6月18日(土)
信号待ちをしているのは僕と亀だけだった。歩道のふちまで歩いていくと、亀が道路の向かい側にある歩行者用の信号機を見ていた。静かにしている亀は、本人にそういう気がなくても集中して何かを見つめているように見える。
自動車の往来はほとんどなくて、信号無視はいつでも出来そうな状況だった。しかし、亀に怒られそうな気がしたのでやめた。亀は、僕と亀の二人で形成している一過性信号待ち集団の実質的支配者だった。亀は横断歩道のまん前で信号が変わるのを待ち、僕は、歩道と交差点を区切っている白い柵の脇に立っていた。横断歩道の反対側には、40代くらいのサラリーマン二人と、会社の制服姿の若い女の子が同じように信号待ちをしていた。この辺りは港が近いので、海運会社がたくさんある。
女の子はコンビニでおつかいを終えたところのようで、手に白くて小さいビニール袋を持っていた。サラリーマンたちは、商談に向かう途中のようだった。女の子もサラリーマンも誰一人として亀に注目している人間はいない。彼らは亀に気がついていないのだろうか。それとも気がついているのに、どうしたらよいのか分からなくて、とりあえず無視しているのだろうか。あるいはこの辺りでは、信号待ちをする亀の存在は珍しいものではないのだろうか。なにせ海が近いのだから、亀の一匹や二匹が道をうろついていても不思議は無いのかもしれない。しかし、海が近いことは、亀が道路をうろついていることの理由になんかならないような気がする。でも、じゃあどうして海が近いことは亀が道路をうろつく理由として適切でないのだろう。
亀のオーラにゆっくりと侵食されながら考え事をめぐらせていると、突然「おい」と話しかけてくる声が聞こえた。亀だった。気がつかないふりをしていると「おい、聞こえてるんだろ」と、もう一度話し声が聞こえてきた。
「おい君。亀が信号待ちしてるの見てさ、変だと思わないの」
体は小さいくせに亀の声は大きかった。大きくて偉そうな声だった。
「変だとは思ったけど、この辺ではよくあることなのかなあと思ったりもして」
僕はまじめに答えた。
「よくあるわけ無いでしょ。君、頭おかしいんじゃないの」
「いえ、おかしくありません」
「いや、おかしいね。『この辺ではよくあることなのかなあと思ったりして』なんて、堂々と言うやつはさ、間違いなく頭が変になっているんだよ。まあいいや。ところでさ、なんか質問ないの?」
「質問ですか?」
「うん、質問。なんかあるだろうが。せっかく珍しい亀にあったんだからさあ、何か質問しろよ。なんでも答えてあげるから」
「うんとねー、じゃあ名前は」
「ウミガメ」
「嘘つくなよ。ウミガメってもっと大きいでしょ」
「じゃあ、ミドリガメ」
「ミドリガメってお祭りで売ってる小さい亀だろ。君、もっと大きいじゃない」
「うるさいなあ。ミドリガメは飼ってるうちに勝手にでかくなるんだよ。しかし、そんなことどうでもいいだろうが、ほかにもっと大切な質問無いのかよ。名前なんか聞いても仕方ないだろう」
信号が青に変わり、二人連れのサラリーマンと女の子が横断歩道を渡ってこちらに向かって歩いてきた。彼らは、やはり亀に気をとられる様子を見せずに歩いている。彼らはこの亀のことをどう思っているのだろうか。あるいは、彼らには亀の姿が見えないのだろうか。しかし、亀は僕の目の前で、はっきりと存在している。緩やかなカーブを描いた甲羅が、太陽の光を受けて地面に小さな影を落としているのが、亀がちゃんとここに存在している証拠だ。亀には「頭がおかしい」と言われてしまったが、彼らの様子を見ると、やはりこの辺りでは、道路をうろつく亀の姿は珍しいものではないのじゃないかと思えてくる。
「うーん」
僕は亀に対する質問を考えながらゆっくりと横断歩道を渡り始めた。亀も一緒に渡った。
「じゃあさ、今すれ違った女の子なんだけどね、彼女はコンビニで何を買ったのでしょうか」
「そんなのホチキスの針にきまってるだろう」
「どうしてわかるのさ」
「ホチキスの針というのはいつでも急になくなるんだよ。ステイプルと郵便切手と美しい新妻はいつだって急に姿を消すんだよ。学校で習うだろう」
「そんなこと習うわけ無いだろうが」
僕は歩きながら振り返って、女の子の後姿を見た。女の子は、会社の玄関前にある3段ほどの階段を上がり、建物の中に入っていくところだった。サラリーマンたちは、小さな海運会社の古い建物が並ぶ道路を、さらに遠くへ向かって歩いていた。彼らが歩く道路は、突き当りが行き止まりで、その先は海だ。海には古くからの港があり、今もときどき豪華客船が停泊する。たまに切断死体が発見されることがある。
横断歩道を渡り終えた亀と僕は、そのまま近くの喫茶店に入った。