃあ、ミドリガメ」

「ミドリガメってお祭りで売ってる小さい亀だろ。君、もっと大きいじゃない」

「うるさいなあ。ミドリガメは飼ってるうちに勝手にでかくなるんだよ。しかし、そんなことどうでもいいだろうが、ほかにもっと大切な質問無いのかよ。名前なんか聞いても仕方ないだろう」

信号が青に変わり、二人連れのサラリーマンと女の子が横断歩道を渡ってこちらに向かって歩いてきた。彼らは、やはり亀に気をとられる様子を見せずに歩いている。彼らはこの亀のことをどう思っているのだろうか。あるいは、彼らには亀の姿が見えないのだろうか。しかし、亀は僕の目の前で、はっきりと存在している。緩やかなカーブを描いた甲羅が、太陽の光を受けて地面に小さな影を落としているのが、亀がちゃんとここに存在している証拠だ。亀には「頭がおかしい」と言われてしまったが、彼らの様子を見ると、やはりこの辺りでは、道路をうろつく亀の姿は珍しいものではないのじゃないかと思えてくる。

「うーん」
僕は亀に対する質問を考えながらゆっくりと横断歩道を渡り始めた。亀も一緒に渡った。

「じゃあさ、今すれ違った女の子なんだけどね、彼女はコンビニで何を買ったのでしょうか」

「そんなのホチキスの針にきまってるだろう」

「どうしてわかるのさ」

「ホチキスの針というのはいつでも急になくなるんだよ。ステイプルと郵便切手と美しい新妻はいつだって急に姿を消すんだよ。学校で習うだろう」

「そんなこと習うわけ無いだろうが」

僕は歩きながら振り返って、女の子の後姿を見た。女の子は、会社の玄関前にある3段ほどの階段を上がり、建物の中に入っていくところだった。サラリーマンたちは、小さな海運会社の古い建物が並ぶ道路を、さらに遠くへ向かって歩いていた。彼らが歩く道路は、突き当りが行き止まりで、その先は海だ。海には古くからの港があり、今もときどき豪華客船が停泊する。たまに切断死体が発見されることがある。

横断歩道を渡り終えた亀と僕は、そのまま近くの喫茶店に入った。

2005年6月29日

鳥啼き、亀の目に涙

6月18日(土)

喫茶店の表には「純喫茶 白馬」と書いた看板が出ていた。玄関のドアを開けると、カランカランと鐘の音がした。薄暗い店内は思っていた以上に広くて、五つのテーブル席とL字型のカウンター席があった。テーブル席は縦に並んでいて、玄関に近いほうの二つだけ硬い椅子がおいてあり、奥三つには臙脂色のソファーが並べてあった。先客は一人だけで、60台くらいのネクタイ姿のおじさんが一番奥のソファーに座ってナポリタンを食べている。亀と僕は、いちばん玄関寄りのソファー席に座ることにした。亀がソファーに座れるのかどうかちょっと心配だったが、カウンターの止まり木によじ登るのは、ソファーに座るよりも難しそうに思った。どうやってソファーに座るのだろうと黙ってみていると、

「早く上にあげろよ」と亀が言った。

「『あげろ』って、ソファーの上に君を持ち上げるという意味?」

「そんなのあたりまえだろう」

少し怒ったような声だった。仕方がないので、僕は亀の甲羅の両端を持ち上げて、ソファーの上に置いた。亀の甲羅というものは、あなたが想像するよりもおそらくずっと柔らかい。

向かい合わせで席に着くと、鐘の音を聞いた店のおばさんが、水を入れたコップとおしぼりを持って注文を取りに来た。おばさんもまた、亀に驚く様子は無かった。ただ、おばさんは僕と亀の様子をみると、テーブルに水を置いた後で店の奥に戻り、見たことも無いような長いストローを亀の前に置いた。僕はカフェオレを頼み、亀はレモンスカッシュを頼んだ。こんなに小さい体で炭酸飲料を飲んだら、全身が痺れてしまわないのだろうか。

おしぼりで手を拭いて、紙袋から長いストローをとりだした。そして、片端を亀の前に置かれた水の中に入れて、もう一方の端はテーブルの縁まで伸ばしてあげた。ストローには所々に節がついていて、形を自在に変えられるようになっていた。

亀は亀っぽい仕草でゆっくりうなずいた後で(今思えば、あれは僕に対する謝意の表れだった)、水を一口飲んだ。そして、勝手に話しを始めた。

「小学生の頃にね、家に知らない女が乗り込んできたことがあるんだ」

「日曜日の昼飯が終わったくらいの時間でね、親父は居間でテレビを見ていて、お袋は台所で洗い物をしていた。俺と妹はマンガを読んでいた。そうしたらさ、知らない女が突然家に来たんだ。何となく嫌な雰囲気だなあと思っていたら、お袋が俺と妹のところに来て『二階に上がってなさい』って言うんだ。二階でマンガを読もうにも、下の様子が気になって仕方がないからさ、妹と二人で階段の上の小さな踊り場から、下の会話に聞き耳を立てていたんだ。最初のうちは静かに話をしていたようで、何を話しているのかまったく分からなかった。でも、だんだん声が大きくなってきてね、そのうちに、女が一方的に何かをまくしたてる声が聞こえ始めた。そして、ときどき間が空くんだ。間は間だから、誰の声も聞こえない。でも、その間は、お袋が女に何かを質問しているんだろうと思った」

店のおばさんが、カフェオレとレモンスカッシュを運んできた。銀色のお盆にのっかったレモンスカッシュは、運動会のリレーで使うバトンのような円筒形のグラスに入っていた。細かい炭酸の粒が、グラスの内壁や底から液面に向かってぐらぐらと上昇していた。
亀は昔は人間だったのだろうか。

「親父さんはどうしてたの」
レモンスカッシュに、長いストローを入れながら聞いた。

「親父はおそらくずっと黙ったままだったと思う」

亀はそういってから、ストローでレモンスカッシュを一口飲んだ。亀の小さい体に炭酸が駆け巡り、体が一瞬固った。両方の目を瞑り、そして目を開けた。両方の目は潤んでいた。砂浜のアカウミガメは産卵で涙を流すが、港をうろつくミドリガメはレモンスカッシュを飲んで泣く。

「小一時間程話が続いた後で、女が帰りそうな気配になった。女を見送るためにお袋だけが玄関に出てきた。見送った後で、お袋が二階に上がってきそうだったから、俺と妹はあわてて子供部屋に戻って、マンガを読むふりをした。すぐに階段を上がる足音がして、お袋が子供部屋の襖を開けた。俺と妹は、不自然に大人しくマンガを読んでいた。お袋は特別普段と変わらない様子に見えた。お袋は部屋の中に入ってきて俺と妹の前に座った。そして、俺に向かって『お父さんと将棋指して上げなさい』と言った」


店の奥のほうから煙草のにおいが漂ってきた。おじさんがナポリタンを食べ終えたのだろう。おじさんが食べていたナポリタンは、オレンジ色のスパゲッティーの中に玉ねぎと角切りのハムがたっぷりと混じり、鮮やかな緑色の輪切りピーマンが上に散らしてあった。

「お袋に『将棋を指せ』なんて言われたのは初めてだった。俺は言われるとおりに将棋板を持って親父のところに行き、将棋に誘った。今と同じような夏が始まりそうな季節で、親父は白い半そでの肌着と、ステテコ姿だった。親父は体が小さく痩せていて、少し禿げていた。決していい男ではないが、子供の俺から見てもどこか可愛らしいところがあった。二人の間に将棋板を置いて、俺は全速力で駒を並べ始めた。親父は駒を並べるのが早くて、俺はそれまで親父より先に駒を並べ終えたことが無かった。駒を並べ終えると親父は、毎回決まって『先に並べ終えたほうが勝つと決まっているんだ』と言った。悔しいことに、実際俺は一度も親父に将棋で勝ったことが無かった。だから、俺は親父に勝つために、最大限のスピードで将棋の駒を並べ始めた。
駒をできるだけ速く並べ終えようと思ったら、相手が駒を並べるスピードを気にしていてはいけない。とにかく自分が駒を並べることに集中するのだ。俺は自分にそう言い聞かせて、王様、桂馬、香車、金、銀、飛車、角と順調に並べていった。そして、あとは歩を5、6個並べれば終わりというところで、俺は初めて親父の駒の並べ具合を見た。親父はいつもだったらとっくに並べ終えているはずなのに、今日はまだ半分も並べ終えていなかった。不思議に思って親父の様子を見ると、親父はうつむいて泣いていた。少し驚いたが、これ以上のチャンスは無いと思ったので、俺はとりあえず、残りの自分の歩を急いで置き終えた。親父はその後、気を取り直した様子で駒を並べ終え、それから俺たちは将棋を指した。どっちが勝ったかは覚えていない。覚えていないということは、おそらく俺が負けたんだろうと思う」

亀の前のレモンスカッシュはいつの間にか無くなっていた。

「仕事があるからそろそろ行かないと行けないんだ」

「仕事は何をしているんだよ」

「医者だよ。今日は病院のミーティングがあるんだ。ミーティングは鼻毛にパーマがかかるくらい長いんだ」

「面白いのか」

「仕事だからね」

「そうか。今日は俺がご馳走するよ」

そういって、亀はソファーから飛び降りた。木の床に着地すると、「ペタン」という音が店内に響いた。亀は勘定を払わずにそのまま店を出て行ってしまった。店のおばさんの方を見ると、おばさんはナポリタンのおじさんと話をしていたが、僕の視線に気づいて、こちらに向かって小さく微笑んだ。そしてまた会話に戻った。

外に出ると陽はまだ高かった。時計を見ると、午後4時を少し回ったくらいだった。亀は交差点のほうへ向かって歩いていった。僕は、地下鉄に乗って大学に戻った。電車の窓からは大阪ドームが見えて、貧乏くさく銀色に光っていた。

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